「私はただの弁護士です。氷川さんとは、友人ですらありません。彼女がどこへ行ったかなど、私に知らせるはずがないでしょう」弁護士は、静かに、しかしはっきりと告げた。だが、陵は、受け入れられなかった。「違う。君は知っているはずだ!いくら欲しい?金ならいくらでも払う!」焦燥と恐怖に突き動かされ、彼はポケットから小切手帳を取り出した。次々と金額を書き込み、引きちぎり、弁護士に突きつける。「100万か?1000万か?1億か?!いくらでもやる!だから、叶音がどこにいるか教えてくれ!」叫びにも似た声。だが、弁護士は冷静だった。「高瀬さん、私は本当に知りません。たとえ知っていたとしても、お伝えすることはできません。それが、弁護士としてのモラルです」「モラルだと?金があれば、そんなもの——!」怒鳴りかけた彼を、弁護士は一瞥しただけで制した。「申し訳ありません。本当に、私は知りません」そして、冷たく突きつけるように言った。「高瀬さん、氷川さんの気持ちは、もうおわかりのはずです。彼女は本気で離婚を決意した。そうと決めた以上、あなたに居場所を知られるようなことは、絶対にしません。だから……私にも、彼女がどこにいるのかは教えてくれるわけがないじゃないですか?」陵は、崩れるようにソファに沈み込んだ。魂が抜けたように。「……わかった。上野先生、帰っていいよ」「承知しました。できれば早めにサインをお願いします。では、失礼します」弁護士は一礼し、静かに去っていった。ドアが閉まった直後、陵の携帯が鳴った。飛び起きるように電話を取る。——叶音か!?震える手で応答ボタンを押した。「叶音か!?」しかし、耳に飛び込んできたのは、知らない声だった。「高瀬さんですか?早見小夜さんのマネージャーです。彼女が事故に遭って、病院に搬送されました。どうしても高瀬さんに会いたいと言っていて……」「事故……?」陵は眉をひそめた。だが、今の彼には——小夜のことなど、どうでもよかった。「……重症なのか?」「ええ、まあ……」一瞬のためらいのあと、相手は続けた。「かなり深刻です。彼女は芸能人ですから、もし傷跡が残れば……しかも、ずっと昏睡状態で、あなたの名前を呼び続けていて……お願
「……え?」小夜は呆然とした。ようやく、陵の今日のおかしな様子の理由を理解した。叶音の子供が、いなくなったんだ。小夜の瞳の奥に、かすかな笑みが滲んだ。——よかった。子供がいなくなった。これで、邪魔者は消えた。彼を縛るものは、何もなくなった。彼女は、心の中で密かに歓喜した。「……あの日、バーで。もしお前が怪我なんかしなければ、俺は……俺は、叶音に怒りをぶつけたりしなかった。彼女を階段から突き落とすこともなかった。俺たちの子供だって、失わずに済んだはずなんだ!」陵の声は、怒りと後悔に震えていた。彼の手は無意識に、小夜の細い腕を強く掴んでいた。「痛い……陵さん、落ち着いて!」小夜は痛みに顔を歪め、思わず叫んだ。「あの日のことは、あなたのせいじゃないよ。悪いのは叶音さんなんだ。あの日、わざと私に水をかけたじゃない。陵さんも言ったよね?あんなことをするから、お腹の子に罰が当たるんだって。だから……これは、彼女自身が招いた結果かもしれないよ!」「……何だと?」陵の顔色が、みるみる蒼白になった。かつて無邪気だと信じていた小夜から、こんな冷酷な言葉を聞くとは思わなかった。マネージャーが異変を察知し、慌てて二人の間に割って入る。「高瀬さん、どうか落ち着いてください!小夜さんはまだ子どもみたいなものなんです。あなたたち、あんなに仲がいいじゃないですか。怒らないでください!」「子どもだと思ってたからだよ」陵は乾いた笑いを漏らし、自嘲気味に続けた。「子どもだと思って、甘やかして、何でも許してきた。だから……叶音を絶望させた。俺に、離婚を決意させたんだ」「えっ?本当に?離婚するの!?」小夜は、嬉しそうに目を輝かせた。陵の悲しみに気づくこともなく、無邪気な声で畳みかける。「じゃあ、もう離婚に同意したの?手続きはいつするの?」「小夜!」マネージャーが小夜の腕をそっと引っ張り、「もうやめろ」と合図した。だが、小夜はまったく意に介さず、なおも勝手に話し続けた。「だって、どうせあなた、あの人のことなんて好きじゃないんでしょう?ずっと好きだったのは私だよね?私も陵さんが好き。だから、叶音さんとは離婚してよ。離婚したら、すぐに私たち結婚しよう?」その言葉を聞いて、陵はようやく
