LOGIN朝7時41分。
私は知らない男のシャツを抱いていた。
白いシャツ。
大きめ。
まだ少し温かい。
そして、困ったことに、いい匂いがした。
「……誰の?」
朝のコインランドリー。
乾燥機から洗濯物を取り出していたら、私の黒いニットと一緒に出てきた。
当然、私のではない。
一人暮らし歴8年。
部屋に男物のシャツが紛れ込むような華やかな生活は、一度も送っていない。
私はシャツを広げた。
きれいに洗われている。
襟元も袖口も傷んでいない。
柔軟剤の香りだろうか。
清潔で、少しだけ甘い。
……こういう匂いの男なら悪くない。
朝から何を考えているんだ。
私はシャツを畳もうとした。
そのとき。
「あ、それ僕のです」
後ろから声がした。
振り返る。
黒いパーカーにスウェットパンツ。
片手に缶コーヒー。
髪は完全に寝起き。
しかも右側だけ妙に跳ねている。
さっきシャツから想像した「清潔感あふれる大人の男」とは、かなり違った。
「これ?」
「はい」
彼が笑う。
「すみません。隣の乾燥機に入れたつもりだったんですけど」
「1枚だけこっちに?」
「たぶん」
私はシャツを渡した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
彼が受け取る。
そのまま着るのかと思ったら、しばらくシャツを見る。
「……なんか、すごい丁寧に畳まれてますね」
「途中までね」
「僕、自分でやるとこうならない」
「どうなるの?」
彼がシャツを適当に丸める仕草をした。
「こう」
「最低」
「着れば伸びます」
「そういう問題?」
彼が笑った。
30歳前後だろうか。
顔立ちは整っているのに、寝癖のせいで全然格好がついていない。
でも、それが妙に親しみやすかった。
私は自分の洗濯物をバッグに入れ始めた。
「朝から洗濯するんですね」
彼が言う。
「夜、洗濯機回したら寝落ちして」
「ああ」
「朝起きたら、洗濯機の中で全部冷たくなってた」
「分かります」
「分かるんだ」
「僕は昨日、洗濯機回そうとして洗剤入れたところで寝ました」
「そこまでいったら回しなよ」
「ベッドが呼んでたので」
馬鹿だ。
でも少し笑った。
彼は隣の椅子に座って、シャツを膝の上に置いた。
「それ、仕事用?」
何気なく聞く。
「いや」
「じゃあ何用?」
「デート用」
私は手を止めた。
なぜか。
本当に、なぜか。
ほんの少しだけ面白くなかった。
「へえ」
我ながら、感じの悪い返事だった。
彼は気づかない。
「今日着ようと思って」
「朝から?」
「昼です」
「じゃあ急いでアイロンかけた方がいいんじゃない?」
「アイロン持ってないです」
「え?」
「だから乾燥機で皺伸ばそうかなって」
私は彼のシャツを見る。
襟はきれい。
でも裾は少し皺が残っている。
「そのまま行くの?」
「まずい?」
「相手による」
「結構ちゃんとした人です」
「じゃあまずい」
彼が真顔になった。
「どうしよう」
知らない男のデートの心配をしている。
なんだこれは。
「クリーニング屋は?」
「今日、朝早くて」
「ホテルじゃあるまいし、すぐには無理でしょ」
「ですよね」
彼がシャツを持ち上げて眺める。
その姿が妙に情けない。
そして私は、いらない親切心を出した。
「アイロン、貸そうか?」
彼がこちらを見る。
「持ってるんですか?」
「普通あるでしょ」
「家に?」
「家以外どこに置くのよ」
「ああ」
1秒。
2秒。
私も気づいた。
彼も気づいた。
「……いや」
私は即座に言った。
「今のなし」
「ですよね」
「知らない男を朝から部屋に入れる女じゃないので」
「安心しました」
「なんであなたが安心するの」
「僕も、知らない女性の部屋にホイホイ行く男だと思われたくないので」
なるほど。
少しまともだった。
「じゃあコインランドリーのアイロン台」
「あるんですか?」
奥を見る。
壁際に貸し出し用のアイロンが置いてある。
「ある」
「神」
「私じゃないよ」
「でも見つけてくれた」
「500円」
「取るんですか?」
「朝から知らない男のデート準備を手伝うんだから」
彼が笑った。
「じゃあコーヒーで」
「それならまあ」
彼が自販機でもう1本買ってくれた。
私は受け取る。
温かい。
その間、彼はアイロン台の前でシャツを広げた。
「これ、どうやるんです?」
「本気?」
「本気」
私はため息をついた。
「貸して」
彼からアイロンを取る。
