「違うんだ、萌々。落ち着け、聞け」
「いや。ちょっと、無理です……‼」私に近づいた皇羽さん。おずおずと伸ばされた手が、真っすぐ私に向かって伸びて来る。だけど私は、その手を勢いよく叩き落した。
パシッ
「私、この世の中に一つだけ嫌いな物があります」
「嫌いな物?」コクンと頷く私を、皇羽さんは黙って見た。テレビの中では、キラキラした笑顔を浮かべて歌って踊っているレオ……もとい皇羽さんがいる。その姿を見て、熱狂するファン――私もそうであったら、どんなに良かっただろう。
「皇羽さん、ごめんなさい。私、 Ign:s が大嫌いなんです……!」
「……」皇羽さんは無言だった。十秒ほど目を瞑って「考える人」のポーズをとる。だけど、遅れて私の言葉を理解したらしい。閉じていたまぶたを、ゆっくりと持ち上げた。
「Ign:sが嫌い?マジで?」
今までで一番、間の抜けた声。信じられない、という目で私を見る皇羽さんに、容赦なく私は頷いた。
「ムリです、ごめんなさい。家を出ます!」
「はぁ?ちょっと待てよ、話が!」 「ありません、さようなら!」ソファを越えて、その先の玄関へダッシュする。後ろからバタバタと足音が聞こえて、おまけに「待て!!」って怒鳴り声まで聞こえる!ここはホラーハウスなの?怖すぎるよ!
だけど「ここにずっといるよりはマシ!」と、玄関に並ぶ靴から私の物を探す。だけど目を皿のようにして見ても、全く見当たらない。どこに行ったの?私の靴!
すると後ろから「奥の手を取っておいて良かった」と声がした。振り向くと、皇羽さんが私の靴を掴んでいた。
「コソコソ逃げられないように、最初から隠しといたんだ」
「ひ、卑怯ですよ!」
「ふん、何とでも言え。こうでもしないとお前、絶対に逃げていくだろ」逃げていくだろ、と言った時の皇羽さんの顔。少しだけ悲しそうに見えたのは、気のせいなのかな?
「それに、まだ話は終わってない。部屋に戻れ。聞きたいことがたーっぷりあるんだ。例えばIgn:s が嫌いとか」
「ひ……っ」悲しそうに見えたなんて、絶対に気のせいだ!だって皇羽さん、怒りすぎて般若の顔をしているもん!笑っているのに超怖いよ!
その時、キッチンの方から「チン」と音がした。同時に美味しそうな香りが漂う。すると気が緩んでしまったのか、私のお腹が元気よく鳴った。
グ~
「……萌々が靴を探してる間に食いモン用意した。冷凍だけど美味いぞ。もう夕方だし、腹減ってるだろ」
「え! もう夕方なんですか……⁉」
「お前、爆睡してたからな。朝から食べてなきゃ腹も減るだろ。それに……ぷッ。さっきの腹の音……っ」「わ、笑わないでください……!」すぐにでも出て行きたいけど、空腹には勝てない。悔しいけど部屋に戻り、皇羽さんが運んでくれる料理を順番に食べ始めた。
◇
「単刀直入に言う。今日からここが萌々の家だ」
「へ?」「ここは俺の家。俺は一人暮らしだ」
「ん⁉」鍵はこれだ――
一枚のカード(鍵)をいきなり渡されて「はい、わかりました」って頷ける人って、一体どれくらいいるの?
「いやいやいや、だから無理ですって! 私の話、聞いてました⁉」
「お前こそ俺の話を聞いてたのかよ。お前の家は焼けた。住む場所も両親も、おまけに金もない。そこに俺が通りかかった。幸いにも俺の家には空き部屋がある。金もなんとかなる。じゃあ、萌々はここに住むしかないだろ」 「ッ!」確かに……。ホームレスになった私からしたら、これ以上に美味しい話はない。でも、だからこそ怪しい。
「このお家、かなり広いですよね?過去に〝マンションは階が高いほど家賃も高い〟と聞いたことがあります。でもこの部屋の窓からは、地平線まで見えそうな景色が見えます。ここは一体、何階ですか」
「賃貸マンションだ。ここは62階」62!?た、高すぎでは!?
