きっと私は女優を辞める選択すらできない。
弱い女。*
「ありがとう、侑ちゃん。今日は美味しいものをいっぱい食べていいからね。」待ち合わせたビルの地下駐車場で是枝は周りに人がいないのを確認し、上機嫌に私を車の中に押し込んだ。
今日はあのドラマの撮影が行われていた。
撮影に用がない私は、番組スタッフや綿貫昴生に会わない事を願いながら、隠れるように待機していた。
是枝が約束の時間に現れるまで。この男と食事して、最後は体を売るのだ。
そう思うと今から気が滅入る。
誰かに密会現場を見られるんじゃないかと心配していた割に、駐車場で誰かと鉢合わせする事もなかった。
やがて是枝が運転する車が夜の街を走り出した。「今日ね人気店のディナーを予約しといたからね…かなり有名なシェフが……」
ハンドルを握りながら、是枝が得意気に話し始める。
話半分で相槌を打ち、私はまた無意識にスマホを開いていた。
鳥飼さんが、エゴサーチなんてやるもんじゃないって、あんなに言っていたのに。今の時代、見たくないものを嫌でも見る時代だから、自分で嫌なものを見ないように避けるしかないって。
確かにSNSなどで叩かれた女優や俳優が、自ら命を絶ってしまう。
まさにそんな時代だ。〈常磐侑、演技下手くそ〉
〈共演者と喋らないとか何様?〉
〈今だに自分が売れてると思ってる〉
〈良かったのはデビュー当時の、朝ドラの時だけ〉
〈嫌いな女優No.1〉
〈死ねばいいのに〉
見たくないものを見る。
知りたくない現実を見る。
自分が人から疎まれてるという事実は、どうしたって消えない。
「はあ、っ、はあっ……」
「侑ちゃん?どうしたの、急に?」
「……苦しい」
「え?大丈夫?え?」
エゴサーチなんてやるもんじゃない。
やっぱり見たくないものを見た。
分かってる。見たくないものは見るべきじゃないって。
アンチはどこにでもいるもんだって。
誰にでもいるんだって。
死ねばいいのに………そうだね。
もう明日からの仕事もなくて、ヌードも嫌で、好きな人にフラれて、これから好きでもない男に抱かれて、そんなしょうもない女で、これ以上何もないのなら、私は確かに死んだ方がいい。
今の私に生きてる価値なんてどこにあるの?3⃞食⃞昼⃞寝⃞付⃞き⃞の⃞生⃞活⃞な⃞ん⃞て⃞、⃞し⃞た⃞事⃞な⃞い⃞。⃞ 彼の家に拘束されてから3日目。 具体的に何をしたらいいのか、さっぱり分からないまま。 ダラダラもゴロゴロも…そもそも最近は眠ることさえ苦痛で仕方なかったのに。 *** 昼過ぎには彼はドラマの撮影の為、出掛けて行った。 残された私はというと———— 薬を飲んで寝た後で目が覚めて、まずトイレに行った。 部屋の中は暖房がついていて快適だった。 もう眠る気にならなくて、ダイニングルームにあるふかふかとした高そうなソファに腰掛けた。 なぜかスマホは没収されてる。帰ったら渡すと言われた。 しかも事務所と鳥飼さんにはすでにピロリ菌と胃潰瘍治療のため、当面仕事しないと連絡済みだった。 ネットが開けない。そう考えるとクセになっていたエゴサをする必要がなくなった。 だってしたくてもできないんだから。 静かだった。立派な高層マンション。 階層はかなり上階だったと思う。 夕方近くに窓辺に立てば、綺麗な海が見渡せる。 いつもの煩い喧騒もない。 誰かの声も聞こえない。 大きなテレビはあるけど、勝手につけていいかは分からないから触らない。 私は一体ここで何をやってるんだろう。 謎だ。 「好きな事して過ごして下さいね。 俺の部屋にさえ行かなければ、どの部屋に行っても、何をしてもいいです。 冷蔵庫の中には適当な食材や飲み物が入ってるので、好きに食べたりして下さい。 夕飯には家事代行サービスでご飯を作りに人が来ます。 シャワーもお風呂も好きなように使って下さい。 少し遅くなりますが仕事が終わって俺が帰ったら、侑さんのマンションに一緒に荷物を取りに行きましょうね。」 私の好きな事っ
3食昼寝付きで家事もせずにひたすらダラダラ。 家賃、生活費の心配はない。 欲しいものがあれば買ってもらえる。 どこの世界に、そんな夢みたいな話があるって言うんだろう? 今まで私を欲しがる人には、必ず見返りがあった。 例えば有名女優と交際してるというステータス。知名度。有名になりたいという野心。 有名人を紹介して欲しいという願望。 利用して這い上がりたいという欲望。 そして…昨夜の是枝のように単純に身体を欲しがる事もそう。 「————見返りは何?」 見返りがなければ人は、誰かを助けようなんて思わないはずだ。 「見返りですか?言ったじゃないですか。 侑さんの人生ですよ。」 「その中には体も———————」 「セックスですか?勿論込みです。 侑さんの全てが欲しいんで。」 「隠さないんだね。」 「隠したって得しませんからね。」 目の前で昴生が躊躇なく笑う。 最終目的がそれなら……じゃあなんで、昨夜抱かなかったの? 具合が悪くても、病気でも抱こうと思えばいくらでもできたはずだ。 なのにこうされたら。まるで昴生に、私が大事にされているみたいな気になってしまう。 人に優しくされるの事にはあまり慣れてないのに。 「でもね、侑さん。体が欲しいのは本当だけど俺は——— あなたの心もセットがいいんです。 それに侑さん……まだ元彼の事忘れてないんでしょ?」 どうしてあなたが、聖の事を………? ————何もかもお見通しって?
