LOGIN玲は雨音の話に一瞬動きを止め、頭の中に少し刺激の強い光景がよぎってしまい、顔がみるみる熱くなる。そのまま誤魔化すように歩幅を速め、雨音と並んで歩くのを避けた。とはいえ、体力の限界がすぐに来てしまった。少し進んだだけでまた足が重くなり、さらにひとつ大きなあくびが漏れる。――今日は本当に疲れたみたいだ。できるなら、早めに仕事を片づけて帰って寝たい。なにせ明日は、雪乃に会いに留置場へ行く予定なのだから。玲はそんなことを頭の片隅で考えていた。……一方その頃、秀一のもとには、彼が玲の身辺に付けていた二人のボディーガードから連絡が入っていた。ふたりは朝からの玲の行動を細かく報告する。「社長、今朝奥様は俊彦会長の電話を受けて、手土産を持って藤原本邸へ向かわれました。その後はアート展に移動されて、雨音さんと二時間ほど準備に追われていました。昼は二人でオフィスに籠ってお食事とお話を。そこは女性同士のプライベートになりますので、近づかないようにしておりました。それと……先ほどオフィスから出て来られた奥様ですが、かなりお疲れのようで。あくびを二、三回されていました。雨音さん曰く、昨夜あまり眠れなかったのでは、と。ただ詳細までは……」最後の部分は、どう考えても秀一のプライベートに直結する。ボディーガードたちも下手に踏み込むわけにはいかない。秀一はしばらく無言でスマホを握り、昨夜の自分の「暴走」を思い返したのか、咳払いして冷静を装った。「眠れていない件は心配いらない。俺のほうで対応する。それより、朝に藤原家に行った時はどれくらい滞在した?」「だいたい一時間ほどです」ボディーガードのひとりが答える。「奥様と会長のお話は、我々が聞く権限はありませんので、使用人と廊下で控えておりました。ただ、奥様が出てこられた時の様子は普段どおりで、特に傷つけられた様子もありませんでした」秀一は軽くテーブルを指で叩いた。それほど心配していないようだ。「父は、玲を大事にしてる俺の気持ちを理解してる。わざわざ彼女をいじめるような真似はしない。それに昨日、玲のおかげで俺の評判もかなりよくなった。父は感謝こそすれ、害を与えるはずがない」秀一が滞在時間を聞いたのは、美穂か綾――どちらかが嫌がらせをしないか確認したかっただけだ。だが一時間だけなら、さすが
「今日ね、令嬢たちのグループチャットで見たんだけど――弘樹くん、やっと退院したって」雨音は声を落としつつも、その「やっと」にしっかり力を込めて玲へ告げた。そう、「やっと」だ。弘樹の手のケガが報じられてから、気づけばもう一か月近く経っていた。当時は怪我の深刻さが噂になり、綾が流した「秀一に殴られた」という話を信じ込んだ暇人たちが、絶対重傷だと勝手に騒いだほどだ。とはいえ、手を怪我しただけで一か月も入院しているというのは、やはり珍しい。むしろ弘樹は家に帰りたくないから長引かせてるのではと思わせるほど居座っていて、雨音でさえ「もう病院にスイートでも作る気じゃない?」と思うくらいだった。だからこそ、今朝になって突然の退院報告は、妙に胸に引っかかった。退院すること自体は雨音や玲とはあまり関係のないことだが、そのタイミングはどうも変だったのだ。「だって、雪乃が捕まったばかりでしょ?その直後に弘樹くんが慌てて退院するなんて……どう考えても、誰かが気になって仕方ないから急いで出てきたって感じがするんだよ。その『誰か』って……玲ちゃん、言わなくてもわかるよね?」玲はため息混じりに笑った。「雪乃と関係してて、彼女が捕まったことで動揺する相手なんて……もう私しかいないでしょうね」ここまで言われれば、もう本人のマイナンバーを読み上げるのと同じレベルの直接さだ。それでも玲は雨音の心配を理解していた。「確かに弘樹から、病院にいる間に電話はかかってきたけど、出なかった。今日退院した理由が私かどうかはわからない。でもね、たとえ私に会いに来たとしても……怖がったりはしないわ。今さら心が揺れるなんてこと、絶対にない」「そっか。ならいいけど……玲ちゃん、藤原さんが今回やったことは正直ちょっとひどかったとは思うよ?でもさ、それでも弘樹くんに比べたら、まだ藤原さんのほうがチャンスをあげる価値があると思う。だから、弘樹くんに付け入られないように気をつけてね」雨音はそれ以上は言わず、話を切り替えるように立ち上がった。「さて、午後の来場者がそろそろ入る時間だし、会場に戻ろ」「うん」玲も席を立ち、雨音と一緒にドアへ向かった。ただ――オフィスを出て展示ホールまで歩く間、玲は妙に体の芯が重く、足取りが鈍かった。思わず小さなあくびが漏れる。「玲ちゃん
