Share

2.数字の罠と仕様違い

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-11-27 10:06:50

時計の針が十一時を指す頃、営業フロアの空気は、朝とはまた違う種類の熱を帯びはじめていた。

電話のコール音が少しずつ増え、キーボードを叩く音が途切れなく続く。コピー機は規則的に紙を吐き出し、誰かの笑い声が短く弾けては、すぐに数字と単語の飛び交うざわめきに溶けていく。

高橋翔希は、自分の席に深く腰を沈めていた。机の上には、タブレットとノートPCと、昨日から使い回している紙資料の束。モニターには「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが表示され、その下にぎっしりとスライドのサムネイルが並んでいる。

この案件が決まれば、今期の自分の評価はかなり上がる。ボーナスも期待できるし、部内での立ち位置も変わるかもしれない。そんなことは、わざわざ考えなくても分かっている。石田課長の「決めてこいよ」という軽い一言が、冗談半分じゃないことも。

だからこそ、ミスはできない。

画面に視線を近づけるようにして、翔希は細かい数字と文字を追った。クラウド利用料の月額、初期費用、オプション機能ごとの加算額。スライドの右下には、小さく「合計」の数字が並んでいる。

そこまでは、昨日まで何度も確認した。資料の構成も、ストーリーも、プレゼンの流れも、頭の中に叩き込んである。あとは、午後の打ち合わせで滞りなく説明するだけ…のはずだった。

違和感に気づいたのは、スクロールしていった先、十何枚目かのスライドだった。

「…あれ」

マウスを持つ指が止まる。画面を少し戻し、スライドのタイトルと、文中の数字をひとつひとつなぞっていく。目は表面的には文字を追っているのに、奥のほうで何かが引っかかっていた。

「月額ユーザー数五百名を想定した場合…初期費用は…」

小さく声に出して読み上げ、見積書のPDFを別ウィンドウで開く。二つの画面を見比べた瞬間、背中を汗が一筋、ゆっくりと落ちていく感覚がした。

スライドに記載されている初期費用と、見積書に記載されている数字が、微妙に、しかし確実に違っている。

スライドでは、「初期導入費:四百八十万円」。見積書では、「初期導入費:四百五十万円」。

たった三十万の差だ。大きな全体額の中では、誤差と言えなくもない。顧客からすれば、「まあそんなものか」と流してくれるかもしれない。会議の場で口頭で補足して、「こちらが正確な金額です」と訂正してしまえば、それで済む可能性もある。

頭の中で、そんな「逃げ道」が一瞬で組み立てられる。

だが、同時に、A社の担当者の顔が思い浮かんだ。何度も打ち合わせを重ねた、あの固い表情。数字の一つ一つに眉をひそめ、少しの差額にも理由を求めてきた、あの真面目な目つき。

「…これ、気づかないふりしていいやつじゃないな」

喉の奥がカラカラに乾いていく。いつの間にかマウスを握る手に力が入りすぎていて、関節が白くなっていた。

悪い癖だ、と自分で思う。瞬間的に「何とかなる」と思ってしまうところ。高校の部活でも、大学の課題でも、それで何とかなってきた部分は多い。だが、この世界で「なんとか」を積み重ねていけば、そのうち大きな穴になる。

視界の端に、中村の席が見えた。彼は電話で何かを話していて、笑いながらメモ帳に走り書きをしている。話が終わるのを待って、翔希は椅子ごとそちらに身を寄せた。

「中村」

「ん?」

受話器を置いたばかりのところで声をかけると、彼は椅子を回転させてこちらを向いた。

「A社の初期費用の数字、見積りと提案資料でちょっと違ってるっぽいんだけどさ」

「マジで?」

「これ。ほら」

自分の画面を指さし、見積書との差異を示す。中村は身を乗り出し、まじまじと数字を見比べた。

「…あー、三十万か。微妙なラインだな。全体からしたら大したことないっちゃないけど」

「だよな。でも、A社のあの担当さん、こういうとこ結構シビアじゃん」

「だな。あの人、見積りの0.5刻みとかでもツッコんでくるタイプ」

中村は、ため息混じりに笑った。

「で、どうするつもりなんだよ。資料のほう合わせる? 見積り変える?」

「今日の打ち合わせ、午後だろ。見積りの再承認なんて間に合わねえよ」

「だよな。課長に一回相談したほうがよくない?」

それは分かっている。分かっているからこそ、胃のあたりがきゅっと締まる。

課長に相談すれば、状況を整理してくれるだろうし、管理部との調整も指示してくれるはずだ。そう頭では理解しているのに、「ミスを見せる」ことへの躊躇が、指を重くしていた。

「…とりあえず、課長に一回見てもらうか」

自分に言い聞かせるように呟くと、中村が軽く肩を叩いた。

「そうそう。早めに出しときゃ、課長も怒らねえよ。多分」

「多分って何だよ」

「いや、石田さん、機嫌悪い時マジ怖いから」

言いながらも、中村の表情には深刻さはない。彼にとって、石田の怒鳴り声も、営業フロアのBGMの一部みたいなものなのだろう。

席に戻りながら、翔希は課長の席のほうをちらりと見た。石田は電話を肩と顎で挟みながらパソコンに向かっており、その横で別の先輩が資料を持って待っている。すでに二人ほど順番待ちをしているような状態だ。

