翌日。紗雪が会社に到着した。自分のデスクに向かうと、林檎の席のあたりから、何かを探るような視線が送られてくるのに気づいた。紗雪は気にしていないふりをし、唇の端をわずかに持ち上げる。パソコンを起動し、何事もなかったかのように席につくと、林檎の視線も少し落ち着いたようだった。その頃、林檎はUSBメモリのデータを確認していた。そこにあるのは、紗雪が作成した企画案だった。「見てなさいよ。この資料を少し手直しすれば、全部私のものよ」林檎の頭の中には完璧な計画ができあがっていた。「午後の会議でこの企画を発表すれば、二川紗雪がどうやって対抗するのか見ものだわ」「大勢の前で発表したら、プロジェクトマネージャーだって彼女を庇いきれないでしょうね!」円は林檎の視線を感じ取り、椅子をくるっと回して紗雪の方へ向き直った。小声で話しかける。「紗雪、なんか浅井の様子、おかしくない?」「どうして?」紗雪は知らないふりをする。「いや……なんていうか、ずっと紗雪のことを見てる気がするんだよね」紗雪は軽く肩をすくめた。「目は彼女のものだから、好きなだけ見ればいいよ」「他人の自由を制限することなんて、できないでしょ?」円は納得したように頷く。「まあ、それもそうだね!紗雪ってすごく綺麗だから、羨ましがってるんじゃない?」紗雪は苦笑しながら、ふと話題を変えた。「仕事に集中しましょう。この前、マネージャーに急かされてた報告書、もうまとめたの?」「あっ、やばっ!」円は小さく悲鳴を上げる。「言われるまで忘れてた!早く仕上げなきゃ!」そう言って、慌てて自分の席に戻っていった。円が去ると、紗雪の笑顔はすっと消えた。彼女は朝から気づいていた。パソコンが誰かに触られていたことに。そして、それをやったのが誰なのかも、考えるまでもなかった。きっと林檎は、午後の会議でこの企画を発表するつもりなのだろう。いいでしょう。やる気なら、こっちも付き合ってやるわ。紗雪の目に冷たい光が宿る。高いところへと持ち上げられてから落ちるのが一番痛い。その瞬間を、しっかりと見せてもらうわ。午前中、林檎はずっと興奮していた。彼女は企画案のデータを少し変更し、数字をいくつか書き換えただけで、他の部分はほぼそのままコ
それだけではなく、ぶつかった後も謝るどころか、林檎は唇を歪めて皮肉げに笑った。USBメモリの中にある企画を思い浮かべるだけで、彼女の気分は晴れやかになる。もう少しでこのプロジェクトを自分のものにし、紗雪を蹴落とせる。そうなれば、もう怖いものは何もない。この会社で、堂々と好き勝手に振る舞えるようになるはずだ。極端な言い方をすれば、このプロジェクトを手に入れた瞬間、彼女は二川グループの英雄になる。そんな立場になれば、紗雪なんて邪魔者に過ぎない。ぶつかろうが、謝らなかろうが、何の問題もない。円は驚いた表情で息を呑んだ。「何あれ!?ぶつかっておいて、一言も謝らないなんて、ありえないでしょ!?」「絶対に許せない!ちょっと言いに行く!」怒りに燃えた円は袖をまくり上げ、今にも飛び出しそうな勢いだった。しかし、その前に紗雪が素早く彼女の腕を掴み、静かに首を横に振る。「やめておけ、円」「こんな相手のために感情を無駄にする必要はない。それに、今日は大事な会議があるんだから、椎名プロジェクトの次の方針を決める方が重要よ」その言葉に、円は悔しそうに唇を噛んだ。「紗雪......わかったよ」二人は静かに席に着いた。林檎はちょうど向かい側に座っており、得意げな笑みを浮かべている。円は我慢できずに小声でつぶやいた。「何がそんなに嬉しいのか知らないけど、あんな顔、見てるだけでムカつく……」紗雪は軽く円の腕を叩き、余計なことを言わないように合図した。ここは会社だ。俊介の関係者や目が光っている者がどこに潜んでいるかわからない。下手なことを口にすれば、それこそ何をされるかわからなかった。円はすぐに口をつぐみ、手で口元を押さえた。プロジェクトマネージャーが会議を進行し、重要な話に入ると、少し声のトーンを上げた。「さて、椎名プロジェクトについて意見がある者は、企画案を持って前に出て発表してくれ」そう言いながら、プレゼン用のスクリーンの前を空ける。一応、誰にでも発表の機会があるように言ったが、実際には彼の視線はずっと紗雪を見つめていた。彼は知っている。二川家の次女は才能がある。以前提出した企画案のフレームワークが、こんなにも早く椎名側の目に留まり、評価されたことからも、それは明らかだった。椎
