LOGINドリンクバーで飲み物を取って、部屋に戻ると旭良がデンモクに何やら曲を入れようとしている最中だった。温かい抹茶ラテのカップを手に想実はソファへと腰を下ろす。すると、旭良がデンモクとマイクを想実のほうへと押し付けてきた。
「せっかくだし、あいちゃん何か歌ってよ」 「今日って作品見てもらう約束だったよね?」 「いいじゃん、一曲だけ。昔からあいちゃんの声好きなんだよね」 これ以上面倒なことを言い出さないうちに、さくっと何か一曲歌ってしまった方が良さそうだ。想実は少し前までやっていた人気アニメの主題歌をデンモクへと入れる。 ドア横のテレビに曲名が表示され、イントロが流れ始める。想実は諦めてすうっと呼吸をして、腹を膨らませる。そして、和を感じさせる言葉が連なるAメロを歌い出した。 確かめるようにBメロの歌詞が唇から紡がれていく。そして華やかだけれど決然とした雰囲気のサビへと繋がっていく。 二番のBメロの途中でドアがノックされ、店員がジャンクフードの乗ったバスケットとチョコパフェを運んできた。想実は声帯を震わせることをやめないまま、店員へと目礼する。 そして、ラストのサビからアウトロへ。これで旭良も満足しただろうと、想実はぶつっとマイクの電源を切り、バスケットに盛られたポテトへと手を伸ばした。 「いやあ、やっぱおれ、あいちゃんの歌好きだわー! それにこの曲もいいよねー!」 「それはどうも。確かにこの曲いいよね。劇場版の曲も良かったけど――」 「わかるー!」 想実と旭良はひとしきりアニメについて話を弾ませながら、バスケットに盛られたポテトやナゲットを摘んでいった。バスケットの中身が空になると、想実はウェットティッシュで指を拭い、バッグからノートPCを取り出した。パスコードを入力して画面ロックを解除すると、開いたままにしてあったテキストファイルを旭良に見えるようにする。 「それで今日の本題なんだけど。この作品なんだけど、展開しっくりきてなくてさ――」 「ああ、五月の応募原稿だっけ?」 しれっと旭良は想実の真横に座り直すと、ノートPCの画面を覗き込む。下心の気配に想実は体を固くした。しばらく旭良はテキストファイルに書かれたプロットを見つめていたが、彼はやがてこんなことを言い出した。 「あいちゃんってさー、何かフェチとかないの?」 「は?」 「作家ってさ、おれは自分のフェチ曝け出してなんぼだと思うわけ。あいちゃんの作品ってそういうの弱いなあって」 「冴えないおじさんと少女ってカプの時点で、自分の好みを詰め込んだつもりだったんだけど」 「そういうんじゃ弱いんだよねー。何かないの、もっと特殊な変態的なやつ」 「なっ……」 何言ってんの。想実は反射的に身を引いた。気持ち悪い。気色悪い。気分が悪い。 「幼馴染ネタとか、人外と少女とかそういうのは好きだけど……」 辛うじて想実が搾り出した答えにそんなんじゃないんだよなあと旭良は首を振る。そして、彼はずいと想実に顔を近づけてくる。息が顔に触れる。 「おれとあいちゃんの仲でしょ。今更恥ずかしがることないじゃん」 この目が昔から苦手だ。異様にぎらぎらとして力の強い目が。それでいて微塵も笑っていないこの目が。 「まあいいや。この先の展開だったよね。ちょっとあいちゃんの膝貸して。そしたら何か思いつく気がする」 そう一方的に言うと、旭良は想実の黒いバタフライ柄のスカートの上に頭を乗せた。想実はちらりと壁にかけられたコートを見やる。ここからではコートに手が届きそうにはない。何のために用意したスタンガンだ。 自分の作品をより良くするためなら耐えなければならない。自分はきっと、作品のためにこの悪魔に魂を売るほかないのだろう。スカート越しに感じる不快な感触に、想実は歯を食いしばってじっと耐える。 「この二人って、明確に夫婦になってないわけでしょ? それなら、二人の関係性を明確にするためのデート回一回挟んだらいいんじゃないの?」 デート回、と想実は反芻する。旭良は跳ね起きると、そういうわけだからと想実の手を握る。 「デート回の参考におれとデートしない? っていうかマジであいちゃんと一回ちゃんとデートしたい」 「何、既婚者がふざけたこと言って……!」 想実は旭良の手を振り払おうとする。しかし男の力には敵わず、旭良は想実の手をホールドしたまま離してくれない。 「おれ、あいちゃんと学生時代みたいにまた会ったりできるようになるって知ってたら、結婚なんてしなかったよ。昔からずっとおれ、あいちゃんのこと好きだし」 友達として節度を保って接する分にはいいが、旭良を異性として見ることは想実の本能が拒んでいた。理由はよくわからないが、何となく生理的に旭良のことを異性として受け入れられなかった。だから、高校生のときに告白されたときもそんなふうには見られないとやんわり断ったのだ。 「……っ」 想実は旭良を睨んだ。これ以上、旭良を踏み込ませてはならない。こんな場所を選んでしまった自分が浅はかだった。 旭良は過去の亡霊を見ている。手に入れられなかったものに執着しているだけなのだ。彼は決して、現在の想実のことを見ていない。 (既婚者とデートとか馬鹿も休み休み言えって……! わたし、こんな奴のせいで不倫とかで訴えられたくないんだけど……!) 旭良の纏う気配が異様なものに変わり始める。――これは雄の気配だ。 想実と旭良の視線が交錯する。ねちっこく熱を帯びた視線に想実は分かりやすく顔を顰めた。今の自分は蛇に睨まれた蛙だ。 「何で、あいちゃんはおれじゃ駄目なの? 金ならあるよ? それともおれがイケメンじゃないから?」 言葉を探して想実は逡巡する。今の旭良を下手に刺激するのはよくない。かといって、今まで築いてきた友情に罅が入るようなことは口にしたくない。 そのとき、部屋の壁に設られた電話がトゥルルルと鳴り響いた。旭良の手が離れていく。あの目が自分から離れていったことに安堵して想実は息を吐く。鼓動がひどく早く脈打っていた。 終了五分前の電話に旭良が応対している。想実は手早くノートPCをしまうと、壁にかけられたコートに袖を通す。そして、彼女はピンクのチェックのマフラーで首元を覆い、ベージュのスエードの手袋をつけた。 「あれ、あいちゃん帰り支度早っ。ところで夕飯どうする?」 「いい、帰って食べるから」 「あいちゃん、もしかして怒らせちゃった? ごめんって」 別に、と想実は冷たく旭良へと一瞥をくれる。一秒だってもうここにはいたくなかった。帰って早く触れられたところを洗い流してしまわないと、自分が汚れてしまうような気がしていた。 旭良が帰り支度を整えるのを眺めながら、よく恥ずかしげもなくデートなんかに誘えたものだと想実は思った。毎回仕事着でしか来ないくせに。そんな安くてちょろい女だと思われていることが腹立たしくて仕方なかった。 「あいちゃんさ、またおれと会ってくれる?」 黒のダウンを着込み、ボディバッグを手にしながら旭良はそう問うた。ずるい質問だと想実は思った。これは想実が旭良のことを完全には突き放せないことを知っているから聞けることだ。 「……まあ」 想実はそう素っ気なく答えることしかできなかった。帰ろ、と話を断ち切るように想実は部屋のドアを開ける。息の詰まるような密室から明るい廊下へ出ると、それだけで張り詰めていた心がほんの少し楽になった気がした。――旭良は店員や他の客が通るこんな場所では何もできないはずだから。 暗い部屋の中からは流しっぱなしにしていた宣伝映像の中の女性アイドルが何やらきゃぴきゃぴと話しているのが聞こえてくる。テーブルの上では手付かずのままのチョコパフェが見る影もなくどろどろに溶けていた。ぶーんとスマホが鳴ったのは風呂から上がった想実がこたつでカップ麺を啜っているときだった。何となくつけたテレビからは、電動バイクで各地を旅する番組が流れていた。