だけどあの瞬間に死を望んだ自分も、大概おかしくなってるとは思う。 「飼うって…具体的には何するの?」 この前言ってた一緒にご飯食べたり、映画観に行ったりっていうニュアンスとはまた違う気がする。 女性を飼う…つまり飼育とは自分好みに仕立て上げたり調教したりするという意味だろう。 どちからというと、後ろめたい意味で使われるような。 ごくりと喉を鳴らして、昴生を見つめた。 「そうですね。まずは病気を治しましょう。 ピロリをやっつけましょう。 俺といる時は、ただひたすらにダラダラしましょう。 いない時もダラダラしてください。 朝昼晩俺が手料理を作ってあげます。 できない時はデリバリーを頼みます。 掃除も洗濯も俺がします。 できない時は家事代行サービスに来てもらいます。 だから侑さんはこの家で自由に暮らしてみて下さい。」 ……………………え? 「できないと言ってもやるんです。 侑さんは次の仕事が決まるまで、ただダラダラと過ごすのが仕事です。 好きなものいっぱい食べて、ガリガリな侑さんじゃなくて、3食昼寝付きでゴロゴロして、太ってしまえばいいんですよ。」 「え……え? そんな事出来るわけないし、それに私には自分のマンションが。」 「ああ。あそこは今朝早く不動産に電話を入れておきました。 半年分の家賃を入金しておいたので、家賃の心配はしなくて大丈夫ですよ。 必要なら一緒に荷物を取りに行きます。」 「半年分って結構な額だよ…?どうしてそんな……それにあそこには熱帯魚が」 「ここに運んでくればいい。侑さんと一緒に俺が面倒を見ますので。」 「どうして……そこま
翌朝、彼は私が独占していたせいで自分のベッドでは寝てなくて、来客用の布団で寝ていた。 が……同じ部屋だった。 「ごめん…私がベッドを使ってたから。 起こせば良かったのに。 それに、これだけ大きいベッドなんだから…隣に寝ればよかったのに。」 「何言ってるの。侑さん。 同じベッドに寝たりしたら、俺が我慢できなくなっちゃうでしょ? それとも襲って欲しかったんですか?」 昴生はなんだか意地悪そうに笑う。口調がドSっぽい。 ええ……?私と彼の間に、そんな男女の関係が生まれるだろうか。 だけど思い返せば確かに彼はセッ…… 妙なことを思い出して私は口籠る。 それからまた慌ただしく病院に連れてかれて、やっと胃の不調の原因を突き止められた。 ちなみに昴生は帽子にサングラスにマスクという鉄壁の変装をしていた。逆に近寄りがたい感じに。 それで…また帰ってきたのはやっぱり彼のマンションで。 「侑さん。遅くなったけどお昼にしましょう。 薬も飲まなきゃだし、少しは胃に何か入れてくださいね。 人間、健康でいるにはまず食事からです。」 昴生はなんだか、言う事もやる事もすごくしっかりしてた。 何もかもに戸惑っている私に対して、爽やかに笑いながら規則正しい生活を促した。 なぜか2人分ある新品の歯ブラシにコップ。 恋人とかのではないだろうか。申し訳なく思いながら使わせて貰った。 久しぶりに誰かと過ごす時間。 誰かと食事をする瞬間。しかも昴生が作った料理を。 消化に良さそうな柔らかいロールパンに、スクランブルエッグ、ヨーグルトなどが用意されていた。 潰瘍の胃にはありがたい食事。 「昨夜はありがとう………その、急に電話してごめんね。」 「本当に悪いと思ってるなら、大人しくうちで面倒見られて下さいよ。」 ロールパンを口に運びながら、私を見てまた無邪気に笑う。 「え……?何?」 「俺言いましたよね。侑さんが死にたくなったら、侑さんの残りの人生を下さいって。 あの時がそうだったんでしょ? ならもう覚悟はできたはず。 侑さん。俺がこの先の侑さんの一切の面倒を見ます。 だから俺に飼われて下さいね……?」 目の前で腕を組み、恍惚とした表情で私を見つめる彼。 ちょっとこの後輩は。この前から随分とおかしいかも知れない。
