LOGIN私は小さく息を吐き、胸の奥に溜まっていた緊張を少しだけ外に逃がした。
呼吸を整えることで、なんとか自分を保とうとしていた。 この場にふさわしい振る舞いをしなければ。 そう思えば思うほど、体はこわばってしまう。 私は背筋を伸ばし直し、視線をそっと落とした。 そのときだった。 壱馬様が静かに手を伸ばし、私にハンカチを差し出した。 私は思わず彼の顔を見た。 「使ってください」 声は低く、感情を抑えているように聞こえたけれど、どこか柔らかさがあった。 この人は、無関心なのではなかったのか。 それとも、ただ表に出さないだけで、実はとても繊細な人なのか。 その答えは分からなかったけれど、私はその優しさを、確かに感じていた。 私は、彼の無表情に、勝手な印象を重ねていたのかもしれない。 「あ、ありがとうございます」 思わず口をついて出た言葉は、少しだけ上ずっていた。 私はそっと手を伸ばし、彼のハンカチを受け取った。 その布地は、思ったよりも柔らかく、そして温かかった。 彼の体温がまだそこに残っているような気がして、その感覚を振り払うように、袴の濡れた部分を丁寧に拭き始めた。 「洗ってお返しします」 私がそう言うと、壱馬様は軽く首を振った。 「大丈夫です」 彼の声は、相変わらず静かで、感情の起伏はほとんどなかった。 私はその言葉に、少しだけ戸惑った。 本当に、返さなくていいのだろうか。 「でも、」 私は思わず言葉を継いでしまった。 自分でも、なぜこんなにこだわっているのか分からなかった。 ただ、彼の持ち物をそのまま返すことが、どこか落ち着かなかった。 「汚れてないですから」 彼は静かに言った。 けれど、私にはそれが彼なりの気遣いのように思えた。 それとも、ハンカチを口実に会いたがってると思われてる…? そんなつもりじゃなかったけれど、そう思われても仕方がないのかもしれない。 私は、そっとハンカチを畳み直し、彼に返すことにした。 「ありがとうございます、」 彼の手が、私の差し出したハンカチを受け取るその瞬間、指先がほんの一瞬だけ触れた。 けれど、彼はすぐにそれを引き取り、何事もなかったかのように頷いた。 「あの、、壱馬様」 自分の鼓動がひときわ大きく響いた。 喉の奥が乾いていて、声が少しかすれた。 このまま黙って終わってしまうのが、どうしても嫌だった。 今日という日が、ただの形式的な儀礼で終わってしまうのなら、せめて自分の気持ちだけでも伝えておきたかった。 彼の目を見ようとして、けれどすぐに逸らしてしまう。 視線を落としたまま、私は膝の上で手を握りしめた。その手は、少しだけ震えていた。 「はい」 壱馬様の返事は、相変わらず静かだった。 でも、その声は、私の言葉を拒んでいない。 私は深く息を吸い、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。 「今日は私と会ってくださって、ありがとうございました」 私はそっと頭を下げた。 その言葉は、心からのものだった。 形式的な挨拶ではない。 この場に来てくれたこと、私の前に座ってくれたこと、それだけで有難かった。 「いえ」 彼の返事は短かった。 けれどその声には、先ほどよりもわずかに柔らかさがあった。 それが私の思い込みだったとしても、今はそれでよかった。 「もしかすると…両親に勧められて、無理やりここにいらっしゃるのかもしれませんが」 もしかするとなんて、曖昧な言い方をしたけどきっとそうだ。 だけど、そう口にするのは、あまりにも失礼な気がして言葉を濁した。 私自身がそうだった。 自分の意思など関係なく、ただ決まったからと言われてこの場に座っている。 だから、彼もきっと同じなのだろうと、勝手に思ってしまっていた。 彼は何も言わなかった。 その沈黙が、答えのように思えた。 私は視線を落とし、膝の上で組んだ手をぎゅっと握った。 「…もしも、また私と会うように言われたら、その時は断ってください」 その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが固まったような気がした。 