Masuk赤子は、目を開けたまま動かなかった。 まるで、何かを確かめているように――ひとつの答えを、静かに待っているようだった。
アスイェは、いつものように黙《だま》って赤子の前に立ち、しばらくその目を見つめた。そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、子を抱き上げた。
その身は、最初まるで反応《はんのう》を示《しめ》さなかった。まるで、自分が揺籃《ゆりかご》から離れたことさえ、まだ気づいていないかのように。
子の目は、ずっとアスイェの顔にとらわれたまま動かず、やがて、その小さな手を伸ばし、アスイェを抱きしめた。その手は、まだ小さすぎて、アスイェの首にさえ届かなかった。 「抱きしめる」というよりも――ただ、必死に、無我夢中《むがむちゅう》でアスイェの襟をつかみ、その胸にしがみついただけだった。
赤子は、泣きもしなかったし、音すら立てなかった。 ただ、アスイェの肩に必死でしがみついていた。自分が落とされないように、アスイェを失わないように。 アスイェはその小さな腕を抱き返すことなく、赤子に襟を掴まれたまま、黙って立っていた。 二人は、ぴたりと動きを止めていた。
扉が開いたのは、その時だった―― 執事が記録用《きろくよう》のボードを手に入ってきたが、アスイェの姿を見て、ふと足を止めた。足だけでなく、すべての動きが止まった。けれど、赤子は動いた。 アスイェもついに腕を動かし、片手でその身をしっかりと支えた。赤子はアスイェの腕の中で、ゆっくりと首を動かし、その視線を執事へと向けた。 その視線の先には、執事と、その後ろから微かに漏《も》れる灯《あか》りがあった。
吸血鬼は灯りを嫌《きら》う。だが、赤子が見ていたのは、灯りではなかった。 音と、人だった。
この子は、まだ「その人」が誰かを理解していない。 それでも、その小さな体は、アスイェの方へと、さらに近づいた。 さきほどよりもっと深く、まるでマントの中にでも隠れ込むように、耳をアスイェの胸にぎゅっと押し当てた。
それは、本能だった。 恐れに対する、赤子の本能的な選択《せんたく》。
この子は、まだ逃げない。 ならば、最も近く、最も安全な場所へ――それは、アスイェの腕の中だった。 「このものは、お前を見た」アスイェは、静かに告げた。 「目を開けて、最初に見たのが、お前だった」 執事は、何も言わなかった。 扉の近くに立ち止まり、まるで何かあればすぐに退却できるように、肩をすくめ、視線をそらした。 視線を外せば、これからアスイェが言うことも、自分には関係ない。そうすれば、この吸血鬼から逃れられる――執事は、きっとそう信じていたのかもしれない。アスイェはしばらく沈黙していた。 子を揺籠に戻したが、その指先は赤子に掴まれたままだった。
「その日、お前は、この者を攫《さら》われたかった」
低く、乾《かわ》いた声だった。 執事はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。 「もし、それが『お前の仕事』ならば――お前は、失格《しっかく》だ。俺はこの者に触れていいとは、言っていないはずだ」アスイェはそう言いながら、そっと赤子の指に触れた。 その顔は、陰《かげ》になってよく見えなかった。
子は、まだアスイェの指先を掴んでいた。 その力は、アスイェにとっては微かなものだったが、子にとっては渾身《こんしん》の力だった。
「なぜ、連れ出そうとした?」
「……あなた様が、気にされないと思い……」
執事はそう答えかけて、何かを思い出したように口をつぐんだ。 その瞬間、部屋の空気すら凍りついた。
「俺は、他の命知らずが、自分のものに触れるのを――何より、好《この》まない」
アスイェの声には、何の感情も乗っていなかった。まるで、ただ天気の話でもするかのように。執事は、はっとして頭を垂《た》れた。 アスイェは、彼に弁解の機会など与えていない。だからだ。
アスイェは、執事の背後にある灯りを、一つ、また一つと消していった。 まるで、子に眠りの歌でも聞かせるように。
子は泣かなかった。ただ、アスイェの指先を掴んだまま、静かに瞼《まぶた》を閉じただけだった。
執事への小さな罰《ばつ》は、言葉もなく、風さえ止まったまま降りてきた。 赤子も、その様子《ようす》を、見ることはなかった。