「高校一年生の皇羽さんが、どうしてマンションに一人暮らしが出来るんですか?答えは簡単ですよね。それは皇羽さんがアイドルだからです」
「……ちがう」 「……」いや、絶対に違わない。
「私を騙せると思ってるんですか?さっきのテレビを一緒に見ましたよね?Ign:s のレオは、絶対に皇羽さんでしょ⁉見間違うわけがありません!あんなそっくりさんを目の前にしても、まだ”俺はレオじゃない”と言い張るなんて!」
まくしたてて話す私を、皇羽さんがジッと見る。そして「分かんねぇか」と、情けなく笑った。
「さっきのテレビを録画してる。再生してやるよ」
「結構です!」私の静止も聞かず、皇羽さんは再生ボタンを押す。行方不明だったリモコンは、無事に見つかったらしい。だけど五秒もしない内に、Ign:s が歌っているシーンが画面に映った。「わー!消してください!」と目を瞑る私の手を、皇羽さんがギュッと握る。
「よく見ろ、右上」
「……え?」皇羽さんの言葉通りに目を動かすと、画面の右端に小さく何かが書かれている。目を凝らしてよく見ると、それは「生放送」の文字だった。
前回と同じく、綾辻さんはかなり近い距離まで私に近寄って来た。あいにく今日は「寄るところがあるので」とマネージャーに送ってもらわなかったから、綾辻さんを一人で対処しないといけない。 でも……大丈夫。だって、もう皇羽さんを傷つけないと決めたから。もう二度と、皇羽さんにあらぬ誤解を与えてしまわないように。私がハッキリ、綾辻さんに言うんだ!「あの、綾辻さん」「どうしたの?」 私が足を止めると、茶色のロングコートを着た綾辻さんの足も止まる。首から大きなカメラがぶら下がっていて、まるで私を見張っているかのようにレンズがこちらを向いている。今、この瞬間も撮られているのかな? いや、そう思って対応すべきだ。 出来る限り堂々と、決して臆さないよう綾辻さんの目を見た。 「マネージャーを通した仕事でない限りはご一緒することが出来ないので、つきまといはやめてください。この忠告を聞いてもつきまといをやめない場合は、警察に相談します!」 私の言葉に、綾辻さんはキョトンとした顔を浮かべる。だけど次に「つ、つきまとい⁉」と焦ったのか、水をかぶったようにサッと顔を青くした。 「そんな、つきまといだなんて……ただの仕事だよ!」「仕事であろうがなかろうが、つきまといはつきまといです」 自覚がなかったなんて恐ろしい。きっと仕事が板についているんだろうな。つきまとう仕事が日常だから、つきまといそのものも日常化しちゃったんだ。 だけどダメです。つきまといは、立派な立派な犯罪なので! きっと!! 「私と直接接触を図るのはいけない行為です。何度も言いますが、これからは必ず事務所を通してください。いいですね?」「ま、待ってよ。萌ちゃん!」 綾辻さんが私へ手を伸ばす。触られるのは嫌だから、すぐに逃げようとした。だけど信号が赤になり、そうかといって信号無視もで
「私たちが結婚式を挙げたら、世間に関係がバレてしまいます。そもそも結婚だって無理ですよ」「無理って……」「だって皇羽さんは身バレしているでしょう? 本名を知られちゃっていますし。婚姻届けには名前を書く欄があります。それを市役所の人が確認のために見るでしょう。その瞬間に『コウが結婚した』とバレちゃいますよ」「つまり婚姻届さえ出さないってことか?」「……出さない、というか出せないですよ。現実的に考えて」 そう口にしている私こそ、やっとその事実を理解し始めていた。そう、そうだよ。皇羽さんは本名が世間にバレている。婚姻届なんか出せるわけない。また情報がリークされて、皇羽さんをはじめとするIgn:sが大変なことになる。迷惑をかけちゃう。 「だから高校を卒業したらすぐに結婚、という話はナシにしましょう。皇羽さん」「萌々……」「大丈夫。いつか、きっと結婚できますよ。そのタイミングを待つだけです」 上手く、笑えているかな。私の精一杯の強がりが完璧な仮面になって、皇羽さんに届いているかな? 皇羽さんがなんて言うか、反応が怖い。「なんだよそれ」って怒るかな。「わかった」って納得するかな。正直、どちらの反応をされても悲しい。怒られてもどうしようもない事実だし、納得されても結婚を諦められちゃったようで傷つく。 この二つ以外の言葉を、皇羽さんに望んでしまう。期待してしまう。だって、ずっと夢だったから。 皇羽さんと結婚することも、結婚して幸せな家庭を築くことも。私が経験できなかった温かな家庭を、この手で作りたいと思っていた。皇羽さんと、一緒に。 (本当は、口に出していないだけで……心の中では、ずっとカウントダウンしていたんだよね) だけど、そのカウントダウンが振り出しに戻る。結婚は、できない。 遅すぎる気づきに、自分の不甲斐な
