共有

第7話

作者: ラクオン
彼女の何気ない声を聞いた瞬間、一真の心臓がチクリと刺されたような気がした。

彼は思わず眉をひそめた。

「どうして急に捨てるの?あんなに大事にしてたウェディングドレスなのに」

梨花は黙ってうなずいた。

この三年間、彼女はわざわざクローゼットにスペースを作り、そのドレスを吊るしていた。年に一度はクリーニングにも出して手入れしていた。

大切にしていたのは「人は一度の結婚を大事にしなきゃ」と思っていたからだった。

だからこそ、結婚式のドレスも記念として大事にすべきだと。

しかし今は離婚を決意した。

一真はきっとすぐに好きな人を嫁に迎えるのだろう。

あのドレスも、自分も、この家の中では「余計な存在」に過ぎなかった。

梨花は静かに微笑んだ。

「破れちゃったの。つい最近、大きな穴を見つけてね」

「でも、そんな簡単に捨てるものじゃないだろ」

一真は彼女の作り笑顔を見て、きっとまだ未練があるのだと思い込んでいた。

「だったら、ドレスショップにお願いして修理してもらうよう手配しようか」

「大丈夫」

梨花は首を横に振り、真っすぐに一真を見上げて言った。

「壊れたものは、もう修復できない」

彼女が言ったのはドレスではなく、人の心と、この「縁」だった。

言い終えると、彼女は背を向けて家に入っていった。

その歩き方にどこかぎこちなさが残っていて、一真はようやく思い出したように彼女を追いかけた。

「そういえば、あなた......怪我でもしてるのか?もう二、三日も足引きずってるだろ」

全てがもう手遅れだった。

でも、彼女には彼の罪悪感が必要だった。

梨花は静かに目を伏せて、淡々と事実を告げた。

「もう治りかけてたけど、昨夜、黒川に戻って、雪の中で四時間跪かされてたの」

「え?」

一真の顔が変わた。

彼女の赤く腫れた手のひらに視線が落ちた瞬間、彼の瞳が収縮した。

「手も......どうして?」

「打たれたの」

梨花の声は淡々としていて、まるで他人のことを話しているかのようだった。

彼は眉を寄せた。

「どうして、そんなに長く......それに叩かれるなんて......」

最後まで言葉にするのが怖かった。

梨花は黒川家の娘ではなかったのか。

一体なぜ、一度戻っただけでここまでの仕打ちを......

