京弥はただ微笑むだけで、何も答えなかった。代わりに、酢豚の一切れを紗雪の茶碗に入れた。「これも美味しいから、食べてみて」紗雪は茶碗の中の肉を見つめながら、胸の奥が複雑な感情で満たされていく。三年間も加津也と付き合っていたのに、彼は自分の好きな食べ物すら知らなかった。それなのに、京弥はただのスピード婚の相手なのに、こんなにも細やかに気を配ってくれる。その対比に、紗雪は胸がチクリと痛み、同時にじんわりとした感動が広がった。以前、加津也と食事をするときは、いつも彼が勝手に注文していた。頼むのは、決まって自分の好きなものばかり。紗雪の好みなど、一度も気にしたことがなかった。あるとき、勇気を出して「辛いものが食べたい」と言ってみたことがある。すると、加津也は眉をひそめて、「女の子が辛いもの食べてどうするんだ?肌に悪いぞ」と、面倒くさそうに言った。肌に悪い?紗雪は思わず冷笑する。そんなことを気にするふりをしながら、本当はただ単に、自分が辛いものを食べたくなかっただけだろう。そして今、目の前には、自分の好きな料理がすべて揃っている。まるで、「君の好みをちゃんと覚えているよ」と伝えるように。この「大切にされている」という感覚は、紗雪にとってあまりにも新鮮で、どこかくすぐったい。京弥は、そんな彼女のわずかな戸惑いも察したようだった。箸を置き、穏やかな声で尋ねる。「どうした?口に合わないのか?」「ううん、すごく美味しい」紗雪は慌てて首を横に振る。京弥は満足げに微笑み、「じゃあ、もっと食べて」と言って、今度は彼女のために味噌汁をよそった。「最近忙しいんだから、ちゃんと栄養を摂らないと」紗雪はそっと味噌汁を口に含む。温かな味わいが喉を通ると、冷え切っていた心まで、じんわりと温められる気がした。でも、今日のパーティーのことを考えると、なんとなく気持ちが沈んでしまう。「そういえば」紗雪は、何気ないふりをしながら尋ねた。「椎名グループの社長って知ってる?」京弥は箸を動かす手を止め、ゆっくりと彼女を見つめる。「急にどうした?」「別に......ただ、今日のパーティーの目的が、彼に会うことだったの。すごい人だって聞いたから。でも、結局最後まで姿を見せなくて」紗雪は少し気まずそうに笑
翌朝、紗雪は晴れやかな気分で二川グループのビルに足を踏み入れた。今日はシャープなカットの白いスーツを身にまとい、その凛とした装いが彼女の美しさを一層引き立てている。歩くたびに、堂々とした気迫が漂っていた。クビになったからって何だっていうの?この二川紗雪がそんなことで黙っていると思った?二川グループのエントランスに足を踏み入れると、ヒールが床を打ち鳴らし、鋭い音を響かせた。それはまるで、自分の存在を高らかに告げるかのようだった。彼女は迷うことなく俊介のオフィスへと向かった。途中、誰一人として彼女を止めようとはしなかった。受付の女性ですら、彼女の鋭い眼差しに気圧され、声をかけることすらできなかった。「バンッ!」遠慮のない勢いで扉が押し開かれ、室内に鋭い音が響き渡った。俊介は足を組み、悠々とお茶を楽しんでいた。突然の訪問者に一瞬驚いたものの、すぐに皮肉げな笑みを浮かべる。「これは驚いた。二川グループの元社員さんじゃないか。一体どういう風の吹き回し?」嘲るような口調で言いながら、視線にも侮蔑が滲んでいた。紗雪は彼の挑発に一切取り合わず、真っ直ぐデスクへと向かい、持っていた書類の束と録音ペンを乱暴に机上へと叩きつけた。「前田俊介」冷え冷えとした声が室内に響く。鋭い眼差しが、まるで刃のように相手を貫いた。「これで、十分お楽しみいただけるんでしょうか?」俊介は気軽な態度を装いながら書類を手に取った。しかし、ページをめくるにつれ、その表情が次第に険しくなっていく。そこに記されていたのは、横領の詳細な記録、さらにはセクハラの証拠音声。どれをとっても、彼の立場を完全に崩壊させるものだった。彼はわざと軽く笑い飛ばしたが、その笑いには焦りがにじんでいる。「お前、これは何のつもりだ?何かのドッキリ?」紗雪は冷笑を浮かべた。「ドッキリ?私がそんな暇人に見える?」彼を見据えながら、冷たく言い放つ。「あんたの汚い手口、全部洗いざらい調べさせてもらったわ」俊介の顔が一気に険しくなった。勢いよく立ち上がり、指を突きつけて怒鳴る。「小娘......お前、何を企んでやがる!?これは、火遊びじゃ済まねぇぞ!」「火遊び?」紗雪は臆することなく彼の目を真っ直ぐに見据えた。「どっちが火遊びをしている
