تسجيل الدخول「ママ……まだ帰ってこないの?」
玄関で、靴にかけていた手を止めた。
ひかりが呼んでいるのは私だと分かって、詰めていた息がほどける。
「ひかりちゃん」
柚香の声から、さっきまでの甘さが少し消えた。
「私のこともママって呼んでくれたら、寂しくないでしょう?」
「やだ」
ひかりは即答した。
「ママはママだけだもん」
私は靴を脱ぎ、リビングへ急いだ。
「ひかり。柚香はお前のことが大好きなんだぞ」
入口の手前で郁也の声がして、足が鈍った。
やめさせてくれると思っていた。
娘が嫌だと言えば、それで終わるはずだった。
「でもママじゃない」
「たまに呼ぶくらいいいだろ」
「やだ。ママが悲しいもん」
ひかりにそんな心配までさせている。
私が口を開きかけた時、郁也の携帯が鳴った。
「仕事だ。書斎で話してくる」
別の出入口から出たらしく、足音が階段のほうへ遠ざかった。
しばらくして、柚香がため息をついた。
「……本当に可愛くない」
声が変わっていた。
「柚香おばちゃん?」
「おばちゃんじゃなくて、ママって呼んで」
「いや」
次の瞬間。
「痛い……」
ひかりの声。
私はリビングへ踏み込んだ。
「何してるの!」
ソファの脇で、柚香がひかりの手首を握っていた。
私を見ると手を放す。
娘は身体をよじり、こちらへ駆け寄ってきた。
「ママ!」
しゃがんで抱き留めると、ひかりは首に腕を回した。
その手首に赤い指の跡がある。
私はそっと触れ、娘が顔をしかめるのを見て、すぐに手を離した。
「柚香」
「違うの、お義姉さん」
「何が違うの?」
「ひかりちゃんが転びそうになったから……」
「転ばないように持った手に、こんな跡が残るの?」
柚香が怯えたように後ずさった。
ちょうどその時、郁也が戻ってきた。
「何してる?」
柚香の目に、すぐ涙が浮かんだ。
「お兄ちゃん……」
いつもの声。
「私、ただひかりちゃんと仲良くしたかっただけなのに」
私はひかりの手首を見せた。
「これを見て」
郁也は手首の跡を見て、一瞬黙った。
「柚香がわざとそんなことするわけないだろ」
「跡が残ってるのよ」
「ひかりが嫌がって暴れたんじゃないのか?」
耳を疑う。
「あなた、本気で言ってる?」
「柚香は仲良くしたいだけだろ。お前が嫌な顔をするから、ひかりまで嫌がるんだ」
また私のせいにする。
娘の手を見ても、まだ。
「もういいよ、お兄ちゃん。私が悪いの」
柚香が胸元に手を当てた。
郁也はすぐにその顔を覗き込む。
ひかりが私の服を握り、耳元で小さく言った。
「お部屋、行きたい」
「うん。行こう」
ここに残って言い争っても、娘にまた怖い思いをさせるだけだ。
私はひかりを抱き上げた。
「この子に、もうあんなこと言わないで」
柚香ではなく郁也を見て言った。
返事を待たずにリビングを出ると、ひかりが顔を私の肩に押しつけた。
2階の子ども部屋に入り、扉を閉めた。
ベッドへ下ろそうとすると、娘は首を振った。
「まだ抱っこ」
「いいよ。ママもこうしてたい」
私はベッドの端に座り、背中を撫でた。
「ひかり、柚香おばちゃんの子にならないよ。ずっとママの子」
「ずっとだよ」
赤い跡の残る手を包み、額にキスをした。
熱い。
もう一度手を当てると、さっきより頬も赤かった。
「ママ……ここ苦しい」
小さな手が胸を押さえる。
体温計は39度を超えていた。
私はベッド脇の時計を見て、ひかりを抱き直した。
「病院に行こう。大丈夫、抱っこしてるからね」
廊下へ出て、夫の書斎へ向かった。
開いた扉の向こうには、明かりのついた机だけがある。
名前を呼んでも返事はない。
すぐ近くの柚香の部屋から、明かりが漏れていた。
半開きの扉を押すと、ベッドに座る柚香と、その隣の郁也が顔を上げた。
「ひかりが39度の熱を出してる。胸も苦しいって。病院へ行きたいから車を出して」
この子の父親ではいてくれるはずだ。
郁也が腰を上げかけた。
その時、私と目の合った柚香が、急に激しく咳き込んだ。
「お兄ちゃん……苦しい」
郁也はすぐに彼女を抱き寄せた。
