เข้าสู่ระบบ会議室の空気は、湿度だけが少し高いような気がした。
午後三時ちょうど。A社本社ビルの一室で、翔希はスクリーンに映し出されたスライドと、対面に座る担当者たちの顔を交互に見ていた。
会議室特有の、薄いグレーの壁。窓はあるがブラインドは半分ほど下ろされていて、外の光は細い筋になってテーブルの上に落ちている。テーブルに置かれた紙コップのコーヒーからはもう湯気は出ておらず、代わりにコピー紙とインクの匂いが鼻を刺激していた。
「…以上が、今回ご提案させていただくクラウド導入プランの概要となります」
自分の声が少しだけ硬いことを、自分で分かっている。喉の奥が乾いているのに、コーヒーに手を伸ばす余裕はなかった。指先は、プレゼン用のリモコンを握りしめたまま、小さく汗ばむ。
スクリーンの左下に映る数字。初期導入費、月額費用、オプション料金。その合計が、さっきまで頭の中でぐるぐると回っていた「違和感のある数字」とは違う、正しい値になっている。
村上が作り直してくれた、修正版の資料。
「ご質問やご懸念点があれば、何でもお聞かせください」
視線をA社の担当者のひとりに預けると、相手は手元の資料をめくりながら、眉を少しだけ寄せた。スーツの襟元からのぞくネクタイは、濃いボルドー。こめかみ付近の白髪が、年季と責任の重さを物語っている。
「そうですね…数字の部分について、一点確認させてください」
来た、と心の中で身構える。
「こちらの資料ですと、ユーザー数五百名を前提とした費用になっておりますが、以前のご提案の際には、三百名のケースでの試算が出ていたかと思います。今回のこの金額が、御社として最終的な見解と考えてよろしいでしょうか」
担当者は、資料のページを指で軽く叩いた。目線は鋭いが、敵意があるわけではない。単に、数字に関して妥協を許さない人の目だ。
翔希は、資料に視線を落とし、ページの端を指で押さえた。
「はい。今回のご提案では、当初の三百名から五百名への拡張を前提に、改めて社内の管理部とも確認を取り、こちらの金額を最終とさせていただいております」
自分の口から出る言葉に、さっき村上が打ち合わせスペースで言っていたフレーズがそのまま乗る。
『社内の管理部とも金額の整合は取れているので』
その一文だけで、不思議と自信が湧いた。数字の背後に、彼の淡々とした仕事ぶりが支えてくれているように感じるからかもしれない。
「以前の三百名の試算と比べると、初期費用の単価も変わっているようですが」
「はい。ユーザー数の増加に伴って、ボリュームディスカウントを適用しております。その分、単価としては抑えられていますが、全体としては、以前よりも高い拡張性とセキュリティ水準をご提供できる形になっています」
あらかじめ想定していた質問だ。言葉は少しもつれることなく出てきた。資料のグラフを指でなぞりながら、月額費用の推移や、五年スパンで見たTCOの比較を説明する。
担当者たちは時折頷き、何度か短い質問を挟むものの、致命的な反論は出てこなかった。
プレゼンが終盤に差し掛かるころには、最初に感じていた喉の乾きは、少しずつ和らいでいた。代わりに、背中にじっとりと汗をかいていることに気づく。スーツの中でシャツが肌に張り付き、冷房の風がそこを冷やしていく感覚が、妙に生々しかった。
一通りの質疑応答が終わると、A社側の部長クラスと思しき男性が、指を組んでこちらを見た。
「全体としては、非常によくまとまっているご提案だと思います」
低く落ち着いた声が、会議室の空気に重さを加える。
「社内での検討はもちろん必要ですが、方向性としては、御社のプランで進める形で前向きに調整したいと考えています」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「ありがとうございます。御社のご要望に最大限応えられるよう、導入後のサポートも含めて全力で対応させていただきます」
自分の声が、少しだけ明るくなったのが分かる。部長は笑いながら頷いた。
「では、細かい条項の詰めとスケジュール感については、改めて御社と社内の担当とで調整させてください。今日のところは、方向性の確認ということで」
「かしこまりました」
頭を下げながら、視界の端で、石田課長が小さくガッツポーズを取るのが見えた。普段は冷静で厳しい顔をしている彼が、こんな風に感情を表に出すことはあまりない。それだけ、この案件が大きいということだ。
会議室を出て、エレベーターに乗るまでの間、足取りが少しだけ軽くなっているのを感じた。A社のオフィスの床は、営業フロアとは違う素材でできているのか、靴底が当たる音が少し柔らかい。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、思っていたより疲れていた。目の下にうっすらと影があり、ネクタイの結び目は朝よりもわずかに下がっている。