この二川紗雪は、彼の想像以上に手強い相手だった。俊介の額にはじんわりと冷や汗が滲み、唇が震えて言葉が出てこない。紗雪はそれ以上無駄口を叩くことなく、くるりと踵を返し、俊介のオフィスを後にした。ヒールが大理石の床を叩くたびに、澄んだ音が響く。その音は俊介の心臓を直接叩くようで、彼の苛立ちはどんどん膨れ上がった。彼は椅子に座ったまま、怒りで全身を震わせる。何様のつもりだ?たかが貧乏くさい大学生が、自分の前でいい気になっているだと?考えれば考えるほど、俊介の胸中は煮えくり返った。彼は勢いよく立ち上がると、そのままオフィスを飛び出した。ちょうどその頃、紗雪は社員フロアに足を踏み入れていた。すると、すぐにひそひそとした囁き声が耳に入ってくる。「二川紗雪?なんでここに?辞めたんじゃなかったの?」「さあな、前田部長に泣きつきにでも来たんじゃない?」何人かの社員が顔を寄せ合い、嘲るように笑う。しかし、紗雪はそんな雑音には一切耳を貸さず、ただ自分のデスクへ向かおうと歩みを進めた。その時突然、肩を強く引かれたかと思うと、次の瞬間、頬に焼けつくような痛みが走った。「パシン!」鋭い音がオフィスに響き渡る。「このクソ女!俺を脅すなんていい度胸じゃねえか!」怒り狂った俊介が、歪んだ顔で吼える。獲物を狙う獣のような形相で、彼の瞳は怒りに燃えていた。紗雪が状況を飲み込む間もなく、二発目の平手打ちが飛んできた。激しい衝撃が頬を襲い、頭の中が一瞬真っ白になる。耳鳴りがして、視界がぐらりと揺れた。オフィス内は騒然となった。社員たちは驚愕し、誰もが息を呑んでいた。まさか、俊介が会社の中で堂々と手を上げるとは。紗雪は深く息を吸い込み、込み上げる怒りを必死に抑えた。震える指で頬を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。冷たい瞳が俊介を射抜く。「あんた、終わったな」彼女は一言一言を噛み締めるように、低く静かに言い放った。俊介は鼻で笑う。「終わった?誰を脅してんだよ?お前の手元にあるもんで、俺をどうにかできるとでも?」「言っとくがな、俺は二川お嬢様の側近だぞ?俺に手を出すってことは、彼女を敵に回すってことだ!」紗雪は冷ややかに微笑んだ。「緒莉が?あんたがここまで派手に
オフィスは瞬く間に静まり返り、まるで時間が止まったかのように、全員が目を見開いてこの光景を見つめていた。俊介は床に倒れ込み、腰を押さえながら苦しげにうめき声を漏らし、しばらくの間起き上がることすらできなかった。紗雪は手を軽く払うと、冷ややかな笑みを浮かべながら彼を見下ろした。「この前と同じ私を好きにできると思ってるの?思い知りなさい、私はそんな甘い相手じゃないわ」俊介は歯を食いしばり、痛みに顔を歪めながらも、その目には恐怖と憎悪が混ざり合っていた。まさか、あのか弱そうに見える紗雪が、こんな腕っぷしの強い女だったとは......なんとか起き上がろうとしたが、体はまったく言うことを聞かない。もがき苦しむ彼の姿は、まるで尻尾を踏まれたネズミのようだった。「二川紗雪!貴様正気か!?よくもこんなことを!絶対に訴えてやる!」俊介はヒステリックに叫んだ。紗雪は冷笑を浮かべ、つま先で彼の手の甲を軽く踏みつけた。「訴える?いいわよ、やってみなさいよ。どっちが先に終わるか、試してみよう」その眼差しには冷酷な光が宿り、まるで毒蛇が獲物を睨みつけるようだった。ちょうどその時、騒ぎを聞きつけたプロジェクトマネージャーが駆けつけ、乱れた光景を目の当たりにした。彼は顔色を変え、鋭い声で問い詰めた。「何をやってるんだ!これは一体!」紗雪は足を引き、優雅に手を払った。まるで何事もなかったかのように、落ち着き払った態度で言った。「柴田さん、ご報告です。前田が長年、私を含む女性社員に対して職場でのセクハラ行為を繰り返していました」彼女は周囲を見渡し、驚きや気まずさの表情を浮かべる同僚たちをひとりひとり見つめながら、はっきりとした声で続けた。「前田は日常的に女性社員に対し、不適切な言動や身体的接触を行い、さらには権力を利用して暗に関係を迫ってきました。ここにいる皆さんなら、心当たりがあるはずですよね?」オフィス内にざわめきが広がった。「え?前田がそんなことを......?」「そういえば、新しく入った女性社員にやたらと絡んでたな......」「前からおかしいとは思ってたけど、やっぱり......」ささやき声が次々と飛び交い、驚愕する者もいれば、納得したように頷く者もいた。俊介の顔は真っ青になり、震える指で
