ログイン時計の針が十一時を指す頃、営業フロアの空気は、朝とはまた違う種類の熱を帯びはじめていた。
電話のコール音が少しずつ増え、キーボードを叩く音が途切れなく続く。コピー機は規則的に紙を吐き出し、誰かの笑い声が短く弾けては、すぐに数字と単語の飛び交うざわめきに溶けていく。
高橋翔希は、自分の席に深く腰を沈めていた。机の上には、タブレットとノートPCと、昨日から使い回している紙資料の束。モニターには「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが表示され、その下にぎっしりとスライドのサムネイルが並んでいる。
この案件が決まれば、今期の自分の評価はかなり上がる。ボーナスも期待できるし、部内での立ち位置も変わるかもしれない。そんなことは、わざわざ考えなくても分かっている。石田課長の「決めてこいよ」という軽い一言が、冗談半分じゃないことも。
だからこそ、ミスはできない。
画面に視線を近づけるようにして、翔希は細かい数字と文字を追った。クラウド利用料の月額、初期費用、オプション機能ごとの加算額。スライドの右下には、小さく「合計」の数字が並んでいる。
そこまでは、昨日まで何度も確認した。資料の構成も、ストーリーも、プレゼンの流れも、頭の中に叩き込んである。あとは、午後の打ち合わせで滞りなく説明するだけ…のはずだった。
違和感に気づいたのは、スクロールしていった先、十何枚目かのスライドだった。
「…あれ」
マウスを持つ指が止まる。画面を少し戻し、スライドのタイトルと、文中の数字をひとつひとつなぞっていく。目は表面的には文字を追っているのに、奥のほうで何かが引っかかっていた。
「月額ユーザー数五百名を想定した場合…初期費用は…」
小さく声に出して読み上げ、見積書のPDFを別ウィンドウで開く。二つの画面を見比べた瞬間、背中を汗が一筋、ゆっくりと落ちていく感覚がした。
スライドに記載されている初期費用と、見積書に記載されている数字が、微妙に、しかし確実に違っている。
スライドでは、「初期導入費:四百八十万円」。見積書では、「初期導入費:四百五十万円」。
たった三十万の差だ。大きな全体額の中では、誤差と言えなくもない。顧客からすれば、「まあそんなものか」と流してくれるかもしれない。会議の場で口頭で補足して、「こちらが正確な金額です」と訂正してしまえば、それで済む可能性もある。
頭の中で、そんな「逃げ道」が一瞬で組み立てられる。
だが、同時に、A社の担当者の顔が思い浮かんだ。何度も打ち合わせを重ねた、あの固い表情。数字の一つ一つに眉をひそめ、少しの差額にも理由を求めてきた、あの真面目な目つき。
「…これ、気づかないふりしていいやつじゃないな」
喉の奥がカラカラに乾いていく。いつの間にかマウスを握る手に力が入りすぎていて、関節が白くなっていた。
悪い癖だ、と自分で思う。瞬間的に「何とかなる」と思ってしまうところ。高校の部活でも、大学の課題でも、それで何とかなってきた部分は多い。だが、この世界で「なんとか」を積み重ねていけば、そのうち大きな穴になる。
視界の端に、中村の席が見えた。彼は電話で何かを話していて、笑いながらメモ帳に走り書きをしている。話が終わるのを待って、翔希は椅子ごとそちらに身を寄せた。
「中村」
「ん?」
受話器を置いたばかりのところで声をかけると、彼は椅子を回転させてこちらを向いた。
「A社の初期費用の数字、見積りと提案資料でちょっと違ってるっぽいんだけどさ」
「マジで?」
「これ。ほら」
自分の画面を指さし、見積書との差異を示す。中村は身を乗り出し、まじまじと数字を見比べた。
「…あー、三十万か。微妙なラインだな。全体からしたら大したことないっちゃないけど」
「だよな。でも、A社のあの担当さん、こういうとこ結構シビアじゃん」
「だな。あの人、見積りの0.5刻みとかでもツッコんでくるタイプ」
中村は、ため息混じりに笑った。
「で、どうするつもりなんだよ。資料のほう合わせる? 見積り変える?」
「今日の打ち合わせ、午後だろ。見積りの再承認なんて間に合わねえよ」
「だよな。課長に一回相談したほうがよくない?」
それは分かっている。分かっているからこそ、胃のあたりがきゅっと締まる。
課長に相談すれば、状況を整理してくれるだろうし、管理部との調整も指示してくれるはずだ。そう頭では理解しているのに、「ミスを見せる」ことへの躊躇が、指を重くしていた。
「…とりあえず、課長に一回見てもらうか」
自分に言い聞かせるように呟くと、中村が軽く肩を叩いた。
「そうそう。早めに出しときゃ、課長も怒らねえよ。多分」
「多分って何だよ」
「いや、石田さん、機嫌悪い時マジ怖いから」
言いながらも、中村の表情には深刻さはない。彼にとって、石田の怒鳴り声も、営業フロアのBGMの一部みたいなものなのだろう。
