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3.管理部の影の支配者

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-11-28 10:08:04

管理部フロアに行こう、と腹をくくったのは、昼休み開始五分前だった。

時計の短針と長針を見た瞬間、「今じゃない気がする」と反射的に思った。それでも、午後一でA社に持っていく資料を思い浮かべると、もう悠長なことは言っていられない、という感覚が、胃のあたりを強く押した。

「行ってくる」

誰に言うともなく呟いて立ち上がると、隣の席の中村が顔を上げた。

「どこ行くんだよ。飯?」

「いや、管理部。ちょっと確認したいことあって」

「ああ…生きて帰ってこいよ」

「お前さ…」

軽口を返す余裕は、一応まだあった。その余裕が、虚勢なのか、本物なのかは自分でも判然としない。ノートPCだけ閉じて、社員証を首から下げ直し、翔希は営業フロアの出入り口へ向かった。

自動ドアが開くと、冷房の風が一瞬強く当たる。営業フロア特有の熱気が、背中側に貼りついたまま離れず、そのまま廊下に持ち込まれたような気がした。

管理部のフロアは、二つ上の階だ。同じビルの中なのに、行くのは年に何度もない。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど下りのカゴが着いたところで、人がどっと吐き出されてきた。昼休みに出る社員たちの波をやり過ごし、翔希は空いたエレベーターに乗り込む。

ドアが閉まり、数字が二十から二十二へと変わる間、狭い箱の中に静けさが満ちる。営業フロアのざわめきが遠ざかるにつれて、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。

「忙しい時間帯に来るもんじゃないよな…」

思わず零れた独り言は、誰にも拾われない。昼前後の管理部がどれだけ慌ただしいか、直接見たことはなくても想像はつく。経費精算、各種申請の締め切り、月次の締め。数字と書類に追われているであろう時間に、営業部の若手が「すみません、見積りの数字がちょっと…」と乗り込んでいくのだ。

それでも、行かないという選択肢はなかった。今は、自分のプライドよりも、午後の失敗のほうが怖い。

エレベーターが開くと、空気が変わった。

同じオフィスビルの一角なのに、温度が一度くらい下がったような感覚。照明は営業フロアと同じはずなのに、こっちのほうがほんの少し柔らかく見える。廊下を挟んで向こう側に、管理部のフロアが広がっていた。

自動ドアの向こうには、パーティションで区切られたデスクが整然と並んでいる。電話の呼び出し音はあるものの、営業側のような笑い声や大きな掛け声はほとんど聞こえない。ひそひそとした打ち合わせの声と、紙をめくる音、キーボードの打鍵音だけが淡々と積み重なっていた。

通路脇の棚には、ファイルが色分けされて綺麗に並んでいる。背表紙には「契約書」「稟議」「経費」といったラベルが揃った字で貼られていた。営業フロアの資料棚が、常に誰かの手によって崩され、また積み直されている「現場の山」だとしたら、こちらは一冊一冊の位置まで把握されている書庫のようだ。

足音がやけに響く気がして、翔希は自然と歩幅を小さくした。勝手が分からない場所に踏み込んでいくときの、あの妙な緊張感。周囲の社員がちらりとこちらに視線を向けて、すぐに自分の画面へ戻っていく。彼らの目には、おそらく「営業から来た誰か」にしか見えていないのだろう。

どこに行けばいいのか迷いかけたところで、近くのデスクに座っていた女性が声をかけてきた。

「何かご用件ですか」

「あ、すみません。第一営業部の高橋といいます。A社の案件で、見積りと仕様の数字がちょっと食い違っていて…管理部のどなたかに確認をお願いしたくて」

「見積りと仕様の…」

彼女は手元のキーボードから指を離し、翔希の胸元に下がった社員証を確認した。きちんとしたスーツに、まとめられた髪。口調は丁寧だが、必要以上に柔らかくもしない、そのバランスが、いかにも管理部らしい。

