LOGIN兄が病院のベッドで生死の境を彷徨っている事実がどうしても頭で処理しきれず、私はマネージャーの腕をすがるように掴んだまま、ガタガタと震えることしかできなかった。
「美羽っ! しっかりしろ、大丈夫かっ!」 「兄が……っ、お兄ちゃんが……!」 呼吸の仕方を忘れたように喘ぎながら、私は必死に言葉を絞り出した。 「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ。蒼真くんに何があった」 マネージャーは、パニックに陥りかけている私を落ち着かせるように問いかけてきた。 私が泣いても兄は助からない。分かっているのに涙を止めることができなかった。 私は震える手で顔を覆い、しゃくり上げるのを必死で呑み込みながら、途切れ途切れの言葉で病院から告げられた惨状を伝えた。 「病院に運ばれて……意識がないって。私、どうしたらいいか……っ」 すぐにでも駆け出「ゆ……一ノ瀬さん……」彼が放っているその強烈な怒りは、撮影を遅らせようとしている私に対するものではなく、明らかに言いなりになっている私に向けられていた。「お兄さんが病院に運ばれたんですよね。それに意識不明の重体だと。それなのに、どうしてすぐに行かないんですか」「ここで私が抜けてしまえば……」震える唇で言い訳を口にすると、悠真はひどく呆れたように短く息を吐き捨てた。そして、私から庇うように一歩前へ出ると、今度は監督へとその鋭い矛先を向けた。「監督。情緒不安定な彼女に演技をさせても、いい作品は撮れないと思います」焦る監督のスケジュール管理を理詰めで塞ぎ、作品のクオリティを盾にすることで、私を現場から強制的に解放しようとしてくれている。「そうは言ってもなぁ……。スケジュール的にも、ここで彼女に抜けられると……」ドラマの撮影現場において、役者が突発的に抜けるということは、その日予定していたスケジュールがすべて白紙になることを意味する。確保していたロケ地、エキストラ、ほかの役者の拘束時間。それらがすべて無駄になれば、莫大な制作費の損失が出る。監督が同情よりも現実的な進行を優先するのは、現場の責任者として当然の葛藤だった。その沈黙が私への見えない圧力となってのしかかり、「残ります」と口を開きかけた、その時だった。「俺の単独カットを先に全部回してください。彼女が必要な引きの画や、肩越しのシーンは、代役を立ててカメラアングルで凌げるはずです」悠真の口から飛び出したのは、感情論ではなく、現場を動かすための現実的な妥協案だった。それは技術的には可能でも、相手の表情や息遣いがない状態で完璧な演技を要求される、役者にとっては負担の大きい手法だ。 「代役で……? いや、でもそれだと後日、彼女の顔の寄りを別撮りする時に、一ノ瀬くんにもう一度相手役として来てもらうことになるぞ。君のスケジュールだってカツカツなのに……」監督が驚いたように反論した。トップ俳優である悠真のスケジュールは、分刻みで数ヶ月先までびっしりと埋まっている。今回のドラマ撮影だけでもギリギリの調整で参加しているはずなのに、私のために別日を設けさせるなんて不可能に近い。「構いません。スケジュールの帳尻は合わせます」迷いのないその一言が、静まり返ったスタジオに深く、重く響き渡った。「作品の質
兄が病院のベッドで生死の境を彷徨っている事実がどうしても頭で処理しきれず、私はマネージャーの腕をすがるように掴んだまま、ガタガタと震えることしかできなかった。 「美羽っ! しっかりしろ、大丈夫かっ!」 「兄が……っ、お兄ちゃんが……!」 呼吸の仕方を忘れたように喘ぎながら、私は必死に言葉を絞り出した。 「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ。蒼真くんに何があった」 マネージャーは、パニックに陥りかけている私を落ち着かせるように問いかけてきた。 私が泣いても兄は助からない。分かっているのに涙を止めることができなかった。 私は震える手で顔を覆い、しゃくり上げるのを必死で呑み込みながら、途切れ途切れの言葉で病院から告げられた惨状を伝えた。 「病院に運ばれて……意識がないって。私、どうしたらいいか……っ」 すぐにでも駆け出して病院へ向かいたいのに、足がすくんで一歩も動けない。 「監督に事情を話して、今すぐここを出るぞ。