「神は居なくならない」その言葉を残した神様は消えた。突然で、何も残さなかった。時折、神殿の空に雲が積もり、風もゆっくりと吹き始めた。それを知っていたのは、セラフィナだけだった。神様がいる時、空はいつも雲ひとつない晴天だった。セラフィナは待ち続けた。その時間はあまりにも長く、彼女は成長し、読み書きもできるようになった。毎日の記録を残し,神様が帰ってきた時、忘れずに話せるように。セラフィナは何一つ文句を言わなかったが、雲が光を遮った時だけ、空に向かって、「日記を書けない」と言う。その時だけ、神様が少女の願いを聞いていたように、雲がゆっくりと消えていく。セラフィナの毎日は、あまり変わらなかった。そのせいで、セラフィナは疑い始めた。神様は本当に帰ってくるのか?こんなことを考えてはいけない。とセラフィナは知っていた。それでも、自分を連れて行かなかったのは事実だった。神様の愛は自分一人のものではない。神様の愛は全ての人のものだった。それは、とても美しいことだとセラフィナは思った。それ以上願えば、それは願いではなく、貪欲になる。それでも、自分はやはり神様の側にいたい。彼の影になり、彼の最もおとなしい子になりたい。これは彼女の最後の願いだった。そして、神様はその願いを聞き届けた。神様が帰ってきたのは、ある日の黎明《れいめい》だった。遠くからでも、セラフィナには神様が傷ついているとわかった。美しい白い翼には、焼け焦げた跡が残っていた。セラフィナの胸に、一瞬怒りが込み上げた。神様は何事もなかったかのように、セラフィナに向けて歩いた。セラフィナは神様に近づきたかったが、彼はもう、以前のように白く、美しいだけの神様ではなかった。セラフィナはそこで足を止めて、見つめていた。やがて神様
光は白い神殿の床に広がり、毎日変わらなかった。彼女の仕事は毎日神様の側に立つことだった。神の手は暖かく、マントも大きく、毎日神様の隣にいるだけで、幸せだった。セラフィナは幼く、神の責任や信者たちの願いは、彼女にとって遠いものだった。セラフィナはずっと、幼いのままだった。時間はセラフィナの前では止まったように、彼女はまるで神の庭から、外の世界を眺めていたようだった。自分は神の庭から一歩も出なかった。セラフィナは離れようと、一度も思わなかった。神の庭にいれば幸せで、神様のそばで、いろんなものを見てきた。彼女は、新しい名前が生まれる瞬間も、古い名前が消えていくところも見届けていた。他の神々にも会える機会があった。セラフィナはずっと、幼いのままだった。髪すらあんまり伸びてなかった。彼女は神のそばで、静かで、大人しく、愛らしいお人形さんになっていた。セラフィナにとってこれは決して悪くなかった。神様が彼女に大きくなってほしくなかったから、時の流れがひどく遅かったのだ。「神様の愛は不滅なものだ」と信者が言った。セラフィナは信じていた。しかし、やがて異変は訪れた。まるで蝋燭の火が消える前の揺らぎのようだった。今でも彼女は覚えている。その日、神様が階段の上に立ち、身をかがめ、セラフィナの服についた埃を払っていた。神様の服は相変わらず白く美しい。汚れた場所から戻ったことを、その時のセラフィナは知らなかった。神様は神様のままだった。異変はそのすぐあとだった。セラフィナには聞こえた。遠くから届いてくる雷雲の音が、だが、ここに雨はないはずだった。見えない雷雲が、神様の背後まで追いついていた。空は微かに割れて、金色の光が神様の背後から差し込んだ。その光は眩しすぎて、神様は闇の中に閉じ込められたと見えた。セラフィナは聞きたかったが、神様はもう立ち上がっていた。「部屋で待っていて」神様は帰る約束をしなかった。ただ、彼女の髪を撫でただけだった。セラフィナは何かを感じたが、やがて何
いつもと同じ夜。アスイェはいつものように本を手にして窓辺に座っていた。いつもならセラフィナは彼と一緒に座っていたが、今夜は床に座ると少女が言い出した。そしてアスイェは問うた。「自分の名前の意味は知っているか?」部屋の中の灯りは薄く、アスイェの影はそのまま少女を覆った。少女は彼の影の中に座り、小さな声で答えた。「知らない」と。アスイェは笑った。その笑みには、いつもの気だるさも、からかうような気配もなかった。あるのは優しさだけだった。しばらく言葉を続けなかった彼は、優しい眼差しはセラフィナを通り越し、その先の過去を見つめていた。再び語り始めた彼の声は、あまりにも優しくて、まるで一雫の水が枯れた湖に落ちたようだった。***アスイェは神だった。セラフィナがよく知っている黒いマントを羽織り、、夜の中に歩き続けたアスイェではなかった。その時、彼は白い衣をまとい、その姿は太陽のように金色だった。