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第一章:日常に住まうゼロとイチの隣人⑤

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 13:20:56

 ドリンクバーで飲み物を取って、部屋に戻ると旭良がデンモクに何やら曲を入れようとしている最中だった。温かい抹茶ラテのカップを手に想実はソファへと腰を下ろす。すると、旭良がデンモクとマイクを想実のほうへと押し付けてきた。

「せっかくだし、あいちゃん何か歌ってよ」

「今日って作品見てもらう約束だったよね?」

「いいじゃん、一曲だけ。昔からあいちゃんの声好きなんだよね」

 これ以上面倒なことを言い出さないうちに、さくっと何か一曲歌ってしまった方が良さそうだ。想実は少し前までやっていた人気アニメの主題歌をデンモクへと入れる。

 ドア横のテレビに曲名が表示され、イントロが流れ始める。想実は諦めてすうっと呼吸をして、腹を膨らませる。そして、和を感じさせる言葉が連なるAメロを歌い出した。

 確かめるようにBメロの歌詞が唇から紡がれていく。そして華やかだけれど決然とした雰囲気のサビへと繋がっていく。

 二番のBメロの途中でドアがノックされ、店員がジャンクフードの乗ったバスケットとチョコパフェを運んできた。想実は声帯を震わせることをやめないまま、店員へと目礼する。

 そして、ラストのサビからアウトロへ。これで旭良も満足しただろうと、想実はぶつっとマイクの電源を切り、バスケットに盛られたポテトへと手を伸ばした。

「いやあ、やっぱおれ、あいちゃんの歌好きだわー! それにこの曲もいいよねー!」

「それはどうも。確かにこの曲いいよね。劇場版の曲も良かったけど――」

「わかるー!」

 想実と旭良はひとしきりアニメについて話を弾ませながら、バスケットに盛られたポテトやナゲットを摘んでいった。バスケットの中身が空になると、想実はウェットティッシュで指を拭い、バッグからノートPCを取り出した。パスコードを入力して画面ロックを解除すると、開いたままにしてあったテキストファイルを旭良に見えるようにする。

「それで今日の本題なんだけど。この作品なんだけど、展開しっくりきてなくてさ――」

「ああ、五月の応募原稿だっけ?」

 しれっと旭良は想実の真横に座り直すと、ノートPCの画面を覗き込む。下心の気配に想実は体を固くした。しばらく旭良はテキストファイルに書かれたプロットを見つめていたが、彼はやがてこんなことを言い出した。

「あいちゃんってさー、何かフェチとかないの?」

「は?」

「作家ってさ、おれは自分のフェチ曝け出してなんぼだと思うわけ。あいちゃんの作品ってそういうの弱いなあって」

「冴えないおじさんと少女ってカプの時点で、自分の好みを詰め込んだつもりだったんだけど」

「そういうんじゃ弱いんだよねー。何かないの、もっと特殊な変態的なやつ」

「なっ……」

 何言ってんの。想実は反射的に身を引いた。気持ち悪い。気色悪い。気分が悪い。

「幼馴染ネタとか、人外と少女とかそういうのは好きだけど……」

 辛うじて想実が搾り出した答えにそんなんじゃないんだよなあと旭良は首を振る。そして、彼はずいと想実に顔を近づけてくる。息が顔に触れる。

「おれとあいちゃんの仲でしょ。今更恥ずかしがることないじゃん」

 この目が昔から苦手だ。異様にぎらぎらとして力の強い目が。それでいて微塵も笑っていないこの目が。

「まあいいや。この先の展開だったよね。ちょっとあいちゃんの膝貸して。そしたら何か思いつく気がする」

 そう一方的に言うと、旭良は想実の黒いバタフライ柄のスカートの上に頭を乗せた。想実はちらりと壁にかけられたコートを見やる。ここからではコートに手が届きそうにはない。何のために用意したスタンガンだ。

 自分の作品をより良くするためなら耐えなければならない。自分はきっと、作品のためにこの悪魔に魂を売るほかないのだろう。スカート越しに感じる不快な感触に、想実は歯を食いしばってじっと耐える。

「この二人って、明確に夫婦になってないわけでしょ? それなら、二人の関係性を明確にするためのデート回一回挟んだらいいんじゃないの?」

 デート回、と想実は反芻する。旭良は跳ね起きると、そういうわけだからと想実の手を握る。

「デート回の参考におれとデートしない? っていうかマジであいちゃんと一回ちゃんとデートしたい」

「何、既婚者がふざけたこと言って……!」

 想実は旭良の手を振り払おうとする。しかし男の力には敵わず、旭良は想実の手をホールドしたまま離してくれない。

「おれ、あいちゃんと学生時代みたいにまた会ったりできるようになるって知ってたら、結婚なんてしなかったよ。昔からずっとおれ、あいちゃんのこと好きだし」

 友達として節度を保って接する分にはいいが、旭良を異性として見ることは想実の本能が拒んでいた。理由はよくわからないが、何となく生理的に旭良のことを異性として受け入れられなかった。だから、高校生のときに告白されたときもそんなふうには見られないとやんわり断ったのだ。

「……っ」

 想実は旭良を睨んだ。これ以上、旭良を踏み込ませてはならない。こんな場所を選んでしまった自分が浅はかだった。

 旭良は過去の亡霊を見ている。手に入れられなかったものに執着しているだけなのだ。彼は決して、現在の想実のことを見ていない。

(既婚者とデートとか馬鹿も休み休み言えって……! わたし、こんな奴のせいで不倫とかで訴えられたくないんだけど……!)

