Share

第181話

Author: レイシ大好き
千桜との関係があるせいか、紗雪の日向に対する印象はさらに良くなっていた。

「そろそろいい時間だし、今日はこれくらいにしておきましょうか」

紗雪は日向を見ながらそう言った。

すでに午後いっぱいをショッピングに費やしていたし、まだ他の予定も残っている。

日向一人にばかり時間を使うわけにもいかない。

日向は頷いた。

「そうだね。今日は本当にありがとう。また次の機会にでも一緒に出かけよう」

「いいのよ、そんなの。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それで十分」

紗雪は笑いながら千桜を見つめた。この小さな女の子を、本当に可愛くて仕方がないと思っていた。

日向は千桜に目を向け、優しい声で言った。

「千桜、お姉さんにバイバイしようね」

けれど千桜はじっと紗雪を見つめたまま、何も言わなかった。

ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳は、まるで精巧な人形のように美しかった。

日向は促し続ける。

「ちゃんとご挨拶しないとだめだろ。お姉さんには、いっぱいお世話になったんだから」

紗雪は「いいのよ」と言って、軽く手を振った。

「大丈夫大丈夫。気持ちはちゃんとわかってるから。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それでいいわ」

二人ともすでに諦めかけていた。

そろそろ車に戻ろうかというそのとき、

千桜がふいに、ぽつりと口を開いた。

「......お姉ちゃん、ありがとう」

その瞬間、日向と紗雪は目を見合わせ、驚きに目を見開いた。

日向にとっても信じられないことだった。

というのも、これまでどんなに家族が声をかけても、千桜は口を開こうとしなかったのだ。

今回も、紗雪に挨拶させようとは思っていたものの、正直期待はしていなかった。

紗雪もまた、驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべ、瞳がぱっと輝いた。

「千桜ちゃん、えらいよ」

「今度お兄さんと一緒に来たときは、前に好きだって言ってたあのプリン、一緒に食べに行こう?」

千桜はもうそれ以上は何も言わず、ただぎゅっと日向の首にしがみついた。

でも、二人とも無理にはさせなかった。

なにせ今の一言だけでも、十分に驚きだったから。

「じゃあ、私はこれで帰るね」

紗雪は日向に別れを告げ、軽く手を振ってその場を後にした。

日向は頷き、その背中を見送りながら、ふと物思いにふけった。

......

紗雪が帰宅したとき、家
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第182話

    本来、京弥兄と先に知り合ったのは伊澄の方なのに、紗雪なんてあとから現れた人間にすぎない。知り合ってからの時間なんて、こっちが長いに決まってる。憤った伊澄が顔を上げたとき、目が合ったのは紗雪の、笑っているようでいて冷ややかな視線だった。その瞬間、彼女の勢いは一気にしぼんだ。商業施設での対峙が脳裏をよぎる。特に紗雪が有紀の手を払いのけたあの鋭さは、思い出すだけでも震えが走るほどだった。彼女じゃ、到底太刀打ちできない。「......わたっかよ、もう」仕方なく、伊澄はしぶしぶ口を開いた。ここは自分の家じゃないし、京弥兄の前であれこれ言うこともできない。余計なことを言えば、彼はすぐにおかしいと気づいてしまうだろうし、それはどちらにとっても良い結果にはならない。京弥は伊澄のことなど気にも留めず、ただ子どものわがままだと受け取っていた。椅子を引いて、紗雪を見ながら朗らかに声をかける。「お腹すいただろ?早く座って食べよう」今回は紗雪も拒まず、素直に席についた。向かい側には伊澄がいて、表情が次々に変わっていくのがはっきりと見える。それが妙に面白く思えて、紗雪は静かに笑った。一方の京弥は、紗雪が食卓についてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。昨日の話し合いが少しは役に立ったのかもしれない、と内心ではほっとしていた。この食事、紗雪と京弥はそれぞれに満足しながら過ごしたが、伊澄だけがまるで味を感じないままだった。顔を上げるたびに、紗雪の視線が自分に向いているのが分かる。しかもまったく逸らしてくれない。だが、それを堂々と指摘することもできず、伊澄はひたすら黙ってご飯を食べるしかなかった。最初は箸を投げて部屋を出ようとも思ったが、京弥兄の手料理だと思うと、それもできない。そんな矛盾だらけの気持ちを抱えながら、彼女はひたすらご飯をかき込んだ。その様子を眺めて、紗雪はなんだかんだで興味深く感じていた。滅多に見られるものではない。やがて、紗雪はふと目を伏せ、隣で自分のためにエビを剥いている京弥に視線を移す。まさか日向がこのことを彼に話していないとは思わなかった。彼女はてっきり、今夜は問い詰められる覚悟で帰ってきたのだ。けれど、用意していた覚悟とは裏腹に、この穏やかな雰囲気。紗雪

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第183話

    「お義姉さん、京弥兄が朝ごはん作ってくれました。少しは食べてください。もう味見してみたけど、本当に美味しいものばかりですよ」味見?じゃあこのテーブルいっぱいの料理は、伊澄の食べ残しってこと?紗雪の視線は、テーブルの上と、夢中で食べている伊澄を上下に見渡した。頭の中が「ブン」と鳴ったように気分が悪くなってきた。しかし、伊澄はまったく気付かず、ひとりで上機嫌にしゃべり続けていた。「ほんと、京弥兄のご飯を食べるのなんて久しぶり!今回鳴り城に来たからには、思いっきり食べないと!」「やめろよ。そこまで飢えていないだろうが」ちょうどそのタイミングで京弥が現れ、呆れたように言った。彼は伊澄の家庭環境を知らないわけではない。実際、彼女の家も十分に裕福だった。ただ、兄に甘やかされすぎたせいで、わがままに育っただけだ。そのことを、京弥はよく理解していた。紗雪はこの騒がしい食卓に嫌気が差していた。この雰囲気の中で、冷静に朝食を食べる気にはなれなかった。だから彼女はバッグを手に取り、外に向かって歩き出した。「外で適当に何か食べるよ。もう遅れそうだから、行ってくるね」京弥はそれを良しとせず、紗雪の前に立ちはだかった。「せっかく時間かけて作ったのに、少しは食べてよ」「それに、外食より、家で俺が作った方が安心できるだろ?」紗雪は京弥の手を頑なに振りほどいた。「いい。どれだけ不安でも、お腹を満たせれば十分。こんなごちゃごちゃした空気の中で食べたくない」その言葉は明らかに誰かを指していた。二人とも賢いので、すぐに彼女の言いたいことを理解した。どれだけ頭が鈍くても、伊澄にも分かった。この「ごちゃごちゃした空気」を作っているのが自分だということくらい。でも、名指しされているわけではない。ここで自分から口を挟んでしまえば、まるで罪を認めるようなものになる。仕方なく、伊澄は悔しさを飲み込んだ。京弥も紗雪を引き止められず、最後は諦めて「朝ごはんはちゃんと食べるんだぞ」と言葉をかけた。紗雪は軽く頷いただけで、すぐに外に出て行った。もうこれ以上、無駄な時間を使いたくなかった。「バンッ」というドアの音が響いたあと、伊澄は渋々口を開いた。「どうしてお義姉さんはあんな態度取るの?せっかく京

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第184話

    最後に伊澄は苛立ちを抑えきれず、サンドイッチをテーブルの上に叩きつけた。ここまで来ても、彼女と京弥の関係には一切の進展がない。このままじゃ、彼女の計画もまた延期せざるを得なくなる。伊澄は深く息を吸い込み、こんなやり方では駄目だと心の底から感じていた。その目が静かに動く。何か思いついたようで、内心ではすでに新たな算段を巡らせていた。紗雪は会社に着いてすぐ、日向からのメッセージを受け取った。「紗雪、昨日は本当にありがとう。妹が外で他人と口を利くなんて、初めてだったんだ」「君には分からないだろうけど、僕はすぐにそのことを両親に伝えたんだよ。二人ともすごく喜んでた。近いうちに必ず君に直接お礼がしたいって言ってた」メッセージを読むだけで、紗雪には日向の表情が目に浮かぶようだった。淡い金髪はきっと陽の光を浴びて輝いていて、瞳がキラキラと光っている。彼が妹を抱きしめて、驚きと喜びに満ちた表情を浮かべている姿が、まざまざと想像できた。その光景を思い浮かべるだけで、紗雪の胸はぽかぽかと温かくなった。彼女は日向に返信を送った。「いいのよ、そんなの。次の機会があったら、また千桜ちゃんを連れてきて。私もあの子のことが好きよ」「それと、ご両親にはお礼なんていらないから。私が何かをしたわけじゃない。千桜ちゃん自身がよくなってきただけだよ」この返信を見て、日向は「やっぱりな」と思いながら、納得したように笑みを浮かべた。紗雪は、人に恩を着せるのが好きな性格ではない。それはこの数日のやり取りの中でも、彼には十分伝わっていた。日向は柔らかな笑みを浮かべながら、スマホを操作して返信を送った。「両親の感謝を受け取ってくれないなら、せめて僕が、ちゃんとお礼をさせてもらうよ」そのメッセージを読んだ紗雪は、苦笑して、それ以上は返信しなかった。彼の性格を考えれば、何を言っても結局は変わらないのだろうと分かっていた。引き止めようとしたところで、意味がない。それなら、いずれこの恩は別の形で返せばいい。そう考えて、彼女はスマホを置き、仕事に戻った。その頃、日向の両親は彼の顔に浮かぶ笑みを見て、心の底から驚いていた。これが、うちの息子か?千桜の件が起きてからというもの、彼の顔にこんな表情が浮かぶのを見ることなん