同じ頃、二川家の別荘では。贅を尽くしたリビングで、紗雪の母・美月(みつき)は優雅に朝食を楽しんでいた。顔には穏やかな笑みが浮かび、くつろいだ雰囲気を醸し出している。しかし、その静けさは突然響いた鋭い電話の音によって破られた。「もしもし?」美月が電話を取る。「会長、大変です!会社で事件が起きました!」「紗雪お嬢様が前田を殴りました!今、社内は大混乱です。すぐに来てください!」電話の向こうから、柴田の涙声が聞こえてくる。その焦りが電話越しにも伝わってきた。美月の表情が瞬時に険しくなり、しわ一つないはずの端正な顔に怒りが刻まれる。彼女は受話器を乱暴に置くと、まだ手をつけていない精緻な朝食など気にも留めず、バッグを掴んで別荘を飛び出した。二川家は鳴り城でも屈指の名門。美月は昔から世間体や体面を何よりも重んじていた。その紗雪が人前で社員を殴り、会社に大騒ぎを引き起こしたとなれば、彼女の面子は丸潰れだった。美月が慌ただしく会社に到着すると、オフィスはすでに修羅場と化していた。何人かの女性社員が涙ながらに俊介の悪行を訴え、その周囲には同情と怒りの視線が集まっている。一方、俊介は負傷した手を押さえ、青ざめた顔で椅子に座りながら、まだ何かを喚き散らしていた。美月はまず泣いている女性社員たちを落ち着かせ、誠意をもって対処することを約束した。その後、顔を険しくしながら紗雪を会議室へと呼び出した。「何を考えてるの!?会社で人を殴るなんて、二川家の顔に泥を塗る気なの?!」会議室に入るなり、美月は怒声を上げた。その完璧なメイクすら怒りに染まり、険しさを隠しきれない。だが、紗雪は怯むことなく、冷ややかな視線を返した。「私が?彼が女性社員にセクハラをしていたのよ。これは正当防衛よ」「正当防衛?あんなにボコボコにしておいて、それを正当防衛って言うの?」美月は怒りのあまり乾いた笑いを漏らした。「あんたには法律も母親の言うことも耳に入らないの?」「母さん、私はただ、正しいことをしただけよ」紗雪の声は落ち着いていたが、その奥には微かな皮肉が滲んでいた。「それとも、目の前で女性社員が被害を受けているのに、黙って見過ごせっていうの?」「あんた......」美月は言葉を失った。彼女は深く息を吸い込み、
一方、紗雪はアクセルを思いきり踏み込んだ。黒いスポーツカーは矢のように飛び出し、後方には排気ガスの煙がたなびいた。彼女は片手でハンドルを握り、もう片方の手で乱暴に顔を拭った。美月の怒りに満ちた顔、そして辛辣な言葉が頭から離れない。「二川家の顔に泥を塗る気なの?!」「あんたには法律も母親の言うことも目に入らないの?」その言葉は鋭い棘のように彼女の心を深く刺した。紗雪は唇を噛みしめ、さらにアクセルを踏み込む。今はただ、このすべてから逃げ出したかった。息苦しい家から。緒莉をひいきし、自分には冷淡な母親から。清那の家の前に着いたとき、彼女の手のひらは汗でびっしょりだった。清那の家は市内中心部の高級マンションにあり、紗雪は慣れた様子で車を停め、インターホンを押した。「紗雪?こんな時間にどうしたの?」清那がドアを開けると、紗雪の腫れた頬を見て、思わず息をのんだ。「ちょっと!その顔、どうしたの!?誰にやられた?」「母さんは......骨の髄まで緒莉贔屓してた!」紗雪は憤然と水を一口飲み下した。冷たい液体が喉を通るが、胸の奥の怒りは収まらない。「前田のエロジジイに謝れって言われた」清那は紗雪の話を聞くなり、怒りで飛び跳ねそうになった。「は!?あのエロジジイ、会社の女子社員に手を出したの!?しかも謝れだと!?何様のつもり!?」「紗雪、よくやった!アイツには痛い目を見せないと!ジジイのくせに社内で好き勝手やってさ、とっくに制裁されるべきだったのよ!」