LOGINあの夜、灯は早めに落とされた。 暖炉に薪《まき》はもうなく、風の音も小さい。執事の姿もない。 アスイェと子だけがいる空間は、異様《いよう》なほど静かだった。
壁に掛けられた古い織物《おりもの》は、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造《いしづく》りの床の上に落としていた。 アスイェは灯を点けなかった。 古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。 部屋の中は深い漆黒《しっこく》に包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸《ぎんし》のように断続的に揺れていた。 その光は、時折《ときおり》雲に遮られ、またふたたび現れた。まるで、ためらうように、そこに留まることを許されているかのようだった。 子はまだ目を覚ましていないが、動いていた。この者はまだ若く、成長も遅い。手足の動きは、まだうまく制御《せいぎょ》できていない。 その微細な動きは、アスイェの目には、かすかなもがきのように映った。 子は、ただいつものように身を丸め、どこかに隠れようとしていた。 この子は、暗闇を恐れている。 目を開けたことのない赤子にとって、それは未知ではない。むしろ、この身は暗闇から来て、うっかりすれば暗闇に呑まれる。それは――よく知っている感覚だった。 子の小さな手が、無意識に揺籠《ゆりかご》の縁《ふち》を探っている。指先が木の縁に触れるたび、かすかな音が鳴る。 アスイェは立ち上がった。灯りは持たず、いつものように、足音も立てない。それでも、赤子は気づいた。 空気が、わずかに変わった。 アスイェは揺籠の傍に立ち止まり、子を呼んだ。 「この者」でも「子」でもない――ひとつの名前だった。 ため息のような、人を呼ぶ音。 まだ名前を持たない子に向けられた、それでも意味を持つ呼びかけ。 それを聞いて、赤子の震えは止まった。 そして――赤子は目を開けた。 ゆっくり、ゆっくりと。夢の中から浮かび上がるように、まぶたが持ち上がる。その目は光を宿していない。だが、何もかもを見ていた。 その目は、感情を持たず、ただまっすぐにアスイェを見つめていた。アスイェもまた、その目を見つめ返し、珍しいものを見つけたかのように、しばらくのあいだ、視線を逸らさなかった。 ――アスイェは、自分の目を見つけた。 純血種《じゅんけつしゅ》は、めったに鏡を見ない。 だが、アスイェは、この子の目の色を知っていた。 霧のような、鋭い刃物《はもの》のような灰青《はいせい》。 純血の中でも、最も冷たい色だった。 子は、目を開けたまま彼を見つめていた。子の指が、かすかに揺籠の布を握り締める。その細い指先に、まだ力はなかったが、それでも確かに、自分の存在を確かめるように動いていた。
部屋は完全に静まり返っていた。風も音も、もうなかった。 子は、もう、暗闇を怖れていなかった。 ――暗闇の中に、自分の名前を呼ぶ者がいたから。少女の体調はまだ優れなかった。 カーテンがしっかり閉じられていなかった。 セラフィナはそのわけを考えた。 なぜなら、アスイェはいつもカーテンをしっかり閉めていた。 セラフィナは日の光がわりと好きで、少なくとも怖くなかったが、今回は違った。 日の光がカーテンを通って、彼女の手の甲に当たり、焼けつくような感覚を残した。 最初,その感覚はそれほど強くなかった。 セラフィナは無視した。 少女はゆっくりと手を日の光から離し、自分の後ろに隠した。 これでその小さな痛みは少しだけ和らいだ。 セラフィナはいつものように庭へ散歩に出た。 何かに耐えるように唇を固く締め、足取りはいつもより少し早かった。 部屋の扉を開け、彼女はアスイェの姿を見てホッとした。 アスイェは本のページをめくった。少し間を置いて、セラフィナは聞いた。 「セラ、アスイェの隣に行っていい?」 本を読んでいたアスイェは少女を見て、「おいで」と言った。 セラフィナはアスイェの側へ行ったが、座るとき、手をしっかりと膝の上に置いた。 「どうした?」 「風がセラの顔をひっかくみたいだった……」 セラフィナの声は冷静だった。 「そうか……顔が痛いのか?」 アスイェはセラフィナを見て、顔にかかっていた髪を、そっと耳の後ろにかけた。 「うん、針に刺されたみたいだった……」 彼は少女をやさしくあやした。 「これが、覚醒?」 アスイェはセラフィ
