INICIAR SESIÓN子はいつも、朝の光よりも早く目を覚めた。 あるいは――これまで一度も、本当の眠りについたことなどなかったのかもしれない。
教会の暖炉《だんろ》が、夜通し燃えることはない。とくに冬の夜明け前、気温は一気に底《そこ》を突く。 石畳《いしだたみ》の隙間から這《は》い出す冷気は、古《ふる》びた木の扉さえ通り抜ける。 アスイェが目を覚ましたとき、火はすでに消えていた。暖炉《だんろ》の中には、白く乾いた灰が、うっすらと積もっていた。 空気は冷えていたが、静かだった。 赤子は泣いていなかった。ただ、黙《だま》って、揺籠《ゆりかご》の中にいた。まぶたを閉じ、小さな身体を折《お》り畳《たた》み、浅く呼吸を繰り返し、気配を限りなく薄めていた。 まるで、雪の中に埋もれた灰のようだった。アスイェは一度だけ、揺籠《ゆりかご》を見た。 執事はまだ現《あらわ》れていなかった。彼は物音ひとつ立てずに歩を進め、赤子に近づいた。 赤子の身体は冷えきっていた。指先も唇も、色を失っていた。だが、それでも泣かなかった。 泣いても意味がないと知っているようだった。誰も来ない。来ても、遅い。それを知っている者の顔をしていた。アスイェは何も言わなかった。 ただ膝を折り、赤子を抱き上げた。その動作に、迷いはなかった。戸惑《とまど》いも、逡巡《しゅんじゅん》もなかった。彼はただ、赤子を自分の腕の中に置いた。 それだけだった。 赤子は目を開けないまま、かすかに鼻先《はなさき》を動かし、何かを探るようにアスイェに寄った。 その匂いに、安心するように。力のない指が、彼の襟の端を掴んだ。アスイェは動かなかった。暖炉には、新たに火が入れられたが、彼は火のほうへは向かわなかった。暖かさを背に受けながら、振り返らず、視線も逸らさず、ただ揺籠《ゆりかご》の傍に立ち尽くしていた。 赤子の頭は、彼の肩にそっと凭《もた》れていた。呼吸はまだ浅かったが、震えは止まっていた。 ほんのわずかに、ほんのかすかに、体温が戻りつつあるようにも思えた。 あるいは――冷たくない何かが、すぐ近くにあると、そう感じ取っただけかもしれない。 執事が部屋に入ってきたとき、 その光景《こうけ》を前に、わずかに足を止めた。 「まさか、お抱きになるとは――」 「可愛がっているつもりはない。このものは、ただ寒いだけだ。」アスイェは低く答えた。 それでも彼は、赤子を手放《てばな》していなかった。移動する気配もなかった。 この場所で、この姿勢のまま、腕に赤子を抱いたまま、留まり続けていた。 彼にとって、次にすべきことはさほど重要ではなかった。 この空間にいるのは、彼とこの子だけで、それだけで時間は十分すぎるほどにあった。 その短いはずの時間を使って、アスイェは赤子を温めていた。 ――ただ、それだけのことだった。 けれど、彼はそうしたいと思った。そうすることを、自分で選んだ。教会の窓には霜が降りていた。 風が古びた塔を吹き抜け、今にも落ちそうな金属の歯車を、ギイ、と鳴らした。 その歯車はすでに廃棄されたもので、かつて何に使われていたのかを知る者はもういない。 それでも歯車は、外れぬ風車《かざぐるま》のように、そこに在り続けている。
鐘が鳴った。 塔の高みから、空洞《くうどう》の胸を貫くように、重く響き降りた。 アスイェは目を開けた。石の座に腰掛けたまま、反応はなかった。 この音は、彼にとっては聞き飽きるほどに馴染んだものだった。 七つの音。死者の魂《たましい》に捧《ささ》げるレクイエムのように、月に一度、変わらず響く。 静かでも、騒がしくもない。 ただ、彼はこの音が好きではなかった。 何も発せず、ただ座ったまま、その時間が過ぎるのを待った。 許可もなく侵入《しんにゅう》してくる振動。思考の隙間に入り込む騒音《そうおん》。 ――好きではなかった。 アスイェは耐えた。かつてと同じように、何も言わず、何も示《しめ》さず、ただじっとして鐘の音が止むのを待った。 ……そのはずだった。 だが、子が動いた。まるで天敵《てんてき》に見つかった小動物《しょうどうぶつ》のように、子は身をすくめ、毛布の中へと沈《しず》んだ。 目を開くことも、泣くこともなく、かすれた音をひとつ漏らした。 覚めているのか、まだ夢の中なのか、その境《さかい》も曖昧《あいまい》だった。
