LOGIN――――――――玄関のドアが開いた。ヘウォンはしばらく、その場に立っていた。久しぶりだった。なのに不思議と、懐かしいとは思っても、よそよそしさは感じなかった。家の中へ入ると、まず馴染みのある香りが届いた。ほのかにウッディが混じったムスク。ずっと昔からジェヒョクが使っていた香りだった。ヘウォンはゆっくり靴を脱いだ。「相変わらずね」家はほとんど何も変わっていなかった。リビングのソファも。窓辺の低いテーブルも。壁に掛けられた絵も。漢江を見下ろす大きな窓まで。ヘウォンはごく自然に奥へ入っていった。まるで数か月の旅行を終えて、自分の家へ帰ってきた人のように。後ろからジェヒョクが言った。「コーヒー?」「うん」「何にする」ヘウォンが振り返った。「それ、聞くの?」ジェヒョクの表情がほんのわずかに固まった。ヘウォンは笑った。「まだ覚えてるくせに」しばらくして、ジェヒョクはキッチンへ向かった。ヘウォンは一人、リビングに残った。ゆっくりと周囲を見回す。本当はこの家に足を踏み入れた瞬間から、ずっと確かめていた。何が変わったのか。自分が最後に来たときから、何が変わっているのか。大したものはなかった。だからこそ、むしろ安心した。ほら。何も変わってない。ヘウォンは窓辺へ近づいた。漢江の上で、遅い午後の日差しが細かく砕けていた。裁判所から届いた数枚の紙に、いったいどれほどの意味があるというのだろう。ヘウォンにとって、離婚はまだ現実のことのようには思えなかった。ジェヒョクと自分は、数え切れないほど喧嘩した。別れて。また会って。二度と顔も見ないと言いながら、結局同じベッドで朝を迎えた。今回だって、何が違うというのだろう。少し時間がかかっただけだ。ヘウォンはそう思っていた。ジェヒョクが本当に自分を捨てられるなんて、一度も考えたことがなかった。彼がどれほど自分を愛していたか、知っていたから。いや。今だって、知っているつもりだったから。「ほら」ジェヒョクがコーヒーカップを置いた。ヘウォンはカップを持ち上げた。一口飲んで、笑う。「同じね」ジェヒョクは答えなかった。「私の好きな味」「覚えてはいるから」その言葉にも、ヘウォンは傷つかなかった。むしろ、かすかに笑った。覚えてるじゃない。それで
ここへ来る直前まで、ソハはジェヒョクの家にいた。昨夜からずっと。最初は、本当に少しだけ寄って帰るつもりだった。遅くとも日付が変わる前には自分の家へ戻るつもりだったし、朝になれば、それぞれの日常へ戻るのだと思っていた。けれど、予定どおりになったことは何ひとつなかった。一度だったセックスが、二度、三度になった。夜が過ぎて朝になり、朝が過ぎて、気づけばもう午後だった。カーテンをきちんと閉めていないリビングには、遅い午後の日差しが長く差し込んでいた。ソファの下には昨夜脱いだジェヒョクのシャツが落ちていて、テーブルの上には飲みかけの水と、すっかり冷めたコーヒーが並んでいた。ソハはシャワーを浴びたあと、しばらく窓辺に立っていた。漢江の上で陽の光がきらめいていた。あまりにも普通で、明るい午後だった。だからこそ、昨夜から続いているこの時間のほうが、かえって現実味を失っているように思えた。背後に人の気配がした。振り返らなくても、ジェヒョクだと分かった。もうすっかり覚えてしまった香りが先に近づいてきた。ムスク。その奥に重く沈むウッディノート。ジェヒョクは後ろからソハを抱きしめた。胸をつかみ、うなじに唇を押し当てる。ソハは小さく声を漏らしながら彼の頭に手を回し、そのまま振り返ってキスをした。「何時に出るって言ってたっけ」低く沈んだ声が耳元に落ちた。「七時」「まだ時間あるな」ソハが振り返った。会社で見るジェヒョクとは、まるで別人だった。気軽に着た薄手のコットンTシャツの下からは、引き締まった肩と胸の輪郭が見えていた。いつも乱れひとつない髪も、少しだけ崩れていた。会議室では、誰も気軽には声をかけられない男。仕立てのいいスーツ。きっちり整えられた髪。めったに感情を表に出さない顔。そんな男が今は、裸足に下着とTシャツ一枚だけで、自分の前に立っている。ソハはなぜか、その姿から目を離せなかった。誰にでも見せる姿ではない気がした。夜を越え、朝を迎え、また午後になるまで同じ空間にいたからこそ見られた、パク・ジェヒョクの乱れた姿。自分と二人きりになるときだけ、あの整然とした表面にひびが入る。ソハは、その瞬間が好きだった。自分のせいで、ジェヒョクがいつもの彼ではなくなる瞬間。「何ですか」「何が」「また、そんなふうに見るから