「今はそんな話をしてる場合じゃないだろ。柚香の顔を見ろ」
ひかりの苦しがる顔は見てくれない。
郁也の肩越しに、柚香と目が合った。
涙の浮かんだ目をしたまま、その口元がゆっくりと笑った。
私は息をのんだ。
柚香は私から目をそらさず、郁也の服を握り直した。
その胸へ頬を寄せ、もう片方の手を彼の背中へ回す。
「お兄ちゃん……離れないで」
「大丈夫だ。俺はここにいる」
郁也が顔を覗き込むと、柚香はすっと笑みを消した。
苦しそうに眉を寄せ、彼の腕の中で小さく頷く。
「ひかりも苦しんでるのよ!」
声を上げた私を、郁也が睨んだ。
腕の中で、ひかりが目を開けた。
「パパ……一緒に行く?」
小さな腕が伸びた。
私は郁也の顔を見た。
今度だけは娘を選んで。
数秒。
柚香が咳き込む。
郁也は、柚香の背中に手を回した。
「先に連れていってくれ。柚香が落ち着いたら行く」
聞き間違いだと思った。
郁也は娘の伸ばした手を取らなかった。
ひかりの腕が、ゆっくり私の肩へ戻ってくる。
「……分かった。病院には私から連絡する」
もう一度頼めば来るかもしれない。
その考えが浮かぶたび、娘の速い息が耳に触れた。
夫の気が変わるのを、ここで待ってはいられない。
子ども部屋で携帯と必要な荷物を取り、救急車を呼んだ。
聞かれたことに答える間も、ひかりは私の服を離さなかった。
階段を下りる時、娘が首元でささやいた。
「パパ、来ないの?」
来るよとは言えなかった。
返事ができずにいると、小さな手が私の頬に触れる。
「ママがいるから、ひかり大丈夫」
それは私が言うはずの言葉だった。
泣きそうになるのをこらえ、娘の背中を包み直す。
「うん。ママがいるから、大丈夫」
玄関先で救急隊を待った。
近づくサイレンの音にひかりが目を閉じ、私はその耳を片手で覆った。
担架に乗せられる時も、娘は私を探した。
すぐ横にいるよと手を握り、救急車へ乗り込む。
閉まる扉の向こうに相馬家の玄関が見えた。
郁也の姿は、最後までなかった。
……
ひかりはそのまま入院になった。
郁也に電話をかけても、応答はない。
病室を知らせ、携帯を枕元に置いた。
ひかりの額の汗を拭き、布団を掛け直す。
しばらくして携帯が震えた。
私はすぐに手を伸ばした。
柚香から、写真が届いていた。
見覚えのあるベッドの背もたれ。
さっき、娘を抱いて助けを求めに行った、柚香の部屋だった。
柚香は郁也の上着を肩に掛けていた。
すぐ隣で、夫がベッドの縁に伏せて眠っている。
柚香の手は、その髪に添えられていた。
【美晴さん、明日の朝、お兄ちゃんにお弁当を作ってもらえますか。疲れているみたいだから、好きなおかずを入れてあげてくださいね】
「愛人にでも、なるから」言ってしまった瞬間、自分の声だけがやけに鮮明に耳に残った。給湯室の狭い空間で、彰人は何も言わなかった。すぐそばにいるのに、その沈黙がひどく遠い。さっきまで聞こえていた郁也と柚香の足音は、もう廊下の向こうへ消えている。私は彰人の返事を待った。断られても仕方がない。4年前、私はこの人との婚約を捨てた。家族まで捨てて、郁也を選んだ。それなのに今になって、娘を助けてほしい、この家から連れ出してほしい、その代わりなら自分を差し出すと言っている。勝手なのは分かっている。それでも今は、他に何も思いつかなかった。やがて彰人が低く息を吐いた。「……傷ついたまま逃げるのか」顔を上げる。冷たい目がまっすぐこちらを見ていた。「俺のところへ来れば全部終わると思ってるなら、甘い」胸の奥が痛んだ。「そんなつもりじゃ……」「じゃあ、何のつもりだ」答えられなかった。私はただ、この場所から消えたかった。私が柚香に似ていたから、郁也が私と結婚したこと。私が家族を捨てたから、絶対に自分から離れないと思っていたこと。それを聞いた瞬間から、相馬家の壁も、廊下も、夫婦の寝室も、全部が別のものに見えていた。ここでまた何事もなかったように朝を迎える。郁也の妻として食卓に座る。柚香の隣にいる夫を見ながら、ひかりの薬を飲ませる。そんな明日を想像しただけで、息が詰まった。このままこの家にいたら、私はきっと壊れる。