その目は晴れた空のように青く、翼は雲のように白かった。彼は名を授ける者《もの》だ。彼の使命は戦うことでもなく、裁くことでもない。 ただ、まだ名を持たぬものに名を授けることだった。 風を「風《かぜ》」とし、光を「光《ひかり》」と呼ばせるために。その日、彼は白い神殿で彼女を見つけた。幼子はまだ天真爛漫で、小さな翼と白い身体が神殿の色に溶け込み、彼女の姿はまるで雪のようだった。幼子――小さな天使を導くのは、彼の仕事だった。その澄んだ目を見つめて問いかけた。「名前、あげようか?」小さな天使は答えず、彼を見つめた。「あなたの名前はセラフィナだ」***「セラフィナ」――六翼天使に連なる名だ。神座の第一層を守る、炎と純潔の化身。光の侍者であり、神の
セラフィナはまた、アスイェの状態を無意識に感じ取った。アスイェの体調が優れないと、セラフィナも気分が悪くなる。その糸は深く体の中に埋まっていた。痛みは感じないが、体がその糸に引っぱられているような感覚に、セラフィナは思わず息を殺した。アスイェのそばにいると安心する、その感覚に駆られて、またアスイェを探しに行った。セラフィナは本当は文句を言いたかったが、毎回アスイェを見るたび、やめてしまった。彼を探すのは簡単なことだ。セラフィナには今、アスイェのことがしっかり「見えていた」。アスイェは体を椅子に預け、黒髪が視線を遮り、アスイェは疲れ果てたようだ。彼の呼吸、仕草、眠りに落ちた気配。そして、もっと深い吸血鬼の鼓動……「おやすみしてるの?」彼女は寝ていたアスイェに近づき、名前を呼んだ。「アスイェ?」アスイェは動かなかったが、影は先に動いた。吸血鬼に影はない。それは影のようなものだった。静かに動いて、人が気づく前に呑み込む。ただ、その影はそのまま消えてしまった。まるで日の光に焼かれたもののように。アスイェが目を開けたのはその時だった。「……怖いのか?」「影はアスイェの能力なの?」「そうだ。言ってなかったか?」「初めて知った……」「……言い忘れた」セラフィナが彼に近づくと、何か別のものが、水のように頭の中へ流れ込んだ。最初は一雫だった。その雫は、まるで鏡のように何かを映し出した。夜行、殺戮、炎、風。その黒い影はいつもそこにいたが、楽しんだことはなく、ただ仕事をこなすだけだった。これはアスイェの記憶だった。しかし、セラフィナは自分の姿も目にした。ただ彼の後ろについて歩き、親しみを込めた眼差しでアスイェを見つめていた。静かで、若く、白かった。「それ。セラなの?」いつの間にかアスイェはもう立ち上がっていて、少女に聞いた。「また、目眩がするのか?」その答えを待たず、彼の手はセラフィナの目を覆っていた。初めて、セラフィナは彼を避けた。
セラフィナは、自分はもう成長したのだと思っていた。そのせいか、以前ほどアスイェの部屋を訪れなくなっていた。夜,彼と一緒に散歩に行くことがあっても、奇妙なことが起きた時や、血が騒いで助けを求める時でさえ、セラフィナはアスイェと距離を取った。セラフィナは他の吸血鬼と会ったことがないし、アスイェの居場所を奪うつもりもなかった。だが、なんとなくわかる。アスイェが自分をこの屋敷に置いていること自体、普通ならありえない。吸血鬼はなんとなくわかることが多い。例えば今日、一度もアスイェに会っていないことに違和感を覚えた。そして、少女の調子もよくなかった。最初はただの立ちくらみだと思った。はっきりと感じたのはそのすぐあとだった。少女は歩くことすら難しい状態に陥った。壁に手をつき、せめてこの状況をアスイェに伝えようと思い、重い足を引きずるように進んだ。屋敷の中に、一つだけ鍵がかかっていない部屋があった。アスイェが彼女を一人にする時のために用意した部屋で、普段なら、セラフィナが立ち寄るべきではない場所だったが、今日、セラフィナは初めてそこを訪れた。彼女はノックせず、少しだけ部屋の扉を開けた。カーテンは閉めきられておらず、部屋の中にはワインの香りが漂っていた。この時だった。この目眩も疲れも自分のものではなく、アスイェのものだと、ふと気づいた。アスイェは疲れて、髪が頬ににかかり、その顔は普段よりも白く見えた。アスイェがこんなにも静かな姿を見せたことは、セラフィナは扉の外に立ち止まり、入っていいかと躊躇っていた。セラフィナは近づくたび、確信したことがあった。これは、逆らえない血の繋がりだった。別に血の繋がりに逆らうつもりはないが、アスイェが寝込んだ姿を見ると、どこか痛々しく感じた。その時だった。椅子の上に横になっていたアスイェは目を開け、躊躇している少女を見つめた。「……来たか……どうした?」「ごめんなさい……アスイェが疲れているって感じたから……」「感じた……共感したのか?」「「そうだと思う。さっきセラ、目眩したから……