「ご担当は経理寄りの話ですか、それとも契約のほうですか」

「えっと…金額も絡むので経理寄りだと思うんですけど、契約書との整合も必要で…」

自分で話しながら、説明が下手なことを自覚する。言葉がうまくまとまらず、要点がぼやける。営業で客先相手に話すときは、もう少し筋道立てて説明できているはずなのに。

女性は、そんな翔希の拙い説明にも苛立つことなく、短く頷いた。

「では、管理部の村上が良いかと思います。今、席にいるはずなので、お連れしますね」

その名前を聞いた瞬間、翔希の胸の奥が、ぴくりと反応した。

村上。午前中にメールを送ってきた人。チャットの一覧でカーソルを止めた名前。課長や先輩たちが「困ったときの村上さん」と口にしていた、その人物。

「ありがとうございます」

軽く会釈して、彼女の後ろをついていく。通路を進むにつれて、デスクの配置や人の雰囲気が少しずつ変わっていく気がした。経理、総務、法務、それぞれの担当が暗黙の区画を形成しているのだろう。手にしている書類の種類や、交わされる言葉の固さで、おおよその違いが分かる。

「村上さん」

女性が一つのデスクの前で足を止め、声をかけた。

視線が、その方向へ自然と引き寄せられる。

黒に近い濃紺のスーツ。白いシャツ。背筋を伸ばして椅子に座る、細身の男の背中がそこにあった。モニターに視線を落とし、右手でマウスを操作している。左手はキーボードの上に軽く添えられ、時おりショートカットキーを打ち込む。

振り向いたとき、まず目に入ったのは、整った輪郭だった。

「はい」

短く返事をしてこちらを見たその顔は、一見すればどこにでもいる地味な事務職の男性…のはずだった。ところが、よく見ると、その配置があまりにも整っていることに気づく。高すぎない鼻筋、切れ長気味の目、過度に主張しない唇。全体のバランスが良すぎて、逆に目立たないタイプの美形。

「営業の高橋さんです。A社の案件で、見積りと仕様の数字についてご相談がありまして」

「ああ、A社…」

彼は小さく頷き、翔希のほうに視線を向け直した。その瞳は黒に近く、光をよく反射する。眼鏡はかけていない。目元の印象は、きつくも柔らかくもなく、ただ真っ直ぐだった。

「初めまして、管理部の村上です」

「初めまして。第一営業部の高橋です」

反射的に頭を下げる。自己紹介の声が少し上ずっていることに、自分でも気づいていた。

村上は、デスクの脇を指さした。

「すぐそこの打ち合わせスペース空いてるんで、そこで詳しく聞いてもいいですか」

「はい。お願いします」

通路の突き当たりに、小さな打ち合わせスペースがある。丸いテーブルと、向かい合う形の椅子が二脚。周囲との仕切りは薄いパーティションだけだが、営業フロアのミーティングスペースに比べると、どこか静謐な空間に感じられた。

テーブルの上には、何も置かれていない。翔希は、自分のタブレットと紙資料を取り出して並べた。

村上も、ノートPCを持って後からやって来る。パソコンを開きながら、簡単な確認を挟んだ。

「A社のクラウド導入案件ですよね。昨日、見積書の最終版を経理から回収したやつ」

「そうです」

「見積りと仕様で数字が食い違っている、という話でしたけど、具体的にはどこですか」

来た、と内心で思う。ここからは、自分がどれだけ状況を整理して伝えられるかが勝負だ。

翔希は、タブレットの画面にA社向けの提案資料を表示し、問題のスライドを開いた。画面越しに、そのページを村上に見せる。

「ここの初期導入費の部分なんですけど、資料では四百八十万円になっていて…」

「うん」

「でも、見積書のほうだと、四百五十万円になってて。それで、どっちに合わせるべきなのか、今日の打ち合わせまでにどう処理するべきか相談したくて」

説明しながら、喉の奥が少しずつ乾いていく。言葉が前のめりになるのを自制しようとするほど、余計に息が浅くなる。手のひらには、じわりと汗がにじんでいた。

「あと、金額だけじゃなくて、仕様書のほうでユーザー数の想定が最初三百だったのが、途中から五百に変わったんですけど、多分そのタイミングで、資料のほうの数字が古いままになってて…」