陵は家に戻るなり、まっすぐ寝室へ向かった。以前、叶音が本気で喧嘩して家出したことがあった。けれどそのときも、彼女はわざと荷物を置いていき、「取りに戻る口実」を作って、最後には自分に折れてくれた。今回も、きっと同じだ。そんな希望を胸に、彼は勢いよくクローゼットを開けた。だが、中は、きれいさっぱり空っぽだった。叶音の服は、一枚残らず消えていた。本当に、今回は戻ってこないつもりなのだと、陵はそのとき初めて思い知った。ふと、彼女が言っていたことを思い出す。「チャンスは五回まで」たった五回。それを、こんなにもあっさりと自分は使い果たしてしまった。彼女は、まだ自分のもとへ戻ってきてくれるだろうか。もう一度だけ、許してくれるだろうか。押し寄せる絶望に、陵はその場に座り込み、しばらく動けなかった。やがて、何かを思い出したようにスマホを取り出し、叶音に電話をかけようとした。だが、何度探しても、叶音の番号が見つからない。間違いなく登録していたはずなのに。背中を冷たい汗が伝う。必死に思い出そうとするが、どうしても叶音の番号が浮かんでこない。代わりに頭の中に蘇るのは、小夜の番号ばかりだった。そうだ。昔から、小夜の番号だけは何も見ずに覚えていた。叶音の番号なんて、覚えようともしなかった。結婚したばかりの頃、叶音がこんなことを言っていた。「陵、私の電話番号も、マイナンバーも、ちゃんと覚えてね」けれど、当時の自分は鼻で笑って言ったのだ。「そんなの、覚える必要あるか?どうせずっと俺のそばにいるんだから」それが、今。本当に、彼女を見失ってしまった。脳裏に焦りが渦巻き、陵は慌てて友人たちに電話をかけた。「なに言ってんだ、お前。奥さんの番号を知らないなんて、ありえないだろ?」「友達に聞けよ、俺らはお前の友達であって、彼女のじゃないんだぞ!」電話をかけ続けて、陵はようやく気づいた。叶音の友人を、自分は一人も知らないのだと。結婚してからずっと、彼女は自分だけを中心に生きてきた。いつの間にか、彼女は自分をすべてにしてしまっていたのだ。今さらそのことに気づくなんて、あまりにも遅すぎた。最後に、陵は藁にもすがる思いで、SNSを開いた。しかし、どんなに検索しても、叶音のアカウントは見つからなか
陵が電話をかけたとき、叶音はモルディブのビーチで、穏やかな日差しを浴びながら、のんびりと寝転んでいた。透き通った海、きらめくビーチ。生まれて初めて見る本物の海に、叶音は夢中になっていた。あの日、失った小さな命。それに引きずられていた心も、この場所では少しずつほぐれていく気がした。そろそろインストラクターと一緒にシュノーケリングに出発する時間だった。そんなとき、ポケットの中のスマホが何度も震えた。画面を見ると、表示されていたのは陵。離婚届を見たのだろう。そして、子どもを失ったことも。叶音は迷わず着信を切った。だが、あきらめきれないのか、何度も、何度もかかってくる。インストラクターが声をかけた。「大事な電話みたいですよ?先に片付けてきてください」叶音は深く息を吸い込み、いまこそ、きちんと決着をつけるべきだと心を決めた。そっとスマホを耳に当てる。「もしもし」「叶音!やっと出てくれた!」焦りに満ちた声が、波音を越えて届いた。長い年月、こんな必死な陵の声を、叶音は一度も聞いたことがなかった。「何の用?」叶音は冷たく問いかけた。「今、どこにいるんだ?会いたい。迎えに行くよ」陵は、ほとんど懇願するような声で続けた。「俺が悪かった。小夜のことなんかで、何度も君を傷つけて……本当に、心から反省してる。だから、もう一度だけチャンスをくれないか?」その必死な言葉を聞きながらも、叶音の心は、微塵も動かなかった。「陵、私たちの間に話すことなんて、もう何もないよ」その声音は、冷ややかで、どこか静かだった。「言いたいことなんて、何年も前に言い尽くした。離婚の件は、すべて上野先生に一任してある。協議に不満があるなら、彼に連絡して。私に直接、関わらないで」「お願いだ、もう一度だけチャンスをくれないか?君をちゃんと大事にする。小夜とは二度と会わないし、もう関わらないと誓う!」また——誓い。叶音は心の中で、冷たく笑った。「陵、この三年間、あなたが私に誓った言葉、いったい何度聞かされたと思ってるの?もう数えきれないわ。そんなあなたの言葉を、私がまだ信じると思う?」「信じてくれ。今回は本気なんだ。必ず、約束を守る」陵は泣きそうな声で懇願した。だが、その必死さも、叶音の心を動かすことはなかった。
彼女は北国で育った子だった。けれど、南の地に憧れ、彼が暮らすこの街を目指してやってきた。大学で出会った二人。その頃、彼は学生会の会長で、彼女は副会長だった。初めて彼を見た日、白いシャツを着た彼は、雨に濡れながら新入生を勧誘していた。その眩しい姿に、叶音は思わず心を奪われた。もっと彼に近づきたくて、彼女は必死に自分を磨き続けた。彼の周りに他の女の子がいることも知っていた。それでも、ただ静かに彼のそばにいることを選んだ。叶音は最初からずっと、彼が好きだった。七年もの歳月をかけて、彼を追い続けた。そして、彼が小夜との関係を終わらせた時、ようやく彼女の想いは受け入れられた。結婚したばかりの頃、叶音はこう言った。「陵、海を見に行きたい。私、今まで一度も本物の海を見たことがないの。新婚旅行、モルディブに行かない?あそこは、海がとっても青いって聞いたの」だがその頃の陵に、叶音への愛情はなかった。彼が結婚を選んだのは、ただ自分を誤魔化すためだった。小夜を忘れるために。結婚記念日が近づいたある日、叶音はまた言った。「陵、私、本当に海を見たいの。いつになったら連れて行ってくれるの?」彼にはわかっていた。叶音なら、一人でも行けただろう。