料理をするのはアスイェの数少ない趣味の一つだった。セラフィナは今、アスイェが料理する姿を見ていた。キッチンは灯りをつけていない。あるのは、暖炉のまだ消えていない火の光だけだった。吸血鬼は寒さを恐れない。セラフィナはまだ成長中だが、人類と比べて寒さを耐えられるほうだった。セラフィナは以前、なぜ暖炉の火がずっと消えないのかと聞いたことがあった。「そのうち消える」とアスイェは言った。暖炉の前でアスイェと並んで立ったことを覚えていた。時々アスイェに抱き上げられたこともあった。その頃から、暖炉の火はいつも燃えていた。アスイェはマントを脱ぎ、袖をまくり上げ、すでに起こされていた火の前に立った。狩りはもう終わって落ち着いた少女は、目を輝かせながら蒼い炎を見つめた。「……ちゃんと座ってろ。お前は食べ物を待っているんだ。狩りに出るわけじゃない。」「だって、蒼い炎が綺麗だもん!」少女は少し身を乗り出し、両手で椅子の端をぎゅっと掴んでいた。楽しそうに見た。アスイェの包丁捌きはきれいで無駄がなかった。肉をきれいに切り、鍋に入れて、音と共に肉の香りが鼻をくすぐる。その香りは吸血鬼の本能を煽られるものではなかったが、セラフィナは確かに空腹の感覚の感覚を覚えた。「……何を焼いてるの?」「セラが好きな肉だ。ちゃんと座ってないと野菜しかあげない」セラフィナは唇を一回舐めて、やっとしっかりと座った。「……わかった。待ってる」それからしばらく、焼ける肉の香りと火の音だけが響いていた。時々、油が弾けて火が大きくなるたびに、セラフィナは頑張って本能を抑えていた。アスイェは背をセラフィナに向けたまま、セラフィナが我慢しているのを知っているかのように言った。「足りなければ、後で血もあげる」「ううん、大丈夫」「そうか」彼女はそのまま座っていて、ただでさえ機嫌のいい少女は、肉の焼ける音を聞きながらずっとにやけていた。「アスイェ、真剣に肉を焼いているね」「うん。毎回ではない」「セラのため、、でしょう?」「…
セラフィナが自ら言い出した。――その特別な夜に現れる、血のように赤い、吸血鬼の目のような月を「見たい」と。「『ダメ』って言うのはなし!今夜は、血の月の夜でしょう?セラは見たい!」若い子は朝からそう宣言していた。「危険だって、セラはまだ見てないからわかんないもん!」そのあとも何度か同じことを言い、まるで決定事項のように準備を始めた。準備する物の中に、自分の気に入りのマントも持ち出し、「これがあれば寒くない」と、自分に言い聞かせるように」アスイェは「いい」も「ダメ」も言わず。ただ聞いていただけだった。
セラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋
執事は、あの赤子が気に入らなかった。 理解できないわけではない。ただの嫌悪《けんお》でもなかった。彼はこの収容場で長く仕《つか》えている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。老《お》いた血奴《サーバント》の手には無数の傷跡《きずあと》が刻《きざ》まれ、ときに掌《てのひら》の肉《にく》や指ごと噛み千切《ちぎり》られたこともあった。牙《きば》すら生えていない幼体《ようたい》が、だ。彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。 三人の長老《ちょうろう》に仕《つか》え、数え切れぬ失敗作を処理して
あの夜、灯は早めに落とされた。 暖炉に薪《まき》はもうなく、風の音も小さい。執事の姿もない。 アスイェと子だけがいる空間は、異様《いよう》なほど静かだった。壁に掛けられた古い織物《おりもの》は、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造《いしづく》りの床の上に落としていた。アスイェは灯を点けなかった。 古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。 部屋の中は深い漆黒《しっこく》に包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸《ぎんし》のように断続的に揺れていた。その光は、時折《ときおり》雲に遮られ、またふたたび現