村上は、口を挟まずに最後まで聞いてくれた。表情も声色も、特に変わらない。ただ視線だけが、画面と翔希の顔の間を静かに往復している。

説明が一通り終わったところで、彼は自分のノートPCを操作し始めた。社内の見積りシステムを開き、A社の案件を呼び出す。

「ええと…A社、A社…あった。これですね」

画面に表示された見積りデータの中で、該当の数字を目で追っていく。キーボードを叩く指の動きは速いが、雑さは一切なかった。数字の列を確認しながら、時折マウスでスクロールする。その手の動きに、無駄がない。

「見積り上の初期導入費は、ユーザー数五百を前提にした金額になってますね。四百五十万円。で、提案資料側は、三百ユーザーのときの試算が残ってしまっている」

村上は、淡々と言葉を並べる。

「つまり、仕様変更のタイミングで、資料のほうの数字の更新が抜けた。そういうことですよね」

「…はい。多分、そうだと思います」

「うん、状況は分かりました」

彼は一度、キーボードから手を離し、翔希のほうを見た。

「今日の午後の打ち合わせですよね」

「はい。十五時からです」

「見積りの再承認を今から入れると、さすがに間に合わないので、金額の基準は現状の見積りを正とするしかないです。ただ、提案資料の数字が違っているのは、先方に示す資料としてはよろしくないので、そこはこちらで修正版を作るのが良さそうですね」

言いながら、村上は自分のノートPCの側に置いていたメモ帳を開き、要点を箇条書きにしていく。ペンが紙の上を滑る音が、妙に耳に残った。

「で、その上で、A社の契約担当のところにも『見積りの金額はこちらで確定しています』という話を通しておいたほうがいい。あとで契約書作成時に『提案資料の数字と違う』と言われないためにも」

「契約担当…」

「うちの会社側のね」

あ、と翔希は遅れて理解する。自分が思い浮かべていたのは、向こうの会社の契約部門だった。しかし、村上の言う「契約担当」は、社内の法務寄りの担当者だ。

「社内の契約担当に事情説明しておけば、いざ契約書作るときもスムーズになります。『A社には提案資料と併せて説明済み』っていうログも残しておけるし」

説明のひとつひとつが、すとん、と頭の中に落ちる。さっきまで、絡まった糸のどこから手をつけていいか分からなかったのが、気がつけば三つか四つの手順に分解されている。

翔希が口を開く前に、村上は社内チャットを立ち上げた。画面の中で、「契約担当/法務」「経理/A社案件」「営業第一/石田」といった名前が並ぶグループが次々と呼び出されていく。

「今、経理側に『見積り上の金額を正とする』っていう確認だけ取りますね」

そう言って、手早くメッセージを打ち込む。短く、しかし的確な文面。状況の説明と、「この金額を最終と見なしてよいか」という確認、そして打ち合わせの時間までのタイムリミットが簡潔に書かれている。

数十秒もしないうちに、経理側から返事が来た。

[A社の件、見積りのほうが最新版なので、その金額で確定して問題ありません]

村上は、それを翔希にも見えるように画面を傾けた。

「経理はこれでOKみたいです」

「早い…」

思わず本音が漏れる。営業フロアでチャットの返信を待っているときの、あのじれったさが嘘みたいだった。

「じゃあ次は、うちの契約担当に『こういう事情で提案資料の数字を修正します』って伝えておきます。後から『聞いてない』って言われるのが一番面倒なので」

また別のチャットを開き、淡々とメッセージを打ち込んでいく。その横顔を、翔希は横目で見ていた。

まつ毛が意外と長い。目尻のラインは少し下がっているのに、全体としては冷静な印象を与える。口元は小さく、笑ったら柔らかそうだと想像できる形。地味なスーツに包まれていても、その身体の線は無駄がなく、椅子に座る姿勢の良さが目を引く。