綾辻さん騒動があって、しばらく経った頃。「萌々、たまには買い物行くか?」「似合うと思って、萌々に服を買って来た」「一緒に風呂に入るか? 肌がつやつやになると有名な入浴剤がやっと届いたんだ」 よく分からない攻撃を、皇羽さんから受けていた。「あの、皇羽さん。やっと家に帰ってこられたのですから、自分の時間を悠々自適に過ごしてください。私のことは、お気になさらず」「前も言ったが、やっと家に帰ってきたから萌々を構うんだ。俺の時間を、俺の好きなように使って何が悪い」「それは確かに聞きましたが……」 頻度が恐ろしく増えているのだ。私に構う頻度が! 最近の皇羽さんは都内での仕事に戻り、マンションから仕事場へ向かう日々。といっても多忙なのは変わらない。家に帰って来ないでホテルに泊まったらいいのにという日だって、必ず帰って来る。 どんな短い時間であろうとも必ずマンションに帰って来て、私を抱きしめてまた仕事に行くのだ。「ビデオ通話も出来るんだし、無理しないでください」と言ったけど、さっきと同じように「俺の好きなことをしているまで」と一蹴される。 加えて、歯が浮くようなセリフをポンポンと言っちゃうから、もう本当にどうしたものか。それに、ありとあらゆるものを買って私に与えてくるし……。 皇羽さんが何を考えているか分からない。だけど、きっと何かあるはず。勘が鈍い私は、それが何かまでは分からないけれど……。「あ、お風呂が湧きましたよ」「だから一緒に入ろうって」「はいはい、いってらっしゃい」 こうしてあしらえている内はいいけれど、あのイケメンフェイスを持つ皇羽さんだ。まともに顔面を見ちゃった日には「あっ」と顔を染めて私が反応しちゃうから、もう大変。皇羽さんの目がギンッと鋭くなって寝室へ連れて行かれる。その後は言うまでもなく、甘い夜だ。「萌々」「ん?」「今日、抱きたい」「……あ、は……ぃ……」 何とか返事すると、皇羽さんはニッと口の端を吊り上げた。普通のテンションで言って来るから、反応にすごく困る。 シャワーの音がして、やっと息ができた。攻撃もここまで猛攻となれば、息つく暇もない。「は~……ビックリした……」 皇羽さんが未だかつてないほど、私を甘やかしている。私がとろけちゃうほど甘く、そして深く。「なんで、そんなスイッチが入っちゃったんだろう……
side皇羽 マンションに玲央が来た。萌々は仕事で不在。ちょうどいいと、最近かかえている思いをぶちまける。 「萌々との関係を、世間にオープンにしようと思う」「へ?」「どうせ事務所はゴーサイン出さないだろうから、強行突破で」「へぇえ?」 俺の突然の発言に、玲央にしては間の抜けた声を出した。でも、その声が出るのも分かる。事実、俺はとんでもないことを口にしている。その自覚がある。 「ちょ、ちょっと待ってよ。事務所の許可は仕方ないにしろ、俺たちメンバーの許可くらいは取ってよ」「どうせミヤビが許してくれない」「そうだろうけど……じゃあ通告くらいはしてよ。〝〇〇日後に爆弾を投下します〟くらいのことは言ってくれないと、もし生放送中だったらメンバー全員、失神しちゃうよ?」「……どうせ通告した瞬間に監禁される」「そうだけど……」 仕事が多忙ゆえ、メンバーと過ごす時間は息が詰まるほど多い。 それゆえに、風呂とご飯のどっちを優先するか。夜はまったりするのか、それともすぐ寝るのか。寝起きはいいのか、壊滅的なのか――そんな知りたくもないメンバーの情報が、自ずと大量にインプットされていく。 そうなるとメンバーの思考回路まで、自然と分かって来るもんだ。 俺が萌々との関係を「世間に暴露したい」と言ったらどうなるか。下手すれば、俺は一生、日の目を見れないかもしれない。仕事以外は、地下にでも投獄されそうだ。 「萌々とそういう関係だってことは認めてくれたんだから、後はオープンにするかどうかの話だろ」「〝だけ〟なんて簡単に言うけどね。その一言で日本はおろか、世界がひっくりかえるよ?」 次の仕事で使う台本をパタンと閉じ、玲央が真っすぐ俺を見る。髪以外は本当に同じだから、自分に見られているようで妙な気分だ。 「そもそも、二人の関係がバレたら世間からどんなバッシン