アスイェは一瞥《いちべつ》をくれた。だが子の顔は、すでに布の奥深くに隠れていた。 赤子は新しいものに触れた。痛みはなかった。ただ、そこにあったのは――初めて覚えた感情。 嫌悪《けんお》と、恐怖《きょうふ》。 鐘の音はとっくに止んでいたが、子の体はなお緊張に包まれていた。 手足を縮こませ、気配を消そうとする小さな生き物のように。 アスイェはすぐには動かなかった。 子が発する声――それは「声」と呼ぶにはあまりに細く、かすれた音で。 まるで、迷子の子猫が夜の底《そこ》で震《ふる》えるような音だった。 やがて、彼は立ち上がった。 石の座を離れ、足音もなく子に近づく。 一瞬、視線を落とし、アスイェは口を開いた。 唇をわずかに動かしながら、赤子に向けて、かつての吸血鬼の言葉を紡《つむ》いだ。 それはすでに廃れた古語。今はもう、誰も用いぬ音。 それは「言葉」というよりも、「響き」だった。 響きは空気を震わせ、重さを帯びて宙《そら》から静かに落ちていく。 赤子はそれを聞いた。身を小さく震わせ、そして――静かになった。 言葉は理解できなくとも、その音の質だけは、体で理解できた。 これは風の音ではない。火のざわめきでもない。足音でもない。 これは、アスイェの声だった。 ――このひとは、知っている。 赤子は静かになった。 相変わらず目は閉じたままだが、呼吸はゆっくりと整い、 小さな手はまだ毛布の端を掴んでいたものの、その力は幾分《いくぶん》か緩んでいた。 アスイェもまた、何も言葉を発することなく、その場をしばらく離れなかった。 先ほどの言葉は、命令でも慰めでもない。 それは誰かの名のようでありながら、名ではなく、 呼びかけのようでありながら、応えることを必要としない。 ただ――この子が「誰に守られているのか」を告げるための音だった。 聖堂には再び静寂《せいじゃく》が戻る。 風は止まず、どこかで金属の歯車が、風とともに微《かす》かに鳴《な》いていた。 それでも赤子は騒がなかった。休みのあと、アスイェは出かけた。今はまだ夜ではなく、空は橙色《だいだいいろ》に染まっている。風がやさしい。陽の光が落ち、庭にある階段は金色を帯び、セラフィナはその階段の上に座ったまま、部屋に戻らなかった。彼女は、さっきここからアスイェを見送ったばかりだった。体を大きなマントに隠し、膝を抱えて座っていた。セラフィナの手に、何かを持って、彼女はじっくりとそのものを見ていた。――それは一つのカフスボタンだった。このカフスボタンは丸く、銀の輪の中に赤い宝石が嵌《は》められていた。セラフィナは宝石のことをよく知らないが、それは『ルビー』らしい。彼女は知っていた。これはアスイェがよくつけていたカフスボタンだった。今、自分の手にあるこのカフスボタンは、いつも彼の左袖についていた。宝石だけではなく、本当にセラフィナの目を奪っていたのはあとから刻まれた紋《もん》だった。その紋《もん》は古いものだが、アスイェがこのカフスボタンをよく拭くから、宝石はきれいで、光に当てるとさらに輝いた。そして、アスイェは出かける前に、対になっているはずのカフスボタンの片方をセラフィナに渡した。「持っていろ。俺と一つずつだ」セラフィナは顔を上げて彼を見つめた。アスイェは右袖をセラフィナに見せた。そこには、カフスボタンはある。「いい子で留守番をしろ、庭に行かなければ危険はない。分かったか?」セラフィナはカフスボタンを握っているが、視線はアスイェからそらしていなかった。アスイェはしばらくこの子を見つめ、身をかがめて、彼女のマントを膝までしっかりとかけ直した。「いいな。すぐ戻る」セラフィナは前のように、「セラも行きたい」とわがままを言わなかった。ただ、手にあるカフスボタンをぎゅっと握りしめた。やがてセラフィナは頷いた。アスイェが屋敷に出る時の足音は静かで、まるで重さがないようだった。子は階段の上で長く座っていた。空が闇に呑み込まれる頃、セラフィナはようやく屋敷の中に戻った。部屋の光が何度も消され、再び