紗雪は何も言わず、右手で顎を支えながら、気だるそうに林檎を眺めていた。時折、気まぐれに視線を上げるその仕草は、まるで気品あふれるペルシャ猫のようだった。林檎は紗雪の表情を観察し、その余裕たっぷりな態度に思わず拳を握りしめる。いいわ。今のうちに勝ち誇っていればいい。でも、もうすぐあんたは何も言えなくなる。この企画がなかったら、マネージャーの前で一体どんな顔をするのか、楽しみだわ。林檎は堂々とステージに上がると、少し顎を上げ、自信満々に胸を張る。まるで戦いに挑む雄鶏のようだった。それを見た紗雪は、ただただおかしくて仕方がなかった。林檎がUSBメモリをパソコンに接続し、企画の内容がスクリーンに映し出される。紗雪の瞳がかすかに光を帯びる。やっぱりね。彼女の企画を盗んだのは、浅井林檎だった。だが、紗雪は特に動揺することもなく、ただ眉をわずかに上げ、口元にうっすらと笑みを浮かべるだけだった。まるで林檎の挑発的な視線など、初めから見えていないかのように。林檎は内心で歯ぎしりする。ふん、そんな余裕ぶっていられるのも今のうちよ。彼女は咳払いをし、堂々と話し始めた。「この企画は、ここ数日間、私が考え抜いて作り上げたものです。椎名の高級温泉リゾートは、某ラグジュアリーブランドとのコラボを検討するべきだと考えました。それに加えて、有名なアンバサダーを起用し、リアリティ番組を制作することで、リゾートの魅力を最大限にアピールできます」そう言って、林檎は次のページへとスライドを進める。プロジェクトの具体的な戦略が詳細に説明されると、会議室全体が静まり返った。全員が息を呑み、画面を食い入るように見つめる。まるで現実感がないほどの内容だった。プロジェクトマネージャーですら、思わず口を開く。「こ、これは……浅井君、本当に君が作った企画なのか?」林檎は不満げに眉をひそめる。「マネージャー、それはどういう意味ですか?」「このプレゼンは私が準備したんです。他に誰がいるって言うんですか?」プロジェクトマネージャーは、林檎の自信満々な表情を見つめながら、どこか違和感を覚えていた。この企画、どこかで見たことがあるような……だが、はっきりと思い出せない。何より、今この場で林檎が企画を発表している以
「この企画は浅井さんにふさわしくないからだよ」紗雪はゆっくりと立ち上がった。精緻な顔立ちは冷淡に彩られ、表情には微塵の動揺もない。まるでサーカスの道化を眺めるかのように、彼女は林檎が舞台の上で滑稽な振る舞いをする様子を見つめていた。林檎は拳を握り締め、怒りをあらわにした。「どういう意味よ?」次の瞬間、彼女の表情は険しく歪んだ。「まさか、私の企画に嫉妬してるんじゃない?だからそんなこと言うんでしょ?この器の小さい女!」林檎は最初、紗雪が立ち上がったのを見て、一瞬だけ怯んだ。だがすぐに思い出した。紗雪のデータはすでに自分が転送済みで、しかも自分が先に発表してしまったのだ。紗雪がどれだけ怒ろうと、先に出した者勝ち。もはや、彼女にはどうしようもない。プロジェクトマネージャーも紗雪の毅然とした表情を見て、目を細めた。心の中で何かを考え込んでいる様子だった。「二川さん、つまり……?」「マネージャー!」林檎は鋭い声で彼の言葉を遮った。「二川さんは今、同僚を誹謗中傷していますよ?彼女の言い分をまともに聞く必要がある?……まさか、マネージャーと二川さん、何かやましい関係でもあります?」この言葉が放たれた瞬間、会議室はざわめきに包まれた。人々の視線が一斉に紗雪とプロジェクトマネージャーに向けられる。元々保守的な性格のプロジェクトマネージャーは、この発言に顔を真っ赤にして憤った。「でたらめを言うな!」「俺は二川さんとは何の関係もない、ただの仕事仲間だ!」だが、彼の激しい反応は、周囲の人間にかえって「動揺している」と受け取られた。人々の目には、一層含みのある色が浮かび、紗雪とマネージャーの関係に疑問を抱く者も出てくる。円は焦って釈明しようとしたが、それを紗雪が制した。彼女は冷笑を漏らし、悠然と歩みを進める。堂々とした姿勢で林檎の前に立つと、彼女の視線を鋭く捉えた。洗練されたタイトなビジネススーツを纏い、凛とした雰囲気を纏う紗雪。対する林檎は派手な服装をしており、その過剰な華やかさが逆に安っぽさを際立たせていた。単体で見ればそれなりに綺麗かもしれないが、紗雪と並ぶと、その格の違いがはっきりと分かる。比べるまでもなく、そもそも土俵が違うのだ。林檎は威圧され、無意識に後ずさる。
