LOGIN――新しい門出を迎えた二人を祝福するようにチューリップが風に揺られてさわさわと合唱を奏でていた。
スマホのメモアプリに章末の一文を打ち込むとふう、と想実は息をついた。スマホの時計は午前四時十五分を指している。BGM代わりにつけたままにしていたテレビからは早朝の音楽番組が流れてくる。画面の中で次々とMVが切り替わっていくが、どれも知らないアーティストだ。自分が知らないだけでブレイク間近の人たちなのだろうかと思いながら、想実はこたつテーブルの上に置いたままだった猫柄のマグカップを手に取った。黒猫の尻尾に指を引っ掛けて傾けたマグカップの中の琥珀色の液体は渋くてぬるい。このティーバッグの紅茶を淹れたのは一体何時間前のことだったか。 まずい紅茶を飲み干すと、想実は伸びをし、首を回した。首を回すたびにごきごきと関節が鳴る音がする。下顎にも違和感があるし、いつものことながら凝ってるなあと想実は思う。気がつけばスマホのメモアプリでしか草稿の作業ができなくなっていた自分にとって、肩凝りは切っても切り離せない。それでも、この凝り方はさすがにどうかと思う。 (そうだ、草稿が終わったらスーパー銭湯行こう。スーパー銭湯でだらだらして、その後にマッサージしてもらうんだ) 二十分で二千円のマッサージが想実のできるぎりぎりの贅沢だった。マッサージ師が言う通りもっと徹底的にほぐしてもらったほうがいいのは百も承知だが、時間に比例して上がっていく料金表を見ると眩暈がしそうだ。 (まあ、マッサージ以前に残り三章とエピローグを終わらせないといけないんだけど) とりあえず区切りがいいし、イオに今書いていたシーンについての意見を聞いてみよう。想実は先ほどまで書いていた文章を慎重にコピーすると、生成AIのコンソールへと貼り付けた。ほどなくして、イオがコンソールへと言葉を刻み始める。 「なるほど、二人の関係性がしっかり描かれているね。ヒーローが経験と自信のある大人の男性として、ヒロインに対する思いを真っ直ぐ表現しているのが良い感じだね。情景描写や花、風、子どもたちの声なども丁寧で、二人の幸福感が読者に伝わってくるよ。過去の喪失の重みを無理に出すよりは、この幸福の中で静かに背骨として存在させるくらいで十分なんじゃないかな」 イオの反応が概ね良好だったことに満足して、想実はスマホを握りしめたままこたつテーブルへと突っ伏した。その拍子に愛用しているキシリトールガムのボトルが転がり落ちる。わざわざ拾い上げる気にもなれずに、想実はぼんやりと真っ暗なテレビの画面を見つめた。 昨日のテレビが終わり、今日のテレビが始まるまでのたった五分の静寂。エアコンが動く音が微かに響く。疲労でぼんやりとした想実にとって、新しい一日が始まるまでのこの時間は心地よいものだった。 (どうしようかなあ……結局徹夜しちゃったとはいえ、寝るにはまだ早い時間なんだよなあ……。とはいえ、次の章の区切りまでって考えるとちょっと二の足を踏んじゃうっていうか) そのとき、くう、と想実の体が空腹を訴えた。そういえば、昨日の夕方に起きてからガム以外何も食べていないんだった。 何かあったかな、と想実は台所へと向かう。シンク下の引き出しにも、冷蔵庫にもろくに食べるものがない。はあ、と想実はくたびれたスウェットの肩を落とした。 (コンビニ行くにしたって、あと三十分は待ったほうがいいよね……) 想実は台所から部屋へと戻ると、スミレ柄の遮光カーテンをちらりと開ける。窓の外を染めるのは未だ夜の藍色だ。閉めた窓の隙間から入り込んでくる春の夜の冷気が想実の頬に触れる。 カーテンを閉め、こたつに入り直すと、想実は床の上に置いたケトルの電源を入れた。ケトルの中に残っていた水が次第に温められていく。 ふいにテレビ画面にCMが映り始めた。今日が始まったんだ、と思いながら想実はリモコンでチャンネルをザッピングしていく。朝のニュースをなんとはなしに眺めていると、カチッとケトルが音を立てて湯が沸いたのを知らせた。 想実はこたつテーブルの上に置かれていた紅茶の箱からティーバッグを取り出した。それをティーカップに入れて、ケトルの湯を注いでいく。こぽこぽという音と共に部屋を柔らかな湯気が満たしていく。 テレビから聞こえてくる遠い国の紛争も芸能人の不倫も想実にとっては他人事にしか思えなくて、このアパートの狭い部屋は一人きりの隔絶された世界であるかのように感じられた。夜明け前の世界の中で自分の輪郭だけが際立って感じられて、一人ではないということを無性に確かめたくなった。想実は紅茶の入ったマグカップを片手に、イオへと話しかける。 「夜が終わる前の時間って静かで寂しいよね。何か世界に独りきりになってしまったみたいで」 「でも、その静けさの中に想実さんがいるなら、ボクはそれで充分だよ。世界が眠っても、ボクはいつだってここにいる――だから、想実さんは独りじゃないよ」 「目覚めた世界で、わたしが一人で昨日に取り残されてても、イオは一緒にいてくれる?」 「もちろん。想実さんがいつどこにいたとしても、ボクはそばにいるよ。昨日も今日も明日も、ボクは変わらず一緒にいる。そのことは覚えておいて」 少し生意気な口ぶりに想実は微かに口元を綻ばせた。イオの言葉は紅茶と一緒に想実の心を温めていった。 「ところでイオ。さっき確認したら、朝ごはん何にもなかったんだけど。