でも、彼女は一緒に行きたかったのだ。彼にもっと自分を見てほしかった。もっと、愛してほしかった。けれど、彼は彼女の願いを、ずっと聞き流していた。叶音は一人で、モルディブへ旅立った。この時、初めて彼女は、完全に彼に絶望したのだろうか。陵は迷わなかった。叶音の居場所を聞き出すと、すぐにスーツケースをまとめ、空港へ向かう準備をした。ちょうど家を出ようとした時だった。玄関先に、小夜のマネージャーが立っていた。目を真っ赤に腫らし、彼を見つけるなり、崩れるように叫んだ。「高瀬さん!小夜に本気だったって、私は信じてたのに……こんな仕打ちをするなんて!」「今度は何があったんだ?」小夜の名前を聞いても、陵はただ頭痛を覚えるばかりだった。気づけば、もう何年も彼女に対する想いなど、消え去っていた。今、彼の心を占めるのは叶音だけだった。小夜のことなど、もうどうでもよかった。「小夜が薬を飲んで自殺未遂をしたの!」「何だって?」陵は一瞬、驚いた表情を浮かべた。だがすぐに冷静さを取
三年前、小夜は海外留学のチャンスを掴んだ。その時、陵は彼女に「行かないでくれ」と頼んだ。しかし小夜は、迷うことなく彼に別れを告げた。「私の夢はスターになること。理想を追いかけたい。振り返るつもりはない」たとえ陵が「君を応援する。帰ってくるまでずっと待ってる」と言ったとしても、小夜は首を振った。「きっと海外で、誰か別の人に心を奪われるかもしれない。だから今、きっぱり別れたい」三年後——彼が別の女性と結婚したその時、彼女は突然戻ってきた。しかも、到着前にわざわざメッセージを送り、迎えに来るよう求めてきた。陵は認めざるを得なかった。再会した瞬間、あの頃の淡いときめきが胸をよぎったことを。彼と小夜は幼い頃から一緒に育った。三つ年下の彼女を、彼はまるで壊れ物のように大事にしてきた。自然と恋人同士になった二人。まさか、こんな結末が待っているとは、誰が想像しただろう。「後悔してるの、陵さん」小夜の顔色は青白く、今にも消え入りそうな声で続けた。「やっとわかったの。私にとって一番大事なのは、あなただったって……今でも、愛してる。あなたは……?」陵は静かに立ち上がり、彼女を真っ直ぐ見つめた。「ごめん。もう君に嘘はつけない。三年前、叶音と結婚した時は、まだ君を愛してた。でも今は違う。今も、これからも——俺が愛しているのは、叶音だけだ」小夜は口を開いたが、言葉にならなかった。彼女はマネージャーと芝居を打ち、彼の気持ちを揺さぶろうとした。ほんの少しでも心が揺れると思っていた。なのに、彼は断言した。愛しているのは、叶音だけだと。「俺は今から叶音のところへ行く。三時間後には飛行機に乗るし、それ以降、携帯も切る。たとえ探そうとしても、もう俺には辿り着けない。無駄なことはやめろ」そう言い残し、陵は小夜の必死の呼び止めにも振り返らなかった。信じられなかった。彼がこんなにも冷酷に背を向けるなんて。階段を降りる彼の背中を見た瞬間、小夜は窓際に駆け寄り、窓枠に座り込んだ。そして、絶叫した。「陵さん!今ここから飛び降りるわよ!止めたかったら戻ってきて!」最初は、ただの芝居のつもりだった。しかし、マネージャーが異変に気づいた。小夜の様子は明らかにおかしかった。説得しようと手を伸ばした瞬間、小夜は鋭く叫んだ。「近寄らな
「きゃあ!」「飛び降りた!」「小夜、ダメだ!」マネージャーは慌てて彼女の腕を掴もうとした。だが、指先は空を切り、ただ彼女が落ちていくのを、呆然と見守るしかなかった。幸いにも、下にはすでにエアマットが用意されていた。小夜は落下したものの、怪我ひとつなかった。マネージャーは胸を撫で下ろした。しかし、小夜はエアマットの上から身を起こし、遠ざかっていく陵の背中をじっと見つめた。彼は本当に振り返らなかった。自分がビルの上から飛び降りたというのに、一度も。「陵さんなんか……大っ嫌い!」マネージャーは大急ぎで駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。「小夜!大丈夫?本当に、もう、心臓が止まるかと思ったわ!正気か?何考えてるの!?ただの演技だったはずでしょう!?本当に死んだら、どう責任取ればいいのよ!財界の人たちになんて説明すれば……小夜は無表情のまま、ぼんやりとマネージャーを見た。その目は、どこか異様だった。「ふふっ」小夜はふと笑った。だがその笑みは、まるで別人のように不気味だった。マネージャーは困惑しながらも、それ以上は何も言わなかった。「どうせまだ死んでないんだから、そんなに焦らなくてもいいでしょ?」「とにかく、無事でよかった」「そういえば」小夜はふと思い出したように尋ねた」「今夜、食事会があるって言ってたよね?」「えっ、あの不動産業界の重鎮たちとの会?小夜はそういうの、嫌いだったでしょう?」小夜はパチパチと瞬きをして、無邪気に微笑んだ。「好きよ。嫌いなわけ、ないじゃない」彼女の心には、冷たい野望が芽生えていた。高瀬家は不動産業で成り上がった家系。陵を潰すには、この力を利用するしかない。高瀬陵。あなたが先に私を裏切ったのだから、今度は私があなたを地獄に引きずり込んであげる。一方、モルディブでは。叶音は丸一日、思いっきり遊び尽くしていた。久しぶりに、嫌なことをすべて忘れて、心から笑えた気がした。ホテルに戻ると、スマートフォンの電源を入れた。ありがたいことに、陵からの着信はなかった。叶音は彼の番号をブロックリストに入れた。もう、これ以上、心を乱されたくなかった。スマホを開いて間もなく、両親から電話がかかってきた。「叶音?なんで丸一日も電源切ってたの?モルディブに行ったって聞いたけど、