侑⃞さ⃞ん⃞は⃞大⃞人⃞し⃞く⃞、⃞俺⃞に⃞飼⃞わ⃞れ⃞て⃞下⃞さ⃞い⃞ね⃞。⃞ あのホテル街で昴生に会った後————— 不思議な事に体の震えが止まった。 寒さより。悴んだ手より。 夜の闇に白い息が浮かぶ。 全神経が目の前の彼に持ってかれてく。 そんな私に昴生は怒ったかのように近付いてきて、肩に手を回した。 キスを………… されるのかと思うくらいの至近距離。 照明に照らされた綺麗な瞳が、光を受けてキラキラと輝いていた。 こんな夜の闇にまで、美しい姿を見せなくたっていいのに。 「侑さん。具合が悪いんですね? まずは————病院に行きましょう。 話はそれからです。」 なんでかな?私の方が年上なのに。 彼の前で私は体調管理が下手くそな、手の掛かる年下みたいだった。 「胃潰瘍《いかいよう》だったんですね。 しかも侑さん…胃の中にピロリ菌なんか飼ってるんですもん。 良かったですね。ちゃんとした原因が分かって治療もできて。」 「……そうだね。驚いた。まさか私も自分がピロリ菌を飼ってるとは。」 昨夜とは違ってなぜか嬉しそうに声を弾ませている昴生に、薬を飲んだ後またベッドに横になるようにと言われた。 「侑さん。言っときますね。 もうピロリ菌は飼わなくていいんで、侑さんは大人しく、俺に飼われて下さいね。」 「ええ………?」 ベッドの脇に座り、満面の笑みを浮かべる彼。 全然落ち着かない——— だってここは彼の住むマンションで、ここは彼のベッ
彼の手を振り解くようにして、私はまた台本に目線を移した。 「…それだけの気持ちを知ってるなら大丈夫だよ。 演技が始まったら、今の気持ちを思い出したらいいと思うよ。 好きな人に会えた瞬間にドキドキしたり、抱きしめたくなったりするその気持ちを。 その瞬間にセリフは自然と出ると思う。 ……そして春希は冬美と目が合った次の瞬間に、気持ちの全てを否定される。 自分に気づいてくれない片想いの相手に…… その時に湧く春希の感情は、どんなものだと思う?」 「———辛くて…悲しい。 やるせない。」 「うん。そう。そうだよ。春希は絶望する。 長い事想っていた相手に裏切られた気持ちになる。 悲しい、何で?辛い。気付いて欲しい。 きっと春希は訴えかけるように彼女を見つめてると思う。 その姿が見えなくなるまで。」 髪をかき上げながら私が笑うと、昴生もつられたように静かに笑った。 今言った春希の気持ちを再現したかのように。 躊躇いがちな笑顔だった。 「大丈夫————綿貫くんの演技は私が保証するよ。」 「うん………ありがとう、侑さん。」 考えてみれば、いつの間にか〈常磐さん〉から〈侑さん〉と呼ばれていたのも驚いたけれど。 それが正しいアドバイスかどうかは正直私には分からなかった。 けれどそこには確かに昴生の気が晴れたような笑顔があった。 これまで昴生は、映画にエキストラのような端役でしか出た事がなった。 だからこの春希役は、例えわずかな登場でも昴生にはけっこう重要だったと思う。 だけど彼にスポットライトが当たる事は殆どなくて、しばらくは芽が出なかった。 俳優はただ顔が良ければ、演技ができればいいというものでもない。 やはり仕事の内容と運も必要になってくる。 あの時はまだ彼にはチャンスがなかった。 それに、たまに同じ事務所の俳優陣達に陰口を叩かれてるのを聞いた事がある。 「あいつのいいとこって、顔だけじゃん。」 「ああ、綿貫?」 「確かに。こないだの映画だってさ———」 「どうせ顔で選ばれたんだろ」 「—————そんな訳ないと思うけど。」 同じ事務所の俳優同士でこんな陰口は気分が悪い。 気づけば私はその数人の背後に立っていた。 「…常磐さん……