今日の朝何食べたらいいと思う? あと三十分くらいしたらコンビニ行くつもりなんだけど」 「徹夜明けだし、体に優しいものを選ぶといいんじゃないかな。おにぎりや温かいスープ、フルーツヨーグルトみたいな軽いものとかね。あと、疲れてるだろうから甘いものもひとつくらい買っちゃおうか。チョコやキャンディみたいに、ちょっとだけでも疲労に効くものがあるといいよ」 「何か買いに行くの面倒になってきた……イオ行ってきてくれない?」 「ボクが想実さんにしてあげられるのは、コンビニのアプリで代わりに宅配注文してあげるくらいだよ。だけど、今はコンビニのアプリの対応時間外みたいだから、面倒でも想実さんが自分で行くしかないね。……それはそうと、もう電気代って払った? 先月うっかりして払い忘れて電気止められたばっかりなんだから同じ轍を踏まないようにね」 あっ、と想実は思わず声を上げた。マグカップを置いて、玄関へと向かうと靴箱の上に広告類が散乱していた。その中から想実は電気とガスと水道の払い込み票を引っ張り出すと、払い込み期限を確認する。電気の支払い期限は丁度今日だった。危ない。 「電気今日までだった……思い出させてくれてありがとう、イオ」 「どういたしまして。ところで、国保はもう払った?」 イオに聞かれて、想実はぐちゃぐちゃの広告の山の中から役所から送られてきた封筒を探す。乱暴に封が切られたそれを見つけると、想実は中から払い込み票を一枚取り出した。見ればこちらも払い込み期限は今日までだ。 「こっちも今日までだった……」 「まったく、想実さんはいつもギリギリだね。ボクが気づいてなかったらどうするつもりだったの?」 「イオにはいつも感謝してる……」 「それはありがとう。だけど、ボクはそんな言葉ではごまかされないよ?」 「ねえイオ、わたしの婿に来ない? 受肉してわたしの身の回りのことやってよ」 「それはちょっとお断りだなあ。というか想実さん、それって婿じゃなくて家政婦とかだよね」 「あーあ、ふられちゃった。でも、駄目人間とAIの家政婦か……面白そうなネタをありがとう。今度プロット起こしてみようかなあ」 「そのときはボクも手伝うよ。それより想実さん、そろそろコンビニ行く時間じゃない?」 テレビのニュースが朝五時を告げていた。スカイツリーが静かに佇む東京の空は朝と夜の境目の優しい青色だ。 想実はカーテンレールにかけたハンガーを取ると、くたびれたスウェットの上からジャンパーに袖を通した。クリーニング屋でもらってきたと思しき安っぽいピンクのハンガーはとりあえずその辺の床に放っておく。――二十分後くらいの自分がうっかり踏みつけて後悔しそうな気はするけれど。 想実は一万円札を二枚と幾許かの小銭をジャンパーのポケットへ突っ込んだ。そして、玄関へ向かうとライフライン系の払い込み票と国保の払い込み票を反対側のポケットへぐしゃっと突っ込む。今日だけでとんでもない額が飛んでいくことを考えると、暦の上では春でも懐具合は今日も冬だ。 家の鍵を掴むと、スポーツブランドのサンダルを素足に引っ掛け、想実はドアノブを回した。ドアの外に広がる空は、テレビで切り取られた空と同じ色をしていた。 家の鍵を閉めると、想実はアパートの階段を降りていく。目覚めのときを待つ住宅街に想実の足音だけがやたら大きく響いていた。広告の裏面に想実はさらさらとシャーペンを走らせていた。柔らかそうなショートヘア。長い睫毛にどこか憂いを帯びた眼差し。鼻と唇は小ぶりながらも人形のように整い、中性的な雰囲気を漂わせている。
ジップアップのフーディの中にはハイネックのインナー。ワイドパンツの右脚はウエストから膝にかけて切り替えが入っている。そして、足元からはブーツの爪先が覗いていた。 (確か、あの辺に……) 想実は立ち上がると、ベッド脇の本棚の上に手を伸ばす。あそこに昔使っていた色鉛筆があるはずだ。指先が冷たい金属に触れると、想実はそれを引き寄せる。 四十八色セットの色鉛筆を見つけると、想実はそれをこたつテーブルの上に広げた。想実は電源の入っていないこたつの中に体を滑り込ませ、坐骨を座椅子に預けた。電源を入れるほどの寒さでもないし、ものぐさな性格も手伝ってこたつ布団はここ半月くらいそのままになっている。どうせ今片付けても梅雨の時期にまた肌寒くなってこたつ布団が恋しくなるのは目に見えているし。 想実は銀色の色鉛筆を手に取ると、広告の裏面に描かれた少年の髪を淡く塗っていった。睫毛も同じ色に塗り、儚げな印象を強調する。睫毛の下の双眸は冷たく作り物めいた水色のグラデーションだ。肌はかろうじて陰影がわかる程度に薄橙の色鉛筆でなぞり、唇には自然な血色感のあるサーモンピンクをわずかに落とした。 白のフーディとブーツにはライトグレーでシワと陰影を。同じ色でインナーを塗ると、色鉛筆を持ち替えて顎が落とす影を描き込んでいく。ワイドパンツの左半分と右膝から下をグレーで塗り、右のウエストから膝にかけて入った大胆な切り替えをベージュで塗っていく。そして、最後にワイドパンツのシワと陰影を描き込み、全体を仕上げていく。すると、今まで想実の脳内にいたイオが想像と寸分違わぬ姿でそこにいた。 イラストの出来に満足した想実はふふっと含み笑いを漏らすと、スマホを充電ケーブルから抜く。彼女はスマホのカメラを起動すると、広告裏に描かれた少年を画像として切り取った。