LOGIN七日目の夜、雪は前よりも激しく降っていた。
屋根には氷が張り、鐘が鳴るたびに、霧《きり》のような霜《しも》がぱらぱらと落ちた。 暖炉《だんろ》には湿った薪《まき》がくべられており、今にも消えそうなほど弱い火が、かろうじて燃えていた。 蝋燭《うそく》の油《あぶら》はなかなか溶けず、 部屋の中には、温もりも得られないまま、 埃の落ちる音さえ聞こえそうな静けさが満ちていた。その命は、白い布の中にあった。まだ目覚めていない。その名もないこれは、夜にだけ泣く。 ときには、泣くという仕草すら見せず、ただ口を開け、音も立てずに「泣いていた」。 まるで夢の中で、名もない何かを呼んでいるかのように。
最初、執事はその存在は腹を減ったから泣いていた。彼は五つの液体を用意された。
三種の栄養剤《 えいようざい》にはそれぞれ違う血を混ぜていた。二種の鎮静濃縮液《ちんせいのうしゅくえき》も試したが、すべて拒まれた。赤子は咬みつく欲も、吸いつく反応もなかった。 泣き止んだわずかな合間でさえ、まるで「正しい」味を待っているかのようで、口を開けようとはしなかった。 アスイェは時折《ときおり》、その子に血を与えた。 吸血鬼の食事に先立《さきだ》つ古い儀式もなく、決まった頻度もない。 ただ石の座《ざ》に腰を下ろし、自らの指先を赤子の口元へと差し出すだけだった。 その子は指を噛《か》み、咥《くわ》え、そしてすぐに離す。 毎回ほんのわずかしか吸わない。 まるで食べているのではなく、確かめているかのようだった。 ――あの味が、アスイェという存在が、まだそこにあるということを。 その夜、アスイェは出かけた。 鐘楼《しょうろう》で、彼に会いたい者がいるという。 教会に残されたのは、執事とあの子だけだった。 暖炉の火は消えかけており、 執事は厚手のマントを羽織《はお》って、ゆりかごの前に立ち、しばらくその子を見下ろしていた。 その子は眠っていた。 いや、正しく言えば、「深い眠り」に沈んでいた。 まるで冷たい夢の中に閉ざされたように、小さく身を縮めていた。 頬は蒼白《あおじろ》く、唇にも血の気はなく、 それは生きた赤子というより、未完成の彫刻《ちょうこく》のようだった。 執事は、自分が責任感のない人間ではないと考えていた。任務は果《は》たしている。ただ、冷ややかに、淡々と、それを作業として処理しているにすぎない。 この子に対しても、この役割《やくわり》に対しても、感情や意見を挟《はさ》まないと決めている。 この子育ては、無意味《むいみ》なものだと思っているからだ。 皮肉《ひにく》なことに、あの気高《けだか》きアスイェは、この最《もっと》も汚《よご》れていて、退屈で、虚《うつ》ろな育児《いくじ》を黙々《もくもく》と続けている。 ――おそらく彼は、これを新しいゲームの一つだと思っているのだろう。 執事は久々に、強い嫌悪《 けんお》を覚えた。 ――この赤子《あかこ》は、あまりにも異常《 いじょう》だ。 ――あまりにも、静かすぎる。 ――そして何より、あらゆる育児《いくじ》の理《ことわり》に反している。 執事はそう思い、慎重《しんちょう》に両手で布に包まれた赤子の体を抱き上げた。 その体はひどく冷たかった。執事は、まるで海の底《そこ》から拾《ひろ》い上げた石を抱いているような感覚《かんかく》に襲われた。 その抱き方はおぼつかず、どこかにためらいが滲んでいた。赤子をゆりかごから完全に持ち上げたその瞬間、かすかな音が聞こえた。 ――錠《じょう》が外れるような、小さな音だった。 次の瞬間、その赤子は目を覚ました。 目は開かれないまま。ただ、眉が微かに動き、口元がわずかに引きつった。 そして、全身がぴんと張り詰めた。まるで脊髄を駆け上がった鋭い痛みに抗うように、全身がぎゅっと反応した。 突然、その小さな手が伸び、執事の胸元の衣を鋭《するど》く掴んだ。 本能的な攻撃ではない。噛みつくことも、声をあげることもなかった。 ただ――掴む。強く。まるで、逃れようとする獲物《えもの》を縫《 ぬ》い止めるかのように。次の瞬間、執事の動きが、ふと止まった。 腕に、言いようのない重さがのしかかったからだった。
