Mag-log in篠原の口調はゆったりとしていて、勝利を確信した棋士のようだった。雅義は何も言わず、篠原が自ら続きを話すのを待った。篠原も、雅義が問い返すことなど期待していなかった。濁った瞳に得体の知れない暗い光を浮かべ、口を開いた。「彼女は、二十年以上前に行方不明になった三浦家の娘――三浦家の五番目の令嬢です」車内は静まり返っていた。あまりの静けさに、雅義は自分の心臓が一拍飛んだ音まで聞こえた気がした。「あり得ない」思わず言葉が口をついて出た。篠原は肯定も否定もせず、ただ笑った。「あり得ない?では近藤社長、三浦家が何の後ろ盾もないただの女医に、なぜあれほど肩入れするのだと思います?千鶴がなぜあれほど大ごとにし、自らあなたに彼女へ近づくなと警告したのでしょう」雅義は革張りのシートにゆっくりと背を預けた。頭の中で、いくつもの断片が目まぐるしくつながっていく。千遥が逮捕されたこと、淳平が海外へ追いやられたこと、三浦家の者たちが霞川御苑に頻繁に出入りしていたこと……一つひとつなら、ただの偶然にすぎない。だが、その中心に梨花を置けば、すべてがつながった。「竜也があの子を娶ったのも、単に惚れ込んでいたからというだけではないのでしょう」篠原は続けた。「三浦家が彼女を家族として迎え入れるのは時間の問題です。黒川家と三浦家が手を組めば……いや、もう手を組んでいましたね。だからこそ、あなたは反撃する隙すら与えられなかった。そうではありませんか?近藤社長、私が今差し出しているのは、あなたに残された唯一の背水の陣を敷く好機ですよ」雅義は何も言わなかった。窓の外に広がる灰色の空を見つめたまま、奥歯を強く噛みしめていた。事態は、考えていたよりもはるかに複雑で、はるかに危険だった。もし梨花が本当に三浦家の行方不明になった娘なら、今日の自分の振る舞いは、三浦家の逆鱗に触れたも同然だ。「篠原さん、そこまで教えて、何をお望みです?」低い声で尋ねた。「先ほど申し上げたでしょう」篠原は名刺をさらに雅義のほうへ押した。「私が欲しいのは竜也、あなたが欲しいのは近藤家。互いに必要なものを手に入れるだけです」「どうやって?」「竜也が何より大切にしているのは梨花と、彼女のお腹の子です」篠原の口調は、残酷なほど平静だった。「あの母
雅義は、差し出された名刺にちらりと目をやった。印刷されているのは名前と海外の電話番号だけで、ほかには何もない、いたって簡素な名刺だった。会社名も、肩書も記されていない。「篠原さんは先ほど、私と取引がしたいとおっしゃいましたね」雅義は名刺から視線を戻した。「どんな取引です?」篠原はすぐには答えなかった。濁った瞳の奥に鋭い光が浮かび、すでに勝利を確信しているかのようだった。彼は二人の間にあるセンターコンソールへ名刺を置き、指先で軽く叩いた。「近藤社長が今置かれている状況は、私もある程度把握しています。黒川グループが動いたことで、近藤家はプロジェクトを失い、潮見支社すら撤退に追い込まれかねない。そのうえ、三浦家の長女も一歩も引く気はない。近藤家でのあなたの立場は、かなり厳しいのでは?」「篠原さんは今日、誰かの差し金で説得にいらしたのですか?」雅義は聞き返した。「誰にも頼まれてはいません」篠原は首を振った。「私自身の意思で、あなたを訪ねてきたのです」「なぜ私を?」「あなたが、私の欲しいものがあるからです」篠原はゆったりと続けた。「そして私も、あなたが必要とするものを持っているのです」自分が必要とするもの。雅義はしばらく彼を見据え、先に口を開いた。「あなたは何を望んでいるのですか?」篠原はわずかに体を傾けた。濁った瞳に、冷ややかな鋭さが宿る。「黒川竜也です」その名は何気なく口にされたが、ひやりとするような冷たさを帯びていた。雅義はわずかに目を見開いた。「黒川竜也を?」「ええ」篠原はうなずき、確信に満ちた口調で言った。「黒川竜也を引きずり下ろすのです」雅義はすぐには答えず、真意を見極めるように数秒間、老人の顔を見つめた。しばらくして背もたれに身を預け、口元に意味深な笑みを浮かべた。「篠原さんは、ずいぶんと大きな獲物を狙っているようですね。黒川竜也が何者なのか、あなたのほうがよくご存じでしょう。潮見市で彼に手を出せる人間などいません」「私一人では、彼を倒せません」篠原はあっさり認めた。「ですが、あなたと手を組めば、勝機はある」雅義は目を細めた。「私に黒川家を敵に回せと?」篠原は落ち着いた眼差しを向けたまま、静かに答えた。「正確には、黒
