LOGIN執事は、あの赤子が気に入らなかった。 理解できないわけではない。ただの嫌悪《けんお》でもなかった。
彼はこの収容場で長く仕《つか》えている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。老《お》いた血奴《サーバント》の手には無数の傷跡《きずあと》が刻《きざ》まれ、ときに掌《てのひら》の肉《にく》や指ごと噛み千切《ちぎり》られたこともあった。牙《きば》すら生えていない幼体《ようたい》が、だ。
彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。 三人の長老《ちょうろう》に仕《つか》え、数え切れぬ失敗作を処理してきた。誰の目にも触れぬ記録を、幾度《いくど》も書き記した。 一度として、手を誤《あやま》ったことはない。彼は吸血鬼ではない。「記録者《きろくしゃ》」だ。| 血《ち》の定《さだ》めに縛《しば》られぬ身《み》。| 高貴《こうき》にはなれずとも、自由があり、記録の目と手を持つ。
この収容場で、最も古く生き残った人間。最も静かな機械――だった。 あの「それ」が現れるまでは。
赤子の皮《かわ》を被《かぶ》った、名《な》も知れぬ化け物は、泣いた。 その夜、執事は眠れなかった。
細く、途切《とぎ》れもせず続く泣き声は、耳障《みみざわ》りな雑音のように廊下《ろうか》を這《は》い、北側《きたがわ》の個室《こしつ》から漏れていた。 扉を開けると、アスイェが揺籠の前に立っていた。 その指先は、化け物の口元《くちもと》に添《そ》えられている。
小さな口が、かすかにその指を咥《くわ》えた。 同時に、泣き声は、途絶《とぜつ》えた。
その後、アスイェはここに留まった。 もとより、純血の吸血鬼がこの収容場に長く留まることなど、ありえなかった。 収容場は穢《けが》れた場所で、育児は穢《けが》れた仕事だ。 育児は彼にとって、実験であり、罰《ばつ》でもあった。それでも、アスイェはここに残した。 まるで、何かを待つかのように。
この高貴《こうき》な吸血鬼が、ここに残った理由を、彼は何も語らなかった。 誰も、問うことはできなかった。「それ」を残されたのだ。 アスイェの指を咥えた、あの「それ」は、生きる資格を与えられた。
執事は「それ」に触れたくなかった。 「それ」は異様《いよう》に静かで、生き物かどうかも曖昧《あいまい》だった。
泣かず、動かず、食う本能すら封じられた、小さな化け物。 近づくたびに、執事は違和感《いわかん》を覚えた。 誰かに――いや、「それ」に、見られているような気配がした。 だが、「それ」は目を開けていないのだ。 ある夜、執事は、とうとう我慢ができなくなった。 「それ」は揺籠《ゆりかご》の中、皮膚《ひふ》は透けるように白く、呼吸はあるのかさえ曖昧《あいまい》で、今にも息絶えても不思議ではなかった。 執事は、揺籠の前に立った。 どうせそのうちに死ぬなら――早めに死なせてやるのも、慈悲《じひ》だろう。 この収容場のためにも、余計《よけい》な手間《てま》は省《はぶ》かねば。 彼は、そう思った。 だから、手を伸ばした。 その時だった。 聖堂の、古びた天井から床へと、冷たい風が強く吹き抜けた。 風の音は、まるで罪人《ざいにん》の絶叫《ぜっきょう》のように、長く、重く響いた。 執事は、すぐに悟った。 これは、ただの風ではない。 これは――古く、そして極《きわ》めて危険《きけん》な「何か」が、自分を狙っている。 赤子は、微動《びどう》だにしなかった。 だが「それ」は、確かに感じている――執事は、そう信じた。***
記録は、後から執事が書き足したものだった。 その数日、アスイェはここに姿を見せず、執事は「それ」の資料に目を通した。
体温、食べたもの、成長の速度、異常行動《いじょうこうどう》――もろもろの観察記録《かんさつきろく》。 最後の一頁《いちぺージ》に、見知《みし》らぬ筆跡《ひっせき》で書き残された言葉があった。 この者は、狂っている。 古き神の影が残るこの場所で、化け物を育てるなど――死ぬのは自分だ。 執事には覚えのない筆跡だったが、その内容は、彼自身が心の底で思ったことと何ら違いはなかった。 だから、その頁《ぺージ》も、破かず、そのまま残した。その夜、執事が「それ」を処理しようと本気で思ったことを、誰も知らない。 たとえ知ったとしても、アスイェは気に留めないだろう――執事はそう思った。