たとえ、あとで父に何を言われようとも。 私は、私の言葉で彼に伝えたかった。 「え…?」 彼は驚いたように私を見つめた。 今まで感情を見せなかった彼が、こんなふうに目を見開くなんて。 私は、彼を困らせてしまったのだろうか。 それとも、私の言葉があまりに突飛で、戸惑わせてしまったのだろうか。 けれどもう、後戻りはできなかった。 「急にこんなこと言ってすみません。でも、どうしても伝えておきたくて」 私ははっきりと彼の目を見て言った。 この一言に、どれだけの勇気を込めたか、彼は知らないだろう。 「私のことがお気に召さなかったのですか」 彼の問いは、意外だった。 まさか、そんなふうに受け取られるとは思っていなかった。 彼は、私にはもったいないほどの人なのに。 首を横に振り、急いで否定の言葉を口にした。 「い、いえまさか、そんなわけありません。ただ…理由を聞かれた時は、私の不甲斐なさに嫌気がさしたとでも、仰ってください」 それが一番穏やかに終わらせる方法だと思った。 私が悪者になればいい。 そうすれば、誰も彼を責めない。 「そんなことを言ったら…」 彼の声には、明らかな戸惑いがあった。 私の言葉を、そのまま受け入れることができずにいるみたいだ。 「はい。お父様に、こっぴどく叱られると思います」 私は、少しだけ笑ってみせた。 けれど、その笑みは自嘲に近かった。 叱られる。なんて言葉では済まされないことも、私は知っている。 「じゃあなんで」 彼の声には、静かな疑問が込められていた。 なぜ、私はこんなにも自分を犠牲にしようとしているのか。なぜ、彼にここまでのことを言ってしまったのか。 自分でも、うまく説明できない。 ただ、彼の人生に私のような人間が関わってはいけないと、そう思っただけだった。 「幸せになって欲しいから」 その言葉は、私の中から自然とこぼれ落ちた。 飾り気もなく、ただ真っ直ぐに。 それが、私の本心だった。 彼には、自分の意志で人生を選んでほしい。 誰かの顔色をうかがって、誰かの都合に従って生きるような、そんな生き方をしてほしくなかった。 私は、そうして生きてきた。 そして、これからもそう生きていくのだろう。 でも、彼には違う道を歩んでほしい。 私は顔を上げ、彼の目をまっすぐに見つめた。 その視線に、すべての想いを込めて。 「人の幸せの為に、自分はどうなってもいいと…?」 彼の声には戸惑いと、どこか怒りにも似た感情がにじんでいた。 それは、私が自分を犠牲にすることを当然のように語ることへの、静かな抗議のように感じられた。 私は少しだけ微笑んだ。 「私の幸せは誰も不幸じゃない事です。だから、壱馬様が幸せなら、私も幸せです」 本当は、私だって幸せになりたい。 誰かに愛されて、必要とされて、穏やかな日々を過ごしたい。 けれど、それはきっと叶わない。 だからせめて、誰かの幸せの一部になれたら、それでいい。 私の存在が、誰かの不幸の原因にならないのなら、それが一番の幸せだと思った。 「…では、好きにさせてもらいます」 彼の声は、静かだった。 けれど、その言葉には、確かな意志が込められていた。 きっともう二度と会うことはないのだろう。 そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。 でも、それでいい。 それが、私の望んだ結末だった。 私はそっと目を伏せ、心の中で彼の幸せを祈った。 どうか。どうか、あなたが選ぶ未来が、あたたかいものでありますように。「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