そのとき、ウェイターがメインの皿を下げ、デザートメニューを持ってきた。彼女はメニューを見ることもしなかった。「私はいつものをお願いします」「バニラのミルフィーユでございますね?」「ええ。コーヒーも一緒に」「いつものエスプレッソでご用意いたします」ユゴンが笑った。「ここのスタッフ、母さん本人より母さんの好み分かってるんじゃない?」「だから楽なのよ」「俺、何食べよう」彼女がユゴンを見た。「チョコレートにしなさい」「なんで?」「あなた、チョコレート好きでしょ」「いつ俺が」「小さい頃から」「それは子供の頃の話じゃん」「味の好みって、そんなに変わらないものよ」結局ユゴンがチョコレートのデザートを注文すると、彼女はほら見たことかという顔で笑った。「ほら」「たまたまだって」「はいはい」食事が終わる頃には、彼女のワイングラスもほとんど空になっていた。最後の一口をゆっくり飲み、グラスを置く。「美味しかった」「母さんのおごりだから、もっと美味しい」「この子ったら」彼女は笑いながら、ナプキンで口元を軽く押さえた。「次はあなたがおごりなさい」「俺がここでどうやって払うんだよ」「バイトしなさい」「息子に厳しすぎない?」「二十歳ならもう大人でしょ」「さっきは子供扱いしてたくせに」「私の息子なんだから、子供よ」彼女は当然だという顔で答えた。ユゴンがふっと笑った。彼女は椅子から立ち上がった。「ちょっとお手洗い行ってくる」「うん」彼女はドレスの裾を軽く整え、ホールの奥へ歩いていった。ヒールのある靴を履いているのに、足取りには少しも力みがない。伸びた背筋と、ゆったりとした歩調。通りかかったスタッフが自然に一歩横へ退き、道を空けた。「お食事はいかがでしたでしょうか」「ええ。今日もとても良かったわ」彼女は笑いながら通り過ぎた。「デザートは少しあとで持ってきてください」「かしこまりました」化粧室はホールから少し離れた、静かな廊下の突き当たりにあった。彼女はゆっくりと廊下を歩いた。そして角を曲がった瞬間――誰かとぶつかりそうになった。「あら」「あ、すみません」彼女が一歩下がった。向かいにいた女も驚いた顔で頭を下げた。「私が前を見てなくて」「大丈夫ですよ」彼女が柔らかく微笑む。女もつられるよ
ユゴンの表情も、少しだけ和らいだ。「そう言いながら、連絡もしないくせに」「忙しかったの」「いつも忙しいって言うじゃん」「本当に忙しかったのよ。韓国に戻ってきてまだ一週間しか経ってないんだから」ユゴンがふっと笑った。母親はそんな息子をしばらく眺めていた。そしてテーブル越しに手を伸ばし、ユゴンの乱れた前髪を整えてやった。「ちょっと顔見せて」「何を見るんだよ」「痩せた?」「痩せてない」「ちゃんとご飯食べてる?」「うん」「大学は?」「ちゃんと行ってる」少し間を置いてから、彼女は何でもないことのように尋ねた。「付き合ってる人は?」ユゴンの眉が上がった。「なんで急に?」「気になるから」「いない」「本当に?」「うん」彼女が意味ありげに笑った。「つまらない生き方してるのね」「母さんにだけは言われたくないけど」「どうして?」「最近、母さんのほうがつまらなそうじゃん」ワイングラスを回していた手が、一瞬だけ止まった。「私が?」「うん」「そんなことないけど」「あるって」彼女は答える代わりに窓の外へ目を向けた。ガラス越しに、南山タワーの明かりがきらめいていた。やがて、何でもないことのように言った。「長いこと持ってたものを、一つ整理したからかしら」「よかったじゃん」ユゴンは大して気にも留めずに答えた。「いらないものは捨てたほうがいいよ」彼女はゆっくりと息子を見た。「……そうね」口元にはまだ笑みが残っていた。けれど不思議なことに、目だけは笑っていなかった。ユゴンは気づかなかった。そのとき、ウェイターが静かにテーブルのそばへ近づいてきた。「本日も、いつもの内容でご用意いたしましょうか?」彼女はメニューを開くこともなく顔を上げた。「ええ。そうしてください」「前菜はキャビア、メインは前回と同じラムでよろしいでしょうか?」「いいえ」彼女は少し考えてから、窓の外を見た。「今日は魚がいいわ。今日入ったもので、何がおすすめ?」「ドーバーソールが大変よろしいです」「じゃあ、それにしてください。バターは少なめで」「かしこまりました」ウェイターは自然にユゴンのほうへ目を向けた。「お坊ちゃまは、前回と同じくフィレでご用意いたしましょうか?」ユゴンはメニューを手に取りかけて、止まった。「俺のも覚えて