清那は憤慨しながらも、紗雪の顔をじっくりと観察した。「うわっ、顔がパンみたいに腫れてるし、青あざまでできてる!痛い?」紗雪は気にする様子もなく手を振った。「大したことないよ、ただのかすり傷」「かすり傷!?これが!?顔に痕が残ったらどうするの!?ダメ、薬を塗らなきゃ!」清那は強引に紗雪の腕を引っ張り、薬箱を探し始めた。「もう......確か家に薬箱があったはずなんだけど......どこだっけ?」紗雪は苦笑した。「そんなに大袈裟にしなくても、数日経てば治るよ」「何言ってんの!このままだと明日、外に出られないよ!」清那は頑として聞かず、必死に薬を探し続けた。すると、彼女は突然何かを思い出したように目を輝かせ、手を
京弥は車を飛ばし、一直線に最寄りの薬局へ向かった。店に入るなり、ありとあらゆる消炎・殺菌薬を買い漁り、トランクいっぱいに詰め込む。清那の家に到着すると、紗雪はソファに座り、冷えた水の入ったコップを抱えながらぼんやりしていた。京弥はすぐに彼女の前へと歩み寄り、赤く腫れ上がった頬を見た瞬間、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。「どうしたんだ?誰にやられた?痛い?」その声音は、普段の冷徹な椎名グループの社長とは思えないほど優しかった。紗雪は彼の突然の気遣いに戸惑い、視線をそらしてしまう。「大丈夫。ただの軽い傷よ」「軽い傷!?これが!?」横で清那が大袈裟に叫ぶ。「見てよ、この顔の腫れ方!リンゴみたいになっちゃってるじゃん!私がすぐに冷やしてなかったら、もっとひどいことになってたかもよ!」京弥の顔色がさらに暗くなり、目には深い痛みが宿る。「どうしてこんなことに?痛くないのか?見せてくれ」彼の熱のこもった視線に耐えきれず、紗雪は少し身を引く。「本当に大丈夫なの。大げさなんだから」「これで大げさ?こんなに腫れてるのに?」京弥は呆れたように言いながらも、責めることなく、ただ彼女を心配するばかりだった。清那が京弥を振り返る。「兄さん、薬は?」「車にある。取ってきてくれ」清那は急いで階下へと向かった。しかし、トランクを開けた瞬間、目を疑った。ぎっしりと詰まった薬、薬、薬!軟膏、スプレー、錠剤、消毒液、包帯まで......「ちょっ、何これ......薬局ごと買い占めてきたの......?」唖然としつつも、清那は常備薬の消炎クリームを数箱取り出し、部屋へ戻る。「俺が塗ってあげる」京弥は紗雪をそっと支え、腫れた頬に優しく薬を塗り始めた。まるで壊れ物を扱うかのような、細やかな手つき。紗雪はその優しさに戸惑い、鼓動が速くなるのを感じた。ちらりと京弥を盗み見ると、彼はひたすら真剣な表情で薬を塗っていた。そこにあるのは、ただの心配ではなく、深い愛おしさのようにも思える。心臓が高鳴る。薬の清涼感がじんわりと痛みを和らげる。彼の指先が頬をなぞるたびに、まるで羽毛が肌を撫でるような、くすぐったい感覚が広がる。紗雪は居心地の悪さに顔を背けようとするが、頬の熱が増していくば
紗雪の鼓動はさらに速くなり、頬が燃えるように熱く感じた。彼女はそっぽを向き、小さな声で言った。「本当に大したことないの。ただのかすり傷よ」「かすり傷?」京弥の声には、わずかな怒気がにじんでいた。「こんなに腫れてるのに、かすり傷?何があったのか、ちゃんと話せ」紗雪は少し躊躇ったが、会社で起きた出来事を一つ残らず話した。話を聞き終えた京弥の表情は、見るからに険しくなっていた。彼は無言でスマートフォンを取り出し、アシスタントへ電話をかける。「前田俊介という男を調べろ」その声は冷たく、いつもの穏やかな雰囲気は一切感じられなかった。まるで別人のような、威圧感のある命令口調だった。紗雪はそんな彼を見つめながら、胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じた。「京弥さん......」彼の袖をそっと引くと、軽く首を振り、疲れたような声で言う。「大ごとにしなくてもいいの。大した被害を受けたわけじゃないし」彼女は、京弥に余計な心配をかけたくなかった。京弥はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐き、彼女の意見を尊重するように頷いた。