「…なんだこの人」

心の中で呟く。褒め言葉のつもりなのに、表現が追いつかない。美形だと気づいた瞬間、頭のどこかが「いや、今それ考えてる場合じゃないだろ」と突っ込んでくる。

村上はチャットを数件送ったあと、自分のノートPCに提案資料のテンプレートを呼び出した。

「高橋くんの資料、フォーマットも内容も悪くなかったんで、こっちで金額部分だけ修正した版を作ります。ユーザー数五百の前提で再計算して、見積りと合うようにしますね」

「え、そんなところまで…」

「どうせ僕もこの後、稟議の承認経路確認しなきゃいけないので。一緒にやっちゃったほうが早いです」

さらりと言いながら、彼は数字を打ち込んでいく。Excelのセルを参照して自動計算を走らせ、それをそのままスライドに反映させる。関数やリンクの使い方が手慣れていて、見ているだけで安心感があった。

「あと、今日の打ち合わせで先方に数字の違いを指摘されたら、『仕様変更のタイミングで資料の数字の更新が漏れてしまっていて、こちらの見積りの金額が正しいです』って説明してください。あんまり言い訳しすぎると怪しまれるので、あくまで事実だけ伝えれば大丈夫です」

「はい」

「そのとき、『社内の管理部とも金額の整合は取れているので』って一言添えられると、信用度はちょっと上がると思います」

「なるほど…」

言われること、やるべきことがどんどん明確になっていく。さっきまで、ひとつの数字の違いに振り回されていたのが嘘みたいだ。

自分の中で、何かがほどけていく感覚があった。初めて会ったばかりの相手なのに、「この人に頼れば、大抵のことはなんとかなるんじゃないか」という予感が湧く。

自分が今まで、「なんとかなるだろ」で押し切ってきたところを、この人はちゃんと手順に分解して、穴を塞いでいく。そんな印象だった。

村上は、修正した提案資料のデータを社内共有フォルダに保存し、そのパスをチャットで翔希に送った。

「A社向け提案書の修正版、今送りました。確認して、必要なら高橋くん側でも手を入れてください。大枠は触らないようにしたので」

「ありがとうございます。本当に助かりました」

頭を下げると、村上は少しだけ肩を竦めるように笑った。

「僕らも、高橋くんたちがちゃんと取ってきてくれないと仕事にならないので。お互い様ですよ」

その笑顔は、さっきまでの淡々とした表情からは想像できないくらい柔らかかった。口元がほんのわずかに緩み、目尻に小さな皺が寄る。その変化に、視線が自然と引き寄せられる。

「ギリギリだけど、まだ間に合うよ。大丈夫」

「…はい」

胸の中に、じわりと温かいものが広がった。さっきまで自分を責めていた感情の尖った部分が、少し丸くなる。

「じゃあ、午後の打ち合わせ、頑張ってください。何かあったらまた言ってください」

「はい。本当にありがとうございます、村上さん」

名前を口にしたとき、舌触りが思ったよりも自然だった。初めて会ったばかりなのに、ずっと前から知っていたような、不思議な感覚。

打ち合わせスペースを出て、営業フロアへ戻るために廊下を歩きながら、翔希は自分の胸の奥に残っている感触を確かめていた。

不甲斐なさは、確かにある。自分一人ではどうにもならなかった詰めを、ほとんど丸ごと持っていかれてしまったことへの、悔しさのようなものもある。

それでも、その上に、それを軽く越えるくらいの感情がかぶさっていた。

「すげえな、あの人」

口に出していないのに、心の中で、何度も同じ言葉が反芻された。

仕事ができる。落ち着いている。状況を瞬時に整理して、具体的な手順に落としてくれる。しかも、それを「やってやっている」という態度ではなく、淡々と「必要なことだから」という顔でやってのける。

この人みたいになりたい。

その思いは、まだ言葉になりきらないまま、胸の中で小さな種のように沈んでいった。

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  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   42.選び直す朝のあとで

    それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   41.先輩と後輩の仮面

    朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが

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