振り払った後、紗雪は優雅な仕草でウェットティッシュを取り出し、一本一本、長い指を拭った。その動作が、林檎の怒りにさらに火をつける。気を取り直した彼女は、紗雪に詰め寄り怒鳴った。「二川紗雪!このクソ女!よくもそんなことを!絶対に許さない!」怒りで頭がいっぱいになり、自分が先に他人のアイデアを盗んだことなど、すっかり忘れていた。しかし、その時だった。プロジェクトマネージャーが林檎の腕を引き、落ち着いた口調で言った。「まあまあ、浅井君。ここは職場だぞ。そんなに騒ぎ立てるな」「二川さんにもそれなりの理由があるのかもしれない」この一言で、場の空気が変わった。紗雪は静かに口を開く。「もちろん、理由はあるわ」「浅井さんのこの企画案、もともと盗作なのよ」「嘘つけ!」林檎はまるで最後の砦を奪われたかのように叫び、声のボリュームも一段と大きくなる。「何を言ってるのよ!あんたとマネージャーこそグルになってるんじゃないの!?どうせ後ろ暗い関係でもあるんでしょ!」「ふん、それはどうかしら」紗雪はゆっくりと言葉を継ぐ。「そう言えば、浅井さんと前田さんの関係って、どういうものだったの?」「……何の話よ?」その瞬間、林檎の足元から冷たい感覚が這い上がってくる。紗雪がどうしてその名前を知っているのか、まったく見当がつかない。彼女の目は泳ぎ、紗雪と目を合わせようとしない。その様子を見て、周囲の人々もすべてを察した。今まで紗雪とマネージャーが怪しいと思っていたが、どうやら立場が逆だったらしい。紗雪は紅い唇をゆるく持ち上げ、にやりと笑う。「浅井さん、人に知られたくないことがあるなら、最初からやらないことね」「それとこの企画案も、わざわざ私に全部暴かれたいの?」その場にいた者たちは全員、察しのいい人間ばかりだ。この一言で、何が起こっているのかすぐに理解した。円が思わず声を上げる。「ってことは……紗雪の言う通り、浅井は盗作したってこと?」「でたらめ言わないで!」林檎は紗雪を睨みつける。「証拠でもあるって言うの?」そう言い切れるのは、紗雪が証拠を持っていないと確信しているからだ。だが、紗雪はそんな林檎の心中を見透かしたように、ふっと笑う。「私がこのまま黙っていると思
そう言いながら、林檎は冷笑を漏らした。「ふん、ハッタリでしょ」「証拠を見せなさいよ」紗雪はその挑発には一切取り合わず、淡々とパワーポイントを開いていく。画面に映し出されたのは、まったく新しい企画案だった。それは林檎のものより遥かに洗練され、細部に至るまで完璧に仕上げられている。さらには、すでに芸能人との契約交渉まで済んでいるという詳細な進捗も記されていた。紗雪の冷静な声が、静まり返った会議室に響く。「浅井さんが持っているもの、それは私が初期に作った案のコピー」「でも、最新版はこれです」「温泉リゾートは、高級路線だけではなく、一般家庭のニーズも考慮すべき。だからこそ、私のこの最終案は、より幅広いターゲットに向けて実現可能なものになっています」「さらに、コラボ企画についても現在進行中で、すでに一部の企業と調整を進めています」彼女の説明が終わると同時に、会場に拍手が鳴り響いた。誰もが席を立ち、心からの敬意を込めて紗雪に拍手を送る。その音は、先ほど林檎がプレゼンをしたときのものとは比べものにならないほど大きい。どちらの企画が優れているか、一目瞭然だった。それだけではない。紗雪の案を見た今、林檎がどこから自分の「企画」を持ってきたのか、誰の目にも明らかだった。「まさか、浅井ってこんな奴だったのか……」「そうだよな、普段は目立たないくせに、裏でこんなことしてたなんて」「こんな人間、関わらないほうがいい。