手元の薬を整え、薬箱に戻すと、優しい声で尋ねた。「まだ痛むか?」指先でそっと、腫れた頬を撫でる。紗雪は彼の手から逃げるように身を引き、首を横に振った。「もう大丈夫よ。ありがとう」京弥は視線を時計へ向けた。もうすぐ正午だった。「お腹空いてない?食事に行こう」紗雪は断ろうとしたが、タイミング悪く、腹の虫がぐぅっと鳴る。彼女は気まずそうに笑いながら、小さく頷いた。「うん」京弥が連れて行ったのは、落ち着いた雰囲気のレストランだった。彼は慣れた様子で何品かのあっさりした料理を注文し、紗雪の好みも細かく確認した。「ここ、よく来るの?」紗雪が何気なく尋ねると、京弥は軽く笑って頷いた。「ああ。以前は仕事の打ち合わせでよく使ってた」ほどなくして料理が運ばれてきた。紗雪は箸を手に取ったものの、食欲があまり湧かない。それを見た京弥は、さりげなく魚の身を箸で取って、彼女の皿にのせた。「これ、食べてみて。ここの料理は新鮮が売りなんだ」紗雪は断るのも悪くて、ひと口だけ食べた。だが、やはりすぐに箸を置いてしまう。京弥は心配そうに眉をひそめ
その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。
これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「
紗雪の対応があまりにも素早く、秘書は心の中で驚きと同時に安堵の色を浮かべた。彼女は最近昇進したばかりで、紗雪のことをそこまでよく知らなかった。今朝ニュースを見たときは、「もう終わりだ」と思ったくらいだった。だが、思った以上に紗雪はしっかりとした手腕を持っていた。その姿を見て、秘書の中でも不安が少しずつ薄れていった。しかし。二人がようやく一息つこうかというその時、さらなる事態があっという間に爆発した。まさかここまで早く連鎖反応が起きるとは、誰も想像していなかった。しばらくして、秘書はもう自分一人では収拾がつかなくなり、またしても紗雪の元へ駆け込んだ。「大変です、会長!」「先ほど見ていただいたメーカーだけでなく、その後も次々と多くの業者が納品契約を解除してきています。このままだと、今手がけているプロジェクトすべてが一時停止になりそうです!」紗雪の手がペンを持ったまま止まった。ようやく彼女も、事態の展開の早さに気づいたのだった。まるで背後に巨大な手が動いているような、そんな不穏な流れ。彼女は直感的に、これがただの風評被害ではないと感じていた。だが今は真相を探る暇もない。最優先すべきは、大手メーカーたちとの関係をどうにかして維持すること。プロジェクトが一日でも遅れれば、その分人件費と時間が無駄になる。もし納期を守れなければ、椎名にどう顔向けすればいいのか。これが最初の取引なのに、もうこんな泥を被る羽目になるとは。「まずは納品メーカーをなだめて。あと、ネットでデマを流してる連中を突き止めて。指をくわえて見てるだけってわけにはいかない」「わかりました、すぐに調査します!」秘書は慌ててその場を去った。今の彼らには、一秒たりとも無駄にできない。時は金なり。一歩間違えば、すべてが崩れていくだけ。これが大企業の背負う重圧。紗雪はネット上に出回っている情報を注意深く読み返した。何か見落としている気がしてならない。だが、それが具体的に何なのか、今の彼女には思い出せなかった。今はとにかく、秘書がメーカーと連絡を取るまで待つしかない。二川グループにとって、メーカーとの信頼関係は命綱だった。それを失えば、彼女一人で背負いきれるような損失では済まされない。しばらく