席に戻りながら、翔希は課長の席のほうをちらりと見た。石田は電話を肩と顎で挟みながらパソコンに向かっており、その横で別の先輩が資料を持って待っている。すでに二人ほど順番待ちをしているような状態だ。
今行っても、話を中断させてしまうだけだろう。
モニターに視線を戻し、もう一度見積書と資料のスライドを見比べる。三十万の差が、画面の中でじわじわと膨らんでいき、やがて自分の肩に乗りかかってくるような錯覚。
チャットで管理部に確認を取る、という選択肢も頭をよぎる。あの「管理部/申請・承認窓口」のチャンネルに、状況を書いて投げれば、誰かが拾ってくれるかもしれない。
けれど、今は昼前。どの部署も一番バタバタしている時間帯だ。チャットには既にいくつもの質問が流れていて、新しいメッセージを送れば、ただでさえ忙しい管理部の仕事を増やすことになる。
「…これくらいなら、口頭で説明すれば」
唇の内側を噛みながら、さっき一瞬頭をかすめた考えが、もう一度顔を出す。打ち合わせの場で、「見積りのほうが正しくて、資料の数字が古いだけです」と説明すれば済む話かもしれない。あの担当者の眉は確実にひそめられるだろうが、致命傷にはならないかもしれない。
そこまで思ったところで、背筋にぞわりと寒気が走った。
「こういうとこを雑にして、後で足元すくわれるんだよな」
かつて先輩に言われた言葉が、ふいに蘇る。営業の世界で「これくらい」を積み重ねていくと、ある日突然、信用という見えない床が抜ける。そのときに落ちるのは、自分だけじゃない。課長も、会社も一緒に落ちる。
舌の奥に、コーヒーの苦味がじわりと戻ってくる。さっき飲んだコンビニのホットコーヒーは、もうぬるくなっていた。
「…やっぱり、ちゃんと確認しないと」
静かに自分に言い聞かせる。決意というには心もとない、けれど逃げ道から目を逸らすための小さな言葉。
翔希はマウスを動かし、社内チャットのアイコンをクリックした。画面上にチャンネル一覧が表示され、「管理部/申請・承認窓口」の文字が白く浮かぶ。
そのチャンネルには、すでに朝からの問い合わせがずらりと並んでいた。
[総務からの連絡:来月の備品発注について]
[経理:旅費精算の締め切り変更のお知らせ] [質問:新しい稟議書フォーマットの適用開始日は?]スクロールしてもスクロールしても、メッセージは途切れない。そこに新たに自分の質問を放り込むことが、なぜだか「迷惑行為」に近いものに思えて、指先が固まった。
個別チャット、という手もある。以前、見積書のフォーマットについて問い合わせたとき、管理部の誰かから個別に返信が来ていたはずだ。その履歴を辿れば、一次窓口になってくれた担当者に直接メッセージを送れるかもしれない。
「誰だっけ…」
チャットの検索欄に「管理部」と打ち込む。候補にいくつかの名前が表示される。その中に、「管理部/村上遥人」という名前があった。
午前中に読んだメールの差出人。フォーマット変更について、簡潔で分かりやすい説明をくれていた人。名前の横に、小さくグレーのアイコンが表示されているのが目に入る。今はオンラインかどうか分からない。
カーソルが、その名前の上で止まった。
「この人なら、なんとかしてくれるのかもしれない」
心の中でそんな言葉が浮かぶ。自分でも驚くくらい、すんなりと。
困ったときは村上さんに聞け。課長の声が、また脳裏で再生される。営業部の誰かが冗談めかして言っていた、「管理部の影のエース」という表現も。
期待がふくらむ。けれど、そのすぐ隣に、別の感情が顔を出す。
「でも…」
クリックひとつで、相手の時間を奪うことになる。その背中には、見えない仕事がどれだけ積み上がっているのか分からない。自分のミスとも言い切れない仕様違いの相談に、わざわざ流れを止めて付き合ってもらう価値が、本当にあるのか。
それに、「助けてください」と認めること自体に、抵抗がある。期待される若手、なんて言われているくせに、こんなところでつまずいて、尻拭いを頼む自分が情けない。
「…ちっちゃいな」
自分で自分を笑いたくなる。プライドなんて、数字が合わなければ一瞬で吹き飛ぶくせに。その前に、見栄が邪魔をする。
キーボードの上に置いた手が、じんわりと汗ばんでいくのを感じながら、翔希は深く息を吸った。エアコンの風が乾いた空気を運び、その中に微かに混じる印刷インクの匂いが鼻をくすぐる。
ディスプレイの中では、まだ「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが光っている。午前中の残り時間は、もうそれほど多くない。午後の打ち合わせまでには、どうにかこの不一致を整理しなければならない。
「…村上さん」
心の中で、その名前をもう一度だけなぞる。
頼りたい。また、別の声がささやく。
頼ってもいいんじゃないか。営業は一人で完結する仕事じゃない。管理部がいて、技術部がいて、みんなで案件を動かしている。そう頭で分かっていても、自分の指はまだ「Enter」を押せずにいた。
チャット画面の片隅で、「管理部/村上遥人」の名前が、小さな活字になって静かに並んでいる。その文字列を見つめる視線に、期待と遠慮と、どうしようもない苛立ちが、同時にじわりと滲んでいた。
管理部フロアに行こう、と腹をくくったのは、昼休み開始五分前だった。時計の短針と長針を見た瞬間、「今じゃない気がする」と反射的に思った。それでも、午後一でA社に持っていく資料を思い浮かべると、もう悠長なことは言っていられない、という感覚が、胃のあたりを強く押した。「行ってくる」誰に言うともなく呟いて立ち上がると、隣の席の中村が顔を上げた。「どこ行くんだよ。飯?」「いや、管理部。ちょっと確認したいことあって」「ああ…生きて帰ってこいよ」「お前さ…」軽口を返す余裕は、一応まだあった。その余裕が、虚勢なのか、本物なのかは自分でも判然としない。ノートPCだけ閉じて、社員証を首から下げ直し、翔希は営業フロアの出入り口へ向かった。自動ドアが開くと、冷房の風が一瞬強く当たる。営業フロア特有の熱気が、背中側に貼りついたまま離れず、そのまま廊下に持ち込まれたような気がした。管理部のフロアは、二つ上の階だ。同じビルの中なのに、行くのは年に何度もない。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど下りのカゴが着いたところで、人がどっと吐き出されてきた。昼休みに出る社員たちの波をやり過ごし、翔希は空いたエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、数字が二十から二十二へと変わる間、狭い箱の中に静けさが満ちる。営業フロアのざわめきが遠ざかるにつれて、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。「忙しい時間帯に来るもんじゃないよな…」思わず零れた独り言は、誰にも拾われない。昼前後の管理部がどれだけ慌ただしいか、直接見たことはなくても想像はつく。経費精算、各種申請の締め切り、月次の締め。数字と書類に追われているであろう時間に、営業部の若手が「すみません、見積りの数字がちょっと…」と乗り込んでいくのだ。それでも、行かないという選択肢はなかった。今は、自分のプライドよりも、午後の失敗のほうが怖い。エレベーターが開くと、空気が変わった。同じオフィスビルの一角なのに、温度が一度くらい下がったような感覚。照明は
時計の針が十一時を指す頃、営業フロアの空気は、朝とはまた違う種類の熱を帯びはじめていた。電話のコール音が少しずつ増え、キーボードを叩く音が途切れなく続く。コピー機は規則的に紙を吐き出し、誰かの笑い声が短く弾けては、すぐに数字と単語の飛び交うざわめきに溶けていく。高橋翔希は、自分の席に深く腰を沈めていた。机の上には、タブレットとノートPCと、昨日から使い回している紙資料の束。モニターには「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが表示され、その下にぎっしりとスライドのサムネイルが並んでいる。この案件が決まれば、今期の自分の評価はかなり上がる。ボーナスも期待できるし、部内での立ち位置も変わるかもしれない。そんなことは、わざわざ考えなくても分かっている。石田課長の「決めてこいよ」という軽い一言が、冗談半分じゃないことも。だからこそ、ミスはできない。画面に視線を近づけるようにして、翔希は細かい数字と文字を追った。クラウド利用料の月額、初期費用、オプション機能ごとの加算額。スライドの右下には、小さく「合計」の数字が並んでいる。そこまでは、昨日まで何度も確認した。資料の構成も、ストーリーも、プレゼンの流れも、頭の中に叩き込んである。あとは、午後の打ち合わせで滞りなく説明するだけ…のはずだった。違和感に気づいたのは、スクロールしていった先、十何枚目かのスライドだった。「…あれ」マウスを持つ指が止まる。画面を少し戻し、スライドのタイトルと、文中の数字をひとつひとつなぞっていく。目は表面的には文字を追っているのに、奥のほうで何かが引っかかっていた。「月額ユーザー数五百名を想定した場合…初期費用は…」小さく声に出して読み上げ、見積書のPDFを別ウィンドウで開く。二つの画面を見比べた瞬間、背中を汗が一筋、ゆっくりと落ちていく感覚がした。スライドに記載されている初期費用と、見積書に記載されている数字が、微妙に、しかし確実に違っている。スライドでは、「初期導入費:四百八十万円」。見積書では、「初期導入費:四百五十万円」。
山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。「今日も人多いな…」誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。「おはようございます」鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を