根っからの策略家じゃないか」「アイデアを盗むようなやつを会社に置いといたら、次は機密情報を外部に漏らすかもしれないぞ」この言葉を聞いたプロジェクトマネージャーも、ようやく事態を把握したようだった。彼は紗雪に向き直り、まずは祝福の言葉をかけた。「さすが二川さんだ。君の企画は、まるで違っていた」「ありがとうございます、私はただ、自分の正しさを証明しただけです」紗雪は淡々と答えた。「そもそも、これが本来の新企画案でしたから」「それで、こいつをどうするつもりですか?」紗雪の言葉に、皆の視線が再び林檎へ向けられる。その瞬間、林檎は逃げ出したいほどの羞恥に襲われた。紗雪にバックアップがないと踏んでいたからこそ、あんなにも強気に出られたのに……だが今や、事態は完全に彼
「お願いだから許して、二川さん!本当に反省していますから!次は絶対にしないから!」「次?」紗雪は美しい瞳を細め、林檎の必死な懇願にも微塵の情けを見せなかった。彼女は、聖母のような優しさを持ち合わせているわけではない。もし彼女が事前に準備をしていなかったら、今日のこの場で、自分の潔白を証明できただろうか?さらに言えば、今日この標的になったのが自分ではなく、無力なインターンだったら?その子のキャリアは、人生は、もう終わっていたかもしれない。その考えに至った瞬間、紗雪の目の奥に冷たい光が閃いた。「い、いえ違います!二川さん、今回だけです!本当に、これが最初で最後……!」林檎は首を激しく振り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら必死に訴える。だが、周囲に同情する者は一人もいなかった。それが、彼女のこれまでの人望の結果だった。一方で、円は心の底から痛快な気分だった。紗雪が「黙って」と言ったときは、悔しくてたまらなかったが……まさか、こんな形で決定的な一撃を準備していたとは!紗雪は林檎が掴んでいた自分の服をそっと引き抜くと、マネージャーに向かって静かに言った。「浅井が心から反省しているのなら、彼女にチャンスを与えましょう」林檎は一瞬、希望の光を見た。だが、次の瞬間――紗雪の冷酷な声が響く。「彼女を解雇してください。それと……業界から締め出しましょう」最後の言葉は、一語一語、はっきりと発せられた。林檎の顔から血の気が引いていく。まるで、雷に打たれたかのように、その場に崩れ落ちた。絶望に染まったその表情は、まさに生きる屍のようだった。もう……終わりだ。全てを失っただけではない。業界全体から締め出されるということは、もう他の企業に移ることすら許されないということ。転職の道も、未来も、完全に閉ざされたのだ。マネージャーの目が輝く。確かにいい考えだ。「わかった。その通りにしよう」紗雪は林檎の横を通り、席へ戻ろうとした。しかし、その瞬間、林檎が突如立ち上がり、狂ったように紗雪に飛びかかった。「二川紗雪……!このクソ女!よくもここまで……!!」「お前なんか、地獄に落ちればいいんだ!!」「道連れにしてやるわ!!」紗雪の目が一瞬鋭く光る。素早く身
林檎は会社から放り出された。ちょうど会社の入り口前、警備員に突き飛ばされるようにして。フロントの受付たちは首を伸ばして様子をうかがい、何が起こったのかと興味津々だ。こんな光景、初めて見る。次の瞬間、警備員たちは林檎の持ち物まで投げつけるように彼女の体にぶつけた。「さっさと消えろ。二度と会社の周りに顔を出すな」そう言い捨てると、警備員は手を払うようにして、軽やかにその場を去っていった。これはすべて、マネージャーからの指示通り。完璧にやり遂げたと満足げだ。長年この仕事をしてきたが、こんなみっともない形で会社を去る人間は初めて見る。ある意味、珍しいことだ。林檎は目の前に立つフロントの二人を見た。彼女たちの視線には、嘲笑と好奇心が入り混じっている。林檎は唇を強く噛み、拳を握りしめると、心の中で復讐を誓った。今日の屈辱、決して忘れない。受付の一人が彼女の表情に気づき、軽くため息をついた。「こんなザマになっても、まだあんな目をするんだね」もう一人は呆れたように肩をすくめた。「ずっとそういう人だったじゃん。地味な格好してたから目立たなかっただけで」「私もさっき聞いたけど、今回の件、パクリが原因らしいよ。