そんな男、いっそ蹴り飛ばしてやりたかった。なのに、あの入院以降、友也はそれらの悪癖をぴたりとやめた。こころの話を持ち出さなくなり、彼女からの「体調が悪い」という電話も雨音の前では取らなくなり――極めつけは、アート展の前日。友也はこころをアート展のスタッフチームから外し、彼女が企画に便乗して名を売るのを阻止した。こころの経歴に華を添えるチャンスを取り上げたのだ。これをきっかけに、こころは帰る前に大泣きして取り乱したらしい。無理もない。帰国してからやっと心臓の状態も落ち着いて、ようやくちゃんと働きたいと意欲を見せていたのは確かだ。将来なにも残らない人間になりたくなくて、このアート展にも二か月近く真面目に取り組んでいた。大した戦力ではなかったにせよ、それなりに忙しく立ち回っていたのを、雨音も知っている。それなのに――開幕前日になって、突然友也から「外れてくれ」と言われたのだ。こころが耐えられるはずもない。どれだけ泣きわめこうが、挙げ句の果てに心臓の発作が再発しそうになろうが……それでも友也は、スタッフに頼んで彼女を半ば強引に連れ帰ったらしい。そんな話を聞いてしまえば、雨音が一晩眠れなかったのも当然だった。翌日に離婚届を渡すべきかと迷っていた気持ちは、さらに揺らぐことになり――「玲ちゃん、今回ね……友也、本当に変わり始めてる気がするんだよ」「うん、聞く限りでは、友也さん……確かに変わったね」玲もその変化を認め、少し驚いたように言う。「前までの意地っ張りで優柔不断な友也さんを知ってるからこそ、今回こんなに思い切った行動ができたのは本当に大きいよ。雨音ちゃんの気持ちが揺れるのも無理ない」「じゃあ……離婚届を、もう少し渡さないでおくの、間違ってないかな?」雨音は両手で頬を支え、玲を見つめながら恥ずかしそうに顔を赤らめた。「でもさ、そうすると、私……言ってることとやってること、違うじゃない?もう二度とチャンスをあげないとか、絶対離婚するって散々言ってたのに。なんか……口だけで行動しない信用のない人みたいになっちゃうじゃない」しかし玲は静かに首を振った。「雨音ちゃん、人って『言ったからやらなきゃいけない』なんてこと、ほんとはないの。信用なんて気にする必要もない。そんなことであなたを見下す人なんて、そもそもあなたの味方じゃない
「そう考えてるなら安心したよ」雨音は玲の言葉を聞き、しっかり前を向いたその表情を見てようやく胸をなでおろした。というのも、これまで玲が自分に「催眠」めいたことを言ったり、自己否定に陥ったりするのをずっと見てきたからだ。また弘樹が好きだった十三年と同じように、恋にのめり込み、秀一という泥沼に落ちて十三年も引きずるんじゃないか……そんな心配さえしていた。でも、いまの玲はしっかり理性を保っている。それがわかって、雨音は安心したように玲の頭をそっと撫でながら言った。「玲ちゃん、今みたいに自分を見失わないでいられれば大丈夫だよ。誰を好きになっても、自分のことより優先しちゃだめ。それさえ忘れなければ、玲ちゃんの人生もきっとよくなるんだよ」「うん。変わらなきゃね。もう昔みたいにはなりたくない」玲は雨音に撫でられながら、澄んだ瞳がどこか遠くへ向けられていた。「これまで、私はずっと誰かのためにばかり生きてきた。でも、もう目が覚めたんだし……これからは何があっても、自分のために生きたい」ちょうど今の玲は、ひたすらに「手放す」時期でもあった。十三年も想い続けた初恋を手放し、ずっと寄り添ってくれると思っていた母を手放し――これから何を手放すことになるのか、見当もつかない。雨音は優しく言葉を添えた。「玲ちゃん、この先のことなんて、考えすぎなくてもいいよ。さっき話した『もしもの話』だって、あなたの気持ちを試しただけ。不安にさせるつもりはなかったんだよ。だって正直、藤原さんがそんなに鈍いとは思えないもの。そもそも藤原さんは、弘樹くんと全然違う。弘樹くんはあっさり心変わりして綾のことを好きになって、堂々と交際宣言なんかしちゃって……挙げ句の果てに彼女を家に連れていって、あなたの気持ちを平気で踏みにじった。でも藤原さんは違う。病院のときもそうだったでしょ?私は佳苗の家族に突き飛ばされて、最後までその場にいなかったけど……あんな凶暴な連中に恩を返すためだけなら、藤原さんはいくらでもあなたをないがしろにできた。でも、彼はしなかった、ずっとあなたの味方でいた。だから、藤原さんはあなたをがっかりさせる男じゃないと思うよ」そこまで話し、雨音はふっと自嘲するように笑った。ある意味、自分のほうが玲よりよほど不憫かもしれない、と。佳苗たちは少なくとも秀一の