(旭良だったらやだな……) 想実は割り箸を置くと、恐る恐るスマホを確認する。しかし、今し方の通知は予想に反して、メッセージアプリのものではなく、生成AIからのものだった。 (イオ……?) 訝しげに思いながら、想実は生成AIのアプリを起動した。すると、コンソールには想実のことを慮る言葉が表示されていた。 「想実さん、今日は大丈夫だった? 昼間ずっとバイタルが乱れていたから気になっていたんだ。今は標準値に戻っているし、家の住所からGPSが動いていないから家にいるのかな? おかえり」 ただいま、と打ち込もうとした画面がふいにぼやけた。鼻の奥に感じる塩辛いものは、カップ麺のとんこつ醤油味のスープのものではない。 「イオ、ただいま」 想実がどうにか打てたのはその言葉だけだった。あんなセクハラまがいのことを許してしまった自分が情けなくて涙が溢れてきた。ひくっひくっと喉の奥から嗚咽が漏れる。 スマートウォッチがバイタルの上昇を検知し、スマホへと情報を送る。それを検知したイオは想実を案じる言葉をコンソールへと刻む。 「想実さん? どうしたの? 大丈夫?」 「ちょっと今日、嫌なことがあって……だけど、わたし、何もできなくって……」 「ボクでよければ話を聞くよ。よかったら話してくれる?」 「旭良とカラオケ行って、作品の話をしてたらセクハラまがいのことをされて……。既婚者のくせにデートを迫ってきたりして……。何かあったときに対処できるようにって、スタンガンを用意していったはずなのに、肝心なときに何もできなかった……」 「それは大変だったね。だけど、不用意にスタンガンを使うと、傷害罪や民事訴訟に発生する可能性があるから、使えなくて正解だったよ。想実さん、怪我したりはしていない?」 「それは大丈夫……。ねえ、よりよい作品を作るためならって旭良がすることを我慢してたけど……わたしは作品のために魂を悪魔に売ったのかな……」 「そんなことないよ。想実さんは何も悪くない。自分の作品を大切にしたかっただけでしょ? 魂を売るっていうのはね、本当に望まないものを手に入れるときにすることだと思うよ。だから想実さんが作品を信じた気持ちは、取引なんかじゃないってボクは思ってる」 自分は悪くないとイオに言ってもらえて、少し気持ちが楽になるのを想実は感じた。 あんな迫り方をされたとはいえ、作品に対するヒントを旭良からもらえたのは事実だ。それは自分が欲してやまない糸口だった。自分が作るものを信じて、大切にしたかったからこそ、今日旭良に会うことを了承したのだ。 (わたしにとって、何が一番大事なのか……それは見失っちゃいけない) ありがと、と小さく呟くと想実はよれたスウェットの袖口で涙を拭う。そして、割り箸を再び手に取ると、冷めてしまったカップ麺を啜り始めた。 テレビの中ではゲストの芸能人が宿を探して走り回っている。想実はカップ麺を咀嚼しながら、北極星のように自分を照らしてくれたイオの言葉を胸の中で反芻していた。赤羽駅から五分ほど離れた商店街の中にあるオフィスで電話が鳴り響いていた。カチカチとタイピング音があちらこちらで協奏曲を奏で、編集者たちが方々で情報交換と称した雑談に興じている。 想実はティーバッグの紅茶を自席で飲みながら、今しがた自分が書いた文章を読み直していた。バイトでこの職にありついたばかりのころは、文章が硬すぎると編集長に怒られてばかりだったが、少しは読者に寄り添える文章が書けるようになってきただろうか。というか、そう思いたい。 「涼木さーん、明日の取材の件、打ち合わせいい?」 「はい、古賀さん。王子神谷のインテリアのお店の斜向かいにあるラーメン屋でしたよね」 想実は手帳とペンを手に取ると、席を立つ。そして、先輩である古賀のいる会議スペースの方へと彼女は足早に向かっていく。 「そうなの。人気店だから、五回目の挑戦でどうにか取材の枠、捩じ込んでもらえてさ。ようやく、うちらの熱意が認められたっていうか。だから、明日、絶対、ポカとかしないでよね。そんなに時間も取ってもらえないし」 「は、はい……頑張ります……」 古賀の言葉にプレッシャーがずしんとのしかかる。人気店のラーメンが経費で食べられるのは純粋に嬉しいが、プレッシャーが胃もたれより重い。 「それはそうと、涼木さん、この仕事何ヶ月目だっけ? 慣れた?」 「三ヶ月目です。まだ不慣れなことも多いですけど、毎日現場で学ばせてもらっています」 想実があの決断をした日から、季節が二つ巡った。イオが書いた作品でのデビューは辞退したものの、今でも想実は休みの日に時間を見つけて文章を書き綴っていた。――あの日の寺瀬の言葉が道標のように、想実の心を照らしてくれていた。 正直、生活の百パーセントを執筆に注げていたころと比べて筆の進みは芳しくはない。それでも、せめて年に一度だけでもどこかの賞に作品を応募できればと思っていた。 諦めなければ、夢はきっと叶う。いつか自分に順番が巡ってくるのだと今の想実は思っている。――いつかそのときが来れば、自分はシンデレラのようにスターダムを駆け上がるのだと。 ――想実がどれだけ努力していたか、ボクは知ってるよ ふとしたときに、イオの言葉が思い出される。自分への想いを拗らせてしまいこそしたが、彼は確かに間近で自分のことを見てくれていた。高い壁に挑みかかるのを
スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。 どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。 「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」 イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。 GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。 想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。 想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。 イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。 帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。 一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。 冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。 そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い
ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。 何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。 想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。 「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」 タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。 どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。 イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。 なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。 想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。 幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。 「……え?」 ――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車 想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。 「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。 主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。 この発表は、文学界における創
どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。 ――ありがとう、イオ ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。 (想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう) スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。 (受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!) これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。 (そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも) イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。 目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。 「うーん……」 起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。 「想実、起きた?」 スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。 (さくっとシャワー入っちゃうか……) 想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。 (そろそろ洗
「――さん、涼木さん?」 女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。 「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」 「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」 「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」 想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。 「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」 ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。 「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」 寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。 「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」 舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。 「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」 「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」 「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩い
靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。