今行っても、話を中断させてしまうだけだろう。

モニターに視線を戻し、もう一度見積書と資料のスライドを見比べる。三十万の差が、画面の中でじわじわと膨らんでいき、やがて自分の肩に乗りかかってくるような錯覚。

チャットで管理部に確認を取る、という選択肢も頭をよぎる。あの「管理部/申請・承認窓口」のチャンネルに、状況を書いて投げれば、誰かが拾ってくれるかもしれない。

けれど、今は昼前。どの部署も一番バタバタしている時間帯だ。チャットには既にいくつもの質問が流れていて、新しいメッセージを送れば、ただでさえ忙しい管理部の仕事を増やすことになる。

「…これくらいなら、口頭で説明すれば」

唇の内側を噛みながら、さっき一瞬頭をかすめた考えが、もう一度顔を出す。打ち合わせの場で、「見積りのほうが正しくて、資料の数字が古いだけです」と説明すれば済む話かもしれない。あの担当者の眉は確実にひそめられるだろうが、致命傷にはならないかもしれない。

そこまで思ったところで、背筋にぞわりと寒気が走った。

「こういうとこを雑にして、後で足元すくわれるんだよな」

かつて先輩に言われた言葉が、ふいに蘇る。営業の世界で「これくらい」を積み重ねていくと、ある日突然、信用という見えない床が抜ける。そのときに落ちるのは、自分だけじゃない。課長も、会社も一緒に落ちる。

舌の奥に、コーヒーの苦味がじわりと戻ってくる。さっき飲んだコンビニのホットコーヒーは、もうぬるくなっていた。

「…やっぱり、ちゃんと確認しないと」

静かに自分に言い聞かせる。決意というには心もとない、けれど逃げ道から目を逸らすための小さな言葉。

翔希はマウスを動かし、社内チャットのアイコンをクリックした。画面上にチャンネル一覧が表示され、「管理部/申請・承認窓口」の文字が白く浮かぶ。

そのチャンネルには、すでに朝からの問い合わせがずらりと並んでいた。

[総務からの連絡:来月の備品発注について]

[経理:旅費精算の締め切り変更のお知らせ]

[質問:新しい稟議書フォーマットの適用開始日は?]

スクロールしてもスクロールしても、メッセージは途切れない。そこに新たに自分の質問を放り込むことが、なぜだか「迷惑行為」に近いものに思えて、指先が固まった。

個別チャット、という手もある。以前、見積書のフォーマットについて問い合わせたとき、管理部の誰かから個別に返信が来ていたはずだ。その履歴を辿れば、一次窓口になってくれた担当者に直接メッセージを送れるかもしれない。

「誰だっけ…」

チャットの検索欄に「管理部」と打ち込む。候補にいくつかの名前が表示される。その中に、「管理部/村上遥人」という名前があった。

午前中に読んだメールの差出人。フォーマット変更について、簡潔で分かりやすい説明をくれていた人。名前の横に、小さくグレーのアイコンが表示されているのが目に入る。今はオンラインかどうか分からない。

カーソルが、その名前の上で止まった。

「この人なら、なんとかしてくれるのかもしれない」

心の中でそんな言葉が浮かぶ。自分でも驚くくらい、すんなりと。

困ったときは村上さんに聞け。課長の声が、また脳裏で再生される。営業部の誰かが冗談めかして言っていた、「管理部の影のエース」という表現も。

期待がふくらむ。けれど、そのすぐ隣に、別の感情が顔を出す。

「でも…」

クリックひとつで、相手の時間を奪うことになる。その背中には、見えない仕事がどれだけ積み上がっているのか分からない。自分のミスとも言い切れない仕様違いの相談に、わざわざ流れを止めて付き合ってもらう価値が、本当にあるのか。

それに、「助けてください」と認めること自体に、抵抗がある。期待される若手、なんて言われているくせに、こんなところでつまずいて、尻拭いを頼む自分が情けない。

「…ちっちゃいな」

自分で自分を笑いたくなる。プライドなんて、数字が合わなければ一瞬で吹き飛ぶくせに。その前に、見栄が邪魔をする。

キーボードの上に置いた手が、じんわりと汗ばんでいくのを感じながら、翔希は深く息を吸った。エアコンの風が乾いた空気を運び、その中に微かに混じる印刷インクの匂いが鼻をくすぐる。

ディスプレイの中では、まだ「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが光っている。午前中の残り時間は、もうそれほど多くない。午後の打ち合わせまでには、どうにかこの不一致を整理しなければならない。

「…村上さん」

心の中で、その名前をもう一度だけなぞる。

頼りたい。また、別の声がささやく。

頼ってもいいんじゃないか。営業は一人で完結する仕事じゃない。管理部がいて、技術部がいて、みんなで案件を動かしている。そう頭で分かっていても、自分の指はまだ「Enter」を押せずにいた。

チャット画面の片隅で、「管理部/村上遥人」の名前が、小さな活字になって静かに並んでいる。その文字列を見つめる視線に、期待と遠慮と、どうしようもない苛立ちが、同時にじわりと滲んでいた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   46.たぶん大丈夫と言える夜

    翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   45.二つのマグカップと小さな生活音

    古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   44.消えたアイコンと、出てくる夢

    新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   43.小雨上がりの新宿口

    夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   42.選び直す朝のあとで

    それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   41.先輩と後輩の仮面

    朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status