千鶴の視線は、向かいの男の顔に向けられていた。その目には失望も、皮肉もなく、ただほとんど無関心に近い観察の色だけが残っていた。「あなた」彼女はそっと唇を開いた。声は大きくなかった。「私と条件交渉をするつもり?」雅義の背筋が強張った。表面上はまだあの誠実そうな表情を保っていた。「千鶴、君と条件交渉をしているわけじゃない。ただ……」「ただ何?」千鶴は彼を遮り、淡々とした声で言った。「ただ、離婚に応じることを引き換えに、竜也に手を引かせろと?あなた、本来やるべきことを切り札に使えるとでも思っているの?」雅義の顔から一寸ずつ血の気が引いていった。彼女の言う通りだ。この離婚届は、情理の面から言っても彼は必ず受け取らなければならないし、必ず手続きに行かなければならない。「いいかい?よく聞きなさい」千鶴は立ち上がり、彼を見下ろした。その視線は冷たく、そして揺るぎなかった。「あなたが離婚したくてもしたくなくても、あなたは離婚することになる。私と条件交渉をする資格なんて、あなたにはない」「竜也くんの件については……」彼女は言葉を少し切り、口元に極めて薄い弧を描いた。「彼にどうやって手を引かせるかなど、もう考えるのはやめることね。そんな時間があるなら、自分自身がどうやって幕を引くかをよく考えることよ」「手続きに行く時間が決まったら、いつでも陽子(ようこ)に言いなさい」言い終えると、彼女はもう彼を一瞥することもなく、背を向けてドアへと歩いていった。ハイヒールがタイルを叩く音が、コツ、コツと、小気味良く冷酷に響いた。雅義はガランとした応接室に一人座り、目の前のすっかり冷え切ったお茶を見つめていた。彼がこれほどまでに狼狽したのは、千鶴が初めて離婚協議書を突きつけてきた時以来だった。あの時はまだ、彼女がただ自分を脅しているだけで、数日経てば機嫌を直すだろうと思っていた。今になってようやく、彼は完全に悟った。彼女は脅しているわけではないのだと。彼女は本気で、一点の余地も残さず、彼と完全に縁を切ろうとしているのだ。どれほどの時間が経っただろうか。彼はゆっくりと立ち上がり、スーツの裾を整え、大股で応接室を出た。廊下には誰の姿もなく、陽子が見送りに来ることもなかった。彼は一人でエレベータ
雅義は約束の時間より三十分早く到着した。千鶴が時間通りにドアを開けて入ってきた時、彼女の後ろには誰も従っていなかった。彼女は今日、オフホワイトのシルクのブラウスに黒のスラックスという出で立ちで、襟元のパールのブローチが照明の下で温かい光を放っていた。前回のこの応接室での、あの事務的でよそよそしい態度に比べ、今日の彼女の放つ空気はさらに一段と冷え切っていた。雅義は無意識に立ち上がり、唇を動かして彼女を呼ぼうとしたが、千鶴が先に口を開いた。「座って、近藤社長」そう言いながら、彼女はそのまま長いテーブルの反対側に座り、彼との間にきっちり二メートルの距離を置いた。まるで彼らのこの結婚生活のように。二人の間には、新婚の頃から今に至るまで、常に見えない壁が横たわっていた。雅義は喉仏を上下させ、結局口から出かかった親しげな呼び名を飲み込んだ。「千鶴局長。今日私をお呼びになったのは……」彼は探るように口を開いた。千鶴は目を上げて彼を見つめ、遠回しには言わなかった。「近藤社長。昨日、明安クリニックへ何をしに行ったの?」雅義の顔が強張ったが、すぐにまた元通りになった。「最近少し胃の調子が悪くてね。あのクリニックは評判が良いと聞いたから、それで……」「胃の調子が悪いのに、公立病院にも行かず、近藤家の家庭医にも診せず、わざわざ漢方クリニックへ足を運ぶのね」千鶴は彼を遮った。声は大きくなかったが、一字一句がはっきりとしていた。「しかも、わざわざ梨花先生が診察に出ている時間を狙って」「何もかも知っているなら、どうして聞くんだ?」雅義は顔に浮かべていた微かな温和な笑みを引っ込め、いっそヤケになったような態度さえ見せた。千鶴の冷たい両眼が彼を注視した。「梨花はただの医者よ。あなたとは何の関係もないし、三浦家とも何の関わりもない。あなたが彼女の邪魔をしに行っても、何の意味もないわ」雅義は少し沈黙してから、誠意のこもった口調で言った。「私はただ、梨花先生が三浦家と親しいと聞いて、彼女を通じて君の態度を知りたかっただけなんだ。千……千鶴局長。この件は私のやり方がまずかったと認める。だが、私に悪意はなかった」「悪意はなかった」千鶴はその言葉を繰り返し、視線をさらに冷たくした。「彼女の診察時間を調べ、