セラフィナはよく甘える。特にアスイェをハグするのが好きだった。それは二人の間にある儀式のようだった。一日のうち、いつも少女が近くにいる瞬間があって、アスイェの手がちょうどセラフィナの頭を撫でた時や、彼のそばに来た時に、セラフィナは必ずそこに座り、そっと彼に近づいて、抱きついた。以前は寝る前にそのままアスイェの首に抱きつき、自分の体をぶら下げていた。さらに前は、目を覚ますとすぐにアスイェに抱きついた。今日はその「さらに前」の時と同じだった。セラフィナはアスイェを見るなり、すぐに甘えた。アスイェはそのまま彼女の背に手を回し、抱き寄せた。「アスイェ、おはよう……」「うん」アスイェは彼女をうけとめ、寝起きの挨拶もせず、「もっと寝ればいい」と言った。「いいや、今日はアスイェ、お出かけするの?」「キッチンに行くだけだ」「キッチン?」「そろそろお前に人類の食べ物を与えるべきだ」「ほんと、やった!」セラフィナは、人間の食べ物が自分たちのものと違うと知っていて、ずっと試してみたかったが、今までアスイェは与えてくれなかった。「うん。寝たくないなら、ついてこい」屋敷は相変わらず静かだった。そして、セラフィナは初めて、アスイェではない他の男の姿を見た。その男は執事の姿をしていて、アスイェに深く頭を下げていた。「その人は……」「サーバントだ。気にしなくていい」***朝食は温かいものだった。温かい肉と、甘く味付けされた野菜。中身のわからないスープ。——アスイェの前にも、その「わからないスープ」が置かれていた。「見るだけじゃなく、食べていい」セラフィナはスープを一口飲んだ。甘い、ちょっとしょっぱい。食べたことがない不思議な食感だった。でも——「……美味しい」「そうか……」「味、わかるか?」「わかる、けど、味がかわる……」「味覚は錯乱している。そのうち治る」「アスイェは?食べるの、好き?」
セラフィナは最近、風の音が嫌いだった。風の音が一番はっきり聞こえたのはアスイェがいない午後だった。セラフィナはただ、庭の影に座っているだけだった。一枚の葉が彼女の前に落ち、まるで誰かが手を振っているように揺れた。彼女は無視しようとしたが、見えない手に胸を押さえつけられるような息苦しさを感じた。セラフィナの呼吸がどんどん浅くなった。耳が鳴った。目眩がした。セラフィナは耳を塞ごうとしたが、手が動かないことに気づいた。アスイェの名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。耳鳴りの音はどんどん大きくなり、やがてはっきりと聞こえるようになった。ドン、ドン……セラフィナはその音を知っていた。それは心臓の音だった。少女は人の子だったが、その心臓はとっくに止まっていた。彼女の命はアスイェに救われた。セラフィナはあがこうとしたが、それすらできなかった。その瞬間だった。――彼女には人影が見えた。その人は顔が霧の中にあり、よく見えなかったが、それでも目だけは見えた。閉じていた目が開き、その目は赤く、まるで薔薇のようだった。セラフィナを見ていた。言葉はなかったが、その目は彼女を誘っていた。その目はアスイェのものではないと、セラフィナは知っていた。それでも、その目はあまりにも美しく、抗えず――そのまま堕ちる瞬間……彼女は抱きしめられた。「ア、アスイェ?」「うん」セラフィナの目から涙がこぼれた。アスイェの腕には人の温もりはなかったが、セラフィナにとっては悪夢から引き離してくれるものだった。涙が止まらなかった。セラフィナは泣きながら言った。「セラのところに来るって……アスイェは、言ったのに……」アスイェはただ、しっかりと少女を抱きしめ、背中を撫でた。「もうセラを見つけたから、しっかり寝るといい……」彼はセラフィナの泣き腫らした目を見つめ、涙を拭き取った。泣き疲れたセラフィナはそのままアスイェの腕の中に眠りに落ちた。