梨花はふと顔を上げ、じっと彼を見つめた。

頭の中にかつて彼と結婚する未来を夢見ていた日々が浮かんだ。

本気で彼と一生添い遂げたいと思っていたのに。

言葉が詰まり、しばらく黙っていたが、やがて、押し殺した苦さを呑み込み、笑顔で答えた。

「だって、一真が一緒に帰ってくれなかったから」

彼の喉が軽く鳴った。

「笑ってるけど......痛くなかったのか?」

「痛かったよ」

梨花は素直に頷いた。

「でも、もう慣れてるの」

「慣れてる?」

「うん」

手のひらを軽く握りしめながら、まるで他人ごとのように言った。

「一真が付き添わずに帰る時は、決まってこうなるから」

実際には、それだけじゃない。

小さい頃から、お祖母様が気に入らないことがあれば、罰は避けられなかった。

敷き詰められた石の上で跪く場所は、彼女専用の場所だった。

六歳で黒川家に引き取られた頃には、すでに完璧に跪くことを覚えていた。

膝、下腿、足の甲が一直線になるように、石にぴったりと沿わせる。

一真は膝をつき、彼女のロングスカートをそっとめくた。

膝は大きく腫れ上がり、広い範囲に青あざができていた。

ふくらはぎの肌も綺麗なところは一つもなく、あちこちに青い痣が広がっていた。

その白く繊細な肌との対比で、いっそう目を引く痛ましさだった。

先日の桃子のほんのり赤くなった膝など比べ物にならない。

一真の胸に、燃えさかるような怒りが込み上げた。

彼は梨花を抱き上げファへ運んだ。

「なんで僕に電話しなかったんだ?」

鈴木家と黒川家は、以前こそ互角だったが、竜也が跡を継いでからは、急激な改革で差がつき始めていた。

だが、彼の妻がこんなふうに踏みにじられるほど、弱い立場ではない。

梨花は澄んだ瞳で、無垢な口調で問い返した。

「だって、急用があるって言ってたじゃない?きっと、大事なことなんだろうと思って、邪魔しちゃ悪いかなって」

「......」

一真は言葉を失った。

もし、桃子のお見合いを止めに行った代償がこれだったとしたら、自分はそれでも行っただろうか。

そんな問いが頭をかすめた瞬間、見上げてくる彼女の大人しい顔が目に映った。

胸が詰まるような感覚に襲われながら、彼は救急箱を取り出して、手当てを始めた。

「今までも打たれてたのか?なんで一度も言わなかったんだ?」

梨花は黙っていた。

ずっと鈴木家の奥さんとしてちゃんと振る舞いたかった。

一真のことも本気で信じていた。彼が「いい夫」でいてくれると。

外から見れば、黒川家は彼女の実家同然。そんな家で自分の夫の悪口を言えるわけがない。

だって、彼は自分をそこまで愛していなかったから。

いや、愛されていなかった。

ようやく、先日知っただけだ。

けれど、幸いだったのは、彼の愛に頼って生きてきたわけではないということ。

梨花は手を膝の上に置きながら、指先を軽くつまむ。

「あなたを黒川家との間で困らせたくなかったの。鈴木家にとって黒川家との関係は大事でしょ?」

彼女は本心を語れなかった。

けれど、嘘をつくなら、本気でつかなければ。

一真は、その言葉を聞いて、喉が詰まるような罪悪感に襲われた。

彼女の「思いやり」は、自分が彼女を傷つけるための材料にされるべきじゃなかった。

深く息を吸い込み、彼は彼女の髪を撫でて、優しく語りかける。

「ごめん。僕が悪かった。結婚記念日だって一緒に過ごせなかったしな。梨花、欲しいものは?何でも買ってやる」

「うん......」

梨花は一瞬考えて、微笑む。

「じゃあ、私からの誕生日プレゼントを、ちゃんと喜んでくれたら嬉しいな」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

二十歳の誕生日の梨花は、「一真と結婚したい」と願った。

二十四歳の今の願いは、「一真ときっぱり離れること」

彼の真摯なまなざしと目が合ったとき、一瞬、心が痛い気がした。

だが次の瞬間、彼のスマホが鳴った。

いつもと違う、専用着信音。

ちらりと画面を見て、梨花は名前を確認した。

「桃子」

一真が電話に出た。

「そんなにひどいのか?どうして運転手を呼ばなかったんだ。足を捻った?すぐ場所を送って、今直ぐに行く!」

電話を切ると、彼はすぐ立ち上がった。

だが、まだ梨花の薬は塗りかけたまま。

綿棒に薬がついたまま、彼は少し戸惑った様子で手を止めた。

梨花は黙ってその綿棒を受け取り、柔らかく微笑んだ。

「私がやるから平気。急ぎの用なら、早く行ってあげて」

「うん」

一真は少し安心したような表情を浮かべ、思わず説明を加えた。

「桃子が怪我したみたいで。子ども連れて一人だったし、ちょっと見てくる」

そう言い残し、彼は家を出て行った。

背中を見送る中、梨花はふとした疑問を口にした。

「一真......どうして一度も、彼女のことお姉さんって呼んだことないの?」

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
コメント (1)
goodnovel comment avatar
おすがさま
誰もコメントないね~ いつものパターンなんだけど、男って(一真)気づかないのかな~……兄嫁がそんなに大事!!もしかして、子供も自分の子供か?
すべてのコメントを表示