車は俺が回すから、美羽は向かう準備をしろ」 マネージャーは一瞬の迷いもなくそう断言すると、私の背中を力強く押してくれた。 通常であれば、ヒロインが撮影を途中で投げ出すなど許されない。それでも彼は、私の女優としてのキャリアよりも、一人の人間としての心を最優先に守ろうとしてくれた。 彼の背中から伝わる確かな味方の存在に、私はかろうじて頷きを返した。 「……はい」 私は手の甲で乱暴に涙を拭うと、重い足を引きずるようにして、スタジオの中央でスタッフに指示を出している監督の元へと向かった。 きらびやかな照明、慌ただしく動き回る美術スタッフ。数分前まで私もその一部だったはずの撮影現場の空気が、今の私には酷く遠い世界のように感じられた。 今は泣いている場合じゃない。何
「美羽、さっきスマホ鳴ってたぞ」長いリハーサルがようやく終わり、スタジオの隅に置かれたパイプ椅子に崩れ込むように腰を下ろした私に、マネージャーが私のバッグを差し出しながら声をかけてきた。 「え……誰からですか?」 「それが、全部非通知なんだよ。短い間に3回も連続でかかってきてたから、何か急ぎの用かもしれないぞ」 私の背筋を冷たいものが駆け抜けた。心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり、呼吸が浅くなる。 また、あの人からかもしれない。でも、これまで短い間に3回も連続して執拗に鳴り続けたことなんて一度もなかったのに。 ────プルルルル バッグの中で、無機質なバイブレーションの振動音が突如として鳴り響いた。 「……っ!」 着信音は切れることなく、どこまでも執拗に、そして不気味な一定のテンポで鳴り続けている。 「出なくていいのか?」 マネージャーの気遣うような声に、私はハッと我に返った。 あの人の存在を…得体の知れない悪意をマネージャーに話してしまえば、間違いなく警察沙汰になる。そうなれば現在進行中のこのドラマの撮影も止まってしまうかもしれない。 これだけ鳴り続けているのに出なければ、勘の鋭いマネージャーに不審がられてしまう。 恐怖で震える手を無理やりバッグに突っ込むと、意を決して通話ボタンをスワイプした。 「もし、もし……」 絞り出した声は、自分でも情けなくなるほどかすれて震えていた。 身構えて耳を澄ませた私の鼓膜を打ったのは、予想していたような気味の悪い沈黙ではなかった。 電話の向こうから聞こえてきたのは、背後で慌ただしく人が行き交う騒音と、事務的でありながらひどく切迫した、見知らぬ女性の緊迫した声だった。 「突然のお電話で失礼い
「本当のことは……ごめん。今はまだ話せそうにない」 絞り出すように告げたその言葉は、情けないほど小さく震えていた。 私の異常に気づき、どれほど心配してくれているか分かっているのに、それでも私は自分の抱える闇を兄に背負わせることはできなかった。 「いいよ。無理に聞き出そうなんて思ってない。ただ……美羽が話したくなった時に、ちゃんと受け止められる存在でいたい」 「……ありがとう、お兄ちゃん」 涙声になりそうなのを必死で呑み込み、私は短く感謝の言葉を紡いだ。 私は潤んだ瞳を隠すように手元の救急箱へ視線を落とし、使い終わった薬のチューブや湿布の袋を片付け始める。 パチン、と救急箱の留め具を閉めたその時、兄がふと、場を和ませるような軽いトーンで思いがけない言葉を落とした。 「それに、人のことは言えないしな。俺だってお前に隠してることがある」 その言葉に、私はピタリと手を止め、弾かれたように顔を上げた。 「え……? お兄ちゃんが、私に隠し事?」 私は目を丸くして、マジマジと兄の顔を覗き込んだ。 「ああ」 堂々と隠し事があると宣言されてしまうと、妹としてはどうしてもその中身を暴きたくなってしまう。私は救急箱をテーブルの端に押しやり、ソファーの上で膝を突き合わせるようにして兄へと距離を詰めた。 「え、何それ。気になるんだけど」 私は兄のシャツの袖を軽く引っ張り、答えを急かすように揺さぶった。 「俺も秘密だ」 兄は私の手を軽く払い除けると、意地悪な笑みを浮かべてそっぽを向いた。 「あ、もしかして、ついに彼女ができたとか?」 もしそうだとしたら、妹としてこれほど嬉しい隠し事はない。 私は確信めいた笑みを浮かべて彼の反応を待ったが、兄は呆れたような溜息を吐き出した。 「バカ言え。彼女ができたら、妹と二人で皿洗いなんかしてないだろ」 正論を突きつけられ、私は思わず確かにと納得してしまった。 もし大切な恋人ができたのなら、彼女と同棲でもしているはずだ。 兄の自嘲気味な笑いに、私もつられてふふっと笑い声を漏らしてしまう。 けれど、平和な笑いが落ちたその直後、私の頭の片隅に、自分が巻き込まれている危険の影が黒くよぎった。 まさかとは思うけれど、兄の隠し事も、そっちの類の暗いものなのではないかと