冷静で、冷徹《れいてつ》で、偏執的《へんしつてき》で、気まぐれな吸血鬼。 幼い一体に、執着などするはずがない、と。
――その夜までは。
執事が扉を開け、部屋に入ろうとした時だった。 赤子は、アスイェの腕の中にいた。目を開け、じっと自分を見つめていた。 その動きは、執事には妙だった。 「それ」は、か細い腕にできる限りの力を込め、アスイェの肩にしがみついていた。その目――薄《うす》い青――には、確かな敵意《てきい》が滲《にじ》んでいた。 執事は、その瞬間、ひそかに笑いを噛み殺した。 怖がっているのだ、と。| 所詮《しょせん》は幼体《ようたい》、大人の前で震えるのは当然だ、と。
だが――アスイェは違った。
「それ」のささやかな敵意に、応えるように、腕を緩めず、確かにその身を支えた。 まるで慰めるように、優しく、だが決して拒まぬ形で。
執事は、理由もなく、一歩、後ずさった。
「なぜ、連れ出そうとした」「……あなた様は、気にされないと、思い……」
執事は必死に弁解したつもりだったが、それが通じる場ではないと、理解していた。 これは最初から、審問《しんもん》であり、許《ゆる》しを乞《こ》う余地《よち》のない場だった。 「俺は――他の命《いのち》知らずが、自分のものに触れるのを、何より、好まない」 その声が落ちた瞬間、理解しがたい熱が、足元から這い上がるのを感じた。 灯《あか》りが、アスイェの声に呼応《こおう》するように消えた。 喉を焼くのは、恐怖か、血か、区別《くべつ》はつかなかった。 口から吐き出せたのは、自らの血だけだった。 執事は、膝《ひざ》をついた。 アスイェは、石像《せきぞう》のように静かに立《た》ち尽《つ》くし、その腕の中――小さな化け物は、穏やかに目を閉じていた。屋敷がいちばん静かになるのは――アスイェの休み時間だった。風はまるで見えない蛇のように椅子の脚を回り、彼の袖をなぞり、そのまま彼のそばを通り抜けて消えた。アスイェは庭に置かれた長椅子にもたれて、目を閉じている。元々腰を下ろしているだけだったが、静かになると、アスイェは瞼を閉じ、呼吸もゆっくりになり、眠りに落ちそうになった。彼は眠りに落ちそうになった。だが、その静けさは簡単に破れた。かすかな音が、途切れ途切れに屋敷の中へ広がってくる。最初は足音だった。ばたばたと慌ただしく、何か小さなものが落ちた気配がして、すぐに幼子の声が続いた。「あ……」彼は誰だかをわかっていたから目を開かなかった。――セラフィナは最近、やたらと元気がある。走り回らないときでも、何かを探して屋敷を歩き回っている。時々アスイェを連れて、いわゆる「アスイェが見たことのないもの」を見せていた。「ほら!ねこ!」「風がうるさい!」そうして、セラフィナは問いかけてきた。「たべないの?」「なぜセラじゃいけないの?」「コウモリにへんしんできるの?」アスイェは答える時があれば、答えない時もある。そしていつも騒いだあと、セラフィナは彼の腕の中に入り、「疲れているの?」と聞く。時々彼は確かに、「疲れ」を感じる。それは変な感覚だった。まるで体の内側に、ふわふわとした何かを閉じ込められ、このまま横になっているしかないような感覚。アスイェは忘れたと思ったが、彼はこの感覚を昔から知っていた。かつて――病やまいを越えたあとの子どもも、セラフィナのように騒ぎ、笑い、走り回った。子供が元気になるほど、彼は疲れていった。「アスイェは、ゆめを見てるの?どんなゆめ?」アスイェは目を開けなかった。セラフィナは彼の指をつかまえて、自分の話を始めた。「セラはね、ゆめをみたの、大きなつばさがあったの。セラは空に飛んでる。アスイェは下にセラをまっていた!」「……アスイェ……きいてるの?」アスイェは本当に深い眠りに落ちてい