伊澄は昨日耳にした「スピード婚」という言葉を思い出し、心の奥がまるで蟻にかじられているかのようにムズムズした。今の彼女の唯一の願いは、二人が一刻も早く離婚することだった。そうすれば、兄を説得して、彼女の京弥兄と一緒に鳴り城に留まれるのだ。「そんなことはどうでもいいでしょ。私は今、共通の敵を倒すことしか考えてないわ」その言葉を聞いた加津也は、それ以上言うのをやめた。今の彼にはよくわかっていた。自分のこの協力者も、早く紗雪を潰したいと思っているに違いない。「そうですか」加津也はそう言って、一本のタバコを取り出し、伊澄に向かって美しい煙の輪を吐いた。「あとは、いくつかメディアと繋いで、この件を事実として世間に認識させればそれでいいです」伊澄は彼の口から吐かれる煙の香りと、その見事な煙の輪を見て、少し不機嫌そうに言った。「私の前でタバコを吸わないで」「それと、あなたが言ってることってそんな簡単にできるの?」加津也は軽く笑い、彼女にタバコを禁じられても、ゆっくりとその一本を吸い終えた。「はい。あとはもう、成り行きを見守ればいいだけです」「最後の勝つ組は、私たちになるでしょう」その自信に満ちた笑みを見て、伊澄の胸中にも少し安心が広がる。「私たちの初めての協力に、うまくいくことを願ってるわ」「はい。必ず勝利を」加津也は、今の伊澄が何を求めているかをよく理解していた。二人は視線を交わし、その瞳の奥には、同じく野心の炎が見え隠れしていた。......二川グループ。紗雪はオフィスで最近の業務に追われていた。そのとき、秘書が慌てた様子でドアをノックしてきた。「ドンドンドン」という音からも、その切迫感が伝わってくる。紗雪は眉をひそめ、胸の中に嫌な予感が広がった。「入って」返事を聞くや否や、相手は一切の躊躇もなく扉を開けて中に入ってきた。「会長、大変です!」その言葉を聞いた瞬間、紗雪は不快そうに言った。「大変って、どんな?」「これを見てください」息も整わないまま、秘書は手にしていたタブレットを彼女に差し出した。右目のまぶたがピクッと跳ね、紗雪の中の不安がさらに強まる。タブレットを受け取り、彼女は素早く内容に目を通した。瞳孔が、わずかに収縮する。「
「大丈夫か?」優しく、そしてどこか心配そうな男性の声が響いた。紗雪は額を押さえながら顔を上げると、無表情なまま問いかけてくる京弥の姿が目に入った。「大丈夫」京弥の顔を見ると、それ以上の言葉はもう出てこなかった。そう言って、彼女は身をかわして中へと歩を進めた。だが、京弥が紗雪の手首を掴む。彼の瞳の奥に、一瞬だけ傷ついたような光が差す。「紗雪......ちょっと話さない?」二人はそのまま、しばらく無言で向き合っていた。まるで、お互いにこの均衡を壊したくないとでも言うかのように。けれど紗雪には分かっていた。もう二人の関係は、以前のままではいられないのだと。伊澄が現れてから、彼らの時間は止まってしまった。「京弥さん......これは私自身の問題。あまり深く考えないで」紗雪は無理やりに笑顔を作った。「それに......私たち、元々スピード婚だったでしょう?お互いの親のためだったのよ。そんなに感情にこだわる意味なんてある?」その言葉に、京弥は彼女の顔から嘘の痕跡を探そうとした。だが、彼女の演技はあまりにも完璧で、違和感のかけらも見つけられなかった。「紗雪......それは、本心から?」紗雪は鼻で笑った。「本心かどうか、まずは自分に聞いたら?」そう言って、彼女は彼の手を振り払って部屋の奥へと歩いて行った。部屋の中にいた伊澄は、その様子を見て心の中で花火が上がるほど喜んだ。まさか、二人がスピード婚だったとは。しかもただの親の都合。これはチャンスだ。彼女の攻略難易度が一気に下がった!やっぱり......京弥兄は、最後には自分のものになるに決まってる!「二川紗雪......後から来たあんたごときが、私に勝てると思ってるの?」「あんたが破滅する日が待ち遠しいよ!」伊澄はその勢いのまま、加津也にメッセージを送った。「そっちはもっと頑張って。こっちは全力で合わせるから」その頃、加津也は初芽とベッドの中で交わっていた。メッセージに気づいた瞬間、動きを止める。「......え?」初芽が不満げに身を寄せる。加津也の目が一瞬暗くなるが、共通の敵のためにと気を取り直してメッセージに返信した。その様子を見て、初芽は内心で拳を握りしめながら悪態をついた。こんな