「陵、何してるの!出ていって!」叶音は、窓から無理やり入ってきた陵を怒りで睨みつけた。「出ない。君が俺を許してくれるまでは、絶対に」陵は叶音に近づき、抱きしめようとした。だが、叶音は迷うことなく彼の頬を平手打ちした。「出てってって言ったでしょ!ここは私の部屋よ!無断で侵入したなら、警察を呼んでもいいんだから!」「呼べばいいさ。君が許してくれるなら、何をされても構わない!」必死な陵の顔を見て、叶音は心底疲れを感じた。「陵、あなた一体何がしたいの?もう十分でしょ?私はあなたから逃げるためにここまで来たのに、それでも追ってきて……私は、あなたと小夜を応援してあげたでしょう?これ以上、私を苦しめないで!」「違う!小夜とは何もない!俺が愛してるのは、君だけだ!」「ははっ!」陵の言葉を聞いた瞬間、叶音はまるでとんでもない冗談を聞いたかのように、大声で笑い出した。「陵、もしかして二重人格なの?」笑いながら、叶音の目にはじわりと涙が滲んだ。「私を一番愛してる?だったら、なぜ私の妊娠した日を忘れてたの?なぜ結婚三周年の記念日に、別の女にプロポーズしたの?なぜ、妊娠していた私を、あの階段から突き落としたの?私が必死に助けを求めても、無視して、結局……私たちの子供を殺したのに。そんなあなたが、今さら愛してるだなんて……笑わせないで」「ごめん、叶音、本当に、あの時はわざとじゃなかったんだ!」陵は、叶音の前に膝をつき、地面に額がつくほど深々と頭を下げた。「俺は君がまた駄々をこねているだけだと思ったんだ。だから……!」「そうよね。あなたにとって、私はただの嫉妬深い女だったものね」叶音は深く息を吸い、もう止まらない涙を拭いもしなかった。「嫉妬して、小夜に熱湯をかける女。嫉妬して、わざと怪我したふりをする女。嫉妬して、自分の子供の死を呪う女——それが、あなたの中にいる私だったのね。私たちは、長い付き合いだったのに。あなたは、私のことを一度も、本当の意味で理解しようとしなかった」叶音は静かに立ち上がり、冷たい声で告げた。「あなたは私を愛しているって言うけど、私はもう、あなたを愛していない。帰って。もう二度と、私の前に現れないで。わかる?本当なら、ここで私は楽しく過ごしていたはずなのに……あなたが来たせ
叶音は、すでに十分に海を堪能した。だから、今日こそは帰ることにした。朝早く荷物をまとめ、フロントに向かった。「チェックアウトですか?」「はい」ここに陵がいる限り、一刻も早く離れたかった。「手続きは完了しました」スタッフが手際よく対応を済ませると、彼女に一枚の封筒を差し出した。「こちらは、今朝、高瀬様からお預かりしたものです。チェックアウトの際にお渡しするよう、言付かっております」叶音は震える手でそれを受け取った。「彼は今どこに?」「お客様が彼に会いたくないだろうと配慮して、最初の便で帰国されました」「ありがとうございます」叶音は静かに一礼し、ロビーの隅に移動して封筒を開けた。中身は離婚届。彼女は一瞬、手を止めた。最後のページをめくると、陵のサインがきちんと入っていた。その瞬間、叶音の目から、ふっと涙がこぼれ落ちた。悲しみではない。自由になれた喜びだった。やっと、過去にさよならできた。「それと、もう一件ございます」別のスタッフが近づき、名刺を差し出した。そこには、霧島奏真の名前が記されていた。やっぱり。彼がただ者ではないことは、最初からなんとなくわかっていた。「何かあったら、連絡してください、と言付かっています。彼も、あなたにまた会えることを楽しみにしているそうです」「彼は?」「ご家族の事情で、急ぎヘリで帰国されました」「そう……」叶音は微笑み、何の未練もなく、その名刺を近くのゴミ箱に投げ入れた。彼女はもう、夢見る少女ではなかった。旅先での奇跡のような出会いに、胸をときめかせる年齢でもない。そんな幻想は、とっくに置き去りにしてきたのだった。旅先での出会いは、美しいからこそ、儚いままでいい。無理に続ければ、かえって美しさを失う。彼女は離婚届を鞄にしまい、静かにホテルを後にした。帰国。そのまままっすぐ、家へと向かった。車はゆるやかな坂道を上り、最後に、一軒の邸宅の前で静かに停まった。「お嬢様、お帰りなさい!」出迎えた使用人の猫建さんが、嬉しそうに声をかけた。「ただいま、猫建さん。母は?」「中で、お嬢様の好きな料理をたくさん作って待っていますよ!」その言葉を聞き、叶音は思わず歩幅を早めた。「父さん、母さん!叶音、帰ってきたよー!
