夕方のフロアには、どこか乾いた空気が流れていた。照明の光が微かに黄味を帯びて、書類の端を淡く照らしている。時計の針は五時を回ったばかりだったが、今の鶴橋には、それがもう深夜のように思えた。
手元の書類に赤ペンで印をつけながら、鶴橋は何度も溜息を吐いた。データの整合性が取れないのは、プロジェクトの根幹自体が不安定になっているからだ。上層部の指示もなければ、スケジュールの修正もない。鶴橋が何度かメールで問い合わせた文書は、いまだに返答がないままだった。
机の端に手を置いて、ぐっと立ち上がる。資料を数枚クリアファイルにまとめて手に取り、まっすぐ安住課長のデスクへと向かった。決して足音を立てたわけではないが、その歩みには焦りと苛立ちがにじんでいた。
安住は椅子にもたれかかりながら、マグカップを手にしていた。ディスプレイには取引先とは無関係そうなニュースサイトの画面が開かれている。鶴橋が近づくと、安住はちらと視線を上げた。
「おう、どうしたん」
声は、どこまでも軽かった。
「課長、この〈港南開発〉案件の資料、どこまで出せばええか明言されてへんのですけど。工程表も、今のままやと流動的すぎて…」
言いながら鶴橋は、手元の資料を机の上に差し出した。ところが、安住はそれに手を伸ばそうともしなかった。
「ああ、それ? いやあ、それはもう、各自で対応してくれへんと」
あっさりとした返答だった。冗談かと思ったが、安住の目には、何の迷いもなかった。
「各自って……課長、これ、うちらだけで判断してええ問題ちゃいますよ。先方の意向、ちゃんと確認せな…」
「いやいや、自分らももう若手ちゃうんやから。ええ加減、自分の裁量で動けるようにならんと。俺も一個ずつ見きれへんで?」
そう言って、安住はマグカップを軽く揺らして、一口啜った。ほんのり立ち上るお茶の湯気が、ふわりと空中で滲んで消えた。
「任すわ。ほんま、頼りにしてるから」
笑みすら浮かべていた。だが、その笑みには責任の重さも、現場への理解も、ひと欠片も感じられなかった。
鶴橋は、返
フロアには、静けさだけが残っていた。天井の照明のいくつかは既に落とされ、光と影のコントラストがそこかしこにゆるく伸びている。時計は午後九時をまわり、エアコンの気流が低い唸りを上げるなかで、デスクに残っているのは二人だけだった。今里はいつものように背筋を伸ばし、画面に集中していた。白く光るモニターの光が頬を淡く照らし、静かな呼吸のリズムに合わせて、指先がキーボードを打つ。ファイル名を整え、資料のバージョンを更新し、次に備えるような準備作業を淡々と進めていた。その姿を遠くから見つめていた鶴橋は、胸の奥に何かが静かに満ちていくのを感じていた。焦りでも怒りでもない、けれど、言葉にしなければ流れてしまいそうな、そんな思いだった。深く息を吸い込む。呼吸が肺に広がる感覚を、心の中で確かめながら、鶴橋はゆっくり立ち上がった。自席から、今里のデスクまでは十歩にも満たなかった。けれど、その一歩一歩が、これまでになく重く感じられる。近づくたびに、鶴橋は自分の鼓動が耳の奥で響くのを感じていた。「あの…今里さん」呼びかける声が、天井の蛍光灯の揺れる音にまぎれる。今里の手が、ほんの一瞬だけ止まった。画面から目を離すと、ゆっくりと顔を上げる。伏せたまつげの奥の瞳が、こちらをとらえる。その視線の静けさに、鶴橋は少しだけ肩をすくめる。だけど、逃げたくはなかった。「俺…あのときの今里さんの仕事、まだ覚えてます。〈柴田不動産〉んときの資料、ほんまに、すごかったです。数字も構成も完璧やったし、空気まで変わった気がして…俺、あれを、もう一回見たいって、ずっと思ってました」言葉が、自然と口から出ていった。用意したものでも、考え抜いた台詞でもない。ただ、自分の心の底から出た、本当の気持ちだった。「……」今里は何も言わなかった。ただ、視線が少し揺れて、デスクの端を見やるように動いた。そのわずかな間に、鶴橋は続けた。「俺ひとりでは、どうにもできへん。現場も動揺してるし、上は頼りにならへん。けど、今里さんの力を借りられたら、なんとかなる気がするんです」