「袖から」
シャツを広げる。
温かい蒸気が上がる。
彼が隣に立つ。
近い。
さっきまでは寝癖の男だったのに、近くに立つと意外と大きい。
肩が広い。
パーカーの首元から、少しだけ鎖骨が見える。
そして。
あのシャツの匂いと同じ香りがした。
柔軟剤だけじゃなかったんだ。
この人の匂いも混じっている。
私はアイロンを動かしながら、妙なことを想像した。
このシャツを着た姿。
ボタンを上まで留めて、きちんとした格好をした彼。
それから。
デートが終わった夜。
誰かの部屋で、このボタンを1つずつ外す姿。
白いシャツの下。
今パーカーで隠れている胸。
肩。
腰。
――待って。
私は手を止めた。
朝7時50分。
コインランドリーで何を想像しているんだ。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「止まってます」
「考え事」
「アイロンしながら?」
「集中してるの」
危ない。
危うく同じところを焦がすところだった。
「じゃあ僕やります」
彼が後ろから手を伸ばした。
アイロンの持ち手に、彼の手が重なる。
「ここ持つんですよね?」
「ちょっと」
近い。
背中のすぐ後ろに身体がある。
肩の横から彼の顔が覗く。
耳の近くに声。
「こう?」
「……そう」
さっきまで笑っていたのに、急に声が近すぎる。
彼の胸が、背中に触れそうで触れない。
あと数センチ。
もし私が少し後ろに下がったら。
そのまま背中を預けたら。
この腕が、アイロンじゃなくて私の腰に回ったら。
朝から想像力が仕事をしすぎている。
私は慌てて1歩横にずれた。
「自分でやって」
「急に冷たい」
「覚えたでしょ」
彼がアイロンを動かす。
意外と器用だ。
「そういえば」
私が言う。
「デート、何時?」
「11時」
「初デート?」
「まあ」
「緊張してる?」
「結構」
意外だった。
さっきまで軽そうだったのに。
「好きな人?」
彼は少し考えてから笑った。
「大事な人です」
やっぱり。
胸の奥がほんの少しだけ落ちる。
知らない男なのに。
何を残念がってるんだろう。
私はコーヒーを飲んだ。
「じゃあ成功するといいね」
「ありがとうございます」
彼がシャツを仕上げる。
思ったよりきれいになった。
「完璧」
「すごい」
「私が半分やったから」
「本当に助かりました」
彼はシャツを丁寧に畳んだ。
今度は丸めなかった。
「じゃあ」
私はバッグを持つ。
「私はそろそろ」
「あ」
彼が呼び止める。
「これ」
スマホを見せる。
画面には、女性とのメッセージ。
写真が1枚。
60代くらいの女性だった。
「今日、母親の誕生日なんです」
「……え?」
「2人でランチ」
私は固まった。
彼が笑う。
「デートでしょう?」
「お母さんと?」
「女性と食事するので」
「紛らわしい!」
思わず腕を叩いた。
彼が笑いながら避ける。
「何だと思ったんです?」
「普通に彼女かと」
「それでちょっと機嫌悪くなった?」
「なってない」
「なりましたよね」
「なってない」
「へえ」
その「へえ」が腹立つ。
私はバッグを肩に掛けた。
「帰る」
「待って」
彼が私の前に回る。
さっきより少しだけ表情が真面目だった。
「じゃあ」
「何?」
「母親とのデート終わったあとなら、空いてます」
一瞬、意味が分からなかった。
「……何が?」
「僕」
そう言って笑う。
寝癖のまま。
アイロンをかけた白いシャツを抱えて。
全然格好ついてない。
なのに。
なぜか、今朝一番格好よく見えた。
「連絡先、聞いてもいいですか?」
私は少しだけ迷った。
本当に少しだけ。
「その前に」
「はい」
「寝癖直した方がいいよ」
彼が慌てて頭を触る。
「そんなひどい?」
「右側」
「どこ?」
私は笑って、彼の髪に手を伸ばした。
跳ねた毛先を指で押さえる。
思ったより柔らかい。
彼が黙った。
顔が近い。
目が合う。
今度は私の方が先に離れた。
「これでまあまあ」
彼が少しだけ照れたように笑う。
「じゃあ、まあまあの状態で連絡先聞いていいですか」
朝8時。
洗濯物は乾いた。
シャツの皺も伸びた。
そして私の予定に、昼過ぎのコーヒーが1杯増えた。
悪くない朝だった。
***
朝から知らない男のシャツの下まで想像したあなた、今日は元気そうで安心しました。