そして、私が壊れれば、ひかりまで守れなくなる。それだけは嫌だった。「……ひかりを連れて、ここを出たい」やっと言えた。彰人はしばらく私を見た。「お前が出るんだろ」逃げ道を塞ぐような言い方だった。「俺が連れ出したことにするな」私は唇を噛んだ。彰人はもう何も言わない。ただ、私が答えるのを待っている。私はバッグの持ち手を握り直した。「……分かった」自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。彰人は給湯室の扉を開け、廊下へ出た。私もその後に続く。数歩進んだところで、彰人が振り返った。「美晴」「何?」「その前に相馬と話すことがあるだろう」それだけ言うと、彰人は背を向けた。私はしばらくその背中を見ていたが、やがて2階へ向かった。……晩餐会を切り上げ、相馬邸を出た彰人は、迎えの車の後部座席に深く腰を沈
ひかりが退院した翌日、相馬家では晩餐会が開かれた。相馬グループの創立記念と新規事業発表の会だ。出席しないと伝えると、須美子が子ども部屋まで来た。「御影さんが来るのよ。あなたの元婚約者なんだから、少しくらい役に立ちなさい」「篠宮家と絶縁した私は、役に立たない嫁じゃなかったんですか?」須美子の顔がこわばる。「共同事業が決まれば、相馬家のためになるの。あなたからも取りなして」「私はひかりのそばにいます」「看護師をつけると言ってるでしょう。妻として挨拶くらいなさい」寝かけていた娘が目を開けた。私は須美子を促して廊下へ出て、扉を閉めた。彰人には、私からもお礼を言いたい。同じ家の中なら、すぐ戻れる。「挨拶をしたらすぐ戻ります」須美子の返事を待たず、部屋へ戻った。ひかりは絵本を抱えて、また目を閉じていた。病院から来た看護師に、何かあればすぐ携帯へ連絡してほしいと頼み、私は階下へ向かった。吹き抜けの大ホールには白い花が飾られ、グラスの触れ合う音が響いていた。取引先へ挨拶する郁也の隣に、白いドレスの柚香がいる。私が近づいても、郁也は場所を空けなかった。妻として来いと言われたのに、その隣に立つ余地もない。「ひかりちゃん、大丈夫?」柚香が笑顔を向けた。「今は寝てる」「よかった。私も心配してたの」返事をする前に、御影社長がお見えになりました、という声がした。須美子と郁也が玄関へ急ぐ。黒いスーツの彰人は、村瀬を伴って入ってきた。出迎える客たちの向こうでも、背の高い彼の姿はすぐに見つかった。須美子に呼ばれ、私も近づいた。彰人に軽く会釈すると、頭の上から声が落ちてきた。「俺に過去の非礼を詫びたいらしいな」「……何の話?私は、そんなこと言ってないわ」「そうか」彼の視線が須美子へ移った。須美子は笑みを崩さず、近くの客に会釈した。そのとき、すぐ横から、妙に明るい声がした。「美晴さん、今夜も売る物を探しにいらしたんですか?」近くで歓談していた客が、こちらを振り向く。麗奈はワイングラスを手に、にこにこと私を見ていた。耳元で、あの大きな真珠が揺れる。「ここなら、高く売れそうな物がたくさんありますものね」近くで小さな笑い声がした。須美子が客のひとりへ話しかけると、周囲の顔もそちらへ向いた。麗奈が私の前へ一歩寄った。客たち
目を開けると白い天井が見えた。腕には点滴がつながっている。娘のベッドも、枕元の絵本もない。ひかりは?慌てて身体を起こしかけたところで、窓際から声がした。「寝てろ。娘なら看護師がついてる」椅子に座っていた彰人が立ち上がった。「……どうしてここに」「あの通りのビルで打ち合わせがあった。出てきたら、お前がふらついてた」意識が途切れる前の低い声を思い出した。受け止めたのは、彼だったのだ。「ここは?」「病院の部屋を借りた。ひかりの病室は同じ階にある」それでも起きようとすると、彰人が私の顔を覗き込んだ。「まだふらつくんだろ」「でも、目を覚ましたら私を探すから」彼は私を枕へ戻すと、携帯を取り出した。「村瀬。ひかりが起きたら、こっちに連絡が来るようにしてくれ」電話を切り、私を見る。「これでいいだろ」「……うん」彰人は椅子へ戻りかけ、私の肘の下から点滴の管を引き出した。