それは、赤子の体重などではない。 まるで、重力そのものに引きずられるような―― 抗いようのない、沈《しず》み込みの感覚だった。 抱えているのがひとりの赤子ではなく、 地の底《そこ》に根《ね》を張《は》り、誰にも動かせぬ石碑《せきひ》のようなものだと、そう錯覚するほどに。 赤子は声を発しなかった。 けれど、腕の中に積もるような存在の重みが、確かにあった。 それは眠るものの執念か、あるいは―― 人ではない、何か異質《いしつ》なものの気配だった。 執事は黙って視線を落とし、 指先の震えを、ただ見つめた。 「……閣下《かっか》は、おまえに何を与えた?」 低く、擦れるような声で、 ただ、それだけを呟いた。 冷静を保とうとした意志は、 背に滲む冷や汗によって、静かに崩れつつあった。 その時、アスイェが戻ってきた。 扉《とびら》は音もなく押し開けられ、彼の足は一歩も乱れず、奥へと進む。 彼の目に映《うつ》ったのは―― 目を閉じたまま、しかしなお執事の襟元を固く握り続ける赤子だった。 アスイェは何も言わなかった。視線すら向けず、足を止めることもない。 ただ、定《さだ》められた儀式のように、 石の座へと歩み寄り、沈黙のまま腰を下ろす。 それは過去七日、寸分違わず繰り返された所作だった。そしてその瞬間―― 赤子の指が、執事の襟をそっと離した。 鼻先がかすかに動き、 まるで、長いあいだ探し続けていた匂いに辿り着いたかのように、 その身は、静かに、音もなく落ち着いていった。 赤子は、再び眠りに落ちた。 「この者は飢えていたわけではない。食を失うことへの恐れに、囚われていただけだ」 アスイェは、ただ淡々とそう告げた。 その言葉に、執事ははっと顔を上げた。 ようやく――赤子のすべての微細《びさい》な行動の意味を、理解したのだ。 「……それでは、どうしてこの身は、アスイェ様がこの地を離れぬと知っていたのでしょうか」 だが、アスイェは何も答えなかった。 ただ静かにマントを整え、石の座《ざ》にもたれかかる。 そのまま、ゆっくりと目を閉じた。 深い闇に、身を沈めるように。 その夜の雪は、音もなく降り続いた。 夜明けに至《いた》るまで、ただひたすらに。 赤子も、それきり、一度も目を開けることはなかった。風が本当に強い。セラフィナは元々、跳びたいだけだった。アスイェが来る前に、試しにそっと翼を動かして、少し遊びたかっただけだった。でも、自分の翼は思ったより「器用」だった。翼を少し動かしただけで、風が一気に体を押し、風圧は思ったより強かった。体が一気に前へ傾き、足も思わず走り出した。そして次の瞬間、セラフィナの足は屋根から離れていた。屋敷の屋根の上は安全とは言い難いが、飛べないセラフィナにとって、ここは安全だった。でも今は、まさにピンチだ。セラフィナはまるで、子供がうっかり手を離してしまった風船のように浮かんでいた。でも、セラフィナの翼は今、うまく動かせない。さっき慌てて大きく羽ばたったら、見えない手に上へ投げられたような感覚だった。そして今は、そのまま投げ捨てられたように体が落ちていく。「——え?!」屋根がどんどん近づき、制御を失った感覚に、セラフィナは一瞬恐怖を覚えた。「アスイェ——!!!」彼女は思わずその名を叫び、彼はちょうど、セラフィナを探しに屋根に登ってきた。「セラ!」アスイェの声色が一瞬変わり、次の瞬間、彼は翼を広げ、彼女のそばに飛んできた。最初、セラフィナは驚いて声を上げたが、アスイェが何とかする前に、少女は何かに気づいたように叫ぶのをやめた。彼女は、ちゃんと飛んでいたからだ。少女は、あることに気づいた。自分がちゃんと飛んでいて、落ちていないことに。まだ不格好な飛び方だが、ちゃんと飛んでいる。それがわかった途端、思わず大笑いした。「ははははは!ほんとに、飛んでいる!セラが、飛んでいる!」彼女は涙が出るほど笑った。笑いすぎて体のバランスを崩し、翼もさっきのようにはうまく体を支えられず、セラフィナはまた落ちていった。アスイェは一瞬で彼女を抱きとめ、二人で屋根の上に落ちた。「落ちて死にたいのか?」彼に慌てた様子はなく、屋根の上に仰向けになったまま、セラフィナに聞いた。「ははは……ごめんなさい……でも、ははは……」彼女は笑いを止められず、肩を