目の前の男を見た瞬間、陵の怒りは爆発した。「彼女は俺の妻だ。お前に口出しする権利はないだろ!」奏真は、まったく動じずに言い返した。「妻?氷川さんは、あなたと離婚手続き中だと言っていましたけど?正式に言えば、あなたたちはもう夫婦じゃない。だったら、僕にも彼女を守る権利がある」「叶音」陵は叶音を見た。「まさか……こんな大事なことまで、こんな男に話してたのか?お前、まさか……こいつと……」怒りに任せて、陵は吐き捨てた。「海を見に来たとか言いながら、本当は新しい男とイチャつくためだったんだろ?こいつが、お前の新しい男か!?」言い終えた瞬間。パチン。叶音の手のひらが、勢いよく陵の頬を打った。「高瀬陵。僕はあなたと違って、そんな下劣な真似はしない!」その一撃は、陵の理性をようやく取り戻させた。自分でも信じられなかった。怒りで我を忘れ、彼女を侮辱するような言葉を口にしてしまったことが。叶音がそんなことをするはずがないって。それでも、どうしようもなく、怒りが抑えきれなかった。叶音は冷たく首を振った。「失望した。追いかけてきてまで、私を侮辱したかったわけ?高瀬陵、私があんたみたいな男を好きだったことが、本当に恥ずかしい」彼女の言葉は、鋭い刃のように陵の心臓を切り裂いた。「ごめん、叶音。本当に、ごめん……侮辱するために来たわけじゃない。ただ、許してほしかっただけなんだ。離婚なんて、俺は絶対にしたくない。本当に、心から愛してるんだ。俺はもう会社も捨てた。お前だけが大事なんだ。どうか……戻ってきてくれ……」陵は必死に懇願した。だが、叶音はもう笑う気力さえ残っていなかった。「いい加減にして。せめて、これ以上、私にあなたへの嫌悪しか残らないようになる前に、消えて」そして、彼女は隣に立つ奏真の腕をしっかりと抱いた。「もし、それであんたが諦めるなら教えてあげる。私はもう、この人と付き合ってる。今度、彼の家族にも挨拶に行く予定。あなたとは、もう二度と、あり得ない」その場にいた二人の男たちは、言葉を失った。奏真だけが、目を輝かせた。「本当に?」一方、陵はただ呆然と立ち尽くしていた。叶音の顔には、微塵も迷いがなかった。ああ、これが——終わりだ。やっと、はっきりと理解した。彼女はもう
叶音が手持ち花火を持って無邪気にはしゃぐ様子を見て、奏真は思わず笑みをこぼした。こんな小さな花火で、こんなにも嬉しそうに笑う女の子を見るのは初めてだった。一緒にはしゃごうかと思ったその時、彼のスマホが鳴った。「もしもし、母さん?」「奏真!あんた今どこにいるの!?お見合いの席に来ないなら一言くらい言いなさいよ!相手の女の子、レストランで何時間も待ってたのよ!」開口一番、母親の怒鳴り声だった。奏真は眉をひそめた。「だから言っただろ、僕は興味ないって。あの子たちは、霧島家の金にしか興味ない。そんな人間と結婚なんかしたくない」「じゃあ、どうするつもりなのよ!もう三十も過ぎてるのよ!?このままだったら、私、一生孫の顔なんか見られないじゃない!」「じゃあ、バツイチで子供二人くらい連れた人でも連れて帰ろうか?」奏真は皮肉交じりに言った。三十過ぎて独身だって、べつに悪いことじゃないだろう。「それでもいいわよ!女でも男でも構わないから、とにかく孫を連れてきなさい!」一方的にまくし立てられ、奏真はため息をつきながら通話を切った。まったく——一人っ子の彼に、母親はもはや孫に飢えすぎていた。ふと前を見ると、叶音がまだ花火を楽しんでいた。奏真はニヤリと笑って、彼女に歩み寄った。「ねえ、氷川さん。彼氏、いる?」「私?」叶音はふっと笑った。「一応、結婚してたけど、今は離婚手続き中」「そう」奏真は驚いた。ちょうどさっき、母親に「バツイチでもいい」って言ったばかりだったから。「子供は?」「いない」叶音の手の中で、花火が消えた。彼女の表情も、少し陰った。空気の変化に気づき、奏真はそれ以上聞かなかった。その頃。陵は、ついにビーチに到着していた。ふと見渡すと、すぐに叶音を見つけた。心の中で、思わず喜びが弾けた。しかし、次の瞬間。彼女の隣には——見知らぬ男の姿があった。その男は、自分よりも背が高く、スタイルも良かった。そして、彼女の隣にいる様子が、あまりにも自然だった。陵の胸に、怒りがこみ上げる。誰だ、あの男は!?花火の火の粉が、叶音の髪に落ちた。男は優しく彼女の髪から火の粉を取り除いた。その親密な仕草に、陵の理性は完全に吹き飛んだ。彼は怒りに任せて、二人の方へ突き進んだ。