「引っ張るなよ」私は腕を引っ込めた。「あなた、仕事は?」「ある」時計に目を落とす彼を見て、布団の端を握った。心臓を探してほしいと頼んだうえに、こんなことまで。「もう帰って大丈夫。これ以上、迷惑は――」「なら、まず起き上がるのをやめろ」言い返せず、枕へ頭を戻した。ノックがして、看護師が入ってきた。「娘は、まだ寝ていますか?」「ええ、眠っていますよ。目を覚ましたらお知らせしますね」布団を握っていた手が緩んだ。「ありがとうございます」「お母さんも、少し休んでくださいね」看護師が病室から出ると、彰人はベッド脇のテーブルを引き寄せた。お粥とスープがのっている。「食え」「……これ、私に?」「ほかに誰がいる」私はゆっくり身体を起こし、お粥の蓋を開けた。ひと口すくって飲み込むと、急に空腹を感じた。私はもうひと口すくった。続けて口へ運ぶ私を見て、彰人は椅子に腰を下ろし、携帯へ目を落とした。そこへ短いノックがした。「入れ」扉が開き、秘書の村瀬(むらせ)が顔を出した。「社長、ひかり様の夜間看護の手配が済みました」私は顔を上げた。彰人は小さく頷き、村瀬は一礼して外へ出ていった。「あなたが頼んでくれたの?」「今夜も同じことを繰り返すつもりか」彰人が水のコップを差し出した。私は受け取り、テーブルへ置いた。ずっと娘から目を離してはいけな
翌朝、枕元の携帯が震えた。郁也からだった。昨夜、柚香から送られてきた写真が浮かんだ。私は眠っているひかりを見てから、電話に出た。「熱は?」「まだある。夜中も苦しくて、何度も起きたの」「眠れなかったのか」「明け方になって、やっと」ひかりの頬にかかった髪を、そっとよけた。「昨日も、パパはって聞いてたのよ」「そうか、後で病院に行くよ」私は携帯を耳に当て直した。「そう?ひかりが起きた時にあなたがいたら――」そのとき電話の向こうで、甲高い声がした。「お兄ちゃん、痛い……!」「どうした?」郁也の声が、私から離れた。「火傷?まず水で冷やせ。ごめん、電話切るぞ」「待って。ひかりは?」「聞こえただろ。柚香が火傷したんだ」通話が切れた。私は携帯を耳に当てたまま、しばらく言葉も出なかった。……昼過ぎ、今度は郁也の母、相馬須美子(そうま すみこ)が来た。いつも通りに整えられた服で、ベッドに近づくより先に、私の足元の荷物を見た。「まだ入院してるの?」第一声がそれだった。「熱が下がらなくて」須美子はテーブルの上の請求書を手に取った。「今月だけでいくらかかってると思ってるの」「今はお金より、ひかりの身体が――」「美晴さんが選んだ結婚でしょう。困った時だけ相馬家に頼るのは、都合がよすぎるんじゃない?」須美子は請求書をテーブルへ戻した。「美晴さんと郁也が結婚すれば、篠宮家とのつながりができるはずだったのに」私は顔を上げた。「駆け落ちなんてして絶縁されて。相馬家には何の利益もないわ」「……私と郁也の結婚を、そんなふうに考えてたんですか」「名家の結婚なんてそういうものでしょう」私はひかりへ向き直り、布団から出ていた肩を覆った。「自分の立場が分かってないようね」娘に触れたまま、振り返った。「分かってます。私は、この子の母親です」「なら自分で何とかしなさい」須美子はバッグを手に取り、病室を出ていった。扉が閉まってから、私はテーブルの請求書を手に取った。結婚してから、仕事を辞めた。俺の妻が働く必要なんてないと郁也に言われ、愛情だと思って従った。自分で出せるお金を考えても、夫の顔が浮かぶ。それが悔しかった。その日の午後、看護師に娘を頼み、短時間だけ病院を出た。買い取り店のガラスのカウンターに、篠宮家から持ってきた