「よくやったな」
隣で、石田がぽん、と翔希の肩を叩いた。
「ありがとうございます」
「途中、向こうの部長が数字にツッコんできたときはヒヤッとしたけどな。ちゃんと返せてたじゃないか」
「村上さんが整理してくれてたおかげです」
思わず口に出た名前に、石田が「ん?」と首を傾げた。
「管理部の村上さんです。今日の午前中、見積りと仕様の食い違いの件で相談して…」
「ああ、村上くんね」
課長はすぐに「ああ」と納得したように頷いた。
「あいつがついてたなら安心だな。あの人、管理部の中でも頭ひとつ抜けてるから」
その言葉に、胸の中でさっき感じた誇らしさとは少し違う、じんわりとした感覚が生まれる。自分が信頼を寄せた相手を、上司も高く評価している。それが、妙に嬉しかった。
会社に戻るタクシーの中で、窓の外の景色が流れていく。
信号待ちの交差点、コンビニの看板、歩道を行き交う人の群れ。午後の陽射しは、朝よりも柔らかく、ビルの壁に反射してキラキラと揺れていた。
助手席の背もたれに手をかけて、石田が振り返る。
「とりあえず、部内のミーティングでもう一回共有するからな。今日はうちの部の勝ちだ」
「はい」
言葉はそれだけだったが、心の中はさっきよりも落ち着いていた。プレゼン前に感じていた、あの喉の乾きや、指先の冷たさはもうない。代わりに、身体の芯が少し熱い。
ビルに戻り、エレベーターで営業フロアに上がると、空気がまた変わる。
営業フロアのざわめき。誰かが電話で声を張り上げ、離れた席から笑い声が聞こえる。プリンターが紙を吐き出し続ける音。すべてが「いつもの音」なのに、今だけは少し違って聞こえた。
「お、おかえり。どうだった?」
中村が、椅子をくるりと回して声をかけてきた。顔には好奇心が丸出しだ。
「とりあえず、前向きに進めるって」
「マジか! よっ、エース!」
両手を軽く上げて、わざとらしく拍手をする。周囲の何人かもそれにつられて手を叩き、視線がこちらに集まった。
「お、帰ってきたな」
デスクの間から、石田の顔が覗く。
「今ちょうど部内ミーティングやろうと思ってたところだ。全員、会議室B集合」
声がフロアに響き、椅子のパイプが床を擦る音が一斉に立ち上がる。翔希も、タブレットとメモ帳だけを持って立ち上がった。
会議室Bは、朝とは違う表情を見せていた。窓から差し込む光の角度が変わり、壁に映る影の形も変わっている。机の上には、朝会の資料がまだ少し残っていた。
全員が席につくのを待って、石田がホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、さっきA社から帰ってきたばかりの高橋から、報告を」
いきなり名指しされて、胸の内側が波打つ。それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「はい。A社のクラウド導入案件ですが、本日の最終提案の結果、概ね前向きなご判断をいただきました。社内調整は必要とのことですが、方向性としては弊社のプランで進めたいとのお話でした」
言葉が会議室の空気に乗る。誰かが「おお」と小さく声を上げた。
「これで、今期の売上目標にかなり近づけるな」
石田が満足そうに頷く。
「よく巻き返したな、高橋。仕様変更でバタついてたわりに、きっちりまとめてきたじゃないか」
「ありがとうございます」
反射的に頭を下げる。その瞬間、自分の背後から、軽く椅子を叩く音がした。
「新人なのに大したもんだよな。俺なんか三年目でもそんな案件持ったことねえわ」
すこし年上の先輩が、茶化すような声を出す。
「いやいや、こいつ二年目の頃からやたら結果出してるから。期待の星だぞ?」
別の先輩も笑いながら言い添える。
言葉の端々に、嫉妬というよりは、むしろ期待混じりの好意が見える。同期の中村は、隣の席で親指を立ててみせた。
「マジで奢り決定だな」
「何の話ですか」
会議室の空気が、少しだけ軽くなる。笑い声と、数人分の拍手。ホワイトボードの前に立つ課長の視線も、しばらくこちらに留まっていた。
悪くない。素直にそう思う。
努力が形になり、周囲から認められる感覚は、やはり心地いい。高校の試合で得点を決めたときや、大学のプレゼンで教授に褒められたときのあの高揚感と、どこか似ている。
ただ、その高揚感に浸っている自分のどこかに、小さな異物感が混ざっているのも分かっていた。
「俺一人の力じゃないんだけどな」
言葉にならないまま、心の奥で浮かんでは沈む。
午前中、管理部の打ち合わせスペースで、村上が淡々と数字とフローを整理していた姿。チャットをさばき、経理と契約担当に話を通し、修正版の資料を作り上げるまでの一連の動き。あれがなければ、午後のプレゼンで、こんなに落ち着いて数字の話ができていた自信はない。