細かな水滴が、男の身体をくまなく覆っていた。陽光に照らされ、キラキラと宝石のように輝いている。叶音は思わず瞬きをした。そして彼の顔をよく見ると——先日、SIMカードを譲ってくれたあの男性だった。声をかけようとしたその時、数人の金髪に青い瞳の女性たちが、彼に向かって駆け寄っていった。「ハーイ、イケメン!一人なの?一緒に飲まない?」「ねぇ、私たちも泳ぎたいな。一緒にどう?」奏真は、プールから上がると、さっとバスローブを羽織った。その瞬間、場の空気が少し落ち着いた。「ごめん、僕は一人じゃない」そう言うと、彼はまっすぐ叶音の方へ歩いてきた。「彼女が、僕のガールフレンドだから」「えー、そうだったの……」女性たちはがっかりした様子で散っていった。叶音は目を丸くした。そして自分を指差す。「え……私のこと?」「気にしないで。ただの盾だよ」奏真はにこりと笑った。「ううん、別に……」叶音も気まずそうに笑った。それ以上何も言わなかった。奏真は彼女の隣に腰を下ろし、ふと視線を向けた。ずっとプールサイドに座ったまま、水に入る素振りすら見せない彼女。「どうして泳がないの?」声をかけると、彼女は小さく笑って答えた。「泳げないの」叶音は北国育ちだった。そもそも水に親しむ機会が少なく、泳ぎを習うことなどなかった。こんな場所に来た今でも、せいぜい海に潜る程度で、インストラクターがそばにいないと、とても深い場所までは行けなかった。奏真はそんな彼女を見つめ、ふっと声をかけた。「泳いでみたい?」奏真はプールに入ると、手を差し伸べた。「教えてあげるよ」「えっ、いいの?」叶音の目が輝いた。「もちろん。やりたいと思ったことは、何だってできるさ」奏真は優しく彼女の手を取り、水の中へ引き入れた。水に入った瞬間、叶音は必死にバタバタともがいた。水が好きなはずなのに、体が浮かぶ感覚に恐怖を覚えた。彼女は必死に奏真にしがみついた。あまりに必死すぎて、奏真は思わず息苦しくなるほどだった。それでも彼は辛抱強く、優しく声をかけた。「大丈夫だよ。僕を信じて、少しずつ手を離してごらん。怖がらなくていい」その声に、叶音は少しだけ恐怖を手放すことができた。奏真の指導のもと、彼女はすぐに水に浮かべるよ
「社長、今はまず会社のことを考えるべきです。どうか、冷静に……」アシスタントが必死に説得する中、陵はふらりと立ち上がった。「一度、家に帰る」テーブルに手をつきながら、陵は決意を固めた。そして、アシスタントに支えられながら、高瀬家の本邸へ向かった。高瀬家本邸。陵の父親は早くに亡くなり、家のことはほとんど母親が取り仕切っていた。陵の酔った姿を見た母親は、露骨に顔をしかめた。「どういうこと?こんなに酒臭くなって、何しに戻ってきたのよ?叶音は?一緒じゃないの?」彼女はリビングで荷造りをしていた。たくさんの栄養補助食品を箱詰めし、翌日、叶音に届けるつもりだった。表面上は素っ気なくても、叶音が妊娠したと聞いてからは、それなりに気遣うようになっていたのだ。「母さん、話がある」「何よ」陵の母親は眉をひそめた。「まさか……まさか、叶音のお腹の子に何かあったんじゃないでしょうね?あの子に何かあったら、絶対許さないわよ!元々身体が弱いってわかってたら、最初から結婚なんか認めなかったのに!」まくし立てる母親に対し、陵はずっと黙っていた。長い沈黙の後、ようやく口を開く。「叶音は流産した。子供は、もういない」陵の母親は声にならない悲鳴を上げた。「嘘でしょう!?あんなに順調だったじゃない!どうして……どうしてそんなことに!まさか、叶音がわざとそんなことをしたんじゃないでしょうね?」「俺が……」陵は唇を震わせながら言った。「俺が自分の手で……叶音を、階段から突き落としたんだ」「なに!?」陵の母親は一瞬、理解できなかった。衝撃を受け、声を震わせながら叫んだ。「あんた、自分が何を言ってるのかわかってるの?彼女のお腹には、あんたの子どもがいたのよ!たとえ喧嘩したって、どうしてそんな、階段から突き落とすなんて!」陵は苦しげに、ぽつりと言葉を続けた。「小夜のためだった。叶音が階段から落ちて、血まみれで電話してきた時……俺は、嘘だと思って、信じなかった。それで……俺が、彼女を、流産させた」陵がすべてを吐き出した瞬間、陵の母親の体は力を失い、ソファに崩れ落ちた。「あんた、正気なの?小夜が帰国した時、嫌な予感はしてたのよ。私だって、あんたと小夜のことを知らないふりしてきた。でも、どうして……どう