それに、前田なんかと関わってたんだって」「なるほどね」二人はひとしきり感想を述べると、外にいる林檎のことなんてどうでもいい様子だった。どうせ会社を去る人間。何を言われようと気にする必要はない。その分、二人の態度はますます遠慮がなくなった。もし以前なら、林檎は何かしら言い返していたかもしれない。だが今の彼女にそんな気力はない。反論することもできず、地面に散らばった荷物を拾い集めると、足取りも重く去っていった。車の行き交う大通りに立ち尽くす。一瞬、何をすべきかわからなくなる。だが、ダメだ。林檎は奥歯を噛み締めた。「二川紗雪……あんただけは絶対に許さない」タクシーを止めると、彼女は俊介の家へ向かった。俊介は会社をクビになって以来、新しい仕事を探すこともなく、時折加津也と連絡を取りながら、紗雪を潰す機会をうかがっていた。そんな彼のもとへ、突然林檎が飛び込んできた。予想外のことに、彼は少し驚いた。「林檎?どうしたんだ?この時間なら、会社にいるはずだろ?」その
その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。
これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「
紗雪の対応があまりにも素早く、秘書は心の中で驚きと同時に安堵の色を浮かべた。彼女は最近昇進したばかりで、紗雪のことをそこまでよく知らなかった。今朝ニュースを見たときは、「もう終わりだ」と思ったくらいだった。だが、思った以上に紗雪はしっかりとした手腕を持っていた。その姿を見て、秘書の中でも不安が少しずつ薄れていった。しかし。二人がようやく一息つこうかというその時、さらなる事態があっという間に爆発した。まさかここまで早く連鎖反応が起きるとは、誰も想像していなかった。しばらくして、秘書はもう自分一人では収拾がつかなくなり、またしても紗雪の元へ駆け込んだ。「大変です、会長!」「先ほど見ていただいたメーカーだけでなく、その後も次々と多くの業者が納品契約を解除してきています。このままだと、今手がけているプロジェクトすべてが一時停止になりそうです!」紗雪の手がペンを持ったまま止まった。ようやく彼女も、事態の展開の早さに気づいたのだった。まるで背後に巨大な手が動いているような、そんな不穏な流れ。彼女は直感的に、これがただの風評被害ではないと感じていた。だが今は真相を探る暇もない。最優先すべきは、大手メーカーたちとの関係をどうにかして維持すること。プロジェクトが一日でも遅れれば、その分人件費と時間が無駄になる。もし納期を守れなければ、椎名にどう顔向けすればいいのか。これが最初の取引なのに、もうこんな泥を被る羽目になるとは。「まずは納品メーカーをなだめて。あと、ネットでデマを流してる連中を突き止めて。指をくわえて見てるだけってわけにはいかない」「わかりました、すぐに調査します!」秘書は慌ててその場を去った。今の彼らには、一秒たりとも無駄にできない。時は金なり。一歩間違えば、すべてが崩れていくだけ。これが大企業の背負う重圧。紗雪はネット上に出回っている情報を注意深く読み返した。何か見落としている気がしてならない。だが、それが具体的に何なのか、今の彼女には思い出せなかった。今はとにかく、秘書がメーカーと連絡を取るまで待つしかない。二川グループにとって、メーカーとの信頼関係は命綱だった。それを失えば、彼女一人で背負いきれるような損失では済まされない。しばらく
伊澄は昨日耳にした「スピード婚」という言葉を思い出し、心の奥がまるで蟻にかじられているかのようにムズムズした。今の彼女の唯一の願いは、二人が一刻も早く離婚することだった。そうすれば、兄を説得して、彼女の京弥兄と一緒に鳴り城に留まれるのだ。「そんなことはどうでもいいでしょ。私は今、共通の敵を倒すことしか考えてないわ」その言葉を聞いた加津也は、それ以上言うのをやめた。今の彼にはよくわかっていた。自分のこの協力者も、早く紗雪を潰したいと思っているに違いない。「そうですか」加津也はそう言って、一本のタバコを取り出し、伊澄に向かって美しい煙の輪を吐いた。