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第二話:欲望がない化け物

Author: 新城凪
last update publish date: 2026-03-14 13:42:15

七日目の夜、雪は前よりも激しく降っていた。

屋根には氷が張り、鐘が鳴るたびに、霧《きり》のような霜《しも》がぱらぱらと落ちた。

暖炉《だんろ》には湿った薪《まき》がくべられており、今にも消えそうなほど弱い火が、かろうじて燃えていた。

蝋燭《うそく》の油《あぶら》はなかなか溶けず、

部屋の中には、温もりも得られないまま、

埃の落ちる音さえ聞こえそうな静けさが満ちていた。

その命は、白い布の中にあった。まだ目覚めていない。その名もないこれは、夜にだけ泣く。
ときには、泣くという仕草すら見せず、ただ口を開け、音も立てずに「泣いていた」。
まるで夢の中で、名もない何かを呼んでいるかのように。

最初、執事はその存在は腹を減ったから泣いていた。彼は五つの液体を用意された。

三種の栄養剤《 えいようざい》にはそれぞれ違う血を混ぜていた。二種の鎮静濃縮液《ちんせいのうしゅくえき》も試したが、すべて拒まれた。赤子は咬みつく欲も、吸いつく反応もなかった。
泣き止んだわずかな合間でさえ、まるで「正しい」味を待っているかのようで、口を開けようとはしなかった。

アスイェは時折《ときおり》、その子に血を与えた。
吸血鬼の食事に先立《さきだ》つ古い儀式もなく、決まった頻度もない。
ただ石の座《ざ》に腰を下ろし、自らの指先を赤子の口元へと差し出すだけだった。

その子は指を噛《か》み、咥《くわ》え、そしてすぐに離す。
毎回ほんのわずかしか吸わない。
まるで食べているのではなく、確かめているかのようだった。
――あの味が、アスイェという存在が、まだそこにあるということを。

その夜、アスイェは出かけた。
鐘楼《しょうろう》で、彼に会いたい者がいるという。
教会に残されたのは、執事とあの子だけだった。

暖炉の火は消えかけており、
執事は厚手のマントを羽織《はお》って、ゆりかごの前に立ち、しばらくその子を見下ろしていた。

その子は眠っていた。
いや、正しく言えば、「深い眠り」に沈んでいた。
まるで冷たい夢の中に閉ざされたように、小さく身を縮めていた。

頬は蒼白《あおじろ》く、唇にも血の気はなく、
それは生きた赤子というより、未完成の彫刻《ちょうこく》のようだった。

執事は、自分が責任感のない人間ではないと考えていた。任務は果《は》たしている。ただ、冷ややかに、淡々と、それを作業として処理しているにすぎない。

この子に対しても、この役割《やくわり》に対しても、感情や意見を挟《はさ》まないと決めている。

この子育ては、無意味《むいみ》なものだと思っているからだ。

皮肉《ひにく》なことに、あの気高《けだか》きアスイェは、この最《もっと》も汚《よご》れていて、退屈で、虚《うつ》ろな育児《いくじ》を黙々《もくもく》と続けている。

――おそらく彼は、これを新しいゲームの一つだと思っているのだろう。

執事は久々に、強い嫌悪《 けんお》を覚えた。

――この赤子《あかこ》は、あまりにも異常《 いじょう》だ。

――あまりにも、静かすぎる。

――そして何より、あらゆる育児《いくじ》の理《ことわり》に反している。

執事はそう思い、慎重《しんちょう》に両手で布に包まれた赤子の体を抱き上げた。

その体はひどく冷たかった。執事は、まるで海の底《そこ》から拾《ひろ》い上げた石を抱いているような感覚《かんかく》に襲われた。
その抱き方はおぼつかず、どこかにためらいが滲んでいた。赤子をゆりかごから完全に持ち上げたその瞬間、かすかな音が聞こえた。

――錠《じょう》が外れるような、小さな音だった。

次の瞬間、その赤子は目を覚ました。

目は開かれないまま。ただ、眉が微かに動き、口元がわずかに引きつった。
そして、全身がぴんと張り詰めた。まるで脊髄を駆け上がった鋭い痛みに抗うように、全身がぎゅっと反応した。

突然、その小さな手が伸び、執事の胸元の衣を鋭《するど》く掴んだ。

本能的な攻撃ではない。噛みつくことも、声をあげることもなかった。

ただ――掴む。強く。まるで、逃れようとする獲物《えもの》を縫《 ぬ》い止めるかのように。

次の瞬間、執事の動きが、ふと止まった。
腕に、言いようのない重さがのしかかったからだった。

それは、赤子の体重などではない。
まるで、重力そのものに引きずられるような――
抗いようのない、沈《しず》み込みの感覚だった。

抱えているのがひとりの赤子ではなく、
地の底《そこ》に根《ね》を張《は》り、誰にも動かせぬ石碑《せきひ》のようなものだと、そう錯覚するほどに。

赤子は声を発しなかった。
けれど、腕の中に積もるような存在の重みが、確かにあった。
それは眠るものの執念か、あるいは――
人ではない、何か異質《いしつ》なものの気配だった。

執事は黙って視線を落とし、
指先の震えを、ただ見つめた。

「……閣下《かっか》は、おまえに何を与えた?」

低く、擦れるような声で、
ただ、それだけを呟いた。

冷静を保とうとした意志は、
背に滲む冷や汗によって、静かに崩れつつあった。

その時、アスイェが戻ってきた。
扉《とびら》は音もなく押し開けられ、彼の足は一歩も乱れず、奥へと進む。

彼の目に映《うつ》ったのは――
目を閉じたまま、しかしなお執事の襟元を固く握り続ける赤子だった。

アスイェは何も言わなかった。視線すら向けず、足を止めることもない。
ただ、定《さだ》められた儀式のように、
石の座へと歩み寄り、沈黙のまま腰を下ろす。

それは過去七日、寸分違わず繰り返された所作だった。そしてその瞬間――
赤子の指が、執事の襟をそっと離した。
鼻先がかすかに動き、
まるで、長いあいだ探し続けていた匂いに辿り着いたかのように、
その身は、静かに、音もなく落ち着いていった。

赤子は、再び眠りに落ちた。
「この者は飢えていたわけではない。食を失うことへの恐れに、囚われていただけだ」
アスイェは、ただ淡々とそう告げた。

その言葉に、執事ははっと顔を上げた。
ようやく――赤子のすべての微細《びさい》な行動の意味を、理解したのだ。

「……それでは、どうしてこの身は、アスイェ様がこの地を離れぬと知っていたのでしょうか」

だが、アスイェは何も答えなかった。

ただ静かにマントを整え、石の座《ざ》にもたれかかる。
そのまま、ゆっくりと目を閉じた。
深い闇に、身を沈めるように。

その夜の雪は、音もなく降り続いた。
夜明けに至《いた》るまで、ただひたすらに。

赤子も、それきり、一度も目を開けることはなかった。

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