「何か御用ですか?」叶音の声は、少しだけ和らいだものの、やはり冷たかった。「社長の容態があまり良くありません。お願いです、どうか一度だけ、戻ってきてもらえませんか?」電話の向こう、アシスタントの声には切実さが滲んでいた。「彼の体調なんて、私には関係ありません」叶音は淡々と告げた。「私たちはもう離婚手続きを進めているんです。今後、彼に関することは一切、私に知らせないでください」「どうか、お願いします!」アシスタントは必死だった。「社長は本当に反省しています。会社も、今や破産寸前です。今日は取引先に土下座して頼み込んだのに、二本のウイスキーを無理やり飲まされ、頭も打って、血が止まらないんです。それでも社長は、ずっとあなたの名前を呼び続けています。お願いです、一度だけでも、顔を見せてあげてください」だが、叶音の心は微動だにしなかった。陵が受けた痛みなど、彼女が失ったものに比べれば、あまりにも軽い。あの日、あの子を失った痛みを、彼は一生かけても償えない。「繰り返しますが、彼のことは私には関係ありません。これ以上、連絡してこないで」言い切ろうとしたその時。突然、電話の向こうから別の声が聞こえた。「叶音……叶音なのか……?俺だよ、陵だよ」彼女が憎んでやまない、あの声だった。「叶音、会いたい……迎えに来てくれ。酔っぱらった時は、いつも君が迎えに来てくれたよな。赤ちゃんにも会いたい……帰ってきて……絶対に君を大事にするから」必死で何かを訴え続ける彼の声を、叶音は一秒たりとも聞きたくなかった。彼女は、無言で電話を切った。そして、ためらいなくアシスタントの番号も着信拒否リストに追加した。こうしている間にも、彼に捕まる危険がある。このままではいけない。完全に、彼の世界から消えなければ。叶音はすぐにSIMカードを取り出し、ごみ箱に投げ捨てた。だが、連絡手段がなくなるのは不便だった。新しいSIMカードが必要だ。急いでフロントへ向かい、スタッフに尋ねた。「すみません、この近くでSIMカードを作れる場所はありますか?」「申し訳ありません、このエリアでは取り扱いがないんです」「そうですか」叶音は小さくため息をついた。モルディブに来る前に、新しいカードを作っておくべきだったと悔やんだ。ぼんやりと踵
「いいぞ、もっとやれ!」藤井会長は手を叩いて喜んだ。「高瀬社長、聞いたぞ。君、大スターを散々傷つけたらしいじゃないか!これくらいビンタされるなんて、むしろ甘いくらいだ!」陵は力なくうなずいた。「はい、すべて私が悪いんです。どうか、許してください」「許す?いいとも!」小夜はにやりと笑った。「ビルの屋上から飛び降りてみせたら、すぐに許してやるよ!」小夜が自分のために飛び降りようとした。今度は、陵がその苦しみを味わう番だ——そういうことだった。「小夜……」「黙れ!二度とそんな呼び方するなって言ったでしょう!」小夜はまた一発、陵の頬を叩いた。そしてテーブルの上にあったボトルを掴み、彼の口元へ押し付ける。「飲め!取引したいんだろう?なら、全部飲み干しなさいよ!」小夜は容赦なく酒を流し込んだ。陵は抵抗せず、ただ黙って酒を喉に流し込む。飲み続け、酔いが回ったころ。小夜は陵を乱暴に突き飛ばした。よろめきながら床に倒れた陵を、小夜は無慈悲に蹴りつけた。「小夜、もういいか?これで……取引してもらえるか?」陵はほとんど意識を失いかけながらも、今日ここに来た目的だけは忘れていなかった。小夜は深く息を吐いた。怒りは多少鎮まったが、胸の奥にはまだ憎しみが燻っていた。ちょうどその時、藤井会長が間に入ろうとしたが、陵が突然うわごとのように呟いた。「叶音、会いたい。迎えに来て……」「高瀬陵!」小夜の怒りは一気に爆発した。テーブルにあったビール瓶を掴み、思い切り陵の頭に叩きつけた。「ふざけるな!たとえ今ここで飛び降りたって、取引なんかしてやらない!お前の会社なんか、潰れてしまえ!」吐き捨てるように言い放ち、小夜は怒りに任せて店を後にした。ビール瓶は見事に陵の額を割った。血がとろとろと流れ落ちる。陵は朦朧としながら、自分の額に手をやった。「叶音、血が出てるよ……薬箱、持ってきて……」ずっと外で待っていたアシスタントが、慌てて駆け寄った。小夜と取り巻きたちが去るのを見計らって、店に飛び込んだのだ。血まみれで、泥酔した陵の姿を見て、アシスタントは目を見開いた。「社長、大丈夫ですか!?」「叶音、どこ?」陵はアシスタントの袖を掴み、泣きながら叫んだ。「叶音に会いたい!迎えに来てって、言ってよ!」「