屋敷がいちばん静かになるのは――アスイェの休み時間だった。風はまるで見えない蛇のように椅子の脚を回り、彼の袖をなぞり、そのまま彼のそばを通り抜けて消えた。アスイェは庭に置かれた長椅子にもたれて、目を閉じている。元々腰を下ろしているだけだったが、静かになると、アスイェは瞼を閉じ、呼吸もゆっくりになり、眠りに落ちそうになった。彼は眠りに落ちそうになった。だが、その静けさは簡単に破れた。かすかな音が、途切れ途切れに屋敷の中へ広がってくる。最初は足音だった。ばたばたと慌ただしく、何か小さなものが落ちた気配がして、すぐに幼子の声が続いた。「あ……」彼は誰だかをわかっていたから目を開かなかった。――セラフィナは最近、やたらと元気がある。走り回らないときでも、何かを探して屋敷を歩き回っている。時々アスイェを連れて、いわゆる「アスイェが見たことのないもの」を見せていた。「ほら!ねこ!」「風がうるさい!」そうして、セラフィナは問いかけてきた。「たべないの?」「なぜセラじゃいけないの?」「コウモリにへんしんできるの?」アスイェは答える時があれば、答えない時もある。そしていつも騒いだあと、セラフィナは彼の腕の中に入り、「疲れているの?」と聞く。時々彼は確かに、「疲れ」を感じる。それは変な感覚だった。まるで体の内側に、ふわふわとした何かを閉じ込められ、このまま横になっているしかないような感覚。アスイェは忘れたと思ったが、彼はこの感覚を昔から知っていた。かつて――病やまいを越えたあとの子どもも、セラフィナのように騒ぎ、笑い、走り回った。子供が元気になるほど、彼は疲れていった。「アスイェは、ゆめを見てるの?どんなゆめ?」アスイェは目を開けなかった。セラフィナは彼の指をつかまえて、自分の話を始めた。「セラはね、ゆめをみたの、大きなつばさがあったの。セラは空に飛んでる。アスイェは下にセラをまっていた!」「……アスイェ……きいてるの?」アスイェは本当に深い眠りに落ちてい
今夜は静かで、風も優しい――それでもセラフィナはよく眠れなかった。 彼女は小さく動き、わずかな違和感で目を覚ました。 自分の夢は覚えていないまま、無意識に拳を握りしめていた。 強く力が入り、袖が破れ、びり、と小さな音が走る。 セラフィナはゆっくりと体を起こし、破れた袖をしばらく見つめた。 腕をあげ、落ちかけた布をそっと目の前に持ち上げる。 まだ眠気の残る頭で、「服が壊れた」とようやく理解する。 そして視線を落とすと、自分の手の裏に小さな傷跡が残っていた。 ここは安全のはずだったから、傷を負っていることがおかしい。 セラフィナはしばらくベッドの上に座ってゆっくりと手を動かす。 手をにぎっては開き、またにぎっては開く…… それを何度も繰り返すうちに、セラフィナは気づいた。 あるときは力が入らず、次のときは強くにぎりすぎてしまうのだ。 やがて、彼女は諦めたように、手を下ろした。 足をベッドの外に垂らし、かすかに揺らしてから止める。 そのとき、アスイェがドアを開けた。 セラフィナはいつものように彼と目を合わせることはなかった。 アスイェの足取りは、今日も音がなかった。 瞬きの瞬間、セラフィナはアスイェの靴が視界に入った。 悪いことをして大人に見つかった子のように、肩をびくりと跳ねさせる。 子は口をかたくつぐんだ。息すら小さくなる。 アスイェは叱りもせず、ただ静かに手を差し出した。 小さな掌には傷があったが、血はもう出ていない。 「大丈夫か?」 子はゆっくりとうなずいた。 セラフィナの手がそっと離れ、破れた袖を整える。アスイェは彼女のそばに腰を下ろした。 閉まりきらない窓から風が入り、セラフィナはこそりとアスイェの袖をつまんだ。 時間が静か