最新チャプター

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第702話

    電話の向こうには、短い沈黙が落ちた。やがて、篤子は歯ぎしりをするような声で言った。「どうしてなの?石神さん、あなたが今持っている力なら、梨花の小娘一人どうとでもできるはずでしょう!?」「彼女は竜也と三浦家のアキレス腱なのよ。あの子の首根っこさえ押さえれば、あの二つの家の命運を握ったも同然じゃない! 私と貴之の雪辱を果たすなんて、あなたがその気になれば造作もないことでしょう!?」こんな、誰からも冷たい目で見られるような惨めな日々は、もう一日たりとも耐えられなかった。昔、彼女が黒川家に君臨していた頃は、たとえ竜也に実権を奪われた後でさえ、周囲の人間は皆、彼女の前では頭を垂れていたのだ。それが今ではどうだ。誰もが彼女を疫病神のように避け、ひどい者になると、面と向かって嘲笑し、侮辱してくる始末だ。隆一は静かに言った。「今は昔とは違う。一歩でも油断すれば、DKを守るどころか、俺自身の首まで飛ぶことになる」三浦家と竜也は、血眼になって「石神」の行方を捜しているはずだ。「慎重の上にも慎重を期さなければならん。最も適切な時期を待っているのだ」「適切な時期なんてないんでしょう……」篤子は絶望に満ちた声で彼を追い詰めた。「それとも、昔の思い切りの良さはどこかへ消え失せて、ただの優柔不断な臆病者に成り下がったの!?」組織の力で言えば、彼が現在握っている力はあの頃に劣らないどころか、さらに強大になっている。彼は二十年間服役していたが、その間、善治が組織を引き継ぎ、海外でさらに規模を拡大させ、強固なものに育て上げていたからだ。傭兵や死を恐れぬ暗殺者の数には事欠かないはずだ。それなのに、出所してこれだけ経つというのに、いまだに竜也に手も足も出ず、自分と貴之のために黒川家を取り戻してくれないとは、篤子には到底信じられなかった。「もう少しの辛抱だ。その『適切な時期』はもうすぐやって来る」隆一は極めて穏やかな口調で彼女をなだめた。だが、何を思いついたのか、その眼底には冷酷で計算高い刃のような光が走った。「ここ数日、梨花の腹を見ていたが……あと二、三ヶ月もすれば生まれる頃合いだ」「あなた……」篤子の胸に渦巻いていた不満が一瞬で消え去り、声に歓喜の色が蘇った。「なるほど……あの腹の子供を狙うつもりね?」口にし

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第701話

    言葉遣いこそ丁寧だが、梨花は、その声の底に鋭い刃のような「探り」が隠されているのを敏感に感じ取った。隆一の言葉を、彼は一文字たりとも信じていないのだ。梨花もまた、半信半疑だった。タイミングが良すぎる。昨夜、三浦家が徹底的に真相を洗い出したばかりだというのに。そして今朝早く、隆一から電話があり、自ら昨日の「断言」をあっさりと覆したのだ。だが……。千鶴にしても海人にしても、この件に関して絶対に他人を介入させるようなことはしない。せいぜい、ごく限られた側近を動かす程度だ。昨日、自分が三浦家とどんなやり取りをしたかなど、隆一が知る由もないはずだ。彼女が疑惑の目を向けると、隆一は杖をついて身を起こし、困惑したように言った。「黒川社長……佐藤先生……それは……」「本当に申し訳ない。俺の旧友も、おそらく何かの勘違いをしていただけなのだろうと思う。彼とは長年の付き合いでしてな……これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかないんだ」身振りも口調も、極めて自然だった。梨花は何かボロを見つけようと観察したが、何一つ不審な点は見出せなかった。竜也はフッと笑っただけで、それ以上は何も追及しなかった。ただ梨花の方を見て言った。「時間が押してる。先に篠原さんの治療をしてやってくれ」「ええ」隆一の現在の体調では、昨日と同じ処方箋は間違いなく使えない。梨花はまず鍼治療を施して当面の呼吸困難を和らげ、その後、新しい薬を処方した。処方箋を執事に渡した後、梨花は篠原隆一を見て言った。「篠原さん。今後、私がここまで往診に来る時間はおそらく取れません。田中先生に連絡して、毎週一つ、必ず診察の予約枠を確保してもらってください」その声は淡々としていたが、明らかに「提案」ではなく「決定事項」だった。言い終えると、彼女はきびきびと身を翻し、竜也と共に部屋を出た。執事が見送ろうとしたが、梨花はそれを制した。「結構です。それよりも、篠原さんを立たせて少し歩かせてあげてください。それから、消化の良いお粥のようなものを食べさせてあげてください」中庭から黒のベントレーが走り去るのを見届けてから、執事はようやく隆一を支えて起き上がらせた。「旦那様……彼らは信じたでしょうか?」その問いを聞いて、隆一は目を細めた。だが、その眼差しに宿