陽子は答えなかった。おそらく、千鶴のそばにいる時間が長すぎたからだろう。多くを尋ねずとも、今の主人が何を考えているのか彼女には分かっていた。千鶴が政治の世界に入ってからのここ数年、経験してきたことは決して少なくない。どれほど卑劣で汚い手段に出くわしても、彼女が本気で腹を立てたことはなかった。しかし、雅義が愚かにも梨花のところへ行ったとなれば、話は全く別だ。梨花は妊娠しており、月数もかなり進んでいる。黒川家と三浦家の両家が、彼女に少しの苦労もかけまいと、あるいは感情に少しの波風も立たせまいと、それこそ腫れ物に触るように守っているのだ。それなのに雅義は、自分自身のちっぽけな利益のために、あろうことか梨花の診察室に直接押しかけた。彼が一体そこで何を吹き込んだかもしれないと思うと、背筋が凍る思いだった。「あいつ、梨花と三浦家の関係について調べたのね?」千鶴がふいに尋ねた。「調べはしましたが、真相に行き着くことはないはずです」関連するすべての情報は、完全に封鎖されている。陽子は続けた。「彼が今日クリニックへ行ったのは、おそらく診察を口実に、梨花様の腹を探るためでしょう」千鶴は目を伏せた。彼女は数日前に霞川御苑を訪れた時のことを思い出した。梨花はソファにうずくまり、なつめ茶を少しずつ飲みながら、こう言っていた。「千鶴姉さん。あなたのご家族は、みんな本当にいい人たちね」そして、梨花が自分に会うたび、目を輝かせて「千鶴姉さん」と呼ぶ姿を。今、雅義はその企みの矛先を梨花に向けた。しかも、梨花はまだ自分が彼女の実の姉であることを知らない。もし今日、診察室で梨花が雅義の口から、聞くべきではない言葉を聞かされていたら?千鶴は体の横に下ろしていた手をギュッと握りしめ、それ以上深く考えるのを恐れた。「千鶴様」陽子が探るように尋ねた。「黒川社長の方にも情報を共有しておきましょうか?」「必要ないわ」千鶴はすぐに普段の冷静さを取り戻した。「竜也は、私たちよりもずっと早く知らせを受けているはずよ。彼の方でとっくに処理しているでしょうね」竜也がどれほど梨花を大切にしているかを考えれば、雅義が今日クリニックへ行ったという情報は、彼女のところよりも早く霞川御苑へ届いているはずだ。しかし、だ
電話を切られた後、雅義は車の中に座ったまま、長い間身動き一つしなかった。その顔色はますます険しくなっていった。彼はこれまでの人生で、こんな風に電話を切られたことなど一度もなかった。近藤家の長男、三浦家の娘婿、近藤グループの後継者。これらの身分が重なり合っているおかげで、彼はどこへ行っても必ず一目置かれる存在だった。しかし、先ほどの竜也の口調は、まるで道を塞ぐ野良犬を追い払うようなものと何ら変わりなかった。さらに重要なのは、お祖父様への申し開きがいよいよ立たなくなったということだ。「潮見市の支社へ戻れ」彼はようやく口を開いたが、その声は微かに掠れていた。江崎は返事をし、車をスタートさせた。バックミラー越しに見ると、雅義はシートに寄りかかって目を閉じ、眉間に深い皺を寄せていた。「社長、それではこの後は……」「まずは戻る」この後どうすべきか、雅義自身にもまだ考えがまとまっていなかった。竜也の最後のあの言葉は、脅しではない。単なる通知だ。江崎はバックミラーから素早く彼を一瞥し、何か言いたげにしたが、結局それ以上は口を開かなかった。車が潮見市支社の地下駐車場に入った時、雅義のスマートフォンが鳴った。着信表示を見た彼の眉間が、さらに深く寄った。「母さん」「雅義」母親の声には少し焦りが混じっていた。「お父さんが、あなたに急いで南の街へ戻ってこいって。お祖父様が今朝、家族全員を本邸に呼び出してね、『相談したいことがある』っておっしゃっているのよ」「何の相談だ?」電話の向こうが少し間を置いた。「あなたのことよ」雅義がスマートフォンを握る指に、ゆっくりと力がこもった。お祖父様の言う「相談」が、ただの一度として本当の意味での相談であったことなどないのを、彼はよく分かっていた。「分かった」彼は冷静に答え、電話を切った。車が停まるや否や、彼はドアを開けて降り、大股でエレベーターへ向かった。江崎は急ぎ足で彼に続き、何か言いたくてたまらないのに言えない、といった様子だった。オフィスに入ると、雅義はコートを無造作にソファへ放り投げ、引き出しを開けてファイルを取り出した。その表紙の上で、指先が一瞬止まった。「あの医者と千鶴の関係が良好なのは間違いない。彼女の詳細な身元情報を調べ