子供が眠った後は彼の時間だ。アスイェは本を手に、「本を読む」のは彼の数少ない「興味」の一つだった。夜が来た。窓の外は深淵のように暗い、書斎にはアスイェがページをめぐる音すら吸い込まれるような静けさ――その静けさは、ふいに破られた。いつまにか幼い子は彼の椅子の下に来ていた。セラフィナは、アスイェが与えたぬいぐるみを抱いたまま、迷いなく彼の足元へと寄ってくる。しばらくアスイェの手を見つめ、そのままとすん、とカーペットの上に小さく腰を下ろし、そっと体を寄せた。吸血鬼は体温がない、でも若い子供が彼の足元にいるのか好きだった。アスイェはその瞬間に視線が本から外さない。ただ――ページがめくる手が一瞬止まっただけだった。「……どうした?」セラフィナは答えない、ただ近づこうとしただけなのに、アスイェの肘に触れた瞬間、小さく驚いて手を引っ込めた。アスイェはやっと視線を落とす。椅子の下に身を隠すように座り込み、まるで「ここなら追い出されない」とでも言うような幼い姿だった。彼は小さくため息をついて、本を閉じ、セラフィナを抱き上げた。もしアスイェが何をしないならこの子はほんとにそのまま動けず寝落ちする。そして、朝になたらアスイェに今ようにビッタリする。膝に乗せられたセラフィナは満足そうに身をアスイェに預けた。「眠れないのか?」「……」あかりが消してくれたはずだ」「……」アスイェの声は決して怒りがないが、若い子は何も話さない。「黙ってるとわからない」それでもセラフィナは何も話さないかった。ただ彼の首に手を回し、しっかりと抱き寄せた。この動きで彼は読書を諦めた。「……きつい……セラ……」彼がゆっくりと若い子の呼ぶと、セラフィナはやっとその呼びを答えた。「……うん……さむいからここにいるの」「なら部屋に帰ろう」セラフィナは嫌がる。「アスイェが、ここにいる。アスイェのそばがいい」アスイェはもう問わない。ただ少し前のように毛布を子供に被らせた。「なら、ここにもう少し寝ろ」
セラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋に入ると、セラフィナはもうおとなしくいすに座っていた。 手にカップを持って、何を待っていたようだった。 アスイェはその前に立ち、ふと視線を落とす。 カップのふちに、乾いた血の跡が残っていた。 「今日はお前はもう2回飲んだはずだ」アスイェは事実を淡々と告げる。 「これは正常の飲食ではない」 セラフィナは彼を見つめ、静かにカップをアスイェの前に推した。 アスイェは、押し出されたカップに目もくれず、静かに言葉を続けた。 「お前は飢えていないはずだ」 セラフィナは瞬くこともなく、ただアスイェを待っていた。 欲しいものを得るまでは動かない。 やがてアスイェはポットを取り、ミルクを注いだ。 セラフィナは一口だけ飲み、そこでぴたりと止まる。 「どうした?」 首を横に振るだけで、何も言わない。 「お前が飲みたいものだ」 セラフィナは俯き、考え込むように眉を寄せた。 かつてミルクを飲めなかったとき、一滴だけ血を混ぜてやったことがある。
炎はすでに消え、屋敷の中へと風が吹き込んでいた。 その風は灰と血の匂いをまとい、割れた窓から静かに部屋へ入り込む。 幼子はアスイェの腕の中に隠れたまま、顔を出さない。 アスイェはただその体を抱きとめ、離さずにいた。 やがて、彼の手が幼子の瞼にそっと触れる。 そのひとつの動きだけで、セラフィナの世界は静けさに包まれた。 ――眠っているように見えた。 だが、セラフィナの唇はわずかに動き、かすかな寝言をこぼしていた。 「……Sia……Sia……」 その声は軽く、夜の迷子になった雛が必死に羽を震わせるような響きだった。 「それは俺の名前じゃない。それは、ただの闇の中の音だ」 アスイェの声が部屋の奥に広がり、やがて闇の中へ溶けていく。 若い子供には意味など分からなくても、アスイェは静かに語りかけた。 セラフィナのまぶたがわずかに揺れ、目が開いた。 まだ夢の残滓を抱えたように、幼い瞳はぼんやりとアスイェを映している。 「お前は――自分の声で、俺を呼ぶんだ」 静かに告げられた言葉が、セラフィナの中に届いた。 彼女はゆっくりと口を開く。 最初に漏れたのは、ひとつの音。 「……ア……」 その発声は痛みを伴うようで、声の震えとともに涙が滲んだ。 「……ス……イェ……」 最後の音が出た瞬間、まるで幼い祝福のように、部屋の蝋燭の火が小さく揺れた。 セラフィナはようや