夕食を終えた後のキッチンには、水道の流れる音と、食器が軽く触れ合う音だけが心地よく響いていた。 兄が丁寧に洗い上げたお皿を受け取り、私が布巾で水気を拭き取っていく。 兄妹の穏やかな分担作業。けれど、濡れないように無造作に捲り上げられた兄のシャツの袖口から、痛々しい変色が見えた瞬間、私の手はピタリと止まった。 「あれ……お兄ちゃん、腕のそれどうしたの?」 お皿を持ったまま、私はその箇所を指差した。兄の引き締まった前腕には、青黒く変色してぽっこりと腫れ上がった痣が浮かんでいる。 誰が見ても痛々しいほどの打撲痕なのに、当の本人は私が指摘するまで全く気に留めてすらいなかった様子で、不思議そうに自分の腕へと視線を落とした。 「ああ……これか。今日、会社で重いダンボール運んだ時にちょっとぶつけちゃってさ」 痛みを微塵も感じさせないあっけらかんとした答えに、私は思わず眉根を寄せた。 痛みに鈍いのか、それとも私に心配をかけまいとするいつもの癖なのか。平気な顔をして皿洗いを続ける兄の横顔を見て、私の胸に心配が込み上げてきた。 「もう……! すぐに冷やすかお薬塗るかしないと。青く腫れてるじゃない」 私が非難すると兄は泡のついた手を止め、困ったように肩をすくめた。 「ははっ、なんだよ。お母さんみたいなこと言うな」 冗談めかして笑い飛ばそうとするその態度が、私には余計に腹立たしかった。 「笑い事じゃないよ! 私の時は大騒ぎするくせに、自分のことには本当に無頓着なんだから」 むっとした顔で睨みつけると、兄はやれやれといった様子で小さく息を吐いた。 私が本気で心配して怒っていることは伝わったようだが、それでもまだ皿洗いの手を止める気はないらしい。残った泡を洗い流しながら、私をなだめるように適当な返事を返してきた。 「わかったわかった、後でちゃんと薬塗っとくから」 その返事に、私は手元の布巾をシンクの脇にバ
「体調悪いのか?」助手席からバックミラー越しに投げかけられた、マネージャーの声が低く響いた。「え……?」呆然とした声しか出ず、私はかろうじてバックミラーに映るマネージャーの目を見返した。彼の眉間には深いシワが刻まれており、そこにはマネージャーとしての鋭い観察眼と、私を本気で案じる温かい情が交差していた。「顔色が悪い。真っ青だぞ」楽屋を出て車に乗り込んでからずっと、私は一言も発さずに窓の外を見つめるふりをしていた。けれど、さっきまでの激しい動悸と、悠真から突きつけられた思いも寄らない言葉の衝撃は隠しきれていなかったらしい。「今日……記者会見のシーンだったので」私は震える声を整え、精一杯の言い訳を口にした。大勢のフラッシュとカメラ、周囲からの突き刺さるような視線。それは確かに私の精神をすり減らした。けれど、私をここまで叩き落とした本当の原因は、仕事上のプレッシャーではなかった。「……薬が、効かなかったのか?」誰かの悪意によって隠されていたかもしれない事実を、マネージャーに知られるわけにはいかない。「いえ、ただ……少し疲れているだけだと思います」私は必死で首を横に振り、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。「そうか。さっきの一ノ瀬くんとの話も原因かもな。ただの世間話じゃなさそうだったが」彼に本当のことを話すべきなのか、それとも胸の奥に封印してしまうべきなのか。迷いと葛藤が胸を駆け巡り、私は自分の膝をぎゅっと握りしめて俯くことしかできなかった。「それは……っ」かろうじて声を絞り出したものの、それに続く言葉は何も出てこなかった。悠真との間に横たわる、あまりにも悲惨なすれ違い。「言いたくないなら無理に言う必要はないが……」マネージャーは私の葛藤を察したように、トーンを落として優しく言った。無理に追及して追いつめない彼の温かい気遣いが胸に染み、目頭が熱くなる。