「あとは、いくつかメディアと繋いで、この件を事実として世間に認識させればそれでいいです」伊澄は彼の口から吐かれる煙の香りと、その見事な煙の輪を見て、少し不機嫌そうに言った。「私の前でタバコを吸わないで」「それと、あなたが言ってることってそんな簡単にできるの?」加津也は軽く笑い、彼女にタバコを禁じられても、ゆっくりとその一本を吸い終えた。「はい。あとはもう、成り行きを見守ればいいだけです」「最後の勝つ組は、私たちになるでしょう」その自信に満ちた笑みを見て、伊澄の胸中にも少し安心が広がる。「私たちの初めての協力に、うまくいくことを願ってるわ」「はい。必ず勝利を」加津也は、今の伊澄が何を求めているかをよく理解していた。二人は視線を交わし、その瞳の奥には、同じく野心の炎が見え隠れしていた。......二川グループ。紗雪はオフィスで最近の業務に追われていた。そのとき、秘書が慌てた様子でドアをノックしてきた。「ドンドンドン」という音からも、その切迫感が伝わってくる。紗雪は眉をひそめ、胸の中に嫌な予感が広がった。「入って」返事を聞くや否や、相手は一切の躊躇もなく扉を開けて中に入ってきた。「会長、大変です!」その言葉を聞いた瞬間、紗雪は不快そうに言った。「大変って、どんな?」「これを見てください」息も整わないまま、秘書は手にしていたタブレットを彼女に差し出した。右目のまぶたがピクッと跳ね、紗雪の中の不安がさらに強まる。タブレットを受け取り、彼女は素早く内容に目を通した。瞳孔が、わずかに収縮する。「
「大丈夫か?」優しく、そしてどこか心配そうな男性の声が響いた。紗雪は額を押さえながら顔を上げると、無表情なまま問いかけてくる京弥の姿が目に入った。「大丈夫」京弥の顔を見ると、それ以上の言葉はもう出てこなかった。そう言って、彼女は身をかわして中へと歩を進めた。だが、京弥が紗雪の手首を掴む。彼の瞳の奥に、一瞬だけ傷ついたような光が差す。「紗雪......ちょっと話さない?」二人はそのまま、しばらく無言で向き合っていた。まるで、お互いにこの均衡を壊したくないとでも言うかのように。けれど紗雪には分かっていた。もう二人の関係は、以前のままではいられないのだと。伊澄が現れてから、彼らの時間は止まってしまった。「京弥さん......これは私自身の問題。あまり深く考えないで」紗雪は無理やりに笑顔を作った。「それに......私たち、元々スピード婚だったでしょう?お互いの親のためだったのよ。そんなに感情にこだわる意味なんてある?」その言葉に、京弥は彼女の顔から嘘の痕跡を探そうとした。だが、彼女の演技はあまりにも完璧で、違和感のかけらも見つけられなかった。「紗雪......それは、本心から?」紗雪は鼻で笑った。「本心かどうか、まずは自分に聞いたら?」そう言って、彼女は彼の手を振り払って部屋の奥へと歩いて行った。部屋の中にいた伊澄は、その様子を見て心の中で花火が上がるほど喜んだ。まさか、二人がスピード婚だったとは。しかもただの親の都合。これはチャンスだ。彼女の攻略難易度が一気に下がった!やっぱり......京弥兄は、最後には自分のものになるに決まってる!「二川紗雪......後から来たあんたごときが、私に勝てると思ってるの?」「あんたが破滅する日が待ち遠しいよ!」伊澄はその勢いのまま、加津也にメッセージを送った。「そっちはもっと頑張って。こっちは全力で合わせるから」その頃、加津也は初芽とベッドの中で交わっていた。メッセージに気づいた瞬間、動きを止める。「......え?」初芽が不満げに身を寄せる。加津也の目が一瞬暗くなるが、共通の敵のためにと気を取り直してメッセージに返信した。その様子を見て、初芽は内心で拳を握りしめながら悪態をついた。こんな