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第185話

    神垣父は首をかしげながら言った。「本当に?あいつ、人を好きになることなんてできるのか?」「まあ、見てなさいよ。あの二川さんは、あの子にとってきっと特別な存在よ」二人は一言ずつやり取りしながら、まるで当然のように日向の想い人を紗雪だと決めてしまった。とくに神垣母は、日向のことをよく見ていた。自分の息子なのだ、分からないはずがない。この子は昔からそうだった。何かあるとすぐ逃げたがるし、大人になってからはますます顕著。小さい頃のほうがよほど可愛げがあった。日向は部屋を出たあと、外をぐるっと一周しただけだった。本当は特に用事があるわけではなかったが、あの部屋にいると、母親の視線がなんとなく気になって落ち着かなかったのだ。自然と、母親の言葉が頭をよぎる。好き?そう思った瞬間、日向の脳裏に紗雪の笑った顔、眉をひそめた表情がありありと浮かんだ。まるで映画の一場面のように、彼女の一挙一動が鮮明に脳内に再生される。そのことに気づいたとき、日向はようやく理解した。自分は、無意識のうちに彼女の細かい仕草や表情をずっと気にしていたのだ。彼の頭の中には、すでに紗雪の声や姿が深く刻まれていた。日向は小さく咳払いをして、その考えを追い払おうとした。彼女には家庭がある。軽々しく近づいて、相手の生活を乱すわけにはいかない。日向は目を伏せ、ひとつため息をついて、スタジオへと向かった。頭の中を整理するには、仕事に打ち込むしかないと思った。......紗雪は目の前の仕事を終え、時計を見てようやく気づいた。まだ退勤時間には少し早い。だが、今日の仕事内容はすべて片付けてしまっていた。それなら、少し早めに帰ってもいいだろう。そう思って家に戻った紗雪は、いつもより一時間以上早く帰宅した。家には誰もいないだろうと思っていた。だが、ドアを開けた瞬間、伊澄の部屋から声が聞こえてきた。「わぁ、京弥兄は本当に物知りだね!すごーい!」「ほんとに羨ましいなぁ、尊敬しちゃう!」そのあけすけな賞賛の声は、水のように澄んだまま紗雪の耳に飛び込んできた。もともと彼女の顔には微笑みが浮かんでいたが、声を聞いた瞬間、その笑顔は固まり、胸の奥がざわつく。なぜだか、自分でもわからないまま、思わず足音を忍ばせ、体が

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第186話

    男は部屋のドアに背を向けていたため、紗雪が外に立ち、すべてを見ていたことに気づかなかった。伊澄は視界の隅で紗雪の存在に気づいており、目が一瞬光を帯び、褒め言葉のトーンがますます大きくなる。紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、最後まで何も言わずその場を立ち去った。よく見れば、その目には冷たい光が宿っていた。伊澄の視線は常に紗雪の様子を探っており、彼女が去っていくのを確認すると、口元に浮かぶ笑みがゆっくりと広がった。京弥は不機嫌そうに言った。「プロジェクトの話をするなら、それだけにして。近づくな」そう言いながら、体を右にずらす。伊澄は目的を果たしたと感じていた。京弥が距離を取りたがるなら、それで構わない。さっきの様子を紗雪がすでに見ていたのだから。「次から気をつけるよ」伊澄は素直に答える。その従順さを見て、京弥は少し目を細め、逆に違和感を覚えた。だが、どこに違和感があるのか、自分でもはっきりとは言えなかった。「他にわからないところはある?」素直な態度に、京弥もこれ以上は何も言えなかった。伊澄は小さく首を振った。「もう大丈夫。ありがとう、京弥兄。全部わかったよ」京弥は「そう」とだけ返事をし、立ち上がって部屋を出ていこうとした。本来なら、彼は伊澄にこれらを教えるつもりはなかったが、相手がしつこく頼んできたため、仕方なく彼女の部屋に入り、プロジェクトの説明をすることになった。それに、以前に伊吹が頼んできたことも思い出した。なにせ彼女は唯一の妹だ。ここに来てまで冷たくあしらうのも気が引ける。もしこの件を伊吹に報告されたら、自分も説明がつかなくなるし、両方に気を遣わなければならない。そのとき、プロジェクトの内容をざっと見たが、特に難しいところもなく、軽く指導する程度で済んだ。それが、先ほどの出来事の発端だった。伊澄は京弥の背中を見送りながら、今回は特に引き止めなかった。彼女の目的はすでに達成されていたのだから。紗雪があの一幕を目にして、なお京弥との関係を続けようとするはずがない。以前のように仲良くできるなんて、あり得ない。伊澄はその点に大きな自信を持っていた。ここ数日紗雪と接してきたことで、彼女の性格がどんなものかも、ある程度掴めていた。伊澄は笑顔で言った。

