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第三話:寒いのがいや、鐘の音が怖い

Author: 新城凪
last update publish date: 2026-03-14 13:43:36

子はいつも、朝の光よりも早く目を覚めた。
 あるいは――これまで一度も、本当の眠りについたことなどなかったのかもしれない。

 教会の暖炉《だんろ》が、夜通し燃えることはない。とくに冬の夜明け前、気温は一気に底《そこ》を突く。
 石畳《いしだたみ》の隙間から這《は》い出す冷気は、古《ふる》びた木の扉さえ通り抜ける。

 アスイェが目を覚ましたとき、火はすでに消えていた。暖炉《だんろ》の中には、白く乾いた灰が、うっすらと積もっていた。
 空気は冷えていたが、静かだった。

 赤子は泣いていなかった。ただ、黙《だま》って、揺籠《ゆりかご》の中にいた。まぶたを閉じ、小さな身体を折《お》り畳《たた》み、浅く呼吸を繰り返し、気配を限りなく薄めていた。

 まるで、雪の中に埋もれた灰のようだった。アスイェは一度だけ、揺籠《ゆりかご》を見た。

 執事はまだ現《あらわ》れていなかった。彼は物音ひとつ立てずに歩を進め、赤子に近づいた。

 赤子の身体は冷えきっていた。指先も唇も、色を失っていた。だが、それでも泣かなかった。
 泣いても意味がないと知っているようだった。誰も来ない。来ても、遅い。それを知っている者の顔をしていた。アスイェは何も言わなかった。
 ただ膝を折り、赤子を抱き上げた。その動作に、迷いはなかった。戸惑《とまど》いも、逡巡《しゅんじゅん》もなかった。彼はただ、赤子を自分の腕の中に置いた。
 それだけだった。

 赤子は目を開けないまま、かすかに鼻先《はなさき》を動かし、何かを探るようにアスイェに寄った。

 その匂いに、安心するように。力のない指が、彼の襟の端を掴んだ。アスイェは動かなかった。暖炉には、新たに火が入れられたが、彼は火のほうへは向かわなかった。暖かさを背に受けながら、振り返らず、視線も逸らさず、ただ揺籠《ゆりかご》の傍に立ち尽くしていた。

 赤子の頭は、彼の肩にそっと凭《もた》れていた。呼吸はまだ浅かったが、震えは止まっていた。

 ほんのわずかに、ほんのかすかに、体温が戻りつつあるようにも思えた。

 あるいは――冷たくない何かが、すぐ近くにあると、そう感じ取っただけかもしれない。

 執事が部屋に入ってきたとき、
 その光景《こうけ》を前に、わずかに足を止めた。

「まさか、お抱きになるとは――」

「可愛がっているつもりはない。このものは、ただ寒いだけだ。」アスイェは低く答えた。
 それでも彼は、赤子を手放《てばな》していなかった。移動する気配もなかった。
 この場所で、この姿勢のまま、腕に赤子を抱いたまま、留まり続けていた。

 彼にとって、次にすべきことはさほど重要ではなかった。
 この空間にいるのは、彼とこの子だけで、それだけで時間は十分すぎるほどにあった。
 その短いはずの時間を使って、アスイェは赤子を温めていた。
 ――ただ、それだけのことだった。
 けれど、彼はそうしたいと思った。そうすることを、自分で選んだ。

 教会の窓には霜が降りていた。
 風が古びた塔を吹き抜け、今にも落ちそうな金属の歯車を、ギイ、と鳴らした。
 その歯車はすでに廃棄されたもので、かつて何に使われていたのかを知る者はもういない。
 それでも歯車は、外れぬ風車《かざぐるま》のように、そこに在り続けている。

 鐘が鳴った。
 塔の高みから、空洞《くうどう》の胸を貫くように、重く響き降りた。

 アスイェは目を開けた。石の座に腰掛けたまま、反応はなかった。
 この音は、彼にとっては聞き飽きるほどに馴染んだものだった。
 七つの音。死者の魂《たましい》に捧《ささ》げるレクイエムのように、月に一度、変わらず響く。

 静かでも、騒がしくもない。
 ただ、彼はこの音が好きではなかった。

 何も発せず、ただ座ったまま、その時間が過ぎるのを待った。
 許可もなく侵入《しんにゅう》してくる振動。思考の隙間に入り込む騒音《そうおん》。

 
 ――好きではなかった。

 アスイェは耐えた。かつてと同じように、何も言わず、何も示《しめ》さず、ただじっとして鐘の音が止むのを待った。
 ……そのはずだった。

 だが、子が動いた。

 まるで天敵《てんてき》に見つかった小動物《しょうどうぶつ》のように、子は身をすくめ、毛布の中へと沈《しず》んだ。
 目を開くことも、泣くこともなく、かすれた音をひとつ漏らした。
 覚めているのか、まだ夢の中なのか、その境《さかい》も曖昧《あいまい》だった。

 アスイェは一瞥《いちべつ》をくれた。だが子の顔は、すでに布の奥深くに隠れていた。

 赤子は新しいものに触れた。痛みはなかった。ただ、そこにあったのは――初めて覚えた感情。
 嫌悪《けんお》と、恐怖《きょうふ》。

 鐘の音はとっくに止んでいたが、子の体はなお緊張に包まれていた。
 手足を縮こませ、気配を消そうとする小さな生き物のように。

 アスイェはすぐには動かなかった。
 子が発する声――それは「声」と呼ぶにはあまりに細く、かすれた音で。
 まるで、迷子の子猫が夜の底《そこ》で震《ふる》えるような音だった。

 やがて、彼は立ち上がった。
 石の座を離れ、足音もなく子に近づく。

 一瞬、視線を落とし、アスイェは口を開いた。
 唇をわずかに動かしながら、赤子に向けて、かつての吸血鬼の言葉を紡《つむ》いだ。

 それはすでに廃れた古語。今はもう、誰も用いぬ音。
 それは「言葉」というよりも、「響き」だった。

 響きは空気を震わせ、重さを帯びて宙《そら》から静かに落ちていく。

 赤子はそれを聞いた。身を小さく震わせ、そして――静かになった。
 言葉は理解できなくとも、その音の質だけは、体で理解できた。

 これは風の音ではない。火のざわめきでもない。足音でもない。
 これは、アスイェの声だった。

 ――このひとは、知っている。

 赤子は静かになった。
 相変わらず目は閉じたままだが、呼吸はゆっくりと整い、
 小さな手はまだ毛布の端を掴んでいたものの、その力は幾分《いくぶん》か緩んでいた。

 アスイェもまた、何も言葉を発することなく、その場をしばらく離れなかった。
 先ほどの言葉は、命令でも慰めでもない。
 それは誰かの名のようでありながら、名ではなく、
 呼びかけのようでありながら、応えることを必要としない。
 ただ――この子が「誰に守られているのか」を告げるための音だった。

 聖堂には再び静寂《せいじゃく》が戻る。
 風は止まず、どこかで金属の歯車が、風とともに微《かす》かに鳴《な》いていた。
 それでも赤子は騒がなかった。

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