皇羽さんが綾辻さんへの殺気をゼロにし頭を冷やさない限り、まともな答えは出そうにない。むしろ「二言目には『消す』と言う皇羽さんをどうするか」という問題が新たに出てきそうだ。 口を真一文字に結んでしまった皇羽さんを残し、お腹が空いたので何か作ろうと冷蔵庫へ向かう。 ちょうどお昼だ。皇羽さん、移動中に何か口にしたかな? 聞こうか迷ったけど、互いに頭を整理するいい機会だ。昨日買った食材を、一つずつキッチン台へ置いて行く。作る料理は、ベーコンとピーマンを使ったナポリタン。 皇羽さんに美味しい料理を食べてもらいたいから料理の練習をしたいんだけど、有難いことにモデルの仕事が忙しくて、帰ったらすぐに寝てしまう。皇羽さんが不在の時なんかは、コンビニで済ませちゃう始末。 「もっと皇羽さんに美味しいご飯を食べさせてあげたいなぁ」 頭で考えていたことが、つい口から漏れてしまう。聞き流してくれるかと思いきや、しばらく無口だった彼は静寂を切り裂いた。 「俺は、萌々がのびのび過ごしてくれたらそれでいい」「いきなりどうしたんですか?」「料理を作りたいなら飽きるだけ作って、寝たいなら一日中でも寝て。自由に暮らしながら、俺の帰りを待てくれたらいいって……いや、独り言だ。忘れてくれ」「はぁ……」 よく分からなくて振り返ると、皇羽さんは両肘をテーブルにつけ、指を組んでいた。何を考えているんだろう。怒っているわけじゃないけど、怖いくらい真剣な顔だ。 「皇羽さん?」「いや……無理はするなってことだ」 話を忘れさせるように、皇羽さんはワントーン高い声で席を立つ。あぁ、そっか。仕事帰りだから疲れているよね。きっと仮眠するために寝室へ行くんだ。 そう思っていたのに、ふわりと香る彼のにおい。見ると、隣に立って手を洗っている。「これを切ればいいか?」と、どうやら料理を手伝ってくれるらしい。 「切るは切るのですが、あの……私がやりますよ? 皇羽さんお疲れでしょうし」「遠回しに足手まといって言ってる?」「いや、そうではなくて。本当に、私がやりますから。少しでも休んでください」「……」 すると皇羽さんは口を閉ざした。静かに、何かを考えるように。 「俺は、自分の欲求に忠実だ」「……既に知っていますが」 一年かけて私を探し続けた、不屈の精神
「け、消すって……」「萌々との記憶を消すだけじゃ足りないな。やっぱり存在そのものを……」「怖いのでやめてください!」 温かな飲み物でも飲めば皇羽さんの気が紛れるだろうかと、一足先に寝室を抜ける。去り際に「何を飲みますか?」と聞くと、皇羽さんはやや照れた顔を見せた。「そういう会話してると、まるで新婚みたいだな」「っ!」 さっきまで怒った顔をしていたのに、綾辻さんのことはいったん忘れたのか、今は目じりの下がった優しい笑みだ。彼の漆黒の瞳の中に、同じく顔を赤くした私が写っている。「何を言っているんですか。皇羽さんもリビングに来てくださいね、今後のことについて作戦会議しましょう。綾辻さんに私たちの関係がバレないようにするためにはどうしたらいいか、ちゃんと策を練らないと」「なんで寝室で話し合ったらダメなんだよ?」 キョトンとした顔をする皇羽さんだけど、忘れてもらっちゃ困る。さっき何度も際どい箇所にキスマークをつけようとした人を相手に、寝室で真剣な話し合いができるわけがない。「ちゃんと話し合いたいんです。寝室だと……ほら、あなたが」 ぷくっと頬を膨らませると、再び皇羽さんはキョトンとした顔。だけど「そんな顔もかわいいな」と、ファンが見たら卒倒するであろう極上の笑みを見せる。「ま、さすが萌々ってところか。ちょっとは甘い余韻に浸ればいいものを、話し合いの方を選ぶんだもんな。まぁそういう真面目なところも可愛いんだが」「……私だって、浸りたいですよ」「ん?」 ボソリと呟いた声は、皇羽さんには届かなかったみたい。いつの間に脱いだか分からない大きなシャツを、無駄のない動きで被っている。 前の私なら「何て言った?」と問い返されたところで、「何でもないです」と恥ずかしさから逃げていた。だけど今は離れている時間が多い分、ちゃんと自分の気持ちを伝えるべきだと、ついさっき知った。だから伝える。自分が何を思っているかを、皇羽さんに知ってもらう。 綾辻さんと浮気しているなんて。そんな嘘八百を、もう二度と生まないためにも。「私だって甘い余韻に浸りたいんです、って。そう言いました」 私はリビングへ突き出した足を、寝室へ戻す。そしてまだベッドへ座る皇羽さんの鼻と、私の鼻がぶつかるくらい距離をつめた。「も、萌々?」「さっきの新婚みたいな会話を、意味もなく皇羽さんと交わし