朝はまだ遠く、二人は屋根の上に座って、朝日を待っていた。「高いとこ、苦手じゃないのか?」「苦手だよ」彼女はアスイェの腕の中で、笑った。「だけど、アスイェと一緒に朝を迎えたい!」彼女は軽くアスイェの首筋を噛み、血はほとんど出なかったが、セラフィナは昔から、そういう食べ方が好きだった。アスイェは拒むことはなく、セラフィナの牙が少しずつ皮膚へ沈んでいったが、アスイェは動き一つすらなかった。彼女の体が熱くなり、汗が一気に噴き出した。「大丈夫か?」とアスイェの問いに、セラフィナは抱きしめるしかなかった。「息を吸うのを忘れるな。ゆっくり……」アスイェの言葉は少しだけ少女の痛みを和らげた。「……アスイェも、こんな時あった?」「うん」それはアスイェの過去、彼は少女に話していない闇だった。彼女は知らなくてもいいものだった。この痛みも熱さも、骨から来るものだった。アスイェは軽く彼女の背中に触れた。「いやか?」「……ううん、大丈夫……」アスイェは骨が、少女の皮膚を破って現れるのを感じた。骨の翼が、出てきた。黒い羽はまだ柔らかく、羽先には、まだ細い血が残っていた。一枚、また一枚と羽がゆっくり開いていくたび、夜明け前の冷たい風がその隙間を通り抜けた。セラフィナは震える指で、自分の翼へそっと触れた。初めて触れる羽だった。温かく、自分の鼓動と同じ速さで、小さく震えていた。彼女はもう、アスイェの腕の中でぐったりしていた。「……いたい……」「知っている」彼女はもう、痛みで気を失いそうだった。
もう二度と光ることはないと思っていた印が、再び光った。 その瞬間、セラフィナは何が起きているのか気づいた。 アスイェは残されたすべての力で、彼女の名を呼んでいた。 「お前は俺の娘だ。お前を育てるために、俺はここにいる」 セラフィナにはわからなかった。今の彼の穏やかな表情は、人間としてのものなのか、吸血鬼としてのものなのか、それでも、神様としてのものなのか。セラフィナはわからなかった。 「俺はいつか死ぬ。お前は、俺のためにも大きくならないといけない」 首の後ろの印は熱を帯び、セラフィナは口を開け、何も言えずにいた。 けれど、セラフィナはその感覚に逆らって、声を出した。 「ダメ……」 アスイェの手を掴もうとしたが、その手は煙のように消えていく。 「お願い、一人にしないで……」 悲しみの前に、セラフィナは恐怖を覚えた。 アスイェは微笑み、まるで最後に娘の姿を焼きつけるように、彼女を見た。 「お願いです!セラは人類が嫌い、吸血鬼が嫌い、神様も嫌い!だが、セラは、セラは、アスイェのことを……」 セラフィナは、自分の言葉がもう届かないのだと気づいた。彼が、本当に消えてしまう。 「好きだ!!アスイェ!!」 少女は掠れた声で、叫んだ。 それは少女ができる唯一のことだった。 彼女にとってアスイェはもう、神様でも、吸血鬼ですらなかった。ただ、自分を愛してくれる、自分も愛している人だった。 今、自分の名は全身全霊の祈りになった。 風が止まった。 彼女はただ、アスイェのマントを掴み、涙とともに、何度も祈った。 彼女はまだ泣いていた。 しかし、変化は一瞬だった。 セラフィナの目が、赤くなっていた。 だが、それは悪い変化ではなかった。ただ、彼女の体に刻まれた古い印が、アスイェ――彼女の名付け親に応