彼もすぐに手を差し出し、二人は軽く握手を交わした。それで、この協力関係は正式に成立した。なぜだか分からないが、伊澄はそれまで心の奥にあった不安が、手を握ったその瞬間、不思議と静まっていくのを感じた。加津也も続けて言った。「安心してください、神垣さん。失望させません。なんたって、共通の敵を持っているんですから」伊澄は手を引き、礼儀正しくも距離感を保った笑みを浮かべた。「そういうことなら、誠意を見せなさい。そっちはどう動くつもり?」加津也は彼女が手を引いたことに特に気を悪くすることもなく、表情を崩さずに笑みを保ったまま答える。「神垣さんの会社は二川グループとライバル関係にあります。だからこそ、海ヶ峰社からの情報には説得力があるんです」伊澄は眉を少し上げる。「続けて」「我々がやるべきことは単純です。二川グループが最も気にしているのは名声。だから、まずは外部からプレッシャーをかけて、それから内部を崩すのがベストです」「そうすれば、あとは一気に片がつきます」加津也の笑みには含みがあった。伊澄はその話を真剣に咀嚼しながら、確かに一理あると判断した。「なるほどね。じゃあ、手助けが必要なときは、直接言ってちょうだい」加津也の計画を聞きながら、伊澄は彼のやり方をある程度認めた。心の中で冷たく笑う。本当に信じられない。この世には紗雪を憎んでいる人間がこんなにもいるなんて。普段からあの人のキャラがよっぽど嫌われてるのね。だからこんなにも敵が集まる。「ちょうど一つ、頼みがあります」加津也はそう言いながら、彼女のそばまで歩み寄る。伊澄は急に距離を詰められたことで、思わず眉をひそめた。「なに?話をするなら、離れて話して。近づかないで」彼が突然立ち上がっただけでも、彼女の警戒心は強くなった。なにせ、この男は紗雪の元カレ。もし彼に何かされたら、自分は京弥哥にどう言い訳すればいい?そんな彼女の反応を見て、加津也は眉を軽く動かして、小さく笑った。「まだ私のこと、信用していないんですね。もうパートナーなんですから、信頼関係は大事ですよ」「始まったばかりで信頼できるわけないでしょ」伊澄は鼻で笑った。「初対面の相手にいきなり信頼なんて、そんな都合のいい話あるわけないじゃない」加津也
紗雪は深く息を吸い込んだ。加津也の存在がすでに仕事にまで影響を及ぼしている。これ以上放っておくわけにはいかない。次はもっと手厳しくやらなければ。前回警察に突き出したくらいじゃ、きっと十分な教訓にはならなかったのだろう。あの男は、痛い目を見てもすぐに忘れてしまう。紗雪は手首のブレスレットをくるくる回しながら、細めた目で次の一手を思案し始めた。......「西山加津也?」伊澄はその名前を聞いた瞬間、一瞬ぽかんとした。頭の中には、その人物に関する記憶がまったく浮かんでこなかった。秘書が説明する。「はい、その人は西山家の御曹司です」「どうしても神垣さんと直接話がしたいと訪ねてきていて、彼の手元には神垣さんが欲しがっているものがあると言ってました」それを聞いて、伊澄の興味が湧いた。彼女は立ち上がり、秘書を見つめた。「本当に、そう言ったの?」「ええ、自信満々に話してました。今は応接室でお待ちです」伊澄は赤い唇を上げて笑みを浮かべた。「じゃあ、どんな人物なのか見てやろうじゃない。私の興味を引くものがあるって言うなら、相当のものじゃないとね」そう言って、彼女は応接室へと向かった。どうやら加津也は、彼女の注意を引くことに成功したようだ。応接室に入ると、伊澄はそのまま彼の正面に腰を下ろした。気取らない態度で問いかける。「あなた、私の興味を引くものがあるって言ったわね?」加津也は彼女の清楚で可愛らしい容姿と、瞳の奥に潜む野心を見て、この人物はなかなかの協力者になると直感した。「もちろんです。神垣さんが二川グループと競っている関係だって、よく耳にしています」伊澄の目が一瞬だけ光を帯びたが、すぐに表情を引き締める。「それは聞いた話だけでしょう?証拠もない話を鵜呑みにしてもらっちゃ困るわ」加津也は薄く笑みを浮かべ、紗雪と一緒にいたときの写真など、証拠を差し出した。「神垣さんが狙っているのは彼女でしょう?私のターゲットもまさにその彼女です」「敵の敵は味方だって、よく言うじゃないですか。手を組んでみるのも悪くないと思いませんか?」伊澄は写真を見つめ、目が輝いた。だが次の瞬間、何か引っかかるものを感じた。もし二人が以前恋人関係だったのなら、なぜ今になって彼女を陥れようと