彼もすぐに手を差し出し、二人は軽く握手を交わした。それで、この協力関係は正式に成立した。なぜだか分からないが、伊澄はそれまで心の奥にあった不安が、手を握ったその瞬間、不思議と静まっていくのを感じた。加津也も続けて言った。「安心してください、神垣さん。失望させません。なんたって、共通の敵を持っているんですから」伊澄は手を引き、礼儀正しくも距離感を保った笑みを浮かべた。「そういうことなら、誠意を見せなさい。そっちはどう動くつもり?」加津也は彼女が手を引いたことに特に気を悪くすることもなく、表情を崩さずに笑みを保ったまま答える。「神垣さんの会社は二川グループとライバル関係にあります。だからこそ、海ヶ峰社からの情報には説得力があるんです」伊澄は眉を少し上げる。「続けて」「我々がやるべきことは単純です。二川グループが最も気にしているのは名声。だから、まずは外部からプレッシャーをかけて、それから内部を崩すのがベストです」「そうすれば、あとは一気に片がつきます」加津也の笑みには含みがあった。伊澄はその話を真剣に咀嚼しながら、確かに一理あると判断した。「なるほどね。じゃあ、手助けが必要なときは、直接言ってちょうだい」加津也の計画を聞きながら、伊澄は彼のやり方をある程度認めた。心の中で冷たく笑う。本当に信じられない。この世には紗雪を憎んでいる人間がこんなにもいるなんて。普段からあの人のキャラがよっぽど嫌われてるのね。だからこんなにも敵が集まる。「ちょうど一つ、頼みがあります」加津也はそう言いながら、彼女のそばまで歩み寄る。伊澄は急に距離を詰められたことで、思わず眉をひそめた。「なに?話をするなら、離れて話して。近づかないで」彼が突然立ち上がっただけでも、彼女の警戒心は強くなった。なにせ、この男は紗雪の元カレ。もし彼に何かされたら、自分は京弥哥にどう言い訳すればいい?そんな彼女の反応を見て、加津也は眉を軽く動かして、小さく笑った。「まだ私のこと、信用していないんですね。もうパートナーなんですから、信頼関係は大事ですよ」「始まったばかりで信頼できるわけないでしょ」伊澄は鼻で笑った。「初対面の相手にいきなり信頼なんて、そんな都合のいい話あるわけないじゃない」加津也
紗雪は深く息を吸い込んだ。加津也の存在がすでに仕事にまで影響を及ぼしている。これ以上放っておくわけにはいかない。次はもっと手厳しくやらなければ。前回警察に突き出したくらいじゃ、きっと十分な教訓にはならなかったのだろう。あの男は、痛い目を見てもすぐに忘れてしまう。紗雪は手首のブレスレットをくるくる回しながら、細めた目で次の一手を思案し始めた。......「西山加津也?」伊澄はその名前を聞いた瞬間、一瞬ぽかんとした。頭の中には、その人物に関する記憶がまったく浮かんでこなかった。秘書が説明する。「はい、その人は西山家の御曹司です」「どうしても神垣さんと直接話がしたいと訪ねてきていて、彼の手元には神垣さんが欲しがっているものがあると言ってました」それを聞いて、伊澄の興味が湧いた。彼女は立ち上がり、秘書を見つめた。「本当に、そう言ったの?」「ええ、自信満々に話してました。今は応接室でお待ちです」伊澄は赤い唇を上げて笑みを浮かべた。「じゃあ、どんな人物なのか見てやろうじゃない。私の興味を引くものがあるって言うなら、相当のものじゃないとね」そう言って、彼女は応接室へと向かった。どうやら加津也は、彼女の注意を引くことに成功したようだ。応接室に入ると、伊澄はそのまま彼の正面に腰を下ろした。気取らない態度で問いかける。「あなた、私の興味を引くものがあるって言ったわね?」加津也は彼女の清楚で可愛らしい容姿と、瞳の奥に潜む野心を見て、この人物はなかなかの協力者になると直感した。「もちろんです。神垣さんが二川グループと競っている関係だって、よく耳にしています」伊澄の目が一瞬だけ光を帯びたが、すぐに表情を引き締める。「それは聞いた話だけでしょう?証拠もない話を鵜呑みにしてもらっちゃ困るわ」加津也は薄く笑みを浮かべ、紗雪と一緒にいたときの写真など、証拠を差し出した。「神垣さんが狙っているのは彼女でしょう?私のターゲットもまさにその彼女です」「敵の敵は味方だって、よく言うじゃないですか。手を組んでみるのも悪くないと思いませんか?」伊澄は写真を見つめ、目が輝いた。だが次の瞬間、何か引っかかるものを感じた。もし二人が以前恋人関係だったのなら、なぜ今になって彼女を陥れようと
