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9話

作者: 団紡るう
last update 公開日: 2026-09-17 07:00:43

 翌朝、愛音はいつも通りに洗濯機を回した。昨夜見た書斎の扉が、朝の廊下にも同じ位置にある。閉じたままのドアへ一度だけ目を向け、それから洗濯物を籠へ移した。

 朝食の準備をしていると、冷蔵庫の上に置いた布巾へ手が止まる。梨本恵実という名前が、ふと浮かんだ。

 愛音は布巾を水で濡らし、固く絞った。食卓を拭き、皿を並べる。名前を思い出すだけなら、それ以上のことは起きない。そうするように、いつもの手順へ戻った。

 航生が起きてくる頃には、味噌汁も焼いた魚も食卓に並んでいた。

「今日、帰り遅くなるかもしれない」

「分かった」

 航生はスマートフォンを見ながら椅子に座った。愛音は味噌汁を置き、向かいの席へ腰を下ろす。

 数日後、結婚記念日を迎えた。

 朝から特別なことは何もなかった。航生はいつもの時間に起き、シャワーを浴びてから書斎へ入る。愛音はその間に食器を片づけ、洗面所のタオルを替えた。

 玄関へ向かう足音が聞こえる。

「愛音。ネクタイどこだっけ」

「二段目の引き出し」

 航生が寝室へ戻ってくる。クローゼットの扉が開く音がして、ハンガーの擦れる音が続いた。

 愛音はキッチンでコーヒーを淹れていた。

 やがて航生がリビングへ戻ってくる。濃紺のスーツに袖を通し、鏡の前で襟元を整えていた。ソファの背にかけていたジャケットを手に取ったとき、胸ポケットから薄い紙が床へ落ちた。

 紙は一度だけ裏返り、フローリングの上を滑った。

 愛音はカップを置いた。

「落ちたよ」

 航生が振り返る。

「ん?」

「これ」

 愛音はしゃがみ、紙を拾った。指先に伝わる感触は薄いコピー用紙とは少し違っていた。銀行の明細だった。

 そのまま渡そうとして、視線が一行に止まる。

 振込先。

 梨本恵実。

 愛音の指が紙の端を押さえた。

 その下に金額がある。

 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。

 桁を追う。

 一、十、百、千。その先まで目を動かしてから、もう一度同じ数字を見た。

 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。

 紙の白さが一瞬だけ強く見えた。愛音は瞬きをして、明細の文字へ視線を戻す。

 振込先の名前も変わらない。

 梨本恵実。

 八話で見た紙に書かれていた名前と同じだった。

 愛音は明細を二つ折りにした。

「はい」

 航生へ差し出す。

「ありがとう」

 航生は何も考えずに受け取り、そのままジャケットの胸ポケットへ戻した。

 愛音はカップを持ち上げる。コーヒーはまだ温かかった。

 航生は玄関へ向かい、靴を履いた。

「今日は記念日だけど、遅くなると思う」

「分かった。気をつけて」

「じゃあ」

 ドアが閉まった。

 鍵の音が響いてから、愛音はしばらく玄関を見ていた。やがて食卓へ戻り、椅子を引く。

 目の前には、航生が飲み残したコーヒーがある。

 愛音はカップを片づけた。

 流し台へ運び、水を出す。

 蛇口から落ちる水を見ていると、別の日のことが浮かんだ。

 病院の廊下だった。

 隆二がICUに入った日、愛音は財布を握ったまま航生の前に立っていた。

「五十万円だけ、貸してほしいの」

 返ってきたのは、資金繰りが厳しいという言葉だった。

 あの日、愛音はそれ以上頼まなかった。

 財布の中身を確認した。通帳も見た。足りない数字を何度も計算した。それでも手術費には届かなかった。

 翌日、病院から匿名の寄付があったと告げられた。

 愛音は蛇口を閉めた。

 水滴が流し台へ落ちる。

 手を拭いてから、テーブルの上に置かれたスマートフォンを見る。通知はない。

 愛音は食器を棚へ戻した。

 そのとき、書斎で見た紙袋のロゴが目に浮かんだ。

 同じブランドの空箱。

 同じ日に発行された領収書。

 そこに残っていた名前。

 梨本恵実。

 愛音は手にしていた皿を棚へ入れた。

 扉を閉める。

 六話で見つけた日記には、帰宅時間が遅くなったことが書かれていた。スマートフォンを伏せるようになったことも、香水の匂いも、目が合わなくなったことも残っている。

 そして最後のページには、一行だけあった。

 『これ、浮気してるんじゃないの?』

 愛音は食器棚の前に立ったまま、動かなかった。

 やがて視線を下ろす。

 指先に残っていた水滴を布巾で拭う。

 日記をしまった場所は覚えている。

 書斎で見た名前も覚えている。

 今朝の明細に印字されていた名前も、金額も覚えていた。

 愛音は布巾を畳んだ。

 いつもの形に戻す。

 昼を過ぎても、愛音は普段と変わらない手順で家事を続けた。洗濯物を取り込み、乾いた服を畳む。昼食を済ませ、シンクを磨く。

 午後になってから、愛音は一度寝室へ入った。

 机の引き出しを開ける。

 そこには家計簿や保険の書類が並んでいた。その一番上に手を置き、しばらく眺める。けれど、何も取り出さずに引き出しを閉めた。

 廊下へ出る。

 書斎の前を通り過ぎるとき、足音がわずかに遅くなった。

 扉には触れない。

 そのままキッチンへ戻り、冷蔵庫を開けた。

 夕方になると、記念日のために用意していた料理を仕上げた。

 航生は予定通り遅くなるらしい。

 メッセージには短く返した。

「分かった」

 食卓には二人分の皿を並べた。

 料理を盛りつけ、箸を置く。キャンドルを用意するようなこともしなかった。いつもの食事と同じように、湯気の立つ料理を中央へ置く。

 時計を見る。

 航生から追加の連絡はない。

 愛音は椅子を引いた。

 一人で食事を始める。

 味噌汁を一口飲み、箸を置いて魚へ手を伸ばす。窓の外が暗くなっていくのを横目で確認しながら、いつもと同じ速度で食べた。

 食器を片づけたあと、愛音は寝室へ向かった。

 クローゼットの前で足を止める。

 扉を開ける。

 衣類の奥にある収納箱を取り出した。箱の蓋を開け、その下に重ねていた書類の束を一つずつ横へ移す。

 底に、薄いファイルがあった。

 愛音はそれを取り出した。

 三年前の日付が記された書類。

 婚前契約書。

 ファイルを机の上へ置く。

 椅子には座らない。

 愛音は表紙に指を置いた。

 紙ではなく、少し硬い布張りの感触が指の腹に残る。

 表紙の端には小さな傷があった。三年前、契約書を綴じたときについたものだった。

 愛音はその傷を親指でなぞる。

 ファイルの下には何も置いていない。机の上には時計とスマートフォンだけがある。窓の外では車が一台通り過ぎ、その音が遠ざかっていく。

 愛音はファイルを開かなかった。

 ただ、表紙に置いた指を離さない。

 そのまま静かに立っていた。天井を見上げて軽く息を吐いた。

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