夕方のフロアには、どこか乾いた空気が流れていた。照明の光が微かに黄味を帯びて、書類の端を淡く照らしている。時計の針は五時を回ったばかりだったが、今の鶴橋には、それがもう深夜のように思えた。手元の書類に赤ペンで印をつけながら、鶴橋は何度も溜息を吐いた。データの整合性が取れないのは、プロジェクトの根幹自体が不安定になっているからだ。上層部の指示もなければ、スケジュールの修正もない。鶴橋が何度かメールで問い合わせた文書は、いまだに返答がないままだった。机の端に手を置いて、ぐっと立ち上がる。資料を数枚クリアファイルにまとめて手に取り、まっすぐ安住課長のデスクへと向かった。決して足音を立てたわけではないが、その歩みには焦りと苛立ちがにじんでいた。安住は椅子にもたれかかりながら、マグカップを手にしていた。ディスプレイには取引先とは無関係そうなニュースサイトの画面が開かれている。鶴橋が近づくと、安住はちらと視線を上げた。「おう、どうしたん」声は、どこまでも軽かった。「課長、この〈港南開発〉案件の資料、どこまで出せばええか明言されてへんのですけど。工程表も、今のままやと流動的すぎて…」言いながら鶴橋は、手元の資料を机の上に差し出した。ところが、安住はそれに手を伸ばそうともしなかった。「ああ、それ? いやあ、それはもう、各自で対応してくれへんと」あっさりとした返答だった。冗談かと思ったが、安住の目には、何の迷いもなかった。「各自って……課長、これ、うちらだけで判断してええ問題ちゃいますよ。先方の意向、ちゃんと確認せな…」「いやいや、自分らももう若手ちゃうんやから。ええ加減、自分の裁量で動けるようにならんと。俺も一個ずつ見きれへんで?」そう言って、安住はマグカップを軽く揺らして、一口啜った。ほんのり立ち上るお茶の湯気が、ふわりと空中で滲んで消えた。「任すわ。ほんま、頼りにしてるから」笑みすら浮かべていた。だが、その笑みには責任の重さも、現場への理解も、ひと欠片も感じられなかった。鶴橋は、返
昼下がりの営業フロアは、いつもと同じ蛍光灯の白に照らされながら、どこか色の抜けたような気配を漂わせていた。天井の空調の音が妙に耳に残り、キーボードの打鍵音や椅子のきしむ音すら、やけに乾いて響く。鶴橋は自席でデータを打ち込んでいたが、ディスプレイの文字列が妙に頭に入ってこなかった。昼食から戻ると、自分の机に伏せられた一枚の紙があった。何気なく手に取り、目を通した瞬間、胸の内側に冷たい液体を流し込まれたような感覚が走った。《営業プロジェクト再構成に関するご連絡》要点だけを抽出するようにして、ざっと目を滑らせる。内容自体は、表向きには“業務効率の見直し”や“事業選別”といった建前の言葉で並べられていたが、実際に書かれていない部分が大きすぎて、逆に意図がはっきりと読み取れた。これは、“誰かを切る”準備だ。鶴橋はゆっくりと用紙を戻し、無意識のうちに周囲の様子を見まわした。村瀬がプリンター横で、同期の西田と小声で話している。彼らの表情には、明らかに不安と苛立ちが浮かんでいた。「マジでウチ、やばいっすよね」「課長なんも動いてへんし」「でもさ、やる気出しても意味ないって空気やん。誰が何しても、どうせ“上”が決めるだけやろ」会話の断片が、妙に耳につく。押し殺された声なのに、やけに大きく聞こえる気がするのは、神経が研ぎ澄まされているせいか。数歩先で、佳奈が書類をまとめながら、眉をひそめていた。「なんか、会社が会社ちゃうみたいやね。いつもやったら誰かが“まあ大丈夫やろ”って言ってくれるのに、今日は誰も言わへん」そのつぶやきは、自分に向けてではなく、空気そのものに対して投げかけられたような言葉だった。鶴橋は、深く息をつきながら、手元のボールペンを握り直した。指先に力を入れると、わずかにペン軸がたわむ。その小さな感触だけが、今この瞬間に確かに自分が“ここ”にいるという証のように思えた。ディスプレイの文字がにじんで見えた。焦点が合
フロアの時計が午後六時を回る頃、天井の照明が一段と白さを増し、定時を知らせるチャイムが遠慮がちに鳴った。けれど誰も立ち上がらず、鞄のファスナーを引く音も、椅子を引く音も聞こえてこなかった。今日の社内は、それほどまでに静かだった。空気の層だけがずっしりと重く、机の間を緩慢に流れていく。鶴橋はモニターの画面をぼんやり見つめながら、ふと斜め前方の席に視線を移した。今里が、いた。整然と並んだ文具。モニターにはスライドの構成案。指先が無駄のない動きでページをめくり、時おりメモ帳に短く書きつけていく。姿勢は崩れず、背筋はすっと伸びたまま。淡いブラウスの袖が手首で静かにたわみ、光に透けていた。まるでそこだけが別の時間を生きているようだった。荒れかけた船の甲板の上に、ひとりで立ち続けているような、その静けさ。誰もが心の中で揺れているこの時間に、どうしてこの人だけが、そんなに静かでいられるのか。鶴橋は自分の胸の奥で、なにかがきゅっと締めつけられるのを感じた。「…すごいな」思わず、口の中で小さく呟いていた。けれどその言葉には、感嘆だけではなく、別の感情が混じっていた。羨望。戸惑い。哀しみに近い、どこか切ない驚き。まるでこの世界とは違う時間を生きているような。誰にも寄りかからず、誰にも期待せず、ただ自分の仕事だけを見つめている。その強さに、同時に感じる孤独の匂い。今里は、そのときも鶴橋に気づいていないふうだった。あるいは、気づいていても、あえて目を合わせないのかもしれなかった。一度だけ、資料の端を確認するために、微かに首を傾けた。その仕草さえも、柔らかで静かだった。(この人は、どこまでひとりで、全部抱えていくつもりなんやろ)このフロアの空気が、崩れかけているのを知っているはずだった。いや、誰よりも早く気づいていたのは、今里だったのかもしれない。何も言わず、何も問わず、ただ静かに整理し、整え、誰にも頼らず、自分だけのペースで前を向いている。それは、強さというよりも…諦めのようにも見えた。鶴橋は椅子の肘掛け