「ちょ、ちょっと、紗雪!」紗雪はくすっと笑った。「まあまあ、仕事のほうが大事だよ。そんなに気にしないで」円は少し考えて、確かにそうだと納得した。ふたりが話していると、紗雪のオフィスのドアがノックされた。紗雪と円は同時にそちらを見た。ノックした社員は紗雪に向かって言った。「会長、美月さんがお呼びです」紗雪の目がすっと陰った。「分かった、すぐ行く」円は隣でなんとなく察していた。「今朝の件かな?」紗雪は「うん」と短く返した。「そうかもしれない。行ってみないと分からないよ」「行ってらっしゃい。私も仕事に戻るね」ふたりはそこで別れ、紗雪はそのまま会長室へと向かった。彼女はドアをノックしたが、中から返事があるまで少し時間がかかった。中に入ると、会長は机に向かって何かを書いていた。まるで彼女が入ってきたことに気づいていないかのように、ずっと手元の作業を続けていた。紗雪はしばらく待ったが、ついに口を開いた。「会長、私に何かご用でしょうか?」美月は相変わらず彼女に目もくれず、自分の作業を続けた。まるで紗雪の存在などないかのように。紗雪はすぐに察した。母は彼女をわざと無視しているのだと。仕方なく、彼女もソファに腰を下ろし、自分の仕事を片付け始めた。その様子を見て、ついに美月がため息をついた。彼女の娘は自分に似て、頑固な性格をしている。「私が今日あなたを呼んだ理由、分かる?」「会長が何も仰らなかったので、私から勝手に推測はいたしません」紗雪は丁寧に答えた。美月は席を立ち、窓辺に立って外の車の流れを見つめながら言った。「二川グループが長年この地位を保ってこられたのは、評判を何よりも大事にしてきたからよ」その言葉を聞いた時点で、紗雪は母が何を言いたいのかすぐに理解した。「でも今朝のあの騒ぎ、あなたと元カレの件。あれはあまりにも見苦しかったわ」最後の言葉は、明らかに語気を強めていた。紗雪は目を伏せ、どう答えていいか分からなかった。「ご心配なく。私が責任を持って対処します」少し考えた末に、彼女はその一言だけを返した。美月は娘のほうを向き、冷たく言い放った。「そう、ちゃんと対処してちょうだい。会社の評判は、私たちで好き勝手にできるものじゃな
加津也がそう言い終わった後、初芽はもう何も言わなかった。黙り込んでしまった。今は口では綺麗事を並べてるけど、さっき会社で怒鳴っていたのは、他ならぬこの人じゃなかった?やっぱり肩書きなんて自分で作るものなんだな。「弁当はもう届けたから、私は先に戻るね」そう言って、初芽は加津也に別れを告げた。彼も一瞬呆気に取られたが、それ以上は何も言わなかった。加津也は「海ヶ峰建築株式会社」に目をつけ、情報を集めるうちに「神垣伊澄」という人物の存在を知った。「神垣伊澄......?」秘書がここ数日で調べたことを、余すことなく加津也に伝えた。「はい。表向きには二川紗雪と仲が良いみたいなんですが、彼女は入社当初から二川グループと関係のあるプロジェクトを担当したがってたようです」「しかも多くの案件は、二川グループから奪い取ったものだとか。この会社、もともと二川グループとは犬猿の仲だったらしいです」その話を細かく聞き終わったあと、加津也の目は輝き始めた。この神垣伊澄って、まさに彼が探していた適任者じゃないか。しかも会社の条件も申し分ない。彼にとっては「運命の人」にすら見えてきた。「この神垣伊澄に連絡を取ってくれ。彼女の詳細が知りたい」秘書がうなずいた。「わかりました」秘書が部屋を出たあと、加津也はようやく仮面を外した。鋭い目つきで一点を見据え、心の中で呟いた「お前がそんな非情だというのなら、俺ももう容赦しないから」......その頃、紗雪は二川グループに戻っていた。朝の出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。加津也という男、どうしてああもしつこいのだろう。どこへ行っても、まるでストーカーのように現れる。今ではもう、あの三年間がただの冗談に思えてきた。それどころか、目まで曇っていた気がする。そこに円が報告に来た。けれど、紗雪の様子に気づき、クスッと笑った。「紗雪、どうしたの?朝からずっとぼんやりしてるよ。紗雪らしくないなぁ」紗雪は、ぼやけていた視線にようやく焦点を戻し、バツの悪そうな笑みを浮かべた。「ううん、何でもないよ。仕事の話、続けて。聞いてるから」円は不安げな表情を崩さず、慎重に尋ねた。「朝の件、気にしてるの?」「えっ。なんでわかった?」紗雪