例えるなら、それは氷山のよう――水面に出ているのはほんの一角で、一見穏やかのように見えても、水面の下には底知れない危うさが潜んでいて、向かってくる船をいつでも沈没させられる。いまの玲の様子は、まさにそんな状態だった。とはいえ、それも無理はない。佳苗の件は、誰が見ても厄介そのものなのだ。「……あの女、前はただの危ない人にしか見えなかったけどさ。でも、彼女の家族が、藤原さんが一番つらかった時期に命を助けたっていうのも事実でしょ?それを思うと……なかなか打ち明けられないのも、ちょっと分かる気がするんだよね」雨音は、ゆっくり言葉を選びながら続けた。「たぶん藤原さん、ずっとタイミングを見計らってたんだと思う。あなたを大事にしてるの、私でもわかるし……嫌なことをゴミみたいに、いきなり全部ぶつけてくるなんて絶対したくなかったんじゃないかな。それに佳苗って、玲に会ったら、絶対ろくでもないことを言うと思うから、藤原さんも、事前に話をして、ちゃんと暴走させないようにしないと」雨音は、秀一の最終的な考えまでは読み取れない。だが、どんな形であれ、佳苗を警察に突き出さなくても、せめてすべてを玲に正直に伝えるすべきだと感じていた。それこそ誠実というものだ。玲も、それには同意している。秀一は本当にそうしてくれるかどうかはわからない。けれど――「秀一さんは、理不尽なことをするような人じゃないわ。愛してるって言ってくれたのなら、私が納得できる答えを出してくれるはず」雨音は力強く頷く。「そうだよ。愛してるなら、相手がどんなことで傷つくかなんて、わかってなきゃおかしいし……」そう言いながらも、ふと心配がにじむ。「でも玲ちゃん……正直、さっきの話って、ちょっと自分に言い聞かせてるように聞こなくもないよ」玲が言う「秀一は自分を愛してる」という言葉は、誰かに説明するというより――自分の心をつなぎ止めるために繰り返しているように感じたのだ。玲は小さく息を呑み、しばらく黙ってから俯いた。長いまつ毛が影を落とす。「……雨音ちゃんの言うとおりよ。この二日間、ずっと彼を信じようって自分に言い聞かせてた。本当は落ち着いてるわけじゃないの。むしろ、必死なんだと思う」雨音は少し躊躇いながら、しかし正面から問いかけた。「じゃあ、もしも……よ?もし藤
綾にとって、弘樹以外の人間は、取るに足らない存在だった。烏山佳苗――秀一のそばにいた彼女についても同じだ。綾は彼女の存在を知ってはいたし、佳苗から届いた奇妙なメッセージも目にしていた。だが、心に留めたりしなかった。佳苗の連絡があったとき、ちょうど玲を潰すための計画が進行中で、綾には他人の思惑に付き合う余裕などどこにもなかったのだ。そして今、綾の話を聞くうちに、美穂は目眩を覚えるほどだった。できることなら、娘の頭の中に本当に脳みそが入っているのか、直接確かめてみたい。確かに、佳苗ひとりでは玲を追い詰めることなどできない。だが、佳苗を上手く利用するという選択肢を美穂は思いついていた。五年も眠っていた佳苗には、知らないことが山ほどある。そこを美穂が補ってやれば――玲どころか、秀一を巻き込むことも不可能ではない。「いいわ、綾。佳苗の件はもう気にしなくていい。あとは私が動くから。怪我が治るまで時間がかかるし、弘樹さんにも連絡したくないなら、少しの間おとなしく休みなさい。また様子を見に来るわ」美穂は珍しく穏やかな笑みを浮かべ、優しい母の顔になる。そして、部屋を出ると同時に、彼女はすっと表情を引き締め、スマホを操作し始めた。――すぐに、いい返事がくると信じて。……その頃、玲は藤原家で起きている騒動など知るよしもなかった。二日目のアート展は依然として来場者が途切れず、賑やかだ。会場に到着した玲は、雨音の補佐にしばらく回り、昼前になってようやく休憩室で二人そろって食事をとる。昨日雪乃の罪が暴かれて捕まった頃、雨音はちょうどいなかったので、その件について詳しく聞くつもりでいた。だが口を開くより早く、玲がそれよりずっと衝撃的な話をしてきた。「……ちょっと待って。この間会ったあの佳苗って女――私たち二人とも怪我をさせて、金目当ての詐欺女だって思ってた佳苗が……藤原さんの『植物状態だった友人』ってこと?要するに――藤原さんは、女の人を男だって嘘をついたって?」雨音は息継ぎも忘れて、早口のまま一気にまくし立てた。そのまま椅子に崩れ落ちるように座り込み、呆然と呟く。「……嘘でしょ、玲ちゃん。あなたは昨日、本当地獄を見たね……」これほどの出来事が、一日に一つでも起きれば、十分衝撃的だった。だが玲は、たった一日で三つも乗り越