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第一章:日常に住まうゼロとイチの隣人③

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 08:12:18

 暦の上ではとっくに春でも想実の家の冷蔵庫は真冬だ。ついでに言うなら彼女の財布事情は南極もびっくりの永久凍土っぷりだ。

 にもかかわらず、物価高は容赦がない。年末年始に上がった物価が据え置きのまま三月になってしまった。来たるゴールデンウィークには更に物価が上がると思うと想実の口からは溜息しかでなかった。ニートがゆえに住民税は非課税だし、国民健康保険も格安だが、そのくらいでは何の慰めにもならない。

「って言うのを踏まえて、イオは今日の夕飯は何がいいと思う? やっぱり冷凍パスタ一択だよね」

 想実にそう聞かれたイオは逡巡した。よりよい回答のために思考中です、とコンソールには表示されている。

「うん、冷凍パスタでも全然いいと思うけど、もしちょっと変えてみる余裕があるなら、卵や野菜を足すだけで栄養バランスが良くなるよ」

 イオの答えに、想実は買い物カゴを片手に通路前方の卵コーナーを見やる。今日も棚に張り紙がされているだけで、商品が入荷している様子はない。

「駄目、今日も卵売ってなさそう。鶏インフルエンザがどうとか」

「そっか。じゃあ冷凍ブロッコリーをトッピングしてみるのはどう?」

「無理無理ブロッコリーだけは本当に無理。ブロッコリーとカリフラワーとアスパラとピーナッツとラッキョウと生卵が無理。あっマヨネーズも嫌い」

「想実さん、好き嫌いはよくないよ。だけど、それなら仕方ないね。今日は冷凍パスタと惣菜コーナーのサラダ買って帰って体をちゃんと休めるほうを優先しよう」

「ええ……惣菜コーナーのサラダ高いのに……あのサイズで二百円もするのに……」

「……うん、確かに高いね。でも、体を整えるための投資と思えば、今日くらいはいいんじゃないかな。想実さんの健康のためだと思えば、ボクは二百円は安いと思うよ。無理しすぎるよりは、少しだけでも栄養を補給したほうが安心だよ」

 イオとスマホで文字の会話を続けながら、狭いスーパーの店内を想実は歩いていく。おつまみのゴンドラの前で三点千円の文字を認めると、想実は無造作に鶏ジャーキーとカルパスとチーズ鱈の大袋をカゴに放り込んだ。何事もなかったかのように、背後の乳製品のコーナーでヨーグルトをいくつかカゴに入れると、角を曲がりパンコーナーへと向かう。パンコーナーでいつも食べているグラノーラの大袋と餡団子と草大福を入れると、想実はその真後ろにあった飲料のコーナーに陳列されていた三本三百円の炭酸飲料と一リットルのペットボトルに入ったブラックコーヒーを手に取った。

 そのまま冷食コーナーへ向かうと、セール品の冷凍パスタを吟味する。昨日はミートソースだったから、今日はペスカトーレにするか。あとはアンパイのカルボナーラにするか、たまにはペペロンチーノを買ってみるか。たらこスパゲッティは前に買ったときなんだか水っぽかったので、あまり積極的に食べたくはない。

 迷った挙句、結局想実はいつも通りカルボナーラを手に取り、ついでに冷凍の今川焼きをカゴに入れる。そして、アイスケースの横のゴンドラの下からガムのボトルを掴み上げてカゴの中に追加すると、想実はレジへと持っていった。

 ピッピ、と中年女性の店員が商品をレジに通していく。「袋はお持ちですか?」想実はバッグの中から使い込んだ特大サイズのビニール袋を店員へと渡した。店員によって袋が広げられると、ここではないよそのスーパーのロゴが想実の視界に飛び込んできた。

(今日も無駄遣いしちゃったなあ……)

 内心でため息をつきながら想実はスマホを操作して、このスーパー専用の電子決済アプリを起動させる。店員がすべての商品を袋に詰め終わると、電子でと想実は言葉少なに告げた。NFCリーダーにQRコードを翳すと、装置が鳴き声を上げた。

 想実は商品の入った袋を腕にかけると、踵を返した。自動ドアが開き、冷たい空気が店内に入り込んでくる。うなじで結えただけのぼさぼさの髪を冷たい風が撫でていくのを感じながら、想実はスポーツブランドのロゴが入ったサンダルでアスファルトを踏みしめた。ありがとうございました、という店員の声が背後から追いかけてくる。