風が止み、また吹き始めていた。 セラフィナは窓辺にずっと座っていた。 これは夢の中にいる感覚でもなければ、ただぼんやりしている感覚でもなかった。 それは――魂だけが体から抜け出し、ようやく戻ってきたような感覚だった。 彼女は自分の手を見た。指は冷たく、目の前の色も変わって見えた。 風の音がやっと止まり、そのあとに聞こえたのは――誰かの話し声だった。 少女が試しにしばらく息を止めると、すべてが静かになった。 しばらくして、セラフィナは立ち上がり、部屋へ戻ろうと一歩を踏み出した。 しかし、足元はふらつき、目の前が暗くなった。 もう一度目を開けた時にはセラフィナはアスイェの書斎にいた。 少女は書斎のカーペットの上に座っていた。 アスイェは片手でセラフィナの耳を塞ぎ、もう片方の手で彼女の目を軽く覆っていた。 彼の掌は冷たかったが、その手はセラフィナを暗闇から救い上げていた。 「セラ……セラフィナ……」 アスイェが彼女を呼ぶと、少女のぼんやりしていた意識は、ようやく戻ってきた。 「セラは……ずっとアスイェの机の前に立っていた?」 「うん。ゆっくり歩いて、入ってきた」 セラフィナは顔を下げ、自分の足を見た。 「アスイェの呼び声が聞こえなかった」 「……そうか」 「風の音がうるさくて……誰かの声が聞こえたの……」 「もしまた聞こえたら、目を閉じて、耳を塞いでいい。落ち着いたら帰ってこい」 「……セラ、自分で帰ってこられるかな……」 アスイェはすぐに答えていない。 「帰り道がわからなくなったら、こっちから探しに行く」 セラフィナが屋敷の中をぶらぶらするのは初めてではなかった。 彼女はよく、自分が何をしていたのか忘れてしまう。 例えば、水を流したまま―― 顔を洗うのを忘れたり、鳥の鳴き声を聞いているうちに、あっという間に時間が過ぎていた。 「言ったはずだ。これはお前の成長だ」 「いつ良くなるの?」 「そのうち治る」 セラフィナにはまた声が聞こえた―― でも、アスイェの声じゃない。 アスイェは近くにいるのに、声は遠くから聞こえるようだった。 セラフィナの意識はすぐに戻ってきた。 「セラには……まだ何か聞こえた……」 「そうか……気持ち悪いか
午後の光は、薄い布のようにすべてを覆っていた。花の形すら、セラフィナの目にはうまく映らなかった。少女はゆっくりと歩いていた。彼女は、なぜ散歩しているのかもわからなかった。ただ、ゆっくりと歩いていた。夜の蟲にいくらか食われたにもかかわらず、アスイェの薔薇はまだ多く、最近までつぼみだった花も一気に咲いていた。その香りは強く、セラフィナはくらくらと眩暈を覚えた。彼女はいつのまにか庭の中で立ち止まり、耳のそばで風の音が鳴り続けていた。まるで水の下にいるように、視界もぼやけていた。セラフィナは頭を振り、足取りもふらふらとしていた。セラフィナはうつむき、自分のドレスが目に入った。――彼女は自分がいつのまにか座っていると気づいた。日の光が強くなった。少女の気分はどんどん悪くなっていった。目を開けるのが怖く、吐き気はあるのに、胃の中は空だった。やがて立っているすら難しくなった。誰かがセラフィナの背中を軽く支え、日の光を手で遮った。アスイェだ。セラフィナはかろうじて立ち、アスイェの声が後ろから聞こえた。彼女は不安で手を少し伸ばしたが、何も掴めなかった。「耳が鳴ったか?」セラフィナはもう目を開けられず、軽く頷いた。「熱中症か……」セラフィナは頭の中の何かを追い払いたいように混乱し、しばらくアスイェの呼びかけに答えなかった。アスイェはセラフィナを抱き上げ、部屋の中へ運んだ。「……セラは、散歩しているだけ……」セラフィナはアスイェの腕の中で、弱々しくそう言った。「知っている」アスイェの声は低く静かだったが、ぼやけた意識の中でも、その声だけははっきりと届いた。その声を聞くだけで、体が少し軽くなる気がした。「……セラは、ゆっくりと大きくなったらいいのに……」「これが、成長だ」このあと、セラフィナはしばらく眠りに落ちた。目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れた天井だった。熱は下がったが、まだだるさが残っていた。アスイェはいつも、ちょうどいいタイミングで現