「おじゃましまーす。壱馬の家来るの久しぶりだなぁ」雄大さんの屈託のない明るい声が、静かな玄関に響き渡る。壱馬さんのパーソナルスペースに別の男性を招き入れてしまったことへの申し訳なさと、この後どうやって間を持たせればいいのかという焦りが入り混じり、私は玄関口で立ち尽くしてしまった。何かおもてなしをしなければと頭をフル回転させるものの、手持ち無沙汰になった私は、緊張で少し震える手を隠すように、とっさに彼に向かってある提案を口にしていた。「コーヒーを…」緊張のあまり気の利いた言葉が浮かばず、半ば逃げるように口走ってしまった。私はそわそわと視線を泳がせながら、キッチンの方へと少しだけ体を向けた。「ありがとう」雄大さんの明るく気さくな声が、部屋に優しく響いた。そもそもこんな状況になっているのは、私が壱馬さんの過去について余計な詮索をしてしまい、その流れで雄大さんを巻き込んでしまったからで。壱馬さんの大切な友人にまで手間を取らせて気を遣わせている自分が情けなくて、私は咄嗟に謝罪を口にしていた。「私が余計なこと言ったせいで、すみません」戸棚からコーヒー豆とドリッパーを取り出し、お湯を沸かしながら慎重に準備を進めた。お湯を細く円を描くように注ぎ入れると、モコモコと粉が膨らみ、深く香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。「そんなことないよ。俺も花澄ちゃんと仲良くなりたかったし」雄大さんはそういいながらソファーに座る。そのゆったりとした動作をキッチンの端から見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。震えそうになる手で、出来上がったコーヒーをそっと差し出した。「ありがと」マグカップを受け取る時、雄大さんがふと見上げたその眼差しは、とても優しくて人懐っこいものだった。壱馬さんとはまた違う、周囲の人間を自然とリラックスさせるような不思議な魅力が彼にはある。湯気が立ち上るコーヒーを前に、彼がホッと一息つく姿を見て、私も少し
「空いてるよ」承諾の返事をした瞬間、指先にまでじわりと嫌な汗がにじむのを感じた。樹との続きを自分の中で終わらせるための約束。そう言い聞かせてはいるけれど、心の片隅では、あの日の樹の切なげな瞳を思い出して、揺らいでいる自分が確かにいた。「じゃあ、詳しい場所はあとで送るね」樹の返答は、どこか慎重で、私の心をうかがうような優しさを含んでいた。「うん、分かった。ありがとう」努めて淡々と、けれど突き放さないような温度でそう返し、通話を切った。暗転したスマホの画面に、自分
遮るように電話がなる。その無機質な電子音は、今この場に漂っていた言いようのない空気を強引に引き裂いた。私は反射的に身を固くし、スマートフォンの画面に視線を落とした。「…あ、すみません」気まずさが這い上がり、喉の奥がキュッと締まる。大切な話をしていたはずなのに、タイミングの悪さに申し訳なさが募る。「いいよ。出ておいで」その声はどこまでも優しくて、今の私の迷いを見透かされているような気がした。むしろ良かったのかもしれない。私は今、壱馬さんに自分の本当の気持ちを、危うくすべて伝えてしまうところだったから。私は小さく頷き、スマホを握りしめた。「はい…」重い足取りでリビングから出
「迷惑なんて思ったことないよ」 壱馬さんの言葉はあまりにも真っ直ぐで、胸にすっと入り込んでくる。けれど、私の心は簡単には軽くならない。 「ここに来てから、私が湊さんのためにできたことなんて一つもない。いつも助けてもらってばかりで…」 声は震え、胸の奥が痛む。思い返せば、ここに来てからずっと壱馬さんに助けられてばかりだった。 「そんなことない。花澄が気づいてないだけで、俺はたくさんのものをもらってるんだよ」 そんなこと、本当にあるんだろうか。壱馬さんは優しいから、私を安心させるためにそう言ってくれているだけかもしれない。 私が何もできていないことは事実で、彼に助けてもらってばかりな
「前にも夕食を作らせてしまったことがあったので、その…」 壱馬さんが仕事を休んでまで私のそばにいてくれた日。嬉しかったけれど、同時に申し訳なかった。夕食を作らせてしまったことが、私の中でずっと引っかかっていた。 「しまったって、別にどっちがするなんて決まってないんだから」 壱馬さんにとっては些細なことなのだろう。夕食を作ることも、私のそばにいることも、きっと負担だとは思ってない。 そう、分かっているけれど。