それでも、この会議室で名前が挙がるのは自分だけだ。営業部の報告会で、裏方の名前が出ることはほとんどない。
「まあ、そういうもんか」
頭のどこかが冷静に呟く。仕事はチーム戦だけど、表彰されるのは前線に立っているやつ。そんな構図は、どこの会社でもそうだろう。
理不尽、というほどでもない。ただ、胸の片隅で引っかかり続ける小石のような感覚だけが残る。
ミーティングが終わり、会議室からみんながぞろぞろと出ていく。石田が最後にホワイトボードを消しながら、もう一度だけ声をかけてきた。
「さっきも言ったけど、よくやったぞ。次の案件も期待してるからな」
「はい。ありがとうございます」
その言葉を受け取って、翔希は部屋を出た。デスクに戻る途中で、腕時計の時刻を確認する。午後四時半。社内の空気は、昼の慌ただしさとは違う、夕方特有の少しゆるんだ感じを帯び始めている。
一度自席に資料を置いてから、翔希は立ち止まった。
このまま何事もなかったように仕事を続けることもできる。やるべきことはいくらでもあるし、メールもたまっている。
それでも、足は自然と別の方向を選んだ。
「ちょっと、行ってきます」
中村に一言だけ告げると、「トイレ?」と返ってきた。
「いや、ちょっとだけ」
曖昧な答えを残して、翔希は再び営業フロアを出た。
管理部のフロアに上がるエレベーターの中は、昼前とは違って少し静かだった。乗っているのは翔希ひとり。天井の蛍光灯の光が、ステンレスの壁に反射している。
二十二階の表示が光り、ドアが開く。昼前と同じように、整然としたデスクと静かなキーボード音が迎えてくれた。さっきより少しだけ空席が増えているのは、外回りか会議に出ている人がいるのだろう。
村上の席がどこかは、午前中に通ったときの記憶で何となく分かっている。だが、いきなりデスクに顔を出すのもどうかと思い、翔希はフロアの端にある自販機のほうへ向かった。
廊下の突き当たり、窓際の小さなスペースに、自販機と丸いテーブル、それから観葉植物が一つ置かれている。外からの光が少し差し込んでいて、営業フロアの喧騒とは別世界のような、静かな空間だった。
小銭を入れ、缶コーヒーのボタンを押す。金属の落ちる軽い音と一緒に、黒い缶が取り出し口に転がってきた。その缶を手に取ったところで、背後から足音が近づいてくる。
「高橋くん」
穏やかな声が、名前を呼んだ。
振り返ると、そこに村上がいた。午前中と同じ濃紺のスーツ。ネクタイは緩められていないが、袖が少しだけまくり上げられていて、手首の細さが覗いている。
「さっき、石田さんからチャットで聞きました。A社、良い感じだったみたいですね」
村上は、手に持っていた紙コップを軽く揺らしながら言った。自販機の横のウォーターサーバーから汲んだばかりなのか、表面にわずかに水滴がついている。
「あ…はい。一応、前向きに進めたいって言ってもらえました」
翔希は、缶コーヒーを持ち直しながら頷いた。
「おかげさまで、なんとか…」
言いながら、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。さっき営業部のミーティングで浴びた評価の言葉よりも、この一対一の空間のほうがよほど緊張するのは、なぜだろう。
「おめでとうございます」
村上は、ふわりと笑った。口元が柔らかく持ち上がり、目尻に小さな皺が寄る。その変化を、翔希は正面から受け止めることになった。
明るくはない蛍光灯の光が、彼の横顔の輪郭をなぞる。頬のライン、顎の角度、形の良い唇。そのすべてが、さっき会議室で見た誰よりも、なぜか印象に残る。
「村上さんがいなかったら、とっくに詰んでました」
口が勝手に動いていた。
「え?」
少し驚いたように瞬きをしてから、村上は小さく笑い直した。
「そんな大げさな。僕は数字と手順を確認しただけですよ。実際に説明して、先方を納得させたのは高橋くんでしょ」
「いや、でも…」
否定しようとして、言葉がうまくまとまらない。感謝の気持ちをどう表現したらいいのか、営業トークのような言葉では足りない気がして、口が空回りする。
自販機のモーター音が、低くうなっている。窓の外では、夕方の光がビルの壁を照らし、ガラスに反射している。その光が、村上の髪の一部をわずかに透かしていた。
「午前中、すごく焦ってて…どこから手をつけていいか分かんなくなってたんです。でも、村上さんに相談して、状況整理してもらって…それで、ちゃんとやるべきことが分かって」
自分でも驚くくらい、言葉がぽつぽつと漏れていく。
「だから、その…本当に、助かりました。ありがとうございます」
頭を下げると、缶コーヒーの中身がわずかに揺れて、中から小さく音がした。