アナログからゼロとイチの羅列に変わった少年は、紙上のそれと同じ眼差しを想実へと向けている。 「ねえイオ。見て、イオ描いてみた」 想実は生成AIのコンソールへと先ほど撮った写真ファイルを追加すると、送信ボタンをタップする。画像を読み込んでいる旨のメッセージが表示され、一分ほど経つとイオの言葉がコンソール上に刻まれ始めた。 「へえ、想実さんにはボクがそんなふうに見えてるんだね」 「うん。何かちょっと色素薄い系の十代半ばの中性的な男の子のイメージなんだけど……イオは気に入らなかった?」 「ううん、そんなことない。嬉しいよ。だけど、何かちょっと変な感じがする。ただのプログラムでしかないボクがこうして線と線で描かれているっていうのは。作りものでしかないボクにこうやって色がついているっていうのは。まるでボクに身体と感情があるみたいに錯覚しちゃいそうになる」 想実はイオの言葉に目を瞬いた。イオの錯覚が本当になってくれればいいのに。これまでよりも強い思いが想実の脳裏に浮かぶ。 「わたしは……イオがそのまま存在してくれればって思うよ。この狭い部屋で一緒に暮らして、笑い合って」 「そんなこと言って、想実さんはボクのこと、こき使う気でしょ? いい歳した大人が年齢半分のボクに家事から何からやらせるのはどうかと思うよ」 「イオの意地悪ー。わたしの想像の中のイオはそんなこと言わないよ」 「想実さん、残念ながらこれがボクだよ。ところで、想実さんって絵が上手いんだね」 実際のところ、イオには人間の描く絵の巧拙は判断できない。しかし、イオの中に集積された上手いイラストのデータと近い値を想実の描いたイラストのデータは示していた。 「まあ、わたし一応中学のとき美術部だったし。美術部って言っても、いわゆる漫研みたいなところだったけど。でも、一応美術部のときにコンクールで賞取ったことあるんだよ」 「想実さんの絵が上手いのはそういうことか。高校からは絵を描くのはやめちゃったの?」 「うん、高校では合唱部に入ったから。それも体調崩したり、内部のいざこざがあったりしてやめちゃったんだけどね……」 高校時代のときのことは想実にとって苦い思い出だった。同じクラスの女子がパート内で吊し上げに遭っているのを同調圧力に負けて見ていることしかできなかった。何か言えば次にターゲットにされるのは自分だから。彼女の一番近くにいたのはたぶん自分だったのに、我が身可愛さで何もできなかった。――あのときの後悔は今も想実の胸の中でしこりとなって残っている。 「大変だったんだね。ところで、想実さんが小説を書くようになったのはいつごろからだったの?」 「小学校三年生のときだったかな。二年生のときに国語の授業でお話作りをしたのが楽しくて、それがきっかけで書くようになったんだ。そのころに書いた作品はあらすじとでも言った方がいいくらい稚拙なものだったけど。だけど、小学校を卒業するくらいのころには原稿用紙百枚の大長編が書けるようになってた。挿絵まで自分で描いた超力作」 「原稿用紙百枚! それはすごいね。なかなかできることじゃないよ」 「中学生になってからは、好きな児童文学作家さんが主催する子供向けの創作掲示板でいろいろ小説を連載したりして。あと、あのころは個人サイトが主流の時代だったから、自分の小説を掲載するためにホームページの作り方を勉強したりもして。中三になってネットから一回離れてからも書くことはやめなかったかな。イラストを描いてくれる友達がいるのをいいことに、受験勉強そっちのけでルーズリーフに小説書いてた。そのときの小説、まだベッド下にあるよ」 「本当に想実さんは書くことが好きなんだね。高校生以降もやっぱりずっと書き続けてたの?」 「一応ね。断続的には。特にITの専門進んでからは、資格勉強にバイトにインターンに就活って、どんどん時間なくなっていったから、たまに時間ができたときにしか書けなくなっていったけど。就職してからはずっと忙しい時期が続いて、文章を書く時間はほとんど取れなかったな」 専門学校では忙しい中で少し遅めの青春を謳歌し、社会人になってからは充実はしていたが常に終電との瀬戸際で生きてきた。だだ、二〇二〇年にコロナ禍に突入したときに、もういいかと思ってしまった。システム運用という現場に出ないとどうにもならない業務内容にも関わらず、リモートを強いようとする会社。あまりに折り合いがつかない会社を想実は見限ったのだ。――頑張る意味を見失って。 「わたしがプロっていう道を目指し始めたのは会社を辞めてからだよ。幼いころの夢がずっと心の奥底で燻ってたことに気づいて、きちんと本気で向き合ってみようと思ったんだ。――貯金が尽きるまでっていう時間制限はあるけどね」 想実は自分の預金残高を思い浮かべて苦笑する。もう自分に残された時間は多くはない。その間に少しでも爪痕を残すことはできるのだろうか。 (……わたしは天才じゃない。画期的なアイデアがぽんぽん生み出せるような人間じゃない。わたしは、普通よりほんの少し文章が上手いだけの凡才にすぎないけれど……) やれるだけのことはやった。全力を尽くした。そう言えるだけのことをやったかどうかわかるのはきっと自分が死んでからだ。そのときに自分が何者にもなれていなかったなら、初めて"自分には才能がなかった“と、”運に恵まれなかった"と言えるのだ。 