セラフィナは今夜、早くに目を覚ました。夜の蟲よりも先に。体の熱が心臓から湧き上がり、まるで口を開けば、その熱が外へあふれ出そうな感覚だった。――セラフィナは、この感覚を知っていた。飢えたときの感覚と同じだった。だけど、少し違った。風が薔薇の香りを纏っていた。以前は好きだった香りなのに、今夜はなぜか甘すぎる気がした。セラフィナは蟲の音が耳に刺さった。夜の蟲が、いつの間にかアスイェの薔薇を噛んでいた。セラフィナは冷静だった。体の中の熱には、形があった。――炎だった。少女はただその場に立ち、夜の蟲が燃え尽き、折れた薔薇とともに燃え殻になるのを見ていた。部屋に戻ったときも、セラフィナの手はまだ熱かった。彼女は迷ったあと、アスイェの前に立った。アスイェは彼女の様子を見ても、驚きもせず、責めることもなかっ***最近、セラフィナの成長は凄まじかった。セラフィナの力も、以前よりずっと上達していた。今夜、庭の蟲が静かになったあと、アスイェは確信した。アスイェは、もともと夜に蠢く蟲など気にしていなかった。でも今夜は違った。薔薇の甘い香りを帯びた風が突然吹き、そしてふっと止まった。蟲の鳴き声も、風とともに止まった。少女は蟲に気づき、素早く、優雅にそれを消していた。アスイェは、セラフィナが子供だったころを思い出した。――アスイェ以外は何もかも怖がる、弱々しい寂しがり屋だった。アスイェが探すと、いつも軽く跳ねるように走ってきた。しかし、今は違った。今、アスイェに向かって歩いてくる彼女は、足音のない猫のようだった。アスイェの視線はずっとセラフィナに向けられていた。セラフィナはアスイェの前で足を止めた。彼女の状態は一目瞭然だった。息は荒く、目つきはまだ鋭く、手はかすかに震えていた。それでもアスイェは聞いた。「どうした?」「セラ、庭にいた夜の蟲を燃やした。」「なぜ?」「蟲がアスイェの薔薇を噛んでいた
最近、セラフィナは夜によく覚ます。びっくりして覚めるわけではないし、悪い夢を見たわけでもない。ただ、ここ最近よくある、行き場のない怒りだった。胸の奥から積み上がる熱が、全身を通り、首を抜け、顔へと上がっていく。それだけではなく、鼻や耳、口の中にも小さな熱を感じる。やがて頭の中にも熱を感じるようになった。セラフィナはずっと我慢していた。床に座れば少し熱は下がるが、いつもそうできるわけではない。しばらく動かず天井を見つめた。やがてセラフィナは、灯を壊したくも、壁を殴りたくもないと気づいた。セラ
セラフィナが自ら言い出した。――その特別な夜に現れる、血のように赤い、吸血鬼の目のような月を「見たい」と。「『ダメ』って言うのはなし!今夜は、血の月の夜でしょう?セラは見たい!」若い子は朝からそう宣言していた。「危険だって、セラはまだ見てないからわかんないもん!」そのあとも何度か同じことを言い、まるで決定事項のように準備を始めた。準備する物の中に、自分の気に入りのマントも持ち出し、「これがあれば寒くない」と、自分に言い聞かせるように」アスイェは「いい」も「ダメ」も言わず。ただ聞いていただけだった。
子供が眠った後は彼の時間だ。アスイェは本を手に、「本を読む」のは彼の数少ない「興味」の一つだった。夜が来た。窓の外は深淵のように暗い、書斎にはアスイェがページをめぐる音すら吸い込まれるような静けさ――その静けさは、ふいに破られた。いつまにか幼い子は彼の椅子の下に来ていた。セラフィナは、アスイェが与えたぬいぐるみを抱いたまま、迷いなく彼の足元へと寄ってくる。しばらくアスイェの手を見つめ、そのままとすん、とカーペットの上に小さく腰を下ろし、そっと体を寄せた。吸血鬼は体温がない、でも若い子供が彼の足元にいるのか好き
セラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋







