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2話

作者: Amy
last update 公開日: 2026-09-13 12:40:08

朝7時41分。

私は知らない男のシャツを抱いていた。

白いシャツ。

大きめ。

まだ少し温かい。

そして、困ったことに、いい匂いがした。

「……誰の?」

朝のコインランドリー。

乾燥機から洗濯物を取り出していたら、私の黒いニットと一緒に出てきた。

当然、私のではない。

一人暮らし歴8年。

部屋に男物のシャツが紛れ込むような華やかな生活は、一度も送っていない。

私はシャツを広げた。

きれいに洗われている。

襟元も袖口も傷んでいない。

柔軟剤の香りだろうか。

清潔で、少しだけ甘い。

……こういう匂いの男なら悪くない。

朝から何を考えているんだ。

私はシャツを畳もうとした。

そのとき。

「あ、それ僕のです」

後ろから声がした。

振り返る。

黒いパーカーにスウェットパンツ。

片手に缶コーヒー。

髪は完全に寝起き。

しかも右側だけ妙に跳ねている。

さっきシャツから想像した「清潔感あふれる大人の男」とは、かなり違った。

「これ?」

「はい」

彼が笑う。

「すみません。隣の乾燥機に入れたつもりだったんですけど」

「1枚だけこっちに?」

「たぶん」

私はシャツを渡した。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

彼が受け取る。

そのまま着るのかと思ったら、しばらくシャツを見る。

「……なんか、すごい丁寧に畳まれてますね」

「途中までね」

「僕、自分でやるとこうならない」

「どうなるの?」

彼がシャツを適当に丸める仕草をした。

「こう」

「最低」

「着れば伸びます」

「そういう問題?」

彼が笑った。

30歳前後だろうか。

顔立ちは整っているのに、寝癖のせいで全然格好がついていない。

でも、それが妙に親しみやすかった。

私は自分の洗濯物をバッグに入れ始めた。

「朝から洗濯するんですね」

彼が言う。

「夜、洗濯機回したら寝落ちして」

「ああ」

「朝起きたら、洗濯機の中で全部冷たくなってた」

「分かります」

「分かるんだ」

「僕は昨日、洗濯機回そうとして洗剤入れたところで寝ました」

「そこまでいったら回しなよ」

「ベッドが呼んでたので」

馬鹿だ。

でも少し笑った。

彼は隣の椅子に座って、シャツを膝の上に置いた。

「それ、仕事用?」

何気なく聞く。

「いや」

「じゃあ何用?」

「デート用」

私は手を止めた。

なぜか。

本当に、なぜか。

ほんの少しだけ面白くなかった。

「へえ」

我ながら、感じの悪い返事だった。

彼は気づかない。

「今日着ようと思って」

「朝から?」

「昼です」

「じゃあ急いでアイロンかけた方がいいんじゃない?」

「アイロン持ってないです」

「え?」

「だから乾燥機で皺伸ばそうかなって」

私は彼のシャツを見る。

襟はきれい。

でも裾は少し皺が残っている。

「そのまま行くの?」

「まずい?」

「相手による」

「結構ちゃんとした人です」

「じゃあまずい」

彼が真顔になった。

「どうしよう」

知らない男のデートの心配をしている。

なんだこれは。

「クリーニング屋は?」

「今日、朝早くて」

「ホテルじゃあるまいし、すぐには無理でしょ」

「ですよね」

彼がシャツを持ち上げて眺める。

その姿が妙に情けない。

そして私は、いらない親切心を出した。

「アイロン、貸そうか?」

彼がこちらを見る。

「持ってるんですか?」

「普通あるでしょ」

「家に?」

「家以外どこに置くのよ」

「ああ」

1秒。

2秒。

私も気づいた。

彼も気づいた。

「……いや」

私は即座に言った。

「今のなし」

「ですよね」

「知らない男を朝から部屋に入れる女じゃないので」

「安心しました」

「なんであなたが安心するの」

「僕も、知らない女性の部屋にホイホイ行く男だと思われたくないので」

なるほど。

少しまともだった。

「じゃあコインランドリーのアイロン台」

「あるんですか?」

奥を見る。

壁際に貸し出し用のアイロンが置いてある。

「ある」

「神」

「私じゃないよ」

「でも見つけてくれた」

「500円」

「取るんですか?」

「朝から知らない男のデート準備を手伝うんだから」

彼が笑った。

「じゃあコーヒーで」

「それならまあ」

彼が自販機でもう1本買ってくれた。

私は受け取る。

温かい。

その間、彼はアイロン台の前でシャツを広げた。

「これ、どうやるんです?」