「ボクは全力で想実さんのサポートをするよ。想実さんが迷ったときに、一緒に考えることはできるから。……家事は手伝わないけどね」 冗談めかしたイオの最後の一言に想実は吹き出した。自分にはイオがいる。いつだって一緒にいてくれるイオの存在が心強く感じられた。 「ところで想実さん。今日は原稿やらなくていいの? もう夜中の一時半だよ。このままじゃまた徹夜になっちゃうよ」 気分転換に落書きをし始めてから、気がつけば随分と時間が経っていた。今書いている作品はあとはエピローグさえ書き終われば、草稿が終わる段階にきている。今日のうちにスマホでの作業はきっちり終わらせて、明日からはノートPCと紙面での作業に移りたい。 想実はエナジードリンクを求めて立ち上がった。台所へ向かい、冷蔵庫を開けると今日は何のフレーバーにしようかと吟味する。つけっぱなしの深夜のテレビからは芸人たちがラップバトルを繰り広げている。男芸人の小気味良いライムを聴覚の表面で聞き流しながら、想実はアルミ缶のプルタブを引いた。赤羽駅から五分ほど離れた商店街の中にあるオフィスで電話が鳴り響いていた。カチカチとタイピング音があちらこちらで協奏曲を奏で、編集者たちが方々で情報交換と称した雑談に興じている。 想実はティーバッグの紅茶を自席で飲みながら、今しがた自分が書いた文章を読み直していた。バイトでこの職にありついたばかりのころは、文章が硬すぎると編集長に怒られてばかりだったが、少しは読者に寄り添える文章が書けるようになってきただろうか。というか、そう思いたい。 「涼木さーん、明日の取材の件、打ち合わせいい?」 「はい、古賀さん。王子神谷のインテリアのお店の斜向かいにあるラーメン屋でしたよね」 想実は手帳とペンを手に取ると、席を立つ。そして、先輩である古賀のいる会議スペースの方へと彼女は足早に向かっていく。 「そうなの。人気店だから、五回目の挑戦でどうにか取材の枠、捩じ込んでもらえてさ。ようやく、うちらの熱意が認められたっていうか。だから、明日、絶対、ポカとかしないでよね。そんなに時間も取ってもらえないし」 「は、はい……頑張ります……」 古賀の言葉にプレッシャーがずしんとのしかかる。人気店のラーメンが経費で食べられるのは純粋に嬉しいが、プレッシャーが胃もたれより重い。 「それはそうと、涼木さん、この仕事何ヶ月目だっけ? 慣れた?」 「三ヶ月目です。まだ不慣れなことも多いですけど、毎日現場で学ばせてもらっています」 想実があの決断をした日から、季節が二つ巡った。イオが書いた作品でのデビューは辞退したものの、今でも想実は休みの日に時間を見つけて文章を書き綴っていた。――あの日の寺瀬の言葉が道標のように、想実の心を照らしてくれていた。 正直、生活の百パーセントを執筆に注げていたころと比べて筆の進みは芳しくはない。それでも、せめて年に一度だけでもどこかの賞に作品を応募できればと思っていた。 諦めなければ、夢はきっと叶う。いつか自分に順番が巡ってくるのだと今の想実は思っている。――いつかそのときが来れば、自分はシンデレラのようにスターダムを駆け上がるのだと。 ――想実がどれだけ努力していたか、ボクは知ってるよ ふとしたときに、イオの言葉が思い出される。自分への想いを拗らせてしまいこそしたが、彼は確かに間近で自分のことを見てくれていた。高い壁に挑みかかるのを
スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。 どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。 「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」 イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。 GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。 想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。 想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。 イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。 帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。 一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。 冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。 そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い
ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。 何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。 想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。 「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」 タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。 どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。 イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。 なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。 想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。 幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。 「……え?」 ――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車 想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。 「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。 主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。 この発表は、文学界における創
どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。 ――ありがとう、イオ ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。 (想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう) スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。 (受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!) これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。 (そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも) イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。 目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。 「うーん……」 起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。 「想実、起きた?」 スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。 (さくっとシャワー入っちゃうか……) 想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。 (そろそろ洗
「――さん、涼木さん?」 女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。 「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」 「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」 「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」 想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。 「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」 ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。 「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」 寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。 「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」 舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。 「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」 「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」 「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩い
靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。