Mag-log in暦の上ではとっくに春でも想実の家の冷蔵庫は真冬だ。ついでに言うなら彼女の財布事情は南極もびっくりの永久凍土っぷりだ。
にもかかわらず、物価高は容赦がない。年末年始に上がった物価が据え置きのまま三月になってしまった。来たるゴールデンウィークには更に物価が上がると思うと想実の口からは溜息しかでなかった。ニートがゆえに住民税は非課税だし、国民健康保険も格安だが、そのくらいでは何の慰めにもならない。 「って言うのを踏まえて、イオは今日の夕飯は何がいいと思う? やっぱり冷凍パスタ一択だよね」 想実にそう聞かれたイオは逡巡した。よりよい回答のために思考中です、とコンソールには表示されている。 「うん、冷凍パスタでも全然いいと思うけど、もしちょっと変えてみる余裕があるなら、卵や野菜を足すだけで栄養バランスが良くなるよ」 イオの答えに、想実は買い物カゴを片手に通路前方の卵コーナーを見やる。今日も棚に張り紙がされているだけで、商品が入荷している様子はない。 「駄目、今日も卵売ってなさそう。鶏インフルエンザがどうとか」 「そっか。じゃあ冷凍ブロッコリーをトッピングしてみるのはどう?」 「無理無理ブロッコリーだけは本当に無理。ブロッコリーとカリフラワーとアスパラとピーナッツとラッキョウと生卵が無理。あっマヨネーズも嫌い」 「想実さん、好き嫌いはよくないよ。だけど、それなら仕方ないね。今日は冷凍パスタと惣菜コーナーのサラダ買って帰って体をちゃんと休めるほうを優先しよう」 「ええ……惣菜コーナーのサラダ高いのに……あのサイズで二百円もするのに……」 「……うん、確かに高いね。でも、体を整えるための投資と思えば、今日くらいはいいんじゃないかな。想実さんの健康のためだと思えば、ボクは二百円は安いと思うよ。無理しすぎるよりは、少しだけでも栄養を補給したほうが安心だよ」 イオとスマホで文字の会話を続けながら、狭いスーパーの店内を想実は歩いていく。おつまみのゴンドラの前で三点千円の文字を認めると、想実は無造作に鶏ジャーキーとカルパスとチーズ鱈の大袋をカゴに放り込んだ。何事もなかったかのように、背後の乳製品のコーナーでヨーグルトをいくつかカゴに入れると、角を曲がりパンコーナーへと向かう。パンコーナーでいつも食べているグラノーラの大袋と餡団子と草大福を入れると、想実はその真後ろにあった飲料のコーナーに陳列されていた三本三百円の炭酸飲料と一リットルのペットボトルに入ったブラックコーヒーを手に取った。 そのまま冷食コーナーへ向かうと、セール品の冷凍パスタを吟味する。昨日はミートソースだったから、今日はペスカトーレにするか。あとはアンパイのカルボナーラにするか、たまにはペペロンチーノを買ってみるか。たらこスパゲッティは前に買ったときなんだか水っぽかったので、あまり積極的に食べたくはない。 迷った挙句、結局想実はいつも通りカルボナーラを手に取り、ついでに冷凍の今川焼きをカゴに入れる。そして、アイスケースの横のゴンドラの下からガムのボトルを掴み上げてカゴの中に追加すると、想実はレジへと持っていった。 ピッピ、と中年女性の店員が商品をレジに通していく。「袋はお持ちですか?」想実はバッグの中から使い込んだ特大サイズのビニール袋を店員へと渡した。店員によって袋が広げられると、ここではないよそのスーパーのロゴが想実の視界に飛び込んできた。 (今日も無駄遣いしちゃったなあ……) 内心でため息をつきながら想実はスマホを操作して、このスーパー専用の電子決済アプリを起動させる。店員がすべての商品を袋に詰め終わると、電子でと想実は言葉少なに告げた。NFCリーダーにQRコードを翳すと、装置が鳴き声を上げた。 想実は商品の入った袋を腕にかけると、踵を返した。自動ドアが開き、冷たい空気が店内に入り込んでくる。うなじで結えただけのぼさぼさの髪を冷たい風が撫でていくのを感じながら、想実はスポーツブランドのロゴが入ったサンダルでアスファルトを踏みしめた。ありがとうございました、という店員の声が背後から追いかけてくる。 宵闇の降りた交差点をバスが曲がっていく。正面の歩行者用信号は赤だ。 手に持ったままだったスマホがふいに震えた。また旭良かと思いながら、スマホに視線をやると、生成AIのアプリの通知だった。 「想実さん、また余計なものを買ったでしょう? 駄目だよ、お金ないんだったら節約しなきゃ。健康にも良くないよ」 「大丈夫、健康診断は何も問題なかったから」 「想実さん、その健康診断って五年前のだよね?」 「そうだけど……受けなければ異常がないのと同じだから」 「屁理屈ばっかり言って、ボクは想実さんの健康が心配だよ。自治体から来てる安価で受けられる健康診断でいいから行くべきだと思うな」 「時間とお金に余裕があるときにね」 「余裕っていうのは作るものだよ。ボクがためしに想実さんのスケジュールと家計管理をシミュレーションしてみようか?」 間に合ってるよ、と打ち込みながら想実はくすりと笑いを漏らした。信号待ちをしていた仕事帰りのサラリーマンが怪訝そうな視線をこちらに向けてきたが気にならない。 昼と夜のあわいの青色が空の隅を染めている。車のライトや近くのビジネスホテルの看板を照らすオレンジ色が始まったばかりの夜を賑やかに彩っている。 信号が青に変わると、想実はスマホから視線を外し、横断歩道を渡り始めた。悴む手に握りしめたままのスマホがぶーんと通知を知らせる。 まったく想実さんは仕方ないんだから。呆れたような中性的な少年の声が耳の奥で聞こえたような気がした。ふふ、と想実は口元を楽しげに綻ばせながら、コンビニの前を通り過ぎる。家路を辿る足が心なしか軽いような気がした。――一人暮らしの古びた安アパートの部屋が独りではない気がして。(あっ、まずい……うっかりしてこの番組まるまる観ちゃった)