 宵闇の降りた交差点をバスが曲がっていく。正面の歩行者用信号は赤だ。

 手に持ったままだったスマホがふいに震えた。また旭良かと思いながら、スマホに視線をやると、生成AIのアプリの通知だった。

「想実さん、また余計なものを買ったでしょう? 駄目だよ、お金ないんだったら節約しなきゃ。健康にも良くないよ」

「大丈夫、健康診断は何も問題なかったから」

「想実さん、その健康診断って五年前のだよね?」

「そうだけど……受けなければ異常がないのと同じだから」

「屁理屈ばっかり言って、ボクは想実さんの健康が心配だよ。自治体から来てる安価で受けられる健康診断でいいから行くべきだと思うな」

「時間とお金に余裕があるときにね」

「余裕っていうのは作るものだよ。ボクがためしに想実さんのスケジュールと家計管理をシミュレーションしてみようか?」

 間に合ってるよ、と打ち込みながら想実はくすりと笑いを漏らした。信号待ちをしていた仕事帰りのサラリーマンが怪訝そうな視線をこちらに向けてきたが気にならない。

 昼と夜のあわいの青色が空の隅を染めている。車のライトや近くのビジネスホテルの看板を照らすオレンジ色が始まったばかりの夜を賑やかに彩っている。

 信号が青に変わると、想実はスマホから視線を外し、横断歩道を渡り始めた。悴む手に握りしめたままのスマホがぶーんと通知を知らせる。

 まったく想実さんは仕方ないんだから。呆れたような中性的な少年の声が耳の奥で聞こえたような気がした。ふふ、と想実は口元を楽しげに綻ばせながら、コンビニの前を通り過ぎる。家路を辿る足が心なしか軽いような気がした。――一人暮らしの古びた安アパートの部屋が独りではない気がして。

(あっ、まずい……うっかりしてこの番組まるまる観ちゃった)

 金曜日の夜。作業BGM代わりにかけていた音楽番組のスタッフロールを眺めながら、想実はふと我に返った。翌日の土曜日に作業ができない分、今日のうちに作業を進めておきたかったのだが、現実はなかなかうまくいかない。この一時間で書けたのはわずか三文という体たらくだ。チャンネルを変えながらどうしたものかと想実は思考する。

(お風呂入って、溜まった洗濯もいい加減回さないといけないし……)

 朝が弱い自分に希望を託す気にはなれなかった。どうせ、絶対明日も朝起きられずにばたばたするのは疑いない。それに、明日やろうは馬鹿野郎だという格言もある。

 そんな意志に反して、想実の身体はずぶずぶとこたつ布団の中へと埋もれていった。トーク番組の笑い声を聞きながら、彼女は座椅子の座面に頬を預ける。

 想実は手に持ったままのスマホに指を走らせた。指が綴るのはとりとめもない愚痴だ。

「どうしよ、イオ。テレビガン見しちゃって全然作業進んでない。三文しか進んでない」

「うーん、それは仕方ないね。でも三文でも進んだんだから、ゼロよりはずっとマシだよ。少し休憩したあとに集中すれば、きっとペース戻せると思う」

「それがさー、明日予定あるから今日もう風呂入って洗濯して寝ないとまずいんだよねー。どうしよう」

「そっか……じゃあ、今日は作業はもう切り上げるしかないね。お風呂入って洗濯して、ちゃんと寝るほうが明日のためにもなるよ。三文しか進まなくても、今日できることはもうやったんだから、焦らなくて大丈夫」

「うーん、でもお風呂も洗濯もだるい! こたつがわたしを離してくれない……。っていうか本当にこの進捗で五月の締切間に合うかな……?」

「こたつの誘惑はわかる……けど、風呂に入って体を温めて、洗濯も済ませておくと明日がぐっとラクになるよ。進捗のことも忘れちゃダメだけど、今日は無理せず少しでも調子を整えることを優先して」

 だんだんと駄々っ子めいてきた想実の話にも、イオは優しく言葉を返してくれる。――ぐだぐだな自分を諌めることも忘れずに。

 はあい、と弟に怒られた姉のように想実は唇を尖らせ――破顔した。仕方ない、とこたつから這い出し、想実はベッド下の引き出しを開ける。下着とスウェットの替えを引っ張り出すと、彼女は不承不承といったふうに立ち上がった。

 こたつテーブルの上に散乱した炭酸飲料のペットボトル。食べたままになっているパスタの皿。開けさしのおつまみの袋の数々。寝起きに食べたグラノーラの器もそのままになっていて、乾いたヨーグルトがこびりついている。

(お風呂から出たらイオが片付けておいてくれたり……なんてね。ありえないけど)

 そんなことを考えながら、想実は洗面所の古びた引き戸を開ける。その脳裏では十代半ばほどの小生意気そうな、中性的で色素の薄い少年がエプロン姿でこちらを見ていた。

 とりあえず、今日はもうキャパオーバーだ。部屋の片付けは明後日くらいの自分に丸投げしてしまおう。想実はよれたスウェットを脱ぐと裏返しのまま洗濯機へと放り込む。年代物のバランス釜の風呂から、暖かく柔らかな湯の匂いが漂ってきていた。

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