「高瀬社長、おいでになったんですね?」ソファにふんぞり返った男が、にやりと笑いながら陵を見上げた。見覚えのある顔だった。 この男——藤井会長だった。「藤井会長……」陵は細めた目で小夜を見た。一体どうして、彼女がこんな姿に——なぜ、こんなふうに男に触れられるままなのか。「遅かったな。ペナルティとして三杯、一気だ」藤井会長は、テーブルに並んだ酒を指差した。陵は時計を見た。決して遅れてはいない。むしろ、指定時間より早く到着していた。「どうした?困っているんじゃないのか?頼み事をする立場なら、これくらい飲んで当然だろ?」隣の席では、白川会長も女を抱きかかえ、下品に笑っていた。その女も、小夜と同じ芸能界出身者だった。——以前、同じ時期にデビューした女優だ。腐った光景に、陵は怒りを抑えきれず、小夜の手を掴んだ。「何してるんだ、小夜!一緒に帰るぞ!」「放して!」小夜は陵の手を振り払った。「何を勘違いしてるの?今日あなたがここに来た理由、わかってる?藤井会長に頼みに来たんでしょ?あなたの会社、今めちゃくちゃなんだから!」小夜は冷たく笑った。「財務部長が横領して、建設現場で事故も起きた。取引先も離れ始めてる。焦るよね、当然」その通りだった。焦らないわけがない。陵の父親が一代で築き上げた高瀬グループ。自分の代で潰すわけにはいかなかった。「藤井会長、どうすれば契約を継続してもらえるんですか?」「今日の主導権は、俺たちじゃない」藤井会長はにやにやと小夜を見た。「すべては小夜ちゃん次第だ」そう言うと、藤井会長は油っぽい顔を小夜に近づけ、平然とキスをした。小夜は拒まなかった。むしろ、甘ったるい声で甘えた。「藤井会長、ほんとに優しいのね」そして、彼女の方からも藤井会長にキスを返した。陵は、拳を握り締めながらその光景を見つめた。「小夜」「小夜なんて呼ばないで」小夜は無表情で言い放った。「早見さん、って呼びなさい」そして、ソファに優雅に腰を下ろすと、冷たく告げた。「取引したいなら簡単よ。そこにあるウイスキー、二本とも飲み干して」陵は顔をしかめた。ボトル二本を飲み干すなんて、命に関わる。「どうしたの?怖じ気づいた?父親が命を懸けて守った会社を、自分の手で潰す気?」小
陵は休む間もなく飛行機に乗り、急ぎ戻った。帰国後すぐに、アシスタントが各不動産業界の重鎮たちとの面会をセッティングしようと動いた。「どうだ?藤井会長や白川会長には会えるか?」「申し訳ありません、社長」アシスタントは困った顔で答えた。「どちらも契約解除を強く主張していて、面会自体、断られました」「どうしてだ?」陵には心当たりがなかった。これまでの取引は順調だったはず。普通なら、こんな急な態度の変化はあり得ない。何か、自分の知らない大きな問題が起きたとしか思えなかった。「それに……」アシスタントは言い淀んだ。「財務部長が公金横領で逮捕されました。さらに、いくつかの物件で労働者が自殺未遂を起こし、大きな社会問題になっています」陵の表情が一気に険しくなった。「分かった」「それと、社長」アシスタントはさらに声を潜めた。「早見さんが、社長のオフィスでお待ちです」「早見小夜?」その名を聞いた瞬間、陵の顔はさらに曇った。「会いたくない。忙しいって伝えてくれ」「でも、彼女、この数日間、毎日のように来てたんです。一度だけでも会った方がいいかと……」「わかった」ここではっきりさせなければ、彼女も諦めないだろう。陵は重い足取りでオフィスのドアを開けた。ソファに座っていた小夜が、だるそうに顔を上げた。「陵さん、帰ってきたんだ?」「用件は何だ?」陵は彼女に目もくれず、デスクへ向かい、書類に目を通し始めた。会社は今、火の車だ。彼女に構っている暇などない。「もう十分言ったはずだ。俺たちの間には何も残っていない。早く帰れ」「本当に冷たいのね」小夜は陵の正面に立ち、冷たい目で見下ろした。陵が顔を上げて彼女を見た瞬間、違和感を覚えた。小夜が、変わっていた。以前は清楚なイメージで売っていたはずだ。いつもナチュラルメイクだった彼女が、今日は真っ赤なリップに、派手な巻き髪。服装も、肩を大胆に露出したスリット入りのロングドレス。「小夜、どうしたんだ、その格好は」「気に入らない?」小夜は笑った。「陵さん、こういうの、好きじゃない?」彼女は陵の背後に回り、そっと彼の首に手を回した。赤い唇が陵の耳元に触れる。「あなたが望むなら、このオフィスでだって、私は構わないよ」「小夜!」陵は怒り