午後五時を過ぎても、フロアの空気は緩まなかった。むしろ、日が傾くほどに緊張の密度が増していくようだった。電話の音ひとつ、コピー機の作動音ひとつ、それらすべてがどこか刺々しく響いて聞こえる。誰もが自分のディスプレイを見つめているふりをしていた。キーボードを打つ手は、必要以上に素早く、ミスを恐れているというよりも、なにかを誤魔化すような速さだった。空気が冷たい。エアコンの設定が変わったわけでもないのに、肩口から背中にかけて、ぞわぞわとした冷たさが這い寄ってくる。鶴橋は、黙ってモニターに目を向けたまま、さりげなく視界の端でフロア全体を観察していた。村瀬がプリントアウトされた紙を持ったまま、何度もそれを見直しては、隣のデスクの中原と小声で何かを交わしている。佳奈は椅子に深く腰掛けたまま、モニターに表示されたエクセルの表にペン先を当て、ぴくりとも動かない。その瞬間、携帯が鳴った。中原のだった。内容までは聞こえないが、通話を終えた彼の表情が、目に見えて曇る。次に彼は、小声で安住課長の席に近づき、「…すみません、今日はちょっと、早めにあがっても大丈夫ですか」と言った。耳を疑った。今は、業務の中心である月末締めの作業が山積みで、誰もが残業を覚悟していたはずだった。それなのに、そんなタイミングで早退を申し出るというのは、ただの体調不良などではない。鶴橋は自分の手が、微かに震えていることに気づいた。書類を綴じるクリップの位置が、いつもよりもほんの数ミリ右にずれているのが気になり、無意味にそれを直して、また直して、また戻してしまう。安住課長は、無表情のまま頷いた。「ああ。じゃあ、気をつけて帰れよ」それだけだった。そこに怒りも、困惑も、安堵もなかった。ただ、空っぽの声色。上司としての責任を、もう果たす気もないような響きが残った。他の社員も、それを見ていたはずだった。だが、誰も言葉を発しなかった。キーボードを叩く音が、なぜか大きく聞こえた。換気口から流れてくる風が、天井の照明をほんの少しだけ揺らしていた。(この空気、やばい)鶴橋は、自分の内側で何かがざわめき出すのを止められなかった。決して大きな出来事があったわけではない。契約打ち
午後の空気は妙に乾いていた。フロアの空調は一定の温度に保たれているはずなのに、どこか肌にひっかかるような違和感がある。印刷機の音が規則的に鳴り、誰かのキーボードを叩く音が一定のリズムで重なっている。それは、いつもの午後のはずだった。だが、その「いつもどおり」が、今の鶴橋にはかえって落ち着かなかった。視線の先には、印刷機の前で立つ今里の背中がある。淡いグレーのシャツ、少し折れた肩のライン。ファイルを両手に持ち、印刷された紙を順に確認しては、静かにページを揃えている。その所作は、いつもと変わらなかった。いや、変わらなすぎた。会社が揺れているこの状況で、安住課長も村瀬も落ち着きを失いかけている中、今里だけは、ただ黙々と、自分の仕事を正確にこなしていた。「…すごいな」と思う一方で、その「乱れなさ」が今の鶴橋には、どこか怖くも映った。(この人、なんで…こんなときでも、あんな顔していられるんや)心の中で、そう呟いた。別に責めているわけではなかった。むしろ、尊敬に近い感情だったはずだ。だが、それはもう尊敬だけではなかった。怖さに近い。あるいは、自分とは決定的に違う種類の人間であることを突きつけられているような…そんな疎外感。今里の指が、紙の端を一枚めくった。ほんのわずかに手首が動き、揃えられた紙の山が整う。その動きのひとつひとつに、感情の起伏はない。ただ、正確で、美しい。(なにを…考えてるんやろ)心の中で、また問いが浮かぶ。彼の中には、怒りも、焦りも、不安もないんだろうか。今の会社の状況を、どう見てるんやろう。俺と、同じように揺れてるんやろうか。それとも…もう、そんなことに興味すらないんやろか。鶴橋の胸に、答えの出ない問いだけが、じわじわと広がっていく。そのとき、今里がファイルを腕に抱えて振り返った。印刷を終えた報告資料を持ったまま、通路を歩き出す。鶴橋の近くをすれ違うとき、一瞬だけ足を緩めて、今里は静かに頭を下げた。「お疲れさまです」声は出なかった。ただ、会釈だけだった。けれど、その一礼の角度が、いつもより少し深く