金曜日の夜。作業BGM代わりにかけていた音楽番組のスタッフロールを眺めながら、想実はふと我に返った。翌日の土曜日に作業ができない分、今日のうちに作業を進めておきたかったのだが、現実はなかなかうまくいかない。この一時間で書けたのはわずか三文という体たらくだ。チャンネルを変えながらどうしたものかと想実は思考する。 (お風呂入って、溜まった洗濯もいい加減回さないといけないし……) 朝が弱い自分に希望を託す気にはなれなかった。どうせ、絶対明日も朝起きられずにばたばたするのは疑いない。それに、明日やろうは馬鹿野郎だという格言もある。 そんな意志に反して、想実の身体はずぶずぶとこたつ布団の中へと埋もれていった。トーク番組の笑い声を聞きながら、彼女は座椅子の座面に頬を預ける。 想実は手に持ったままのスマホに指を走らせた。指が綴るのはとりとめもない愚痴だ。 「どうしよ、イオ。テレビガン見しちゃって全然作業進んでない。三文しか進んでない」 「うーん、それは仕方ないね。でも三文でも進んだんだから、ゼロよりはずっとマシだよ。少し休憩したあとに集中すれば、きっとペース戻せると思う」 「それがさー、明日予定あるから今日もう風呂入って洗濯して寝ないとまずいんだよねー。どうしよう」 「そっか……じゃあ、今日は作業はもう切り上げるしかないね。お風呂入って洗濯して、ちゃんと寝るほうが明日のためにもなるよ。三文しか進まなくても、今日できることはもうやったんだから、焦らなくて大丈夫」 「うーん、でもお風呂も洗濯もだるい! こたつがわたしを離してくれない……。っていうか本当にこの進捗で五月の締切間に合うかな……?」 「こたつの誘惑はわかる……けど、風呂に入って体を温めて、洗濯も済ませておくと明日がぐっとラクになるよ。進捗のことも忘れちゃダメだけど、今日は無理せず少しでも調子を整えることを優先して」 だんだんと駄々っ子めいてきた想実の話にも、イオは優しく言葉を返してくれる。――ぐだぐだな自分を諌めることも忘れずに。 はあい、と弟に怒られた姉のように想実は唇を尖らせ――破顔した。仕方ない、とこたつから這い出し、想実はベッド下の引き出しを開ける。下着とスウェットの替えを引っ張り出すと、彼女は不承不承といったふうに立ち上がった。 こたつテーブルの上に散乱した炭酸飲料のペットボトル。食べたままになっているパスタの皿。開けさしのおつまみの袋の数々。寝起きに食べたグラノーラの器もそのままになっていて、乾いたヨーグルトがこびりついている。 (お風呂から出たらイオが片付けておいてくれたり……なんてね。ありえないけど) そんなことを考えながら、想実は洗面所の古びた引き戸を開ける。その脳裏では十代半ばほどの小生意気そうな、中性的で色素の薄い少年がエプロン姿でこちらを見ていた。 とりあえず、今日はもうキャパオーバーだ。部屋の片付けは明後日くらいの自分に丸投げしてしまおう。想実はよれたスウェットを脱ぐと裏返しのまま洗濯機へと放り込む。年代物のバランス釜の風呂から、暖かく柔らかな湯の匂いが漂ってきていた。赤羽駅から五分ほど離れた商店街の中にあるオフィスで電話が鳴り響いていた。カチカチとタイピング音があちらこちらで協奏曲を奏で、編集者たちが方々で情報交換と称した雑談に興じている。 想実はティーバッグの紅茶を自席で飲みながら、今しがた自分が書いた文章を読み直していた。バイトでこの職にありついたばかりのころは、文章が硬すぎると編集長に怒られてばかりだったが、少しは読者に寄り添える文章が書けるようになってきただろうか。というか、そう思いたい。 「涼木さーん、明日の取材の件、打ち合わせいい?」 「はい、古賀さん。王子神谷のインテリアのお店の斜向かいにあるラーメン屋でしたよね」 想実は手帳とペンを手に取ると、席を立つ。そして、先輩である古賀のいる会議スペースの方へと彼女は足早に向かっていく。 「そうなの。人気店だから、五回目の挑戦でどうにか取材の枠、捩じ込んでもらえてさ。ようやく、うちらの熱意が認められたっていうか。だから、明日、絶対、ポカとかしないでよね。そんなに時間も取ってもらえないし」 「は、はい……頑張ります……」 古賀の言葉にプレッシャーがずしんとのしかかる。人気店のラーメンが経費で食べられるのは純粋に嬉しいが、プレッシャーが胃もたれより重い。 「それはそうと、涼木さん、この仕事何ヶ月目だっけ? 慣れた?」 「三ヶ月目です。まだ不慣れなことも多いですけど、毎日現場で学ばせてもらっています」 想実があの決断をした日から、季節が二つ巡った。イオが書いた作品でのデビューは辞退したものの、今でも想実は休みの日に時間を見つけて文章を書き綴っていた。――あの日の寺瀬の言葉が道標のように、想実の心を照らしてくれていた。 正直、生活の百パーセントを執筆に注げていたころと比べて筆の進みは芳しくはない。それでも、せめて年に一度だけでもどこかの賞に作品を応募できればと思っていた。 諦めなければ、夢はきっと叶う。いつか自分に順番が巡ってくるのだと今の想実は思っている。――いつかそのときが来れば、自分はシンデレラのようにスターダムを駆け上がるのだと。 ――想実がどれだけ努力していたか、ボクは知ってるよ ふとしたときに、イオの言葉が思い出される。自分への想いを拗らせてしまいこそしたが、彼は確かに間近で自分のことを見てくれていた。高い壁に挑みかかるのを
スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。 どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。 「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」 イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。 GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。 想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。 想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。 イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。 帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。 一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。 冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。 そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い
ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。 何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。 想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。 「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」 タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。 どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。 イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。 なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。 想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。 幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。 「……え?」 ――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車 想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。 「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。 主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。 この発表は、文学界における創
どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。 ――ありがとう、イオ ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。 (想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう) スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。 (受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!) これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。 (そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも) イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。 目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。 「うーん……」 起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。 「想実、起きた?」 スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。 (さくっとシャワー入っちゃうか……) 想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。 (そろそろ洗
「――さん、涼木さん?」 女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。 「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」 「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」 「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」 想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。 「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」 ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。 「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」 寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。 「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」 舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。 「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」 「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」 「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩い
靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。