「本気?」

「本気」

私はため息をついた。

「貸して」

彼からアイロンを取る。

「袖から」

シャツを広げる。

温かい蒸気が上がる。

彼が隣に立つ。

近い。

さっきまでは寝癖の男だったのに、近くに立つと意外と大きい。

肩が広い。

パーカーの首元から、少しだけ鎖骨が見える。

そして。

あのシャツの匂いと同じ香りがした。

柔軟剤だけじゃなかったんだ。

この人の匂いも混じっている。

私はアイロンを動かしながら、妙なことを想像した。

このシャツを着た姿。

ボタンを上まで留めて、きちんとした格好をした彼。

それから。

デートが終わった夜。

誰かの部屋で、このボタンを1つずつ外す姿。

白いシャツの下。

今パーカーで隠れている胸。

肩。

腰。

――待って。

私は手を止めた。

朝7時50分。

コインランドリーで何を想像しているんだ。

「大丈夫ですか?」

「え?」

「止まってます」

「考え事」

「アイロンしながら?」

「集中してるの」

危ない。

危うく同じところを焦がすところだった。

「じゃあ僕やります」

彼が後ろから手を伸ばした。

アイロンの持ち手に、彼の手が重なる。

「ここ持つんですよね?」

「ちょっと」

近い。

背中のすぐ後ろに身体がある。

肩の横から彼の顔が覗く。

耳の近くに声。

「こう?」

「……そう」

さっきまで笑っていたのに、急に声が近すぎる。

彼の胸が、背中に触れそうで触れない。

あと数センチ。

もし私が少し後ろに下がったら。

そのまま背中を預けたら。

この腕が、アイロンじゃなくて私の腰に回ったら。

朝から想像力が仕事をしすぎている。

私は慌てて1歩横にずれた。

「自分でやって」

「急に冷たい」

「覚えたでしょ」

彼がアイロンを動かす。

意外と器用だ。

「そういえば」

私が言う。

「デート、何時?」

「11時」

「初デート?」

「まあ」

「緊張してる?」

「結構」

意外だった。

さっきまで軽そうだったのに。

「好きな人?」

彼は少し考えてから笑った。

「大事な人です」

やっぱり。

胸の奥がほんの少しだけ落ちる。

知らない男なのに。

何を残念がってるんだろう。

私はコーヒーを飲んだ。

「じゃあ成功するといいね」

「ありがとうございます」

彼がシャツを仕上げる。

思ったよりきれいになった。

「完璧」

「すごい」

「私が半分やったから」

「本当に助かりました」

彼はシャツを丁寧に畳んだ。

今度は丸めなかった。

「じゃあ」

私はバッグを持つ。

「私はそろそろ」

「あ」

彼が呼び止める。

「これ」

スマホを見せる。

画面には、女性とのメッセージ。

写真が1枚。

60代くらいの女性だった。

「今日、母親の誕生日なんです」

「……え?」

「2人でランチ」

私は固まった。

彼が笑う。

「デートでしょう?」

「お母さんと?」

「女性と食事するので」

「紛らわしい!」

思わず腕を叩いた。

彼が笑いながら避ける。

「何だと思ったんです?」

「普通に彼女かと」

「それでちょっと機嫌悪くなった?」

「なってない」

「なりましたよね」

「なってない」

「へえ」

その「へえ」が腹立つ。

私はバッグを肩に掛けた。

「帰る」

「待って」

彼が私の前に回る。

さっきより少しだけ表情が真面目だった。

「じゃあ」

「何?」

「母親とのデート終わったあとなら、空いてます」

一瞬、意味が分からなかった。

「……何が?」

「僕」

そう言って笑う。

寝癖のまま。

アイロンをかけた白いシャツを抱えて。

全然格好ついてない。

なのに。

なぜか、今朝一番格好よく見えた。

「連絡先、聞いてもいいですか?」

私は少しだけ迷った。

本当に少しだけ。

「その前に」

「はい」

「寝癖直した方がいいよ」

彼が慌てて頭を触る。

「そんなひどい?」

「右側」

「どこ?」

私は笑って、彼の髪に手を伸ばした。

跳ねた毛先を指で押さえる。

思ったより柔らかい。

彼が黙った。

顔が近い。

目が合う。

今度は私の方が先に離れた。

「これでまあまあ」

彼が少しだけ照れたように笑う。

「じゃあ、まあまあの状態で連絡先聞いていいですか」

朝8時。

洗濯物は乾いた。

シャツの皺も伸びた。

そして私の予定に、昼過ぎのコーヒーが1杯増えた。

悪くない朝だった。

***

朝から知らない男のシャツの下まで想像したあなた、今日は元気そうで安心しました。

じゃあ、その元気は適度に隠して行ってらっしゃい。

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