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第700話

    婚約者。その言葉を、彼女はごく自然に口にした。まるで長年連れ添った夫婦のように、何のてらいもなく。それを聞いた竜也は、心臓の奥のどこかを柔らかく引っ掻かれたような感覚を覚えた。くすぐったくてたまらず、無意識のうちに口角が微かに上がっていた。執事は特に不審に思う様子はなかったが、梨花の隣に立つこの男がただ者ではないことは痛いほど感じ取っていた。今の自分たちが下手に機嫌を損ねていい相手ではない。「もちろんでございます」彼は恭しく「どうぞ」と手を差し伸べ、先立って案内を始めた。隆一の寝室に足を踏み入れ、ベッドに横たわる人物を見た瞬間、梨花は無意識に眉をひそめた。顔色が黒ずんでいる。明らかに昨日よりも状態が悪い。彼が嘘をついていたわけではなかった。病状は確かに悪化している。隆一は眠っているようだった。執事が声をかけて知らせた。「旦那様、佐藤先生がお見えになりました」隆一はようやく薄く目を開け、力のない視線を梨花に向けた。そして身を起こそうとしながら、執事の方を向いて叱りつけた。「佐藤先生がいらっしゃったのに、どうしてすぐに俺を呼びに来なかったんだ……俺が下へ降りたのに」「そのまま横になっていてください。無理に動くと症状が悪化します」梨花は彼を制止した。「……佐藤先生、わざわざすまないな」篠原隆一はそう言うと、ふと傍らに立つ長身の男に視線を移し、その瞳を微かに見開いた。「黒川社長……黒川社長ではありませんか。どうしてこちらへ?これは……お出迎えもできず、大変失礼いたしました!」竜也は表情を変えず、いかにも意外だという風に言った。「篠原さん、俺をご存知で?」「もちろん、存じ上げておりますとも」隆一は頷き、ひどく感服したような口調で言った。「若くしてあれだけの大権を握っておられる……潮見市であなたを知らない者など、そうそうおりませんよ」竜也は彼を一瞥し、漫然とした口調で返した。「買い被りすぎですよ」明らかに、これ以上言葉を交わすつもりがないことは明白だった。隆一もその空気を察し、大人しく梨花に向かって腕を差し出した。「佐藤先生……よろしく頼む」梨花が指を添えてから、一分も経たないうちに手を離した。「篠原さん、怒りは体を激しく消耗させます。……あなたがこのような状

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第699話

    梨花がクリニックの入り口へ出ると、すでに一郎が車を回して待っていた。梨花が出てきたのを見るや否や、一郎は素早く車を降りて後部座席のドアを開け、ニカッと笑って言った。「お嬢様、そろそろ出てこられる頃だと思ってましたよ」「ありがとう、一郎さん」梨花は微笑んだ。まるで、学生時代に戻ったかのような感覚だった。あの頃も、一郎はいつも彼女が校門を出る時間を正確に予測して車を寄せ、少しでも彼女が歩く距離を減らそうとしてくれていた。唯一違うのは、あの頃はいつも後部座席で竜也が待っていてくれたことだ。今はお互いに自分の仕事で忙しいから……。そんな風に物思いに耽りながら、開かれた後部座席に目を向けた瞬間――漆黒の瞳とバッチリ視線がぶつかった。彼女が呆然としていると、男が先に口を開いた。「お前の職場は、退勤後に罰でも立たされるのか?」「……」相変わらず口が悪い。わざわざ迎えに来てくれたくせに。梨花はあえて反論せず、ニコニコと車に乗り込み、わざとらしく尋ねた。「どうして来たの?」竜也は彼女を横目でチラリと見た。彼女がどんな言葉を期待しているかなど百も承知だ。彼はそのまま彼女の手を握りしめた。「迎えに来たんだ。一緒に帰ろう」梨花は心底満足した。「……でも、その前に篠原さんの家に行かなくちゃいけないの」彼女は正直に話した。「今朝、彼から電話があって、具合が悪いって。急に病状が悪化したんじゃないかって心配で」昨日治療したばかりとはいえ、患者の生活習慣次第で病状が急変する可能性は常にある。竜也は眉をひそめた。「俺も一緒に行く」それを聞いて、梨花はさらに安心した。もともと一郎が付き添ってくれるなら心配ないと思っていたが、隣にこの男がいてくれるとなると、もう何も怖いものはないような気がした。ただ、彼はすでに隆一を疑っているのだから、これ以上あまり接触させないように引き止めるかと思っていた。「止めないの?」「どうして止める必要がある?」竜也の口調は意味深だった。「馬かロバかは、実際に引きずり出して走らせてみねぇと分からないからな」どうも、この男は一筋縄ではいかない気がする。隆一の身元や経歴に不審な点は何一つないというのに。梨花は彼の懸念を理解していた。「じゃあ、ちょ