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第187話

    どれくらいその場に立ち尽くしていたのか、自分でも分からないまま、伊澄は呟いた。「信じられない......私は絶対に、あの頃の関係に戻ってみせる。私たちこそが一番だってこと、証明してやるわ」「前はあんなに好きだったのに......どうして?なんで前みたいになれないの?一体何が変わったというの......?」伊澄の顔に浮かぶ表情は徐々に歪み、先ほどまで京弥の前で見せていた従順さは跡形もなく消え失せていた。彼女の全身には陰鬱な雰囲気がまとわりついていた。一方、京弥は部屋へと戻り、ゲストルームの前を通りかかった時、中から微かに物音が聞こえた気がした。彼はふと立ち止まり、何か違和感を覚えた。扉を開けると、案の定、中では紗雪がシャワーを浴びていた。その光景に男の目がすっと細くなり、喉仏が色っぽく上下に動いた。ただ、彼が中へと足を踏み入れようとしたその時、ふと、思い出してしまった。彼女は、昔の態度とはまるで違った。そもそも、どうして急にゲストルームで寝ることにしたんだ?考えれば考えるほど、頭の中には答えが浮かばない。ちょうどその時、シャワーを終えた紗雪が出てきて、リビングに立っている京弥の姿を目にした。彼女はバスローブを羽織ったまま、一瞬何が起きているのか分からずに固まった。「出てって。もう寝るから」その表情には何の感情も読み取れず、声も淡々としていた。京弥は眉をピクリと上げた。やっと分かった。これは間違いなく怒っている。「どうしたんだ、さっちゃん?昨日までは普通だったじゃないか」男は一歩、また一歩と彼女に近づいていく。その大きな体が天井の灯りを遮り、影が紗雪の頭上に落ちる。彼女の身体はより一層、小さく見えた。京弥の困ったような顔を見ても、紗雪はぴくりとも動じなかった。「おかしなことを言うね。私のことなんてもう放っておいて」冷ややかな視線で彼を見上げると、美しい白目をひとつくれてやり、ドライヤーを取ろうとした。もう、彼にかまう気はない。しかし、京弥は気を利かせたつもりで、ドライヤーを手に取ると「俺がやるよ、さっちゃん」と言いながらスイッチに手をかけた。その様子に、紗雪の表情はついに完全に冷えきった。「要らないって言ってるでしょ」「さっさと出てって。こんなことして

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第188話

    「どきなさいよ!」紗雪は京弥を押しのけようとしたが、男女の力の差はあまりにも大きかった。どれだけ頑張っても、男は彼女の上にまるで根を張ったように動こうともしない。やがて紗雪は力尽き、抵抗の動きもだんだん小さくなっていった。その隙をついて、京弥は彼女の両手をひとまとめにして頭上へと押さえつける。紗雪は大きな瞳を見開いて、怒ったように言った。「何をするの!?離してよ!」京弥は紗雪の耳元で低く囁いた。「さっちゃんは、わかってるのくせに......俺たちは夫婦なんだよ?」「嫌よ、放して!」これから何が起きるのか想像するだけで、紗雪はますます激しく抵抗した。そんな彼女を見て、京弥の心に傷がつく。それでも、あまりに激しく暴れる紗雪を見て、彼女を傷つけたくないという思いから、仕方なく手を離した。「一体どうしたんだ......ちゃんと話してくれないか」この時、どれだけ彼が傷ついているか、戸惑っているか、紗雪には言葉の端々から伝わってきた。「何もないわ。もう出てって。疲れたの」紗雪はそのまま突き放すように言い、自分の気持ちを一切伝えようとはしなかった。彼女の胸の中には、ひたすら自嘲の念が渦巻いていた。どうせあの男は伊澄を家に連れ込んだんだから、何が起きてもおかしくないじゃないか。それにあの子は、彼の理想の初恋なんでしょう?だったら、今さら何を気に病む必要があるの?そう思い至ったとき、紗雪は自分をぶん殴りたいくらいだった。なぜそこまで意地になってしまったのか、彼女自身にも分からなかった。京弥は、何も言わず顔を背けた紗雪を見つめ、そのまま何も言えずに部屋を出て行った。男が出て行ったあと、女はまるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。さっきの出来事を思い返すたびに、胸の奥が震える。好きな人がいるなら、なぜ最初から自分と結婚なんかした?なぜ中途半端の優しさをくれるの?紗雪にはその答えがどうしても分からなかった。そして、誰にもその答えを教えてもらえなかった。京弥は部屋を出たあと、主寝室には戻らず、そのまま車に乗って屋敷を出て行った。客間で寝ていた伊澄は、車のエンジン音を聞いて、口元に満足げな笑みを浮かべる。「やっぱりね。紗雪、あんたはきっと我慢できないと思っ

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第189話

    匠は京弥の様子を見て、内心少し驚いていた。外でこんな姿の社長を見るのは初めてだったし、何とも言えない気分だった。普段彼が知っている京弥は冷静で強く、野心的で、感情を表に出すことはない人物。だから今回のことも、やっぱり二川さんが原因なのだろうか?「社長、ちょっと飲みすぎじゃないですか?今日はもうこの辺で......?」匠は思い切って、酒を控えるように進言した。だが京弥は黒い瞳を鋭く光らせて言った。「呼び出したのは無駄話をさせるためじゃない」そのままカウンターを指さす。仕方なく、匠はため息をついて、文句ひとつ言わずにまた強い酒を取りに行った。どうせ自分はただの雇われ人で、給料を出してるのは目の前のこの人なのだ。結局、匠はその夜ずっと京弥の隣で付き合う羽目になった。時折自分も一口飲みながら、「こんな社長の下でよく今まで生きてこられたな」としみじみ感じていた。京弥の心は鬱々としていた。紗雪の態度がどうしてこうも冷たくなったり熱くなったりするのか、まったく理解できなかったのだ。......翌日、紗雪は車を運転して会社へ向かった。一睡もしておらず、顔色はやや疲れ気味。今日は少しでも印象を良くするために、わざわざナチュラルメイクを施していた。会社のビルの下に着いたとき、彼女は大きなバラの花束を抱えている加津也の姿を見かけた。その姿を見た瞬間、紗雪の心には理由もなく苛立ちが湧き上がってきた。無視してそのまま通り過ぎようとしたが、彼はわざわざ彼女の目の前に立ちふさがった。ついに我慢の限界に達した紗雪は、語気を強めて言った。「何が目的?今から仕事なの。前に警察に突っ込まれて、まだ反省してないわけ?」その言葉を聞いた瞬間、加津也の顔から笑みが少し消えた。触れられたくない過去を思い出してしまったのだ。あの時、弁護士を通じて早く出られるはずだった。なにしろ父親にとっては大きな面汚しだったから。だが、なぜか警察は強硬に彼を二、三日勾留し、それからようやく釈放した。やっとの思いで出てきた後、西山父からは「二度と問題を起こすな」と何度も釘を刺された。西山家の顔に泥を塗るな、と。だが、加津也は違う考えだった。西山家の御曹司が警察に留め置かれるほどの力を紗雪が持っていたとした

Latest chapter

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第208話

    彼女は何度もうなずいた。「安心してよ、兄さん。私は絶対に紗雪を裏切ったりしないから!」清那は車を降りると、スキップしながら去っていった。彼女がいなくなると、車内は一気に静まり返った。二人きりの空間、それに加えて最近の微妙な空気もあって、どうにも息苦しくて気まずい。京弥は無理に話題を振ろうとした。「あー、その......後部座席、もう誰もいないし、こっちの助手席に座ったらどう?」「いい。後ろの方がいい」紗雪はきっぱりと断った。一切の迷いも見せなかった。あの日、京弥が伊澄と同じ部屋にいたのを見て以来、紗雪の中の感情は複雑に絡み合っていた。彼の顔を見るだけで、自然と伊澄のことが頭に浮かぶ。まるで、自分のほうが第三者であるかのような感覚に襲われるのだ。その事実を思い出すたびに、紗雪は自分でも可笑しくなってくる。京弥はハンドルを握りしめ、低くセクシーな声で言った。「助手席から見える景色の方が、後ろよりずっと綺麗だよ」その意図は分かっていたが、紗雪は淡々と返した。「でも、後部座席よりもずっと危ない」たった一言で、京弥の言いたいことを完全に封じ込めた。紗雪は会話ができないわけじゃない。ただ、彼と話す気がないだけだった。そんな彼女のつれない態度に、京弥も最後は何も言わず、無言のまま二人は家に帰った。家に着いたとき、ちょうど伊澄が二人の姿を見て、ドキッと胸が跳ねた。まさか二人一緒に帰ってきたなんて......もしかして、もう仲直りでもした?伊澄は探るように聞いた。「お義姉さん、こんな時間に......京弥兄とどこへ?」「私たちの行動を、いちいちあなたに報告しなきゃいけないわけ?」紗雪は伊澄の目に宿る好奇心を見て、可笑しくなった。そうか、京弥はこの初恋に、堂々と自分たちの生活を覗かせてるんだね?伊澄は口を開きかけて、戸惑った表情で京弥に説明を求めた。「京弥兄、私はそういうつもりじゃないの。ただ......こんな遅くまで帰ってこなかったから、心配で......」「こんなにきつく当たるなんて......京弥兄、お義姉さんにちゃんと言ってよ、私、別に悪気があるわけじゃないんだから......」伊澄の目に涙がにじみ、まるで酷い仕打ちを受けたような悲しそうな顔をしていた

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第207話

    やっぱり正直に言うしかない。紗雪は視線の端で清那の様子を見て、彼女が何を考えているのかすぐに察した。内心で「本当に情けない」と舌打ちする。最初から清那がスパイだと分かっていたら、絶対に呼ばなかったのに。紗雪は今、そのことばかりを後悔していた。二人が車に乗り込んでからというもの、三人の間には沈黙が流れ、紗雪は未だにどうやって京弥に説明すべきか決めかねていた。そんな時、清那が口を開く。「兄さん、私を先に家まで送ってくれない?」京弥が口を開こうとした瞬間、清那は両手を合わせて懇願するような表情を見せた。「お願いだよ、兄さん。父さんと母さんには絶対に言わないで」「今後は、何でも言うこと聞くから。一生のお願い!」以前、両親に「またバーに行ったら足の骨を折るからな、二度と小遣いはやらん!」とまで言われていた彼女。今回バレたら、本当に小遣いは絶たれてしまう。そんなの、死ぬより怖い。京弥は何気なく紗雪に目をやり、わざとらしくぼそりと呟く。「誰がバーに行っていいと言った?」「自分一人で行くならまだしも、紗雪まで巻き込むとは......きっちり罰を与えなきゃな」その言葉を聞いて、清那は目を大きく見開いた。すぐに京弥の意図を悟る。彼女はすかさず紗雪の腕をつかみ、ゆさゆさと揺さぶりながら懇願する。「ねえ、紗雪も知ってるでしょ?私、本当は今日は行きたくなかったって。親友のために、自分を犠牲にしただけ!」「お願い、紗雪!兄さんに言ってあげて?」紗雪はため息をついた。京弥の探るような目と期待がこもった視線に出くわし、そして清那の潤んだ赤い目を見て、最後には観念して口を開く。「もう清那をからかわないで。ご両親にも言わないであげて。今回が最後なんだから」京弥は眉を一つ上げて、機嫌よさげに問い返す。「でも、こういうことって誰が保証してくれるんだ?なんといっても、こいつは松尾家の一人娘なんだよ?もし何かあったら、俺も責任問われるよ」そう言われて、清那はますますうつむいた。それこそが、彼女が家族にバーへ行くことを一度も言わなかった理由だった。家族は過保護すぎるほどで、危険なものからは徹底的に遠ざけられてきた。だが、清那は子供の頃からスリルのあることが大好きだった。それが、紗雪と馬が合

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第206話

    この光景を目にした途端、京弥の顔色は一気に険しくなった。もともと清那からメッセージを受け取っても、彼はまだ迷っていた。ここ数日、紗雪と彼は口論が絶えず、互いの関係が曖昧なままで、彼自身もまだ整理しきれていなかったのだ。だが今、酔いつぶれた二人が舞台の中央で男たちの視線を一身に浴びて楽しんでいる様子を目にし、京弥は猛烈に後悔した。どうしてもっと早く来なかったのかと。そう思った瞬間、彼の顔はますます暗くなり、舞台中央に歩み寄ると、片手ずつで二人をがっしりと連れ出した。最初、清那は明らかに不満そうだった。「誰よ、いったい!この私のテンションをぶち壊して!」紗雪もその言葉を聞いてスイッチが入った。誰だ、彼女の大事な親友をいじめたやつは!絶っ対許さない!その目が一瞬にして覚醒し、体を捻って抵抗し始める。「真っ昼間に何するのよ、早く離しなさいって......」だが、紗雪がその顔をしっかりと認識した瞬間、声は一気に小さくなった。清那はまだ騒いでいて、目を閉じたままだった。「やっぱりさっちゃんって私のこと本当に大好きみたいだね......感動したよ!」「安心して、私は絶対にこの男にさっちゃんを渡さない、絶対に守るから!」紗雪の頭は酒でふらふらしていて、清那の言葉が波のように何度も押し寄せる。もはや目の前にいるのが本当に京弥なのか、幻なのかさえ分からなくなっていた。周囲の人々もひそひそと話し始める。「あれ?あの男は誰だ?」「美女二人と楽しくやってたのに、なんで急に入ってきたんだよ」「もしかして悪いやつか?今どきの悪党ってそんなに堂々としてんの?」「いや、どっちかっていうとヤバい世界の人間っぽくね?あのオーラ、普通じゃないぞ」「......」周りの声が耳に入るたびに、京弥の顔はどんどん黒ずんでいった。何を言ってるのか分からなければまだしも、しっかり聞こえてしまったから、今にも誰かを殴りそうな勢いだった。「そこをどけ」その低く冷たい声に、周囲の人々も、そして暴れていた清那までも、一瞬で静まり返った。特に清那は、目が少しだけ澄んだものになり、呆然と紗雪に尋ねた。「紗雪......私なんか今、兄さんの声が聞こえた気がするんだけど?」紗雪は彼女に何も返さなかった。だが

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第205話

    セクシーな服を着た清那がその場に立っているのを見て、紗雪はすぐに駆け寄って抱きついた。「うちのかわいいさっちゃんじゃないか!」清那はぎゅっと紗雪を抱きしめながら言った。「どうしたの?誰かにいじめられた?今日はやけに甘えん坊じゃん」清那の顔には笑顔が溢れていた。紗雪に対して、彼女はもともと好感を持っていた。だが今、清那は紗雪の様子がどこかおかしいことにすぐ気づいた。いったい今回は、何があったのか。紗雪は内面の安定した人間だ。よっぽどのことがない限り、ここまで情緒が乱れることはないはずだった。「察してるでしょ。また、うちの母親」紗雪は清那の首元に顔をすり寄せながら、柔らかくていい香りのする親友の腕を引いて、一緒に座って酒を飲み始めた。「またおばさんが?やっぱりまたさっちゃんにだけ冷たい感じ?」紗雪は苦笑いを浮かべて、事の経緯を清那に話して聞かせた。今の彼女には、清那しか話せる相手がいなかった。「いつも通りだよ。会社で、緒莉の前でもあんな風に扱われた」清那は紗雪を見て、胸が痛んだ。「その場に私がいたら、絶対あんな屈辱は受けさせなかったのに!」「しかもさ、あのプロジェクトは元々さっちゃんが取ってきたんだよ?おばさん、今回は本当にやりすぎよ!」紗雪は首を横に振った。「分からないの。でも、重要なのはそこじゃない。言わなくても分かってると思うけど、あのプロジェクトに、私は多くの時間と労力をかけたんだ」彼女はまた小さく首を振る。「......つまり彼女は、全部分かった上で、わざとやったってこと」そう言ってから、紗雪はまた一杯、強い酒をぐいっと飲み干した。それを見た清那は、思わず身震いした。今の紗雪の飲み方は、以前と同じく制御が効かない。「紗雪、なんか昔の自分に戻ってない?」「え?」紗雪は眉をひそめて清那に顔を近づけた。「何て言った?」「なーんでもない」清那はそんな彼女を見ながら、胸が締めつけられるような気持ちと、どこか喝采を送りたいような気持ちが入り混じっていた。「さっちゃん、おばさんのことはもう気にしないでよ」清那は紗雪の肩を抱き、自分の胸元にもたれさせる。けれど、紗雪は何も言わなかった。黙ったまま、ただ目の前の酒をまた口に運んだ。清那はため

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第204話

    緒莉はわざとそこで言葉を止めた。誰が見ても、言いたいことは明白だった。美月は不満げに鼻を鳴らし、紗雪を睨みつける。「言いたいことは分かる。紗雪の企画が未熟だったって言いたいの?」心の中で、彼女の天秤は揺れていた。どちらに傾けるべきか、決めかねていた。「もういい」紗雪が口を開いた。「犯したミスは、自分で責任を取る」「だから?」美月は証拠を彼女の目の前に突きつけた。「もう何度もミスをしてるでしょ?この数社のメディア、業界内でもそれなりの地位があるの。彼らが報道したことについて、どう対応するつもり?」続けて、緒莉がためらいながら口を開く。「会社の評判にもう影響が出てるの。今後、会社全体を引きずるかもしれない......」怯えたように美月を見つめながら、あたかも本気で心配しているかのような口ぶりだった。緒莉の言葉を聞いて、美月は目を細めた。確かに、言っていることには一理ある。会社の利益はすべてに優先する。彼女は感情で決めるような人間ではない。美月は黙っている紗雪を見ていた。そして静かに、緒莉に視線を移す。この瞬間、美月自身も、どう感じているのか言葉にできなかった。「もういいわ。今日はこのへんにしておきましょう」美月は手を振って示す。「とにかく、この問題、早急に解決しなさい。これ以上のネガティブなニュースを見たくないの」「はい」紗雪はそう一言だけ答えると、そのまま何も言わずに部屋を出ていった。何を感じているのか、自分でも分からなかった。でも、この結末は......最初から分かっていたんじゃないか。緒莉は彼女の背中を見送りながら、口元に得意げな笑みを浮かべた。紗雪、これからが本番よ。一歩一歩、母の紗雪への信頼を崩してみせる。そうすれば、会社の地位を、いずれ手に入るんだから。緒莉は美月を振り返り、優しく声をかける。「お母さん、もう怒らないで。紗雪はまだまだ子供だから、お母さんの苦労を分かってないだけよ」「大丈夫よ。彼女の理解なんていらないわ」美月はため息をついた。「会社が正常に回ってくれさえすれば、私はそれでいい。誰かに分かってもらおうなんて思ってない」緒莉は微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。......紗雪は部

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第203話

    「お母さんは知らないだろうけど、毎日お母さんが苦労してる姿を見るたびに、心が痛くなるの。自分のふがいなさが本当に憎いよ......」緒莉の言葉に、美月の目には深い憐れみが浮かんでいた。「それは緒莉のせいじゃないわ。身体のことなんて、自分でどうこうできるものじゃないのよ」「ただ......」そう言いかけて、美月はふと口をつぐみ、立ったままの紗雪に視線をよこす。そのあとで意を決したように言葉を続けた。「権限というのは、能力のある人間に与えるべきもの。今後、慎重に考えさせてもらうわ」「なんでよ!」紗雪が思わず声を上げる。美月が緒莉をえこひいきしているのは昔からわかっていたが、まさか今回はここまで露骨にするとは思ってもみなかった。ここまであからさまになると、さすがに怒りを抑えきれない。「理由なんて必要?実力がある人間の方が選ばれる。それだけよ。あんたがやったことを見て、私がこの会社を安心して任せられると思う?」美月の口調も厳しくなり、紗雪の強情さに苛立ちを覚えていた。一方で、緒莉は「会社を任せる」という言葉に内心ぎくりとし、目を見開いた。まさか......この母は、この機に会社を紗雪に渡すつもりだった?それなら自分はどうなるの?滑稽なピエロってこと?緒莉は拳をぎゅっと握る。だめだ、絶対にそんなこと許せない。会社は彼女のものになるべきだ。最悪でも、紗雪と半分ずつでなければ。紗雪は唇を噛みしめ、内心の苦さを押し殺して言った。「じゃあ......今回のことで、社長は私に失望したってことですか?」「私を踏み台にして、今さら捨てるってこと?」「......!」美月は思わず机を叩いて立ち上がる。紗雪の反抗的な態度に血圧が一気に上がった気がした。今まで気づかなかったが、まさか彼女がここまで強情な子だったなんて。怒りに任せて口を開こうとした瞬間、緒莉が遮った。「何その言い方」緒莉はまるで紗雪の発言を心から否定するような顔をしていた。「相手はうちのお母さんなのに、会長なんて呼び方......そんなに他人行儀に分け隔てる必要ある?」「踏み台にしたなんて、聞いてて悲しくなるよ......」まるで本当に美月のためを思っているかのような、正義感にあふれた表情だった。美月

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第202話

    その言葉を聞いた瞬間、美月は怒りで顔を赤らめた。緒莉の言っていることが筋が通っていると感じたのだ。「やっぱり緒莉は気が利くわね。言う通りだわ」美月は眉をひそめ、紗雪に鋭い視線を向けた。「あんたが起こした騒ぎよ。自分で責任を取ってちょうだい」「今のあんたを見てるとね、椎名のプロジェクトを任せたのが正しい判断だったかどうか、疑問に思えてくるわ」「会長、この一件だけで、私のこれまでの努力すべてを否定しようとするなんて......それはおかしいです」紗雪は手をぎゅっと握りしめた。心の中は、不満と悔しさでいっぱいだった。この何日もの努力が、緒莉のたった数言で帳消しになるなんて......そんなの、絶対に納得できない。椎名のプロジェクトは、最初から最後まで、彼女一人の手で進めてきたものなのだ。美月は、そんな彼女の負けん気に満ちた表情にますます不快感を募らせた。「あんたがしたことを見てごらん。緒莉の方がまだマシよ。少なくとも私の気持ちを考えてくれる。それに、このプロジェクトだって、もし緒莉に任せていたら、こんな事態にはならなかったかもしれないわ」「今のあんたの力量を見てると、本当にこのまま任せていいのか、不安になるのよ」その言葉に、紗雪は思わず二歩、後ずさった。呆然とした表情で美月の顔を見つめる。ふだんは多少厳しくても、それでも母親なのだと信じていた。理解できると思っていた。だけど今の美月からは、母親としての愛情ではなく、冷たさと厳しさしか感じられなかった。「忘れないでください。このプロジェクトを勝ち取ったのは、私です」紗雪ははっきりと告げた。これは、美月が功労者を切り捨てようとしていることへの、遠回しな警告でもあった。自分が進めてきたプロジェクトを、今さら緒莉に譲るなんて。それは、自分の成果を目の前で奪い取られるということに他ならない。彼女がそれを受け入れるわけがない。絶対に、許せることではない。だが、美月は冷たく言い放つ。「今のあんたは、何の立場で私にそんな口をきくの?」「そういうつもりではありません。ただ、事実を申し上げているだけです。この件を忘れないでほしいだけです」「ふん、忘れるわけがないでしょ」美月は冷笑を浮かべた。何もかも与えてやったはずな

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第201話

    その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。

  • クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!   第200話

    これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status