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10話

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-09-17 12:53:24

 愛音は机の上に置いたファイルを開いた。紙の端が指先に触れる。少し黄ばんだ用紙には折り目が残っていたが、文字はまだ読みやすい。ファイルそのものも、長いあいだ棚の奥にしまわれていたせいか、表面に薄く埃がついていた。日記や時計と同じ場所に、同じだけの時間、置かれていたものだった。

  表紙を開く前に、愛音は指先で角を一度だけなぞった。日記の表紙は薄い布張りで、めくるたびに乾いた音を立てた。時計は金属の重みを持ち、文字盤に細かな傷があった。契約書はそのどちらとも違う、硬く冷たい紙の感触だけを指先に返してくる。

  最初のページをめくる。婚前契約書という文字が目に入った。その下に並ぶ日付を指でなぞり、愛音は一度手を止める。結婚する前、隆二はこの書類を見ていた。最後まで納得していなかったことだけは覚えている。何かを言われた気もする。けれど、その先は思い出さなかった。

  ページをめくるたびに紙が乾いた音を立てた。愛音は机の端に置いていた振込明細を引き寄せる。梨本恵実。五千万円。名前と数字を確認してから、明細を契約書の横へ並べた。

  該当する条項を探す。財産分与についての項目。その下には、婚姻関係が解消された場合の財産について細かく記されていた。さらにページをめくると、慰謝料請求権に関する条項がある。愛音はそこに貼られていた小さな付箋へ指を置いた。結婚する前、自分で貼ったものだった。当時は、こんな日が来るとは思っていなかった。それでも、念のためにと貼っておいた。

  明細へ視線を戻す。五千万円という数字が紙の上にある。契約書の文字と並べて見ても、どちらも動かなかった。

  愛音は明細を折り、ファイルの内側へ戻した。契約書も閉じる。表紙を手のひらで押さえたまま、しばらく動かなかった。

  部屋の時計が、また一つ音を刻んだ。窓の外を、誰かの車が通り過ぎていく気配がした。

  それから引き出しを開けた。中には古い通帳や印鑑ケースが並んでいる。その奥へファイルをしまおうとして、愛音は一度手を引いた。契約書の角が引き出しに触れ、乾いた音を立てる。結局、奥へ押し込むのではなく、すぐ取り出せる位置へ置いた。

  翌朝も、台所にはいつもの音がしていた。炊飯器の蓋を開ける音。味噌汁を椀によそう音。椅子を引く音。愛音はいつもと同じ順番で朝食を並べる。

「今日は少し早いから」

  廊下から航生の声がした。

「分かりました」

  愛音は皿を一枚追加した。航生が食卓につく。新聞を開く音が続いた。愛音は自分の椅子に座り、味噌汁へ箸をつける。

「結婚記念日だし、夜は外で食べようか」

「はい」

  航生はそれ以上何も言わなかった。スマートフォンを確認してから立ち上がる。ネクタイを直し、椅子の背に掛けていた上着を手に取った。

  玄関へ向かう途中、ポケットから何かが滑り落ちた。

  紙が床に触れる音がする。白い紙の端が、廊下の光を反射した。

「航生さん」

  愛音は拾い上げた。表側を見る前に、指先だけで紙の厚みを確かめる。振込明細だった。

  航生が振り返る。

「これ、落ちました」

「ああ」

  航生は手を差し出した。愛音はその手に明細を載せる。紙の角が指先から離れるまで、相手の顔を見たままにしていた。

  航生が明細を折りたたむ。その動作が止まった。

「......まだ持ってたのか」

  愛音は答えなかった。玄関には時計の秒針だけが響いている。

「愛音」

  航生が契約書のファイルを見た。

「これ、何?」

  愛音は自室から持ってきたファイルをテーブルの上へ置いた。航生が表紙を指先で持ち上げる。すぐには開かず、しばらく表紙を見つめたままでいた。ページをめくるにつれて、紙の擦れる音が重なった。

「こんなもの、まだ残してたんだな」

  口元だけが少し動く。

「結婚する前に決めたことでしょう」

「そうだけどさ」

  航生は椅子へ腰を下ろした。条項を眺めてから、明細へ目を向ける。視線が二枚の紙のあいだを何度か往復した。

「まさか、これを問題にするつもり?」

  愛音は返事をしない。

「たかが五千万だろ」

  その言葉のあと、部屋に音がなくなった。

  航生の声だけが、まだ耳の奥に残っていた。愛音はそれを聞き流すように、テーブルの木目へ視線を落とした。

  壁の時計が、また一つ音を刻んだ。窓の外を、車が一台通り過ぎていく気配がした。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、テーブルの端をわずかに照らしていた。

  航生は明細を机へ置いた。紙の上の数字を指先で軽く叩く。

「仕事の付き合いだってある。お前が口を出すことじゃない」

  愛音は契約書のページを開いた。該当する条項へ指を置く。紙は昨日と同じ感触だった。

  航生の視線が、その指先へ落ちる。

「そんな昔の紙を出してきて、何がしたいんだよ」

  愛音は条項から指を離した。ページの端を揃える。ずれた紙を一枚ずつ重ね直していく。

「航生さん」

「何?」

  愛音はいったん湯呑みへ手を伸ばした。指先に伝わる温度はもう冷めかけている。それを両手で包んでから、顔を上げた。

「私たち、離婚しましょう」

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