「ここ、会社ですよ」「知ってる」「外には秘書もいるし」「それも知ってる」「なのに?」ジェヒョクはしばらくソハを見つめた。そして、ひどく低い声で言った。「会議のときは、あんなにまっすぐ俺を見てたのに」「……」「どうして今は見られないんです?」ソハはすぐに彼を見た。「見てるじゃないですか」ジェヒョクが笑った。その瞬間だった。ほんのわずかな一線を、二人は越えた。ドア一枚隔てた向こうには人がいる。秘書がいつノックしてもおかしくなかった。ほんの少し前まで、自分たちは専務とチーム長だった。その事実が、かえって二人の間の空気を張り詰めさせた。ソハが小さく尋ねた。「ドア、鍵かかってます?」ジェヒョクの目つきが変わった。短い沈黙。やがてジェヒョクが聞いた。「かけましょうか?」ソハは彼を見つめた。「いいえ。そこまでする必要はないです」そして――言葉の代わりに、つないだ手に少し力を込めた。先にキスをしたのはソハだった。会議室にいたときから、ソハはジェヒョクのことを意識しすぎていた。今すぐ彼に触れられたい。彼の腕の中で、さっきまで必死に保っていた平静を崩してしまいたい。そんな衝動を押さえるだけで精いっぱいだった。ジェヒョクも同じだった。ソハをソファへ追いやるように抱き寄せ、互いに抑えていた欲望を一気に解放した。「いつから?」ソハが息を乱しながら聞いた。「何が」「こんなふうになってたの」ジェヒョクは低く笑った。「会議室に君が入ってきたときから」その答えに、ソハは一瞬だけ目を閉じた。少し前まで、あれほど整然としていた女が。会議室の真ん中で、誰にも隙を見せなかった女が。今は自分の腕の中で、別の顔を見せている。ジェヒョクはその表情を見つめながら思った。これだ。自分が知っている、もう一人のチン・ソハ。欲しい。何度でも、こんな顔をさせたい。ジェヒョクが彼女を強く抱き寄せると、ソハも逃がすまいとするように腕を回した。二人の呼吸は次第に荒くなり、外に人がいることも、ここが会社だということも、一瞬だけ遠くなった。そうして二人は、互いに抑えきれないまま頂点へと駆け上がっていった。――――――――上品なフレンチレストランだった。ユゴンと彼女が会う場所は、いつもここだった。ユゴンはいつものように、チ
「専務?」ソハの声に、ジェヒョクは物思いから引き戻された。「私の説明に、何か問題がありますか?」ジェヒョクは彼女を見た。きちんとしたシャツ。綺麗に整えられた髪。少しの乱れもない表情。けれど、テーブルの下でペンを握る手には、わずかに力が入っていた。緊張している。ジェヒョクには分かった。それでも、逃げない。あのインターンもそうだった。そして今のチン・ソハも。そのときになって、ジェヒョクはようやく気づいた。自分には、ずっと昔から変わらない好みがあるらしい。強い女が好きだったわけじゃない。怖いもの知らずの女が好きだったわけでもない。怖がりながらも、引かない女。そして、誰もが知る強い顔の奥に、自分だけが知っているもう一つの顔を持つ女。ジェヒョクはゆっくりとペンを置いた。「いいえ」ソハと目が合った。「続けてください、チン・チーム長」ソハは再び画面に目を向けた。ジェヒョクは椅子の背にもたれた。厄介だった。ずっと昔、一度だけ本気でのめり込んだことのある種類の女だった。――――――――会議が終わった。「お疲れさまでした」椅子が引かれ、書類が閉じられる。二時間近く張り詰めていた会議室の空気が、ようやく緩んだ。ソハはノートパソコンを閉じた。緊張が解けた途端、指先がわずかに震えた。うまく終わった。少なくとも、言うべきことは全部言った。相手が専務だろうが何だろうが引かなかったし、準備してきた案も守った。問題は、その専務がパク・ジェヒョクだったということだけだ。「チン・チーム長」ソハが顔を上げた。ジェヒョクだった。「少し、私の部屋まで来ていただけますか?」その瞬間、周囲の視線が自然とソハに集まった。「先ほどの修正案について、確認したいことがあります」完璧に仕事上の口調だった。ソハも表情を変えなかった。「はい。資料を持って伺います」専務室は、思っていたより広かった。そして、あまりにも整然としていた。大きなデスク。打ち合わせ用のテーブル。ソファ。全面ガラスの窓の向こうには、ソウルの街が見下ろせた。入った瞬間、ソハは思った。家と同じ。余計なものが何ひとつない。「コーヒーはいかがですか?」秘書が尋ねた。「結構です」ソハが答える。ジェヒョクもジャケットのボタンを外しながら言った。「







