INICIAR SESIÓN9月21日、午前9時10分。
連休の朝。
私は和菓子作り体験の教室で、白い餡を前に固まっていた。
今日作るのは、秋の菊をかたどった練り切り。
先生の見本は、薄い黄色と白が重なって、花びらがきれいに開いている。
私のは。
「……じゃがいも?」
思わず呟く。
向かいに座る先生が、眼鏡の奥で笑った。
70代くらい。
小柄で、髪はきれいな銀色。
着物ではなく、白いシャツに濃紺のエプロン。
「じゃがいもに失礼よ」
「そこ?」
「じゃがいものほうが形きれいだもの」
朝から厳しい。
参加者は私を含めて3人。
隣の女性も肩を震わせている。
「先生、花びらってどうやったらそんなに均等になるんですか?」
私が聞くと、
「均等にしようとするから変になるの」
「どういうこと?」
「花だって全部同じじゃないでしょ」
先生は自分の見本を持ち上げた。
近くで見る。
「あ」
1枚だけ、花びらが妙に短い。
「これ、失敗?」
「そう」
即答。
「見本なのに?」
「見本だからって失敗しちゃいけないの?」
なんとなく言葉に詰まる。
先生は平然と、短い花びらを指で少し広げた。
「朝から完璧なの作ったら疲れるでしょ」
隣の女性が吹き出した。
「先生、それ教室で言っていいんですか」
「いいの。食べたら一緒」
確かに。
私はもう一度、自分のじゃがいもを見る。
いや、菊。
たぶん菊。
先生が隣に来た。
「貸して」
私の練り切りを手に取る。
「ここだけ少し押して」
「ここ?」
「そう。全部直そうとしない」
「でも右側が変」
「右側は右側の人生があるの」
急に壮大。
また笑う。
先生の言う通り、1か所だけ整えた。
すると、不思議と全体も少しましに見えた。
「ほんとだ」
「でしょう」
「先生、すごい」
「70年以上生きてるからね」
さらっと言う。
「70年以上生きると和菓子うまくなる?」
「ならない。私は30年やってるから」
普通に現実的だった。
完成した練り切りを、小さな黒い皿に置く。
先生の見本と並べる。
全然違う。
でも、さっきよりはちゃんと花に見える。
「写真撮る?」
先生が聞く。
「撮ります」
スマホを出す。
先生が自分の見本を横へ置いた。
「比べたら私の下手に見える」
「大丈夫。先生のほうが100倍きれい」
「じゃあ端っこにしといて」
意外と気にするんだ。
写真を撮ったあと、お抹茶と一緒に食べる。
自分で作った菊を半分に割る。
少しもったいない。
でも一口。
甘い。
おいしい。
形なんて、もうどうでもいい。
隣の女性が自分の作品を見せる。
彼女のは菊というより、少し牡丹に近い。
「かわいい」
私が言う。
「ほんと?」
「うん」
先生が横から言う。
「ほら、人のは素直に褒められるのに、自分のだけ厳しい」
2人とも黙る。
図星。
先生はお茶を一口飲んだ。
「休みの日くらい、自分にもそのくらい甘くしなさい」
その言い方が軽くてよかった。
説教じゃない。
ただ、お茶のついでに言った感じ。
帰る前。
先生が私たちの皿をもう1度並べた。
「写真、もう1枚撮る?」
「さっき撮ったよ」
「今のほうが、食べたあとの顔がいいから」
先生に言われ、隣の女性と顔を見合わせる。
たしかに、最初より肩の力が抜けていた。
「先生も入ります?」
「私はいい」
「なんで?」
「朝から若い人の写真に割り込むほど厚かましくないの」
「さっきから十分厚かましいです」
そう言うと、先生が一番大きな声で笑った。
結局3人で1枚だけ撮った。
それから先生が余った餡を小さく丸めて、私たちに1つずつくれた。
「おまけ」
「何の形?」
「丸」
「今日は簡単」
「丸が一番強いのよ」
よく分からないけれど、ありがたくもらった。
外へ出る。
連休の朝。
バッグの中には、自分で撮った少し歪んだ菊の写真。
完璧じゃない。
でも、見返すとちょっと笑える。
それくらいの出来で、今日はちょうどいい。
****
連休の朝くらい、自分の出来に点数つけなくていいよ。