じゃあ、その元気は適度に隠して行ってらっしゃい。午前8時40分。日曜の朝。私は港の朝市にいた。魚を買う予定はない。料理をする予定も、今のところない。ただ、朝早く目が覚めた。せっかくの日曜。二度寝に失敗したなら、いっそ外へ出よう。それだけ。市場は思ったより賑やかだった。干物。海苔。野菜。卵焼き。焼き魚の匂い。朝から全部おいしそう。私は小さな屋台の前で止まった。炭火で焼かれているのは、さば。皮がぱりぱり。脂が落ちるたび、煙が上がる。「食べる?」声をかけてきたのは、60代くらいの女性。頭に紺色の手ぬぐい。エプロン。「朝からさば?」「朝だからさば」最近、この言い方に弱い。「1つください」「ご飯いる?」「あります?」「あるよ」「じゃあ少し」「味噌汁は?」「それも」気づけば完全な朝定食。店の横に小さなテーブルがある。座る。目の前に海。いい。女性が焼きたてのさばを皿に乗せる。「熱いからね」「はい」ご飯。味噌汁。大根おろし。豪華。箸でさばをほぐす。湯気。一口。「おいしい」思わず声が出る。女性が遠くから、「でしょう」と返す。聞こえていた。隣のテーブルには、70代くらいの男性が1人。新聞を読みながら同じ定食。「ここのさばはうまいよ」突然言う。「常連さん?」「毎週」女性がすぐ言う。「毎週じゃない。月2回」「同じようなもんだ」「全然違う」夫婦ではないらしい。でも会話は夫婦みたい。「知り合い?」私が聞くと、女性が言う。「魚買いに来る人」男性は、「40年くらい」と補足。長い。「それもう友達では?」「違う」2人同時。息ぴったり。私は笑う。味噌汁を飲む。わかめ。豆腐。少し濃い。海の近くで飲むと、なんとなく正しい味がする。女性が別の客に魚を渡す。「焼きたてあと2枚!」声がよく通る。男性が新聞を畳む。「若い人、朝から来るの珍しいね」「眠れなかったので」「じゃあ得したね」「何が?」「焼きたて食えた」単純。でも本当だ。二度寝できなかった朝が、急に得した感じになる。「日曜は寝たいじゃないですか」「寝たけりゃ昼寝すればいい」また単純。「昼寝すると夜眠れない」「そのとき考えればいい」この市場、みんな先のことを考えない。羨ましい。さばを半分くらい食べたとこ
午前9時10分。土曜の朝。海沿いの小さな灯台へ来た。観光地というほど大きくない。でも、週末だけ朝から中へ入れるらしい。入口でチケットを買う。「上まで147段です」係の人に言われる。147。聞いただけで少し後悔した。「エレベーターは?」「ありません」笑顔。逃げ道なし。仕方なく階段へ。細い。らせん状。最初の30段までは平気だった。50段。少し息が上がる。80段。「誰が灯台行こうって言ったの」自分。100段。後ろから足音。少し速い。私は壁際へ寄った。「先どうぞ」声をかける。上がってきたのは30代前半くらいの男性。薄いグレーのパーカー。首から小さなカメラ。「大丈夫です。僕も休憩したかったので」隣で止まる。息が少し上がっている。「余裕そうに見えた」「見栄です」正直。2人で狭い踊り場に立つ。小さな窓。外に海。「あと何段?」私が聞く。彼が壁の数字を見る。「43」「数えるんだ」「終わり見えたほうが楽なので」「私は聞いて余計疲れた」彼が笑う。「じゃああと10段ってことにします?」「それは嘘」「難しい」少し休んで、また上る。なぜか並ぶ形になる。階段が狭いので、前後。最初は彼が前。「ペース速かったら言ってください」「今は大丈夫」20段。彼が少し振り返る。
午前7時20分。金曜の朝。私は高速バスの待合室で、紙コップのコーヒーを飲んでいた。今日は少し遠くまで出かける。旅行というほどではない。午前中だけ用事を済ませて、夕方には戻る予定。バスの出発まであと15分。私はコーヒーにミルクを2つ入れた。その瞬間。「まだ2個なんだ」聞き覚えのある声。顔を上げる。30代前半くらいの男性。カーキ色のコート。黒いリュック。一瞬、誰か分からない。でも彼が笑った。「忘れた?」「あ……直樹?」大学時代、同じカフェでバイトしていた人。1学年上。シフトがよく重なった。閉店作業も何度も一緒にした。卒業してからは、2回くらい大人数で会っただけ。それももう何年も前。「久しぶり」「何でここにいるの?」「バス乗るから」「それは見れば分かる」昔と同じ返し。思わず笑う。彼が私の紙コップを見る。「ミルク2個」「何で覚えてるの?」「賄いのコーヒー、毎回それだった」「そんなこと覚えてる?」「君、砂糖入れないくせにミルクだけ2個だったから」「変?」「ちょっと」失礼。「そっちはブラックだったよね」「今も」彼が持っているカップを見せる。本当にブラック。「変わらないね」「そっちも」朝から10年前に戻ったみたい。待合室には何人かいる。アナウンス。スーツケースの音。でも私たちは少し端へ寄り、立ったまま話した。「どこ行くの?」聞く。
午前7時50分。駅前の小さなスパイス専門店に入った。理由は、店先に並んだ瓶がきれいだったから。赤。黄色。茶色。緑。朝からカレーを作る気はない。でも、見ているだけで少し楽しい。「何か探してます?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性店員。白いシャツ。黒いエプロン。腕まくり。手元には小さな木のスプーン。「見てるだけです」「一番難しいお客さんですね」「買わないかもしれないから?」「何を勧めればいいか分からないから」正直。「じゃあ朝に合う香り」私が言う。「スパイスで?」「うん」彼は少し考えて、3つの瓶を出した。カルダモン。シナモン。クローブ。「朝ならこの辺」「コーヒーみたい」「コーヒーにも使えます」最初はカルダモン。彼が小さなさやを1つ割る。ふわっと香る。「近くで嗅いでみて」言われて顔を寄せる。爽やか。少し柑橘みたい。「思ったより軽い」「でしょう」彼も同じ瓶へ顔を寄せる。一瞬、距離が近い。同じ香りを同時に嗅いでいるだけ。でも、朝の小さな店で顔が近づくと、少し意識する。「これ好き」「顔に出てます」最近よく言われる。次はシナモン。「これは分かる」「じゃあ説明なし」「雑」「知ってる香りを僕が説明しても」彼が笑う。3つ目。クローブ。強い。「これはちょっと苦手」「じゃあやめましょう」
午前7時55分。図書館の返却ポストの前で、私は1冊の本を持ったまま立っていた。返却期限は今日。返せばいい。それだけなのに、少し惜しい。短いエッセイ集。全部読んだ。気に入ったページには付箋まで貼った。もちろん、付箋は全部外した。借りた本だから。「返さないんですか?」後ろから声がした。振り向く。60代くらいの女性。布のトートバッグに本が3冊。「返します」「今、かなり迷ってた」「気に入って」「じゃあまた借りればいいじゃない」簡単に言われる。「でも、次いつ借りられるか」「予約すれば?」「そこまででもない気もして」自分でも面倒だと思う。女性が笑う。「好きなのに、そこまででもないの?」「買うほどではないけど、返すとちょっと寂しい」「分かる」意外と分かってくれた。彼女もポストへ1冊ずつ入れる。すとん。すとん。最後の1冊だけ止まる。「あれ?」今度は私が見る。「そちらも?」「これは途中までしか読んでないの」「延長すれば?」「予約入ってるみたい」「じゃあ返さないと」「分かってる」お互い様だった。2人で本を持ったまま立つ。朝から何をしているんだろう。図書館はまだ開館前。返却ポストだけ使える。女性が本の表紙を撫でる。「昔はね、読み終わらないと返すの悔しかったの」「今は?」「途中でも返す」「もったいなくない?」「読みたいところまで読んだなら、それでいい本もあるよ」少し驚
午前7時35分。駅前のジューススタンドで、私はバナナジュースを待っていた。火曜の朝。特別な理由はない。家を出るのが少し早かっただけ。カウンターの向こうでミキサーが回る。その音をぼんやり聞いていたら、隣から声がした。「まだそれ飲むんだ」振り向く。一瞬、誰か分からなかった。白いシャツ。ネイビーのジャケット。大学時代より髪は短い。でも、笑ったときに片方の口角だけ少し上がる。「あ……健太?」同じゼミだった男。大学4年の1年間、よく一緒にいた。恋人ではない。でも、飲み会の帰りに2人になることは多かった。卒業してからは、最初の数年だけ年賀メッセージ。そのあと自然に途切れた。「久しぶり」「何年?」「10年くらい?」「そんなに?」「たぶん」朝から急に時間が巻き戻る。店員さんが聞く。「ご注文は?」彼がメニューを見る。「バナナで」私は彼を見る。「そっちもまだそれ?」「昔、君が毎回飲んでたから思い出した」「真似?」「今日は」その言い方が少し懐かしい。大学の近くにも小さなジュース店があった。私はいつもバナナ。彼はオレンジ。「昔はオレンジだったでしょ」「覚えてるんだ」「そっちこそ」2人とも少し笑う。私のジュースが先に出る。冷たいカップ。ストローを差す。彼が横から見る。「朝から冷たいの平気になった?」止まる。「何でそれ覚えてるの?」「冬、毎回『寒い』って言いな