今夜は静かで、風も優しい――それでもセラフィナはよく眠れなかった。 彼女は小さく動き、わずかな違和感で目を覚ました。 自分の夢は覚えていないまま、無意識に拳を握りしめていた。 強く力が入り、袖が破れ、びり、と小さな音が走る。 セラフィナはゆっくりと体を起こし、破れた袖をしばらく見つめた。 腕をあげ、落ちかけた布をそっと目の前に持ち上げる。 まだ眠気の残る頭で、「服が壊れた」とようやく理解する。 そして視線を落とすと、自分の手の裏に小さな傷跡が残っていた。 ここは安全のはずだったから、傷を負っていることがおかしい。 セラフィナはしばらくベッドの上に座ってゆっくりと手を動かす。 手をにぎっては開き、またにぎっては開く…… それを何度も繰り返すうちに、セラフィナは気づいた。 あるときは力が入らず、次のときは強くにぎりすぎてしまうのだ。 やがて、彼女は諦めたように、手を下ろした。 足をベッドの外に垂らし、かすかに揺らしてから止める。 そのとき、アスイェがドアを開けた。 セラフィナはいつものように彼と目を合わせることはなかった。 アスイェの足取りは、今日も音がなかった。 瞬きの瞬間、セラフィナはアスイェの靴が視界に入った。 悪いことをして大人に見つかった子のように、肩をびくりと跳ねさせる。 子は口をかたくつぐんだ。息すら小さくなる。 アスイェは叱りもせず、ただ静かに手を差し出した。 小さな掌には傷があったが、血はもう出ていない。 「大丈夫か?」 子はゆっくりとうなずいた。 セラフィナの手がそっと離れ、破れた袖を整える。アスイェは彼女のそばに腰を下ろした。 閉まりきらない窓から風が入り、セラフィナはこそりとアスイェの袖をつまんだ。 時間が静か
子供が眠った後は彼の時間だ。アスイェは本を手に、「本を読む」のは彼の数少ない「興味」の一つだった。夜が来た。窓の外は深淵のように暗い、書斎にはアスイェがページをめぐる音すら吸い込まれるような静けさ――その静けさは、ふいに破られた。いつまにか幼い子は彼の椅子の下に来ていた。セラフィナは、アスイェが与えたぬいぐるみを抱いたまま、迷いなく彼の足元へと寄ってくる。しばらくアスイェの手を見つめ、そのままとすん、とカーペットの上に小さく腰を下ろし、そっと体を寄せた。吸血鬼は体温がない、でも若い子供が彼の足元にいるのか好きだった。アスイェはその瞬間に視線が本から外さない。ただ――ページがめくる手が一瞬止まっただけだった。「……どうした?」セラフィナは答えない、ただ近づこうとしただけなのに、アスイェの肘に触れた瞬間、小さく驚いて手を引っ込めた。アスイェはやっと視線を落とす。椅子の下に身を隠すように座り込み、まるで「ここなら追い出されない」とでも言うような幼い姿だった。彼は小さくため息をついて、本を閉じ、セラフィナを抱き上げた。もしアスイェが何をしないならこの子はほんとにそのまま動けず寝落ちする。そして、朝になたらアスイェに今ようにビッタリする。膝に乗せられたセラフィナは満足そうに身をアスイェに預けた。「眠れないのか?」「……」あかりが消してくれたはずだ」「……」アスイェの声は決して怒りがないが、若い子は何も話さない。「黙ってるとわからない」それでもセラフィナは何も話さないかった。ただ彼の首に手を回し、しっかりと抱き寄せた。この動きで彼は読書を諦めた。「……きつい……セラ……」彼がゆっくりと若い子の呼ぶと、セラフィナはやっとその呼びを答えた。「……うん……さむいからここにいるの」「なら部屋に帰ろう」セラフィナは嫌がる。「アスイェが、ここにいる。アスイェのそばがいい」アスイェはもう問わない。ただ少し前のように毛布を子供に被らせた。「なら、ここにもう少し寝ろ」
セラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋に入ると、セラフィナはもうおとなしくいすに座っていた。 手にカップを持って、何を待っていたようだった。 アスイェはその前に立ち、ふと視線を落とす。 カップのふちに、乾いた血の跡が残っていた。 「今日はお前はもう2回飲んだはずだ」アスイェは事実を淡々と告げる。 「これは正常の飲食ではない」 セラフィナは彼を見つめ、静かにカップをアスイェの前に推した。 アスイェは、押し出されたカップに目もくれず、静かに言葉を続けた。 「お前は飢えていないはずだ」 セラフィナは瞬くこともなく、ただアスイェを待っていた。 欲しいものを得るまでは動かない。 やがてアスイェはポットを取り、ミルクを注いだ。 セラフィナは一口だけ飲み、そこでぴたりと止まる。 「どうした?」 首を横に振るだけで、何も言わない。 「お前が飲みたいものだ」 セラフィナは俯き、考え込むように眉を寄せた。 かつてミルクを飲めなかったとき、一滴だけ血を混ぜてやったことがある。
炎はすでに消え、屋敷の中へと風が吹き込んでいた。 その風は灰と血の匂いをまとい、割れた窓から静かに部屋へ入り込む。 幼子はアスイェの腕の中に隠れたまま、顔を出さない。 アスイェはただその体を抱きとめ、離さずにいた。 やがて、彼の手が幼子の瞼にそっと触れる。 そのひとつの動きだけで、セラフィナの世界は静けさに包まれた。 ――眠っているように見えた。 だが、セラフィナの唇はわずかに動き、かすかな寝言をこぼしていた。 「……Sia……Sia……」 その声は軽く、夜の迷子になった雛が必死に羽を震わせるような響きだった。 「それは俺の名前じゃない。それは、ただの闇の中の音だ」 アスイェの声が部屋の奥に広がり、やがて闇の中へ溶けていく。 若い子供には意味など分からなくても、アスイェは静かに語りかけた。 セラフィナのまぶたがわずかに揺れ、目が開いた。 まだ夢の残滓を抱えたように、幼い瞳はぼんやりとアスイェを映している。 「お前は――自分の声で、俺を呼ぶんだ」 静かに告げられた言葉が、セラフィナの中に届いた。 彼女はゆっくりと口を開く。 最初に漏れたのは、ひとつの音。 「……ア……」 その発声は痛みを伴うようで、声の震えとともに涙が滲んだ。 「……ス……イェ……」 最後の音が出た瞬間、まるで幼い祝福のように、部屋の蝋燭の火が小さく揺れた。 セラフィナはようや
炎の手は屋敷の外側から上がった。 侵入者《しんにゅうしゃ》がどこから、どのように入り込んだのか。誰にも分からない。 「そのもの」は、風のように、夜の闇のように、どこからでも現れるかのようだった。 ノックはなかった。客ではないことだけは確かだった。 ――アスイェは家にいない。 侍女たちは彼にすぐ知らせる暇もなく、ただ手分けして守りに回った。 屋敷は広い。 セラフィナは屋敷の奥の部屋にいたが、濃い煙にむせて目を覚ます。 泣きはしなかった。ただ咳き込み続けた。 やがてその瞳は赤く染まっていく。 ――煙のせいなのか、吸血鬼の本能なのか。 セラフィナは床に座り続けた。 アスイェが出かけるとき言い残した。 「良い子にして待て」という言葉は、彼女にとって唯一の指令だった。 一人の侍女が幼子を抱き上げる。 悪意はなく、幼子も抗わなかった。 その侍女はセラフィナを抱え、長い廊下を駆け抜け、燃え盛る庭園を駆け抜け、壊れた天窓《てんまど》を越えた先で、侍女の喉は矢に貫かれた。 だが、そこで矢が喉を貫いた。 侍女は倒れ、血が飛び散り、幼子の身を静かに汚した。 幼子は転がり落ち、炎を見つめたまま、煉瓦と灰の中に崩れ落ちて動かない。 炎の光が夜を白昼《はくちゅう》のように照らし出していた。 そして、セラフィナは泣いた。 いつものように静かに涙をこぼすのではない。 体を震わせ、声を上げて泣いていた。セラフィナの瞳に赤が宿った。 それが涙によるものなのか、吸血鬼としての本能なのか――分からなかった。 幼い彼女は赤い目を開き、牙《きば》をのぞかせ、長い爪までもが伸びていた。 恐れを知らぬはずの幼子が、その名を叫んでいた。 「……Sia――!」 返事はない。 呼びかけに応える声は、どこにもなかった。 危機も、まだ去っていない。 足音が、近づいてくる。 泣いていたセラフィナは、顔を上げた。 視界の向こう、見知らぬ人影が現れる。 彼らは小声で何かを言い交わし、一人が手を伸ばした。 幼子を連れ去ろうとした、 その瞬間――幼子の瞳が鮮やかに赤く光った。 吸血鬼の本能だった。