今日は少しくらい甘めでいこう。ゆっくり楽しんでね。午前8時40分。日曜の朝。私は港の朝市にいた。魚を買う予定はない。料理をする予定も、今のところない。ただ、朝早く目が覚めた。せっかくの日曜。二度寝に失敗したなら、いっそ外へ出よう。それだけ。市場は思ったより賑やかだった。干物。海苔。野菜。卵焼き。焼き魚の匂い。朝から全部おいしそう。私は小さな屋台の前で止まった。炭火で焼かれているのは、さば。皮がぱりぱり。脂が落ちるたび、煙が上がる。「食べる?」声をかけてきたのは、60代くらいの女性。頭に紺色の手ぬぐい。エプロン。「朝からさば?」「朝だからさば」最近、この言い方に弱い。「1つください」「ご飯いる?」「あります?」「あるよ」「じゃあ少し」「味噌汁は?」「それも」気づけば完全な朝定食。店の横に小さなテーブルがある。座る。目の前に海。いい。女性が焼きたてのさばを皿に乗せる。「熱いからね」「はい」ご飯。味噌汁。大根おろし。豪華。箸でさばをほぐす。湯気。一口。「おいしい」思わず声が出る。女性が遠くから、「でしょう」と返す。聞こえていた。隣のテーブルには、70代くらいの男性が1人。新聞を読みながら同じ定食。「ここのさばはうまいよ」突然言う。「常連さん?」「毎週」女性がすぐ言う。「毎週じゃない。月2回」「同じようなもんだ」「全然違う」夫婦ではないらしい。でも会話は夫婦みたい。「知り合い?」私が聞くと、女性が言う。「魚買いに来る人」男性は、「40年くらい」と補足。長い。「それもう友達では?」「違う」2人同時。息ぴったり。私は笑う。味噌汁を飲む。わかめ。豆腐。少し濃い。海の近くで飲むと、なんとなく正しい味がする。女性が別の客に魚を渡す。「焼きたてあと2枚!」声がよく通る。男性が新聞を畳む。「若い人、朝から来るの珍しいね」「眠れなかったので」「じゃあ得したね」「何が?」「焼きたて食えた」単純。でも本当だ。二度寝できなかった朝が、急に得した感じになる。「日曜は寝たいじゃないですか」「寝たけりゃ昼寝すればいい」また単純。「昼寝すると夜眠れない」「そのとき考えればいい」この市場、みんな先のことを考えない。羨ましい。さばを半分くらい食べたとこ
午前9時10分。土曜の朝。海沿いの小さな灯台へ来た。観光地というほど大きくない。でも、週末だけ朝から中へ入れるらしい。入口でチケットを買う。「上まで147段です」係の人に言われる。147。聞いただけで少し後悔した。「エレベーターは?」「ありません」笑顔。逃げ道なし。仕方なく階段へ。細い。らせん状。最初の30段までは平気だった。50段。少し息が上がる。80段。「誰が灯台行こうって言ったの」自分。100段。後ろから足音。少し速い。私は壁際へ寄った。「先どうぞ」声をかける。上がってきたのは30代前半くらいの男性。薄いグレーのパーカー。首から小さなカメラ。「大丈夫です。僕も休憩したかったので」隣で止まる。息が少し上がっている。「余裕そうに見えた」「見栄です」正直。2人で狭い踊り場に立つ。小さな窓。外に海。「あと何段?」私が聞く。彼が壁の数字を見る。「43」「数えるんだ」「終わり見えたほうが楽なので」「私は聞いて余計疲れた」彼が笑う。「じゃああと10段ってことにします?」「それは嘘」「難しい」少し休んで、また上る。なぜか並ぶ形になる。階段が狭いので、前後。最初は彼が前。「ペース速かったら言ってください」「今は大丈夫」20段。彼が少し振り返る。
午前7時20分。金曜の朝。私は高速バスの待合室で、紙コップのコーヒーを飲んでいた。今日は少し遠くまで出かける。旅行というほどではない。午前中だけ用事を済ませて、夕方には戻る予定。バスの出発まであと15分。私はコーヒーにミルクを2つ入れた。その瞬間。「まだ2個なんだ」聞き覚えのある声。顔を上げる。30代前半くらいの男性。カーキ色のコート。黒いリュック。一瞬、誰か分からない。でも彼が笑った。「忘れた?」「あ……直樹?」大学時代、同じカフェでバイトしていた人。1学年上。シフトがよく重なった。閉店作業も何度も一緒にした。卒業してからは、2回くらい大人数で会っただけ。それももう何年も前。「久しぶり」「何でここにいるの?」「バス乗るから」「それは見れば分かる」昔と同じ返し。思わず笑う。彼が私の紙コップを見る。「ミルク2個」「何で覚えてるの?」「賄いのコーヒー、毎回それだった」「そんなこと覚えてる?」「君、砂糖入れないくせにミルクだけ2個だったから」「変?」「ちょっと」失礼。「そっちはブラックだったよね」「今も」彼が持っているカップを見せる。本当にブラック。「変わらないね」「そっちも」朝から10年前に戻ったみたい。待合室には何人かいる。アナウンス。スーツケースの音。でも私たちは少し端へ寄り、立ったまま話した。「どこ行くの?」聞く。