「ちょ、ちょっと、紗雪!」紗雪はくすっと笑った。「まあまあ、仕事のほうが大事だよ。そんなに気にしないで」円は少し考えて、確かにそうだと納得した。ふたりが話していると、紗雪のオフィスのドアがノックされた。紗雪と円は同時にそちらを見た。ノックした社員は紗雪に向かって言った。「会長、美月さんがお呼びです」紗雪の目がすっと陰った。「分かった、すぐ行く」円は隣でなんとなく察していた。「今朝の件かな?」紗雪は「うん」と短く返した。「そうかもしれない。行ってみないと分からないよ」「行ってらっしゃい。私も仕事に戻るね」ふたりはそこで別れ、紗雪はそのまま会長室へと向かった。彼女はドアをノックしたが、中から返事があるまで少し時間がかかった。中に入ると、会長は机に向かって何かを書いていた。まるで彼女が入ってきたことに気づいていないかのように、ずっと手元の作業を続けていた。紗雪はしばらく待ったが、ついに口を開いた。「会長、私に何かご用でしょうか?」美月は相変わらず彼女に目もくれず、自分の作業を続けた。まるで紗雪の存在などないかのように。紗雪はすぐに察した。母は彼女をわざと無視しているのだと。仕方なく、彼女もソファに腰を下ろし、自分の仕事を片付け始めた。その様子を見て、ついに美月がため息をついた。彼女の娘は自分に似て、頑固な性格をしている。「私が今日あなたを呼んだ理由、分かる?」「会長が何も仰らなかったので、私から勝手に推測はいたしません」紗雪は丁寧に答えた。美月は席を立ち、窓辺に立って外の車の流れを見つめながら言った。「二川グループが長年この地位を保ってこられたのは、評判を何よりも大事にしてきたからよ」その言葉を聞いた時点で、紗雪は母が何を言いたいのかすぐに理解した。「でも今朝のあの騒ぎ、あなたと元カレの件。あれはあまりにも見苦しかったわ」最後の言葉は、明らかに語気を強めていた。紗雪は目を伏せ、どう答えていいか分からなかった。「ご心配なく。私が責任を持って対処します」少し考えた末に、彼女はその一言だけを返した。美月は娘のほうを向き、冷たく言い放った。「そう、ちゃんと対処してちょうだい。会社の評判は、私たちで好き勝手にできるものじゃな
加津也がそう言い終わった後、初芽はもう何も言わなかった。黙り込んでしまった。今は口では綺麗事を並べてるけど、さっき会社で怒鳴っていたのは、他ならぬこの人じゃなかった?やっぱり肩書きなんて自分で作るものなんだな。「弁当はもう届けたから、私は先に戻るね」そう言って、初芽は加津也に別れを告げた。彼も一瞬呆気に取られたが、それ以上は何も言わなかった。加津也は「海ヶ峰建築株式会社」に目をつけ、情報を集めるうちに「神垣伊澄」という人物の存在を知った。「神垣伊澄......?」秘書がここ数日で調べたことを、余すことなく加津也に伝えた。「はい。表向きには二川紗雪と仲が良いみたいなんですが、彼女は入社当初から二川グループと関係のあるプロジェクトを担当したがってたようです」「しかも多くの案件は、二川グループから奪い取ったものだとか。この会社、もともと二川グループとは犬猿の仲だったらしいです」その話を細かく聞き終わったあと、加津也の目は輝き始めた。この神垣伊澄って、まさに彼が探していた適任者じゃないか。しかも会社の条件も申し分ない。彼にとっては「運命の人」にすら見えてきた。「この神垣伊澄に連絡を取ってくれ。彼女の詳細が知りたい」秘書がうなずいた。「わかりました」秘書が部屋を出たあと、加津也はようやく仮面を外した。鋭い目つきで一点を見据え、心の中で呟いた「お前がそんな非情だというのなら、俺ももう容赦しないから」......その頃、紗雪は二川グループに戻っていた。朝の出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。加津也という男、どうしてああもしつこいのだろう。どこへ行っても、まるでストーカーのように現れる。今ではもう、あの三年間がただの冗談に思えてきた。それどころか、目まで曇っていた気がする。そこに円が報告に来た。けれど、紗雪の様子に気づき、クスッと笑った。「紗雪、どうしたの?朝からずっとぼんやりしてるよ。紗雪らしくないなぁ」紗雪は、ぼやけていた視線にようやく焦点を戻し、バツの悪そうな笑みを浮かべた。「ううん、何でもないよ。仕事の話、続けて。聞いてるから」円は不安げな表情を崩さず、慎重に尋ねた。「朝の件、気にしてるの?」「えっ。なんでわかった?」紗雪