彼女は、ただ眠っていただけだった。目覚めた時に、全てが変わった。生きる世界も変わり、体も変わり、名前も変わった。彼女は今、小さな新しい命だった。転生するたびに、彼女はすぐに名前を授かった。でもこれは呪いみたいな苦しい記憶だった。「これは自分の名ではない」と、自分の体はいつも新しい名前を拒む。彼女の命はいつも短い。誰にも彼女へ名前を授けることはできなかった。神々は、この失敗を記録に残さないようにした。これは楽しい旅ではなく、終わらない戦いだった。彼女にとって転生とは、自分の神様を探すだけが彼女の魂の願いだった。必ずまた会える!どこにいるだろう?わたしのことを忘れたのか?私は誰?小さな命はもう神様を忘れていたが、印だけは疼いていた。少女が夢を見るたび、顔すら忘れてしまった神様が、いつも笑って慰めていた。「焦らなくていい、待っている」長い長い時間を経て、他の神々が目を閉じた……神々は少女の運命から手を放した。目覚めていた神々は次々と姿を消し、神殿も壊れ始めた。神殿に残れば死ぬ。そう思った少女は、最後の勇気を振り絞り、神殿から人間の世界へ飛び降りた。これは彼女の最後の機会だった。***世界がまた変わり、彼女はまた赤子になった。赤子を育てることは、吸血鬼の穢れた仕事となり、赤子は大きくなるまで名前が無かった。彼女は、生きることができた。自分がずっと探していた神様も見つかった。神様はもう聖なる光を纏っておらず、黒い闇を纏う吸血鬼となっていたが、赤子になった少女は彼だとすぐわかった。それは体でも、言葉でも関係なく、魂からの声だった。話が終わり、蝋燭の光も消えかけた。セラフィナは疲れたアスイェを見て、彼の瞳には、わずかに金色の光が宿っているように見えた。「俺は、死を望んでいた」アスイェの声が闇に溶けるように響き、遠く聞こえた。「…&helli
「俺は、この印がお前を俺のところへ導いていたなんて知らなかった」アスイェは揺れている蝋燭の炎を見つめ、まだ遠い昔の記憶の中にいるようだった。やがて彼は視線をゆっくりとセラフィナの目に移した。「名で一人を縛られるのは愚かだ。お前にも苦労をかけた」少女は初めてアスイェの言葉に『後悔』という感情を聞き取れた。セラフィナは何も言えず、ただアスイェに手を伸ばし、子供の頃のように、抱きしめてもらいたかった。アスイェは拒否しなかった。ただ、猫みたいだなと、彼女の頭を撫でながら呟いた。この夜、アスイェが話してくれたことで、少女は何が起こったのか、そのすべてを知った。神様が堕ちた時、自分でもわからなかった。外見も、体も、何一つ変わらなかった。ただ、彼が名前を授けた赤子は病気になり、やがて、死に至った。最初は誰も気づかなかった。神様の恩恵を受けられない子供は少ないが、いないわけではない。その子供はまるで一瞬だけ咲く花のように、枯れた。その日、泣き声が聖堂に響いたが、誰も彼を責めなかった。神様に名前を授かった子供は一人、また一人、命を落とした。神様が堕ちたと確信したのは、ある日、儀式で名を授かった子は、儀式が終わる前に咳が止まらなかった。その後血を吐いて、目を開けることがなかった。「俺は罪深い人だった。自分が堕天したことにも気づけないなんて、ありえない」アスイェの手はいつものように冷たいが、それはまるで人類が恐怖に震えた人のような冷たさだった。「俺は、自分の手で子供を殺したようなものだ。名を授けた――」「アスイェは知らなかったでしょう?祝福したかったから、名前をあげた」「それは罪から逃げる理由にならない。罪滅ぼしをしなければならない。ただ……お前だけは、生きてさえいてくれれば……」セラフィナはやっとわかった。自分の名前は堕ちた神様の最後の力、最後の願いだった、セラフィナはこんなアスイェをみたことが無かった。セラフィナはい