午前7時50分。駅前の小さなスパイス専門店に入った。理由は、店先に並んだ瓶がきれいだったから。赤。黄色。茶色。緑。朝からカレーを作る気はない。でも、見ているだけで少し楽しい。「何か探してます?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性店員。白いシャツ。黒いエプロン。腕まくり。手元には小さな木のスプーン。「見てるだけです」「一番難しいお客さんですね」「買わないかもしれないから?」「何を勧めればいいか分からないから」正直。「じゃあ朝に合う香り」私が言う。「スパイスで?」「うん」彼は少し考えて、3つの瓶を出した。カルダモン。シナモン。クローブ。「朝ならこの辺」「コーヒーみたい」「コーヒーにも使えます」最初はカルダモン。彼が小さなさやを1つ割る。ふわっと香る。「近くで嗅いでみて」言われて顔を寄せる。爽やか。少し柑橘みたい。「思ったより軽い」「でしょう」彼も同じ瓶へ顔を寄せる。一瞬、距離が近い。同じ香りを同時に嗅いでいるだけ。でも、朝の小さな店で顔が近づくと、少し意識する。「これ好き」「顔に出てます」最近よく言われる。次はシナモン。「これは分かる」「じゃあ説明なし」「雑」「知ってる香りを僕が説明しても」彼が笑う。3つ目。クローブ。強い。「これはちょっと苦手」「じゃあやめましょう」
午前7時55分。図書館の返却ポストの前で、私は1冊の本を持ったまま立っていた。返却期限は今日。返せばいい。それだけなのに、少し惜しい。短いエッセイ集。全部読んだ。気に入ったページには付箋まで貼った。もちろん、付箋は全部外した。借りた本だから。「返さないんですか?」後ろから声がした。振り向く。60代くらいの女性。布のトートバッグに本が3冊。「返します」「今、かなり迷ってた」「気に入って」「じゃあまた借りればいいじゃない」簡単に言われる。「でも、次いつ借りられるか」「予約すれば?」「そこまででもない気もして」自分でも面倒だと思う。女性が笑う。「好きなのに、そこまででもないの?」「買うほどではないけど、返すとちょっと寂しい」「分かる」意外と分かってくれた。彼女もポストへ1冊ずつ入れる。すとん。すとん。最後の1冊だけ止まる。「あれ?」今度は私が見る。「そちらも?」「これは途中までしか読んでないの」「延長すれば?」「予約入ってるみたい」「じゃあ返さないと」「分かってる」お互い様だった。2人で本を持ったまま立つ。朝から何をしているんだろう。図書館はまだ開館前。返却ポストだけ使える。女性が本の表紙を撫でる。「昔はね、読み終わらないと返すの悔しかったの」「今は?」「途中でも返す」「もったいなくない?」「読みたいところまで読んだなら、それでいい本もあるよ」少し驚
午前7時35分。駅前のジューススタンドで、私はバナナジュースを待っていた。火曜の朝。特別な理由はない。家を出るのが少し早かっただけ。カウンターの向こうでミキサーが回る。その音をぼんやり聞いていたら、隣から声がした。「まだそれ飲むんだ」振り向く。一瞬、誰か分からなかった。白いシャツ。ネイビーのジャケット。大学時代より髪は短い。でも、笑ったときに片方の口角だけ少し上がる。「あ……健太?」同じゼミだった男。大学4年の1年間、よく一緒にいた。恋人ではない。でも、飲み会の帰りに2人になることは多かった。卒業してからは、最初の数年だけ年賀メッセージ。そのあと自然に途切れた。「久しぶり」「何年?」「10年くらい?」「そんなに?」「たぶん」朝から急に時間が巻き戻る。店員さんが聞く。「ご注文は?」彼がメニューを見る。「バナナで」私は彼を見る。「そっちもまだそれ?」「昔、君が毎回飲んでたから思い出した」「真似?」「今日は」その言い方が少し懐かしい。大学の近くにも小さなジュース店があった。私はいつもバナナ。彼はオレンジ。「昔はオレンジだったでしょ」「覚えてるんだ」「そっちこそ」2人とも少し笑う。私のジュースが先に出る。冷たいカップ。ストローを差す。彼が横から見る。「朝から冷たいの平気になった?」止まる。「何でそれ覚えてるの?」「冬、毎回『寒い』って言いな