「ママ……まだ帰ってこないの?」玄関で、靴にかけていた手を止めた。ひかりが呼んでいるのは私だと分かって、詰めていた息がほどける。「ひかりちゃん」柚香の声から、さっきまでの甘さが少し消えた。「私のこともママって呼んでくれたら、寂しくないでしょう?」「やだ」ひかりは即答した。「ママはママだけだもん」私は靴を脱ぎ、リビングへ急いだ。「ひかり。柚香はお前のことが大好きなんだぞ」入口の手前で郁也の声がして、足が鈍った。やめさせてくれると思っていた。娘が嫌だと言えば、それで終わるはずだった。「でもママじゃない」「たまに呼ぶくらいいいだろ」「やだ。ママが悲しいもん」ひかりにそんな心配までさせている。私が口を開きかけた時、郁也の携帯が鳴った。「仕事だ。書斎で話してくる」別の出入口から出たらしく、足音が階段のほうへ遠ざかった。しばらくして、柚香がため息をついた。「……本当に可愛くない」声が変わっていた。「柚香おばちゃん?」「おばちゃんじゃなくて、ママって呼んで」「いや」次の瞬間。「痛い……」ひかりの声。私はリビングへ踏み込んだ。「何してるの!」ソファの脇で、柚香がひかりの手首を握っていた。私を見ると手を放す。娘は身体をよじり、こちらへ駆け寄ってきた。「ママ!」しゃがんで抱き留めると、ひかりは首に腕を回した。その手首に赤い指の跡がある。私はそっと触れ、娘が顔をしかめるのを見て、すぐに手を離した。「柚香」「違うの、お義姉さん」「何が違うの?」「ひかりちゃんが転びそうになったから……」「転ばないように持った手に、こんな跡が残るの?」柚香が怯えたように後ずさった。ちょうどその時、郁也が戻ってきた。「何してる?」柚香の目に、すぐ涙が浮かんだ。「お兄ちゃん……」いつもの声。「私、ただひかりちゃんと仲良くしたかっただけなのに」私はひかりの手首を見せた。「これを見て」郁也は手首の跡を見て、一瞬黙った。「柚香がわざとそんなことするわけないだろ」「跡が残ってるのよ」「ひかりが嫌がって暴れたんじゃないのか?」耳を疑う。「あなた、本気で言ってる?」「柚香は仲良くしたいだけだろ。お前が嫌な顔をするから、ひかりまで嫌がるんだ」また私のせいにする。娘の手を見ても、まだ。「もういいよ、お兄ち
「何でもします。娘を助けてくれるなら」御影グループ本社の応接室。私、篠宮美晴(しのみや みはる)は、ローテーブルを挟んで、4年ぶりに会う御影彰人(みかげ あきと)と向き合っていた。窓を背にしたソファに座る彰人は、そう言った私をしばらく黙って見ていた。やがて、口元だけがわずかに歪んだ。「何でも、か」その声には笑いより、棘のほうが多かった。「口なら何とでも言える」胸の前で握っていたバッグの持ち手が、指に食い込む。彰人はソファに背を預けたまま、冷たい目で私を見た。「そこまで言うなら、自分で見せてみろ」「……何を?」「お前の覚悟だよ」覚悟。バッグの持ち手を握り直した。娘を救えるなら、自分に何が残らなくてもいい。ただ、ここまで来た理由だけは、最初からひとつしかなかった。娘の相馬ひかり(そうまひかり)は今、相馬家にいる。出かける前、体調が悪くて泣き続けていたひかりを、ようやく寝かしつけて、そっと額にキスをした。3歳の娘を置いて、こんな場所へ来るほかなかったことが悔しかった。4年前。私は家族が決めた彰人との婚約を破棄し、家族の反対を押し切って相馬郁也(そうま いくや)と駆け落ちした。その結果、篠宮家とも絶縁した。その私が今さら、かつて自分から捨てた男に頭を下げている。彼に断られたら、次に誰を訪ねればいいのかも分からなかった。数日前、病院の診察室で、海外にひかりと適合する可能性の高いドナー心臓が見つかったと聞いた。日本へ届くのは約1ヶ月後だという。机の下で、私は膝に置いた両手を握り合わせた。ひかりが助かる。病気のために諦めてきたことを、少しずつできるようになるかもしれない。でも、医師は続けた。同じ心臓を必要としているのは、郁也の養妹、相馬柚香(そうま ゆずか)だった。帰りの車でその名を口にした時、郁也は前を向いたまま言った。「今回は柚香に譲ろう」最初は意味が分からなかった。「……ひかりじゃなくて?」「ああ」「ひかりはあなたの娘なのよ」「分かってる」分かっている。そのうえで、柚香を選ぶ。「柚香はずっと心臓病と闘ってきた。次があるか分からない」「ひかりだって同じでしょう?」「俺たちはまだ若いだろ。また健康な子を産めばいい」私は、ハンドルを握る夫の横顔を見た。「……ひかりの代わりに?」「そういう