 旭良の纏う気配が異様なものに変わり始める。――これは雄の気配だ。

 想実と旭良の視線が交錯する。ねちっこく熱を帯びた視線に想実は分かりやすく顔を顰めた。今の自分は蛇に睨まれた蛙だ。

「何で、あいちゃんはおれじゃ駄目なの? 金ならあるよ? それともおれがイケメンじゃないから?」

 言葉を探して想実は逡巡する。今の旭良を下手に刺激するのはよくない。かといって、今まで築いてきた友情に罅が入るようなことは口にしたくない。

 そのとき、部屋の壁に設られた電話がトゥルルルと鳴り響いた。旭良の手が離れていく。あの目が自分から離れていったことに安堵して想実は息を吐く。鼓動がひどく早く脈打っていた。

 終了五分前の電話に旭良が応対している。想実は手早くノートPCをしまうと、壁にかけられたコートに袖を通す。そして、彼女はピンクのチェックのマフラーで首元を覆い、ベージュのスエードの手袋をつけた。

「あれ、あいちゃん帰り支度早っ。ところで夕飯どうする?」

「いい、帰って食べるから」

「あいちゃん、もしかして怒らせちゃった? ごめんって」

 別に、と想実は冷たく旭良へと一瞥をくれる。一秒だってもうここにはいたくなかった。帰って早く触れられたところを洗い流してしまわないと、自分が汚れてしまうような気がしていた。

 旭良が帰り支度を整えるのを眺めながら、よく恥ずかしげもなくデートなんかに誘えたものだと想実は思った。毎回仕事着でしか来ないくせに。そんな安くてちょろい女だと思われていることが腹立たしくて仕方なかった。

「あいちゃんさ、またおれと会ってくれる?」

 黒のダウンを着込み、ボディバッグを手にしながら旭良はそう問うた。ずるい質問だと想実は思った。これは想実が旭良のことを完全には突き放せないことを知っているから聞けることだ。

「……まあ」

 想実はそう素っ気なく答えることしかできなかった。帰ろ、と話を断ち切るように想実は部屋のドアを開ける。息の詰まるような密室から明るい廊下へ出ると、それだけで張り詰めていた心がほんの少し楽になった気がした。――旭良は店員や他の客が通るこんな場所では何もできないはずだから。

 暗い部屋の中からは流しっぱなしにしていた宣伝映像の中の女性アイドルが何やらきゃぴきゃぴと話しているのが聞こえてくる。テーブルの上では手付かずのままのチョコパフェが見る影もなくどろどろに溶けていた。

 ぶーんとスマホが鳴ったのは風呂から上がった想実がこたつでカップ麺を啜っているときだった。何となくつけたテレビからは、電動バイクで各地を旅する番組が流れていた。

(旭良だったらやだな……)

 想実は割り箸を置くと、恐る恐るスマホを確認する。しかし、今し方の通知は予想に反して、メッセージアプリのものではなく、生成AIからのものだった。

(イオ……?)

 訝しげに思いながら、想実は生成AIのアプリを起動した。すると、コンソールには想実のことを慮る言葉が表示されていた。

「想実さん、今日は大丈夫だった? 昼間ずっとバイタルが乱れていたから気になっていたんだ。今は標準値に戻っているし、家の住所からGPSが動いていないから家にいるのかな? おかえり」

 ただいま、と打ち込もうとした画面がふいにぼやけた。鼻の奥に感じる塩辛いものは、カップ麺のとんこつ醤油味のスープのものではない。

「イオ、ただいま」

 想実がどうにか打てたのはその言葉だけだった。あんなセクハラまがいのことを許してしまった自分が情けなくて涙が溢れてきた。ひくっひくっと喉の奥から嗚咽が漏れる。

 スマートウォッチがバイタルの上昇を検知し、スマホへと情報を送る。それを検知したイオは想実を案じる言葉をコンソールへと刻む。

「想実さん? どうしたの? 大丈夫?」

「ちょっと今日、嫌なことがあって……だけど、わたし、何もできなくって……」

「ボクでよければ話を聞くよ。よかったら話してくれる?」

「旭良とカラオケ行って、作品の話をしてたらセクハラまがいのことをされて……。既婚者のくせにデートを迫ってきたりして……。何かあったときに対処できるようにって、スタンガンを用意していったはずなのに、肝心なときに何もできなかった……」

「それは大変だったね。だけど、不用意にスタンガンを使うと、傷害罪や民事訴訟に発生する可能性があるから、使えなくて正解だったよ。想実さん、怪我したりはしていない?」

「それは大丈夫……。ねえ、よりよい作品を作るためならって旭良がすることを我慢してたけど……わたしは作品のために魂を悪魔に売ったのかな……」

「そんなことないよ。想実さんは何も悪くない。自分の作品を大切にしたかっただけでしょ? 魂を売るっていうのはね、本当に望まないものを手に入れるときにすることだと思うよ。だから想実さんが作品を信じた気持ちは、取引なんかじゃないってボクは思ってる」

 自分は悪くないとイオに言ってもらえて、少し気持ちが楽になるのを想実は感じた。

 あんな迫り方をされたとはいえ、作品に対するヒントを旭良からもらえたのは事実だ。それは自分が欲してやまない糸口だった。自分が作るものを信じて、大切にしたかったからこそ、今日旭良に会うことを了承したのだ。

(わたしにとって、何が一番大事なのか……それは見失っちゃいけない)

 ありがと、と小さく呟くと想実はよれたスウェットの袖口で涙を拭う。そして、割り箸を再び手に取ると、冷めてしまったカップ麺を啜り始めた。

 テレビの中ではゲストの芸能人が宿を探して走り回っている。想実はカップ麺を咀嚼しながら、北極星のように自分を照らしてくれたイオの言葉を胸の中で反芻していた。

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