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第698話

    梨花は少し歩みを止め、息を整えてから、診察室へ向かいながら怪訝そうに尋ねた。「どこかお加減が悪いのですか?」普通に考えれば、昨日鍼治療を終え、処方を変えたばかりなのだから、急激に悪化するようなことはないはずだ。だが、隆一の弱々しい声は、とても演技には聞こえなかった。「ああ……」隆一は息が続かないようで、少し間を置いてから続けた。「今朝起きた時から、胸が苦しくてな……息をするのもやっとの状態なんだ」梨花は少し考え込んだ。「分かりました。まずはできるだけ横向きに寝ていてください。こちらの診察が終わり次第、すぐに向かいます。もしそれまでに症状が悪化するようであれば、迷わず救急車を呼んでください」彼の体の状態は、昨日脈を診たばかりだから大体把握している。呼吸困難という症状は、病状が悪化すれば確かに起こり得るものだ。ただ、昨日鍼治療をしたばかりで今日これほど悪化するとなると、何か別の問題が起きているのではないかと心配になった。隆一はホッと息をついたようだった。「ああ、それじゃあ……家で待っているよ」電話を切ると、梨花は気持ちを切り替え、患者の呼び出しを始めた。お昼近くになり、最後の患者の診察を終えた直後、和也がドアをノックして入ってきた。彼が満面の笑みを浮かべているのを見て、梨花も自然と笑顔になった。「何かいいことでもありました? すごく嬉しそうですね」「これを見てくれ」和也は自信に満ちた声で言い、一部の資料を彼女の前に置いた。梨花がそれを手に取って目を通すと、目元の笑みがさらに深くなった。顔を上げて和也を見る。「実験結果、もう出たんですね!?」それは、新型特効薬の最新の実験レポートだった。彼女の予想では、結果が出るまで少なくともあと一週間はかかるはずだったのだ。「ああ」和也は彼女の向かいに座り、穏やかな声で言った。「君が早く結果を知りたがっているのは分かってたからね。ここ数日、少しだけ残業して頑張ったんだ」それを聞いて、梨花は困ったように笑った。「『少しだけ残業した』なんて嘘でしょう」彼女自身も研究開発の最前線に立っていたからこそ分かる。これが和也の言うように「少しの残業」程度で出せる結果ではないということを。和也は話を逸らした。「それより、早くレポー

