LOGIN会議室の空気は、湿度だけが少し高いような気がした。
午後三時ちょうど。A社本社ビルの一室で、翔希はスクリーンに映し出されたスライドと、対面に座る担当者たちの顔を交互に見ていた。
会議室特有の、薄いグレーの壁。窓はあるがブラインドは半分ほど下ろされていて、外の光は細い筋になってテーブルの上に落ちている。テーブルに置かれた紙コップのコーヒーからはもう湯気は出ておらず、代わりにコピー紙とインクの匂いが鼻を刺激していた。
「…以上が、今回ご提案させていただくクラウド導入プランの概要となります」
自分の声が少しだけ硬いことを、自分で分かっている。喉の奥が乾いているのに、コーヒーに手を伸ばす余裕はなかった。指先は、プレゼン用のリモコンを握りしめたまま、小さく汗ばむ。
スクリーンの左下に映る数字。初期導入費、月額費用、オプション料金。その合計が、さっきまで頭の中でぐるぐると回っていた「違和感のある数字」とは違う、正しい値になっている。
村上が作り直してくれた、修正版の資料。
「ご質問やご懸念点があれば、何でもお聞かせください」
視線をA社の担当者のひとりに預けると、相手は手元の資料をめくりながら、眉を少しだけ寄せた。スーツの襟元からのぞくネクタイは、濃いボルドー。こめかみ付近の白髪が、年季と責任の重さを物語っている。
「そうですね…数字の部分について、一点確認させてください」
来た、と心の中で身構える。
「こちらの資料ですと、ユーザー数五百名を前提とした費用になっておりますが、以前のご提案の際には、三百名のケースでの試算が出ていたかと思います。今回のこの金額が、御社として最終的な見解と考えてよろしいでしょうか」
担当者は、資料のページを指で軽く叩いた。目線は鋭いが、敵意があるわけではない。単に、数字に関して妥協を許さない人の目だ。
翔希は、資料に視線を落とし、ページの端を指で押さえた。
「はい。今回のご提案では、当初の三百名から五百名への拡張を前提に、改めて社内の管理部とも確認を取り、こちらの金額を最終とさせていただいております」
自分の口から出る言葉に、さっき村上が打ち合わせスペースで言っていたフレーズがそのまま乗る。
『社内の管理部とも金額の整合は取れているので』
その一文だけで、不思議と自信が湧いた。数字の背後に、彼の淡々とした仕事ぶりが支えてくれているように感じるからかもしれない。
「以前の三百名の試算と比べると、初期費用の単価も変わっているようですが」
「はい。ユーザー数の増加に伴って、ボリュームディスカウントを適用しております。その分、単価としては抑えられていますが、全体としては、以前よりも高い拡張性とセキュリティ水準をご提供できる形になっています」
あらかじめ想定していた質問だ。言葉は少しもつれることなく出てきた。資料のグラフを指でなぞりながら、月額費用の推移や、五年スパンで見たTCOの比較を説明する。
担当者たちは時折頷き、何度か短い質問を挟むものの、致命的な反論は出てこなかった。
プレゼンが終盤に差し掛かるころには、最初に感じていた喉の乾きは、少しずつ和らいでいた。代わりに、背中にじっとりと汗をかいていることに気づく。スーツの中でシャツが肌に張り付き、冷房の風がそこを冷やしていく感覚が、妙に生々しかった。
一通りの質疑応答が終わると、A社側の部長クラスと思しき男性が、指を組んでこちらを見た。
「全体としては、非常によくまとまっているご提案だと思います」
低く落ち着いた声が、会議室の空気に重さを加える。
「社内での検討はもちろん必要ですが、方向性としては、御社のプランで進める形で前向きに調整したいと考えています」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「ありがとうございます。御社のご要望に最大限応えられるよう、導入後のサポートも含めて全力で対応させていただきます」
自分の声が、少しだけ明るくなったのが分かる。部長は笑いながら頷いた。
「では、細かい条項の詰めとスケジュール感については、改めて御社と社内の担当とで調整させてください。今日のところは、方向性の確認ということで」
「かしこまりました」
頭を下げながら、視界の端で、石田課長が小さくガッツポーズを取るのが見えた。普段は冷静で厳しい顔をしている彼が、こんな風に感情を表に出すことはあまりない。それだけ、この案件が大きいということだ。
会議室を出て、エレベーターに乗るまでの間、足取りが少しだけ軽くなっているのを感じた。A社のオフィスの床は、営業フロアとは違う素材でできているのか、靴底が当たる音が少し柔らかい。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、思っていたより疲れていた。目の下にうっすらと影があり、ネクタイの結び目は朝よりもわずかに下がっている。
「よくやったな」
隣で、石田がぽん、と翔希の肩を叩いた。
「ありがとうございます」
「途中、向こうの部長が数字にツッコんできたときはヒヤッとしたけどな。ちゃんと返せてたじゃないか」
「村上さんが整理してくれてたおかげです」
思わず口に出た名前に、石田が「ん?」と首を傾げた。
「管理部の村上さんです。今日の午前中、見積りと仕様の食い違いの件で相談して…」
「ああ、村上くんね」
課長はすぐに「ああ」と納得したように頷いた。
「あいつがついてたなら安心だな。あの人、管理部の中でも頭ひとつ抜けてるから」
その言葉に、胸の中でさっき感じた誇らしさとは少し違う、じんわりとした感覚が生まれる。自分が信頼を寄せた相手を、上司も高く評価している。それが、妙に嬉しかった。
会社に戻るタクシーの中で、窓の外の景色が流れていく。
信号待ちの交差点、コンビニの看板、歩道を行き交う人の群れ。午後の陽射しは、朝よりも柔らかく、ビルの壁に反射してキラキラと揺れていた。
助手席の背もたれに手をかけて、石田が振り返る。
「とりあえず、部内のミーティングでもう一回共有するからな。今日はうちの部の勝ちだ」
「はい」
言葉はそれだけだったが、心の中はさっきよりも落ち着いていた。プレゼン前に感じていた、あの喉の乾きや、指先の冷たさはもうない。代わりに、身体の芯が少し熱い。
ビルに戻り、エレベーターで営業フロアに上がると、空気がまた変わる。
営業フロアのざわめき。誰かが電話で声を張り上げ、離れた席から笑い声が聞こえる。プリンターが紙を吐き出し続ける音。すべてが「いつもの音」なのに、今だけは少し違って聞こえた。
「お、おかえり。どうだった?」
中村が、椅子をくるりと回して声をかけてきた。顔には好奇心が丸出しだ。
「とりあえず、前向きに進めるって」
「マジか! よっ、エース!」
両手を軽く上げて、わざとらしく拍手をする。周囲の何人かもそれにつられて手を叩き、視線がこちらに集まった。
「お、帰ってきたな」
デスクの間から、石田の顔が覗く。
「今ちょうど部内ミーティングやろうと思ってたところだ。全員、会議室B集合」
声がフロアに響き、椅子のパイプが床を擦る音が一斉に立ち上がる。翔希も、タブレットとメモ帳だけを持って立ち上がった。
会議室Bは、朝とは違う表情を見せていた。窓から差し込む光の角度が変わり、壁に映る影の形も変わっている。机の上には、朝会の資料がまだ少し残っていた。
全員が席につくのを待って、石田がホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、さっきA社から帰ってきたばかりの高橋から、報告を」
いきなり名指しされて、胸の内側が波打つ。それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「はい。A社のクラウド導入案件ですが、本日の最終提案の結果、概ね前向きなご判断をいただきました。社内調整は必要とのことですが、方向性としては弊社のプランで進めたいとのお話でした」
言葉が会議室の空気に乗る。誰かが「おお」と小さく声を上げた。
「これで、今期の売上目標にかなり近づけるな」
石田が満足そうに頷く。
「よく巻き返したな、高橋。仕様変更でバタついてたわりに、きっちりまとめてきたじゃないか」
「ありがとうございます」
反射的に頭を下げる。その瞬間、自分の背後から、軽く椅子を叩く音がした。
「新人なのに大したもんだよな。俺なんか三年目でもそんな案件持ったことねえわ」
すこし年上の先輩が、茶化すような声を出す。
「いやいや、こいつ二年目の頃からやたら結果出してるから。期待の星だぞ?」
別の先輩も笑いながら言い添える。
言葉の端々に、嫉妬というよりは、むしろ期待混じりの好意が見える。同期の中村は、隣の席で親指を立ててみせた。
「マジで奢り決定だな」
「何の話ですか」
会議室の空気が、少しだけ軽くなる。笑い声と、数人分の拍手。ホワイトボードの前に立つ課長の視線も、しばらくこちらに留まっていた。
悪くない。素直にそう思う。
努力が形になり、周囲から認められる感覚は、やはり心地いい。高校の試合で得点を決めたときや、大学のプレゼンで教授に褒められたときのあの高揚感と、どこか似ている。
ただ、その高揚感に浸っている自分のどこかに、小さな異物感が混ざっているのも分かっていた。
「俺一人の力じゃないんだけどな」
言葉にならないまま、心の奥で浮かんでは沈む。
午前中、管理部の打ち合わせスペースで、村上が淡々と数字とフローを整理していた姿。チャットをさばき、経理と契約担当に話を通し、修正版の資料を作り上げるまでの一連の動き。あれがなければ、午後のプレゼンで、こんなに落ち着いて数字の話ができていた自信はない。
それでも、この会議室で名前が挙がるのは自分だけだ。営業部の報告会で、裏方の名前が出ることはほとんどない。
「まあ、そういうもんか」
頭のどこかが冷静に呟く。仕事はチーム戦だけど、表彰されるのは前線に立っているやつ。そんな構図は、どこの会社でもそうだろう。
理不尽、というほどでもない。ただ、胸の片隅で引っかかり続ける小石のような感覚だけが残る。
ミーティングが終わり、会議室からみんながぞろぞろと出ていく。石田が最後にホワイトボードを消しながら、もう一度だけ声をかけてきた。
「さっきも言ったけど、よくやったぞ。次の案件も期待してるからな」
「はい。ありがとうございます」
その言葉を受け取って、翔希は部屋を出た。デスクに戻る途中で、腕時計の時刻を確認する。午後四時半。社内の空気は、昼の慌ただしさとは違う、夕方特有の少しゆるんだ感じを帯び始めている。
一度自席に資料を置いてから、翔希は立ち止まった。
このまま何事もなかったように仕事を続けることもできる。やるべきことはいくらでもあるし、メールもたまっている。
それでも、足は自然と別の方向を選んだ。
「ちょっと、行ってきます」
中村に一言だけ告げると、「トイレ?」と返ってきた。
「いや、ちょっとだけ」
曖昧な答えを残して、翔希は再び営業フロアを出た。
管理部のフロアに上がるエレベーターの中は、昼前とは違って少し静かだった。乗っているのは翔希ひとり。天井の蛍光灯の光が、ステンレスの壁に反射している。
二十二階の表示が光り、ドアが開く。昼前と同じように、整然としたデスクと静かなキーボード音が迎えてくれた。さっきより少しだけ空席が増えているのは、外回りか会議に出ている人がいるのだろう。
村上の席がどこかは、午前中に通ったときの記憶で何となく分かっている。だが、いきなりデスクに顔を出すのもどうかと思い、翔希はフロアの端にある自販機のほうへ向かった。
廊下の突き当たり、窓際の小さなスペースに、自販機と丸いテーブル、それから観葉植物が一つ置かれている。外からの光が少し差し込んでいて、営業フロアの喧騒とは別世界のような、静かな空間だった。
小銭を入れ、缶コーヒーのボタンを押す。金属の落ちる軽い音と一緒に、黒い缶が取り出し口に転がってきた。その缶を手に取ったところで、背後から足音が近づいてくる。
「高橋くん」
穏やかな声が、名前を呼んだ。
振り返ると、そこに村上がいた。午前中と同じ濃紺のスーツ。ネクタイは緩められていないが、袖が少しだけまくり上げられていて、手首の細さが覗いている。
「さっき、石田さんからチャットで聞きました。A社、良い感じだったみたいですね」
村上は、手に持っていた紙コップを軽く揺らしながら言った。自販機の横のウォーターサーバーから汲んだばかりなのか、表面にわずかに水滴がついている。
「あ…はい。一応、前向きに進めたいって言ってもらえました」
翔希は、缶コーヒーを持ち直しながら頷いた。
「おかげさまで、なんとか…」
言いながら、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。さっき営業部のミーティングで浴びた評価の言葉よりも、この一対一の空間のほうがよほど緊張するのは、なぜだろう。
「おめでとうございます」
村上は、ふわりと笑った。口元が柔らかく持ち上がり、目尻に小さな皺が寄る。その変化を、翔希は正面から受け止めることになった。
明るくはない蛍光灯の光が、彼の横顔の輪郭をなぞる。頬のライン、顎の角度、形の良い唇。そのすべてが、さっき会議室で見た誰よりも、なぜか印象に残る。
「村上さんがいなかったら、とっくに詰んでました」
口が勝手に動いていた。
「え?」
少し驚いたように瞬きをしてから、村上は小さく笑い直した。
「そんな大げさな。僕は数字と手順を確認しただけですよ。実際に説明して、先方を納得させたのは高橋くんでしょ」
「いや、でも…」
否定しようとして、言葉がうまくまとまらない。感謝の気持ちをどう表現したらいいのか、営業トークのような言葉では足りない気がして、口が空回りする。
自販機のモーター音が、低くうなっている。窓の外では、夕方の光がビルの壁を照らし、ガラスに反射している。その光が、村上の髪の一部をわずかに透かしていた。
「午前中、すごく焦ってて…どこから手をつけていいか分かんなくなってたんです。でも、村上さんに相談して、状況整理してもらって…それで、ちゃんとやるべきことが分かって」
自分でも驚くくらい、言葉がぽつぽつと漏れていく。
「だから、その…本当に、助かりました。ありがとうございます」
頭を下げると、缶コーヒーの中身がわずかに揺れて、中から小さく音がした。
村上は、しばらく黙って翔希を見ていた。責めるでもなく、持ち上げるでもない、まっすぐな目。
やがて、ほんの少しだけ肩を竦めるようにして言った。
「こちらこそ」
「え?」
顔を上げると、彼は紙コップを持った手を軽く揺らした。
「A社みたいな大きな案件、営業がちゃんと持ってきてくれないと、僕らも仕事にならないので。お互い様ですよ」
午前中にも聞いたような言葉。けれど、昼間の打ち合わせスペースで聞いたそれよりも、今は少し違う温度を帯びているように感じる。
お互い様。
その言葉が、胸の奥の「俺一人の力じゃない」と「でも評価されているのは自分」という矛盾した感覚の隙間に、すっと入り込む。
「…村上さんみたいになりたいんです」
気づいたときには、もう言ってしまっていた。
言葉が空中に出て、戻せない形になる。その重さに、自分で驚く。軽口のつもりでもなければ、営業トークでもない。本気でそう思っているからこそ出てきた言葉だと、自分が一番分かっていた。
村上の目が、わずかに見開かれる。
一瞬の沈黙。自販機のモーター音と、遠くのフロアから聞こえる電話の音だけが、その間を埋める。
「…僕みたいに?」
ようやく出てきた声は、少しだけ戸惑いを含んでいた。
「はい」
翔希は缶コーヒーを握りしめたまま、続ける。
「状況をちゃんと見て、何が必要か整理して、具体的に動ける人って、正直あんまりいないと思うんです。自分も、そうなりたいなって」
言いながら、自分の言葉が少し青臭いことは自覚している。それでも、恥ずかしさよりも、「伝えたい」という思いのほうが勝っていた。
村上は、視線を少しだけ横に逸らした。窓の外の夕焼けを一瞬だけ見てから、また翔希のほうを見る。
その目の中に、驚きと、少しの困惑と…それから、ほんのわずかな照れのようなものが混ざっているのが見えた。
「…困るなあ」
小さく笑いながら、村上は言った。
「僕みたいになりたいって言われても、実際大したもんじゃないですよ。たまたま、ここに長くいるだけで」
「長くいるだけで、あそこまでできるようにはならないと思いますけど」
「どうでしょうね」
曖昧に笑いながらも、その声色は完全には否定していない。自分の価値を過小評価しようとしながらも、本当にゼロだとは思っていないような、その微妙なニュアンスが、言葉の端々ににじんでいた。
「でも、ありがとう。そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいです」
今度の笑顔は、さっきよりもほんの少しだけ長く続いた。口元が柔らかく緩み、目尻の皺がはっきりと浮かぶ。その表情に、胸の奥がきゅっと鳴る。
綺麗だな、と思った。
数字や資料やフローのことを考えている頭とは別の場所で、そんな単語が浮かぶ。誰かの顔を見て「綺麗」と思ったのなんて、いつ以来だろう。しかも、それが男に対して向けられた感想だと気づいた瞬間、心臓が一拍、余分に跳ねた気がした。
「じゃあ、高橋くん。今日はもう一山越えたし、ちゃんと休みながらやってくださいね。まだ業務時間だけど」
「はい。村上さんも」
言葉を返しながら、缶コーヒーをひと口飲む。炭酸ではないのに、喉を通る液体がいつもよりざらついて感じられた。
村上は紙コップを軽く傾け、残りを飲み干すと、カップを近くのゴミ箱に入れた。
「何かあったら、またいつでも声かけてください。チャットでも、直接でも」
「…はい。また頼らせてもらいます」
自然と出た言葉に、自分でも少し笑ってしまう。その笑いに、村上もつられるように口元を緩めた。
彼が管理部のフロアに戻って行く背中を、翔希はしばらく見送った。
背筋の伸びた細いシルエット。丁寧なのに固くない歩き方。周囲の整然としたデスクの間をすり抜けていく姿が、このフロアの空気に溶け込んでいるのに、不思議と際立って見える。
「…村上さんみたいになりたい、か」
自分でさっきの言葉を思い返し、缶コーヒーの残りをもうひと口飲む。口の中に広がる苦味と、胸の中に広がる感情のざわめきが、同じ色合いをしているような気がした。
尊敬と、感謝と、そのどれにもまだ名前のついていない何か。
それが静かに胸の底に沈んでいく感覚を抱えたまま、翔希は営業フロアへのエレベーターに乗った。
ガラス張りの箱の中で、自分の顔がぼんやりと映る。ほんの少しだけ、さっきよりも表情が柔らかくなっていることに気づいたが、その理由を、今は深く考えないことにした。
新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん
ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。
翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ
約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。
平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。
最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。