「神は居なくならない」その言葉を残した神様は消えた。突然で、何も残さなかった。時折、神殿の空に雲が積もり、風もゆっくりと吹き始めた。それを知っていたのは、セラフィナだけだった。神様がいる時、空はいつも雲ひとつない晴天だった。セラフィナは待ち続けた。その時間はあまりにも長く、彼女は成長し、読み書きもできるようになった。毎日の記録を残し,神様が帰ってきた時、忘れずに話せるように。セラフィナは何一つ文句を言わなかったが、雲が光を遮った時だけ、空に向かって、「日記を書けない」と言う。その時だけ、神様が少女の願いを聞いていたように、雲がゆっくりと消えていく。セラフィナの毎日は、あまり変わらなかった。そのせいで、セラフィナは疑い始めた。神様は本当に帰ってくるのか?こんなことを考えてはいけない。とセラフィナは知っていた。それでも、自分を連れて行かなかったのは事実だった。神様の愛は自分一人のものではない。神様の愛は全ての人のものだった。それは、とても美しいことだとセラフィナは思った。それ以上願えば、それは願いではなく、貪欲になる。それでも、自分はやはり神様の側にいたい。彼の影になり、彼の最もおとなしい子になりたい。これは彼女の最後の願いだった。そして、神様はその願いを聞き届けた。神様が帰ってきたのは、ある日の黎明《れいめい》だった。遠くからでも、セラフィナには神様が傷ついているとわかった。美しい白い翼には、焼け焦げた跡が残っていた。セラフィナの胸に、一瞬怒りが込み上げた。神様は何事もなかったかのように、セラフィナに向けて歩いた。セラフィナは神様に近づきたかったが、彼はもう、以前のように白く、美しいだけの神様ではなかった。セラフィナはそこで足を止めて、見つめていた。やがて神様
セラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋
執事は、あの赤子が気に入らなかった。 理解できないわけではない。ただの嫌悪《けんお》でもなかった。彼はこの収容場で長く仕《つか》えている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。老《お》いた血奴《サーバント》の手には無数の傷跡《きずあと》が刻《きざ》まれ、ときに掌《てのひら》の肉《にく》や指ごと噛み千切《ちぎり》られたこともあった。牙《きば》すら生えていない幼体《ようたい》が、だ。彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。 三人の長老《ちょうろう》に仕《つか》え、数え切れぬ失敗作を処理して
赤子は、目を開けたまま動かなかった。 まるで、何かを確かめているように――ひとつの答えを、静かに待っているようだった。アスイェは、いつものように黙《だま》って赤子の前に立ち、しばらくその目を見つめた。そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、子を抱き上げた。その身は、最初まるで反応《はんのう》を示《しめ》さなかった。まるで、自分が揺籃《ゆりかご》から離れたことさえ、まだ気づいていないかのように。子の目は、ずっとアスイェの顔にとらわれたまま動かず、やがて、その小さな手を伸ばし、アスイェを抱きしめた。その手は、まだ小さすぎて、アスイェの首にさえ届かなかった。 「抱きしめる」というよりも――た
あの夜、灯は早めに落とされた。 暖炉に薪《まき》はもうなく、風の音も小さい。執事の姿もない。 アスイェと子だけがいる空間は、異様《いよう》なほど静かだった。壁に掛けられた古い織物《おりもの》は、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造《いしづく》りの床の上に落としていた。アスイェは灯を点けなかった。 古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。 部屋の中は深い漆黒《しっこく》に包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸《ぎんし》のように断続的に揺れていた。その光は、時折《ときおり》雲に遮られ、またふたたび現