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第697話

    一度の情事が終わった時、梨花はまるで水の中から引き揚げられたように全身汗ぐっしょりで、枕に顔を埋めたまま指一本動かす力も残っていなかった。竜也はウェットティッシュを引き抜き、彼女の体を丁寧に拭き清めながら尋ねた。「シャワー、浴びるか?」「……いらない」梨花は慌てて拒否した。最近は終わった後、毎回彼がバスルームまで抱きかかえて行き、文句一つ言わずに体を洗ってくれるのだが、今日は絶対に嫌だった。なぜならこの男は全く信用ならない。洗っている最中にスイッチが入り、バスタブの中で強引に二回戦に突入することが多々あるからだ。今この瞬間、彼女はただひたすら眠りたかった。彼女の瞳はもともと色香を帯びた形をしているが、今はそこに生理的な涙が滲んでおり、男の理性を狂わせるほど艶めかしかった。竜也は喉仏を上下させ、下腹部へ向かって再び燃え上がろうとする熱を必死に抑え込んだ。彼は梨花を抱き上げて一度ソファに寝かせ、乱れきったシーツや寝具を手早く新しいものに取り替えてから、再び彼女をベッドに横たえた。「じゃあ、寝てろ」男は彼女の額にそっとキスを落とした。「俺はシャワー浴びてくる」梨花はもはやまぶたを開けることすらできず、もごもごと曖昧に返事をした。「……うん、早く行って……」翌日。普段は目覚ましなしで起きる梨花だが、今日ばかりは二回目のアラームが鳴ってようやく、のろのろとベッドから這い出した。昨夜、竜也は彼女の仕事を気遣って「時間」こそコントロールしてくれたが、「激しさ」は全く手加減してくれなかったのだ。体が重すぎる。彼女が着替えを済ませて一階へ降りようとした時、ドアが開き、黒のスーツをパリッと着こなした竜也が入ってきた。ひどく爽やかで、どこからどう見ても満ち足りた顔をしている。「よく『寝』れたか?」「……っ」梨花は彼がわざと言っているのだと分かり、ジロリと睨みつけた。「ええ、『寝る』ことは『寝た』わよ。でも、睡眠不足だわ」彼女は昨夜の激しさを恨むように、わざと皮肉を込めて言い返した。竜也は眉を上げ、彼女の腕に掛けられていたカシミヤのコートを受け取りながら、一緒に階段を降りた。そして彼女の耳元に顔を寄せ、悪びれる様子もなく尋ねた。「……で、結局ちゃんと『寝た』のか、『寝てない』のか、どっち

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第531話

    梨花の心臓が、不意に何かに鷲掴みにされたように痛んだ。電話の向こうは風の音が強すぎるのか、竜也には彼女の言葉がはっきりと聞こえていなかったようだ。「くちゃん、さっき何か言ったか?」梨花は深く息を吸い込み、胸の奥の苦しさを和らげようとした。「ううん、何でもない……ホテルに着いたの?」電話の向こうで彼は、どうやら屋内に入ったらしい。風の音が遮断され、静寂の中に彼のリズムいい足音が響くのが聞こえた。通話を切る前に、梨花は尋ねた。「後で連絡したい時は、またこの番号にかければいい?」「ああ」竜也は低い声で笑いながら問いかけた。「これで安心して眠れるか?」あ

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第506話

    霞川御苑?あそこは竜也の家なのに、なぜ海人が電話をかけてくるのだろう。梨花はすぐには答えず、逆に問い返した。「何かあったのですか?今清水苑にいて、奥様に鍼治療をしたところですけど」海人は頷いた。「ああ、知ってる」母の治療が終わっていて助かった。もし治療中に竜也のために医者を呼び出したなんて家族に知られたら、親不孝者だと罵倒されるところだ。海人は続けた。「実は智子さんのことなんだ。階段を降りる時に足首を捻挫しちゃってね。結構腫れてるんだけど、病院には行きたくないってきかなくて。とりあえず冷やしてはいるんだが」それを聞いた梨花は、二つ返事で引き受けた。高

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第495話

    ある瞬間、梨花は錯覚かと思った。――竜也のキスは、初めて触れ合ったあの夜より、明らかに上達している。この男の才能は……本当に、何をさせても抜群なのだ。そして、いつだって独学で何でも身につけてしまう。けれど、彼の口づけに身を沈めていくうちに、梨花の心も身体もすっかり安らいでいった。ただ一つだけ願うのは、自分の身の上のこと……どうか、どうか、両親がとんでもない悪事を働いた人間でないように。もし罪深い毒物取引に関わった人物だったりしたら……これまで必死に積み上げてきた全てが崩れてしまう。お願いだから、もう一度だけ、神様が味方してくれるように。でも、今この瞬間だけは何も

  • もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!   第488話

    研究所での新薬開発はそれほど切迫しておらず、梨花には十分な時間がある。以前のように残業続きということもない。夕暮れ時、綾香が近くを通りかかったため、梨花は仕事を切り上げて彼女の車に乗せてもらい、帰宅することにした。車に乗り込むと、綾香はハンドルを握りながら口を開いた。「ねえ、竜也とのことだけど、あなたが思ってるのとちょっと違うんじゃない?」梨花はきょとんとした。「どういう意味?」「口には出さないけど、彼があなたを選ぶつもりはないって、そう思い込んでるでしょ」昨夜の梨花の落胆ぶりを、綾香はしっかりと見ていた。「でもね、今日あなたが出かけて数分もしないうちに、竜

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status