村上は、しばらく黙って翔希を見ていた。責めるでもなく、持ち上げるでもない、まっすぐな目。
やがて、ほんの少しだけ肩を竦めるようにして言った。
「こちらこそ」
「え?」
顔を上げると、彼は紙コップを持った手を軽く揺らした。
「A社みたいな大きな案件、営業がちゃんと持ってきてくれないと、僕らも仕事にならないので。お互い様ですよ」
午前中にも聞いたような言葉。けれど、昼間の打ち合わせスペースで聞いたそれよりも、今は少し違う温度を帯びているように感じる。
お互い様。
その言葉が、胸の奥の「俺一人の力じゃない」と「でも評価されているのは自分」という矛盾した感覚の隙間に、すっと入り込む。
「…村上さんみたいになりたいんです」
気づいたときには、もう言ってしまっていた。
言葉が空中に出て、戻せない形になる。その重さに、自分で驚く。軽口のつもりでもなければ、営業トークでもない。本気でそう思っているからこそ出てきた言葉だと、自分が一番分かっていた。
村上の目が、わずかに見開かれる。
一瞬の沈黙。自販機のモーター音と、遠くのフロアから聞こえる電話の音だけが、その間を埋める。
「…僕みたいに?」
ようやく出てきた声は、少しだけ戸惑いを含んでいた。
「はい」
翔希は缶コーヒーを握りしめたまま、続ける。
「状況をちゃんと見て、何が必要か整理して、具体的に動ける人って、正直あんまりいないと思うんです。自分も、そうなりたいなって」
言いながら、自分の言葉が少し青臭いことは自覚している。それでも、恥ずかしさよりも、「伝えたい」という思いのほうが勝っていた。
村上は、視線を少しだけ横に逸らした。窓の外の夕焼けを一瞬だけ見てから、また翔希のほうを見る。
その目の中に、驚きと、少しの困惑と…それから、ほんのわずかな照れのようなものが混ざっているのが見えた。
「…困るなあ」
小さく笑いながら、村上は言った。
「僕みたいになりたいって言われても、実際大したもんじゃないですよ。たまたま、ここに長くいるだけで」
「長くいるだけで、あそこまでできるようにはならないと思いますけど」
「どうでしょうね」
曖昧に笑いながらも、その声色は完全には否定していない。自分の価値を過小評価しようとしながらも、本当にゼロだとは思っていないような、その微妙なニュアンスが、言葉の端々ににじんでいた。
「でも、ありがとう。そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいです」
今度の笑顔は、さっきよりもほんの少しだけ長く続いた。口元が柔らかく緩み、目尻の皺がはっきりと浮かぶ。その表情に、胸の奥がきゅっと鳴る。
綺麗だな、と思った。
数字や資料やフローのことを考えている頭とは別の場所で、そんな単語が浮かぶ。誰かの顔を見て「綺麗」と思ったのなんて、いつ以来だろう。しかも、それが男に対して向けられた感想だと気づいた瞬間、心臓が一拍、余分に跳ねた気がした。
「じゃあ、高橋くん。今日はもう一山越えたし、ちゃんと休みながらやってくださいね。まだ業務時間だけど」
「はい。村上さんも」
言葉を返しながら、缶コーヒーをひと口飲む。炭酸ではないのに、喉を通る液体がいつもよりざらついて感じられた。
村上は紙コップを軽く傾け、残りを飲み干すと、カップを近くのゴミ箱に入れた。
「何かあったら、またいつでも声かけてください。チャットでも、直接でも」
「…はい。また頼らせてもらいます」
自然と出た言葉に、自分でも少し笑ってしまう。その笑いに、村上もつられるように口元を緩めた。
彼が管理部のフロアに戻って行く背中を、翔希はしばらく見送った。
背筋の伸びた細いシルエット。丁寧なのに固くない歩き方。周囲の整然としたデスクの間をすり抜けていく姿が、このフロアの空気に溶け込んでいるのに、不思議と際立って見える。
「…村上さんみたいになりたい、か」
自分でさっきの言葉を思い返し、缶コーヒーの残りをもうひと口飲む。口の中に広がる苦味と、胸の中に広がる感情のざわめきが、同じ色合いをしているような気がした。
尊敬と、感謝と、そのどれにもまだ名前のついていない何か。
それが静かに胸の底に沈んでいく感覚を抱えたまま、翔希は営業フロアへのエレベーターに乗った。
ガラス張りの箱の中で、自分の顔がぼんやりと映る。ほんの少しだけ、さっきよりも表情が柔らかくなっていることに気づいたが、その理由を、今は深く考えないことにした。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。
それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」
朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが