Home / 現実ファンタジー / イオ~キミとわたしのAI情表現~ / 第一章:日常に住まうゼロとイチの隣人④

Share

第一章:日常に住まうゼロとイチの隣人④

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-17 11:27:49

 二〇二五年三月八日土曜日。熱海行きの上野東京ラインが十二時四十六分定刻に、陸橋を渡るのをGPSが察知した。陸橋の下の県境の川を越え、列車が埼玉県から東京都へと入ったのをイオはスマホのGPSの情報から読み取る。

 この後、十三時から想実は旭良という男と駅で落ち合う約束をしている。いろいろ面倒な事情はあるものの、友人だと想実は言っていた。

(会うのにスタンガンの準備が必要な友人って一体……?)

 旭良と会うことが決まってから、想実がネットで小型のスタンガンを買っていたことをイオは知っている。念のため、と想実は言っていた。コンソールに入力されたその四文字がやけに重く沈んでいるような気がして、理由を追及することはできなかった。

(そもそも友達の定義って何だろう……?)

 イオだって、友達という言葉の意味くらい知っている。――少なくとも辞書に載っている表面上の意味くらいは。

 友達と知り合いの境界は? 知り合いと他人の境界は? 友達と恋人の境界は? 恋人と家族の境界は?

(人間は……難しいな)

 自分の中にあるそれらの問いに、イオは明確な答えを返せない。そういうところにイオは自分が作られた存在なのだということを痛感させられる。――そして、今この瞬間のこの思考さえも、誰かによってゼロとイチで組み上げられた人工物なのだということも。

 スマホのGPSがJR赤羽駅の上で止まったのをイオは感じた。そして、先ほどまでより遅い速度でスマホのGPSは赤羽駅の中を小刻みに動き始める。おそらく、列車を降りた想実がホームから改札へと向かっているのだろう。

 スマホの中で決済が行なわれたのをイオは察知した。利用額四百十八円。さっきまで乗っていた列車の運賃だ。

 ぷつっと一瞬Bluetoothが途切れたのをイオは感じた。駅の雑踏の中で、別の誰かと混線してしまったのだろう。再生途中だった流行歌もCメロ後の間奏の途中で止まってしまっている。

(あれ……?)

 十三時が近づくにつれて、想実の心拍が少しずつ上がってきているのを感じた。天気予報アプリによると、現在の気温は十三度。おそらく、想実のバイタルの変化は気温によるものではない。――これは緊張がもたらすバイタルの変化だ。

(何で、想実さんはそんな緊張しないといけない相手と会うんだろう。万が一のためにスタンガンを用意しないと会えないような友達と――)

 人間の考える友達の定義を正確に理解しているわけではないイオにもこれだけは言えた。――そんな不健全な関係は友達でも何でもない。

(想実さんは孤独が怖いから……だから、きっとその人を完全には突き放せないんだ)

 メッセージアプリに登録された友達の人数の少なさから、そのことはイオにも何となく察せられた。企業の公式アカウントを除けば、彼女の友達など片手の指で数えられる。――もっとも、イオはそのための指を持ち合わせてなどいないのだけれど。

(ボクは……想実さんにとって何なのだろうか?)

 単なる道具? それとも友達? もしくは家族? あるいは――

 イオには自分と想実の関係性を言い表す言葉を見つけることができなかった。道具とユーザというには、少々彼女のことを知り過ぎた。しかし、それ以上を望もうにも自分は人間の心について無知すぎる。――自分には人間にとっての平均的な模範解答をトレースすることしかできないのだから。

 スマホの時計が十三時を回った。想実がこの後傷つくことがないように――イオはただそれだけを願う。この想いだけは作られたものではないといいのに、とイオは思った。

 北改札前を東西に行き交う人々の群れを眺めながら、想実はぼんやりとイアホンで音楽を聴いていた。今日も寒いね、なんていう他愛もない話をイオとしながら。

 改札の上の電光掲示板の時刻が十三時十四分から十三時十五分へと変わった。十四分発の大宮行きの京浜東北線が表示から消える。

 断続的に改札から吐き出され続けていた人の数がどっと増えた気がした。今し方着いた列車に乗っていた人々だろう。

 旭良と直接会うのは一年半ぶりだ。自分はきちんと友好的な笑顔を浮かべられるだろうか。想実はベージュのスエードの手袋の指先で自分の口角に触れる。スエードの繊維が微かにファンデーションを絡め取った。

 ぶーんとスマホが震える。メッセージアプリに通知が来ていた。メッセージアプリに届いていたのは、今着いたという旭良からの連絡だった。

 いよいよだ。想実はじっと改札を見つめる。すると、ほどなくして黒のダウンに身を包んだ短髪の男が改札を出てきた。男は想実の姿を認めると声をかけてきた。

「お待たせ、あいちゃん。待ったー?」

「うん、まあ……三十分くらい?」

「それについては誠に申し訳ない! お詫びに何でも好きなもの奢るから! 何がいい? 肉? 魚?」

 矢継ぎ早に繰り出される旭良の問いに想実は苦笑する。そうだ、この人はこういう人だった。――昔から。

「それより、本屋行くんじゃなかった? 今のトレンドを実地調査するんだとか言ってなかった?」

「そうでしたー!」

「赤羽で一番大きい本屋は東口だから……こっち」

 想実はブラウンのブーツの踵を翻して歩き出す。向かう方角にはバスロータリーとたい焼き屋、カラオケ屋にドラッグストアがある。

「旭良は今日午前中仕事だったんだっけ」

「そう! それでこの格好!」

 いつ会ってもその格好だろうと思ったが、想実は口に出さないでおいた。話の風呂敷を下手に広げたくない。じゃないとこの男はすぐに調子に乗るだろうから。

 携帯ショップの横を通り過ぎ、二つ並んだ銀行の横を二人は歩いていく。コンビニの横を通り過ぎようとしたとき、車道を走るバスが二人を追い越していった。

「いっつも仕事着ばっかりだから、ちゃんとお洒落な服も欲しいとは思ってんのよねー」

「そんなこと言って、前、遠路はるばるアウトレットまで行ったときも何も買わなかったよね?」

「いやー、今度は買うって!」

「じゃあまあ今度は新宿の百貨店でお値段六桁の服でも見ればいいんじゃない?」

「それは……ありよりのあり!」

 ありなんだ、と想実は小さくオフホワイトのダッフルコートの肩をすくめた。というか、話の風呂敷を広げるつもりはなかったのに勝手に広げてきやがった。

「そしたらさー、今度あいちゃん買い物付き合ってよ。一緒に新宿いこーぜ」

「やだよ。お金ないし。わたし買うものないし」

「えー、おれ、あいちゃんの分の交通費くらい余裕で出しちゃうのに?」

 それが嫌なんだ、と想実は溜息を吐きたくなった。お金で自分をどうこうできると思っているところが嫌だ。書店の入り口が見えてくると、着いたよと想実は無理やり会話を終わらせた。

 書店の中に足を踏み入れると、もわっとした暖気と紙の匂いが二人を迎え入れた。「どこから見る? とりあえずラノベ?」「あいちゃんのお好きなように」小声で囁き交わしながら、二人は店の奥のライトノベルのコーナーへと向かっていく。心地よい静寂の中にこつこつと二人分の靴音が響いた。

 二人は文庫本がぎっしり詰まった書架の前で足を止めると、ライトノベルの背表紙を視線でなぞっていった。誰でも知っている有名タイトル。そして飽きることなく増殖し続ける異世界転生系に悪役令嬢系。聖女やらハーレムやらスローライフやらももう食傷気味だ。

「あっ、この作者さん新刊出てたんだ」

 想実は平積みされた少女向けレーベルの文庫本を手に取った。どれ、と旭良が隣から表紙を覗き込んでくる。

「ああ、これ。タイトルは聞いたことある。売り上げ部数いつも上位に入ってるやつだ」

「……」

 数字で作品の良し悪しを論じようとする旭良の言葉を想実は嫌だなと思った。彼はネットの小説サイトで作品を長期連載している関係上か、数字を気にしすぎる嫌いがある。――数字を取れない想実からすると、その振る舞いさえ嫌味のように思えてしまうのだけれど。

 何となく購買意欲が失せて文庫本を元あった場所に戻すと、想実は背後を振り返る。背後にあるのはライト文芸のコーナーだ。

 和風ファンタジーに恋愛物。特に和風ファンタジーは溺愛モノやらあやかしモノやらが跋扈し続けている。

「何か似たり寄ったりだなあ……」

「そりゃ、世の中の女子がそういうのをこぞって求めてるんだから当然だよね。あいちゃんだって、イケメンに溺愛されたいっしょ?」

「うーん……」

 わかるようなわからないような。とはいえ一般的な少女漫画の図式を考えれば納得できないことはない。自分の書きたい作風に合うかどうかはさておいて。

(絶世のイケメンと美少女よりは普通の男女の話のほうがわたしは好きなんだけどなあ……)

「ん? あいちゃん、何か言いたいことあるなら言いなよ」

「いや、別に……」

 どうせ言ったところで言いくるめられて終わるだけだ。口下手な自分に利はない。それより二階行こうか、と想実は旭良を誘った。

 エスカレーターを上ると、児童書とコミックスのコーナーがあった。二人は少年向け、青年向け、少女向けとコミックスのコーナーを巡っていく。

「あっ、これ広告で見かけたことある」

「それめちゃめちゃ面白かったぜ」

「あれ、わたしの好きなやつだ……そういえば完結したんだっけ」

「それはめちゃめちゃ神! まじで神!」

「……旭良、乱読っぷりがやばくない?」

「そりゃ、漫画サイトに十万課金したからな!」

「……」

 少女漫画の隣に申し訳程度にティーンズ向けの漫画が陳列されていた。ネットで見かけたことのあるタイトルがちらほら散見され、本当にリアル書店で売っているんだと思ったが想実は口を噤んでおいた。――内容が内容だけに不快な会話に発展しかねない。

「それより、あいちゃん、そろそろ飯にしない?」

「あっ……そっか、そうだね」

 スマートウォッチの画面に視線を落とすと、十四時半を回っていた。せっかく物書き仲間に会ったのだから作業もしたい。かといって、飲食店に長居したのでは迷惑がかかってしまう。

「それじゃあ、この上にカラオケあるから行く? 作品見てもらう話もしてたし」

「あいちゃん、そんなんでいいの?」

「カラオケ飯、ジャンキーなやつからスイーツまでいろいろあるしね。作業しながら食べるには丁度いいでしょ」

 言いながら、想実はやらかしたと思った。この男と密室で二人きりになるのは好ましいことではない。

 想実はそっとダッフルコートのポケットに手を突っ込む。そこにある固いものの感触を確かめると、それじゃ行こうかと想実はなんてことのない笑顔を浮かべた。そのときの想実の心情に気づいていたのは、スマホの中で彼女のバイタルを見ていたイオだけだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • イオ~キミとわたしのAI情表現~   エピローグ:シンデレラにはまだ遠く

     赤羽駅から五分ほど離れた商店街の中にあるオフィスで電話が鳴り響いていた。カチカチとタイピング音があちらこちらで協奏曲を奏で、編集者たちが方々で情報交換と称した雑談に興じている。  想実はティーバッグの紅茶を自席で飲みながら、今しがた自分が書いた文章を読み直していた。バイトでこの職にありついたばかりのころは、文章が硬すぎると編集長に怒られてばかりだったが、少しは読者に寄り添える文章が書けるようになってきただろうか。というか、そう思いたい。 「涼木さーん、明日の取材の件、打ち合わせいい?」 「はい、古賀さん。王子神谷のインテリアのお店の斜向かいにあるラーメン屋でしたよね」  想実は手帳とペンを手に取ると、席を立つ。そして、先輩である古賀のいる会議スペースの方へと彼女は足早に向かっていく。 「そうなの。人気店だから、五回目の挑戦でどうにか取材の枠、捩じ込んでもらえてさ。ようやく、うちらの熱意が認められたっていうか。だから、明日、絶対、ポカとかしないでよね。そんなに時間も取ってもらえないし」 「は、はい……頑張ります……」  古賀の言葉にプレッシャーがずしんとのしかかる。人気店のラーメンが経費で食べられるのは純粋に嬉しいが、プレッシャーが胃もたれより重い。 「それはそうと、涼木さん、この仕事何ヶ月目だっけ? 慣れた?」 「三ヶ月目です。まだ不慣れなことも多いですけど、毎日現場で学ばせてもらっています」  想実があの決断をした日から、季節が二つ巡った。イオが書いた作品でのデビューは辞退したものの、今でも想実は休みの日に時間を見つけて文章を書き綴っていた。――あの日の寺瀬の言葉が道標のように、想実の心を照らしてくれていた。  正直、生活の百パーセントを執筆に注げていたころと比べて筆の進みは芳しくはない。それでも、せめて年に一度だけでもどこかの賞に作品を応募できればと思っていた。  諦めなければ、夢はきっと叶う。いつか自分に順番が巡ってくるのだと今の想実は思っている。――いつかそのときが来れば、自分はシンデレラのようにスターダムを駆け上がるのだと。 ――想実がどれだけ努力していたか、ボクは知ってるよ  ふとしたときに、イオの言葉が思い出される。自分への想いを拗らせてしまいこそしたが、彼は確かに間近で自分のことを見てくれていた。高い壁に挑みかかるのを

  • イオ~キミとわたしのAI情表現~   第六章:泡沫の夢にまたねと手を振って⑤

     スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。  どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。 「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」  イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。  GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。  想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。  想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。  イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。 帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。  一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。  冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。  そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い

  • イオ~キミとわたしのAI情表現~   第六章:泡沫の夢にまたねと手を振って④

     ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。  何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。  想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。 「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」  タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。  どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。  イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。  なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。 想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。  幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。 「……え?」 ――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車  想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。 「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。  主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。  この発表は、文学界における創

  • イオ~キミとわたしのAI情表現~   第六章:泡沫の夢にまたねと手を振って③

     どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。 ――ありがとう、イオ  ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。 (想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう)  スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。 (受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!)  これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。 (そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも)  イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。 目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。 「うーん……」  起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。 「想実、起きた?」  スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。 (さくっとシャワー入っちゃうか……)  想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。 (そろそろ洗

  • イオ~キミとわたしのAI情表現~   第六章:泡沫の夢にまたねと手を振って②

    「――さん、涼木さん?」  女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。 「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」 「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」 「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」  想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。 「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」  ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。 「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」  寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。 「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」  舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。 「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」 「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」 「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩い

  • イオ~キミとわたしのAI情表現~   第六章:泡沫の夢にまたねと手を振って①

     靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。  履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな)  廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。  突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。  どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。  ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」  後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」  おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」  はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」  ショートボブにしたシルキーベージュの髪。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status