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第4話

Author: カノン
「涼は一年前に国内の戸籍を抜いて、フランスの戸籍で優衣と向こうで籍を入れてたらしい。

それで国内に戸籍がないから、俺が代わりに離婚を申請しておいた。七日後には正式に離婚が成立する。

ただ、最近また国内の戸籍を再発行してるみたいだから、手続きが止まると自動的に婚姻が元通りになってしまう」

パキン――

手が滑ってスマホを床に落とすと、画面に細かいヒビが一気に広がった。まるで今の葵の心が、そのまま形になったみたいだった。

葵は壁にもたれかかり、そのままゆっくり床に座り込んだ。周囲のすべての音が消え去ったようで、ただ茫然と目を開けていた。

全身を覆い尽くすような痛みで、息をするたびに胸がズキズキと痛んだ。

涼が戸籍まで抜けたのは、優衣と堂々と再婚するためだったんだ。

なんて、バカみたい。

つい昨日まで、自分は台所で不器用に三周年の記念ディナーを作っていたのに。

思えば、家具を全部入れ替えたのもそのせいだったんだ。自分が選んだソファも、壁に飾った手描きの絵も、全部、あっさり消されていた。

結局、この家で余計なのは自分だったんだ。

涼が自分をここまで徹底的に裏切っていたなんて。

しばらくして、葵はゆっくりと立ち上がった。

足の甲に残る血の跡は、すっかり乾いて暗い赤に変わっていた。それはまるで、二人で歩いてきた八年の月日みたいに、最後には、何も残らない荒れ野のようだった。

スマホを手に取ると、SNSに涼が写真を投稿しているのが目に入った。

普段めったにSNSを更新しない涼が、まさかの九枚も投稿していた。

そこには、優衣と一緒に母校近くの屋台で食事をしている写真が映っている。

普段ならレストランの照明がちょっと明るすぎるだけで眉をひそめる涼が、今は優衣のために、顔をほころばせながら小皿のエビを一匹ずつ丁寧に殻をむいていた。

高級スーツの彼と、油じみたテーブルクロス。まるで世界が違うはずなのに、隣で笑う優衣がいるだけで、路地裏の大衆食堂もどこか温かな場所に見えた。

葵は指先が真っ白になるほど手に力が入るのを感じた。

思い返せば、何度も涼に「もう一度、学生時代みたいに学校の近くの屋台に行きたい」って話したことがあった。

「屋台の焼きそばは、辛さを二倍にしてもらわないと物足りない」なんて、何度もねだってみた。

でも、あの頃の涼は書類の山から顔を上げて、うんざりしたようにこう言ったものだ。

「そんなところ、何が楽しいんだ?今のお前は加賀家の奥さんなんだぞ。あんな場所、似合うと思うか?」

今なら、やっと分かる。

彼が一緒に思い出を重ねたい相手は、最初から自分じゃなかった。

葵は、そっとその写真に【いいね】を押した。

夜になっても、涼と優衣はまだ帰ってこなかった。それなのに、二人の名前はすでに話題ランキングを賑わせていた。

【加賀グループの社長、車内で新恋人とキス――そのままホテルへ】

【浮気相手は謎のARタトゥー美女】

画像はぼやけているが、涼の隣で彼に抱きつく女性の鎖骨にはっきりと「AR」のタトゥー。

誰が見ても優衣だと分かる。

胸の奥がちくりと痛むが、葵は画面を静かに閉じた。

バンッ――

突然、ドアが激しく開く音。

考える暇もなく、涼に手首を掴まれた。その力は骨がきしむほどで、痛みに思わず叫ぶ。

「何するのよ!?涼!離して!」

涼は無表情のまま、一言も発しなかった。

葵が必死に抵抗すると、涼は黙って彼女を抱き上げて、そのまま外に停めてあった送迎車へと押し込んだ。

車内でも、彼はなおも葵を強く抱きしめ、まるで自分の一部にしてしまいたいかのように、絶対に手を離そうとしなかった。

葵は、強く目を閉じた。もう、この別人のような男の顔なんて、見たくなかった。

そのとき、涼が突然彼女の顎を掴み、黒い瞳でじっと睨みつけてくる。「葵、お前、自分がどんな立場か分かってるのか?

こんなことになってるのに、一言ぐらい何か言えないのか?本当に、俺のことなんてどうでもいいのか?」

葵は、意地でも涼の視線を受け止め、唇をきつく結んだまま、一言も返さなかった。

でも、心の中では冷たく笑っていた。

何を聞けっていうの?「優衣とホテルに行ったの?」って?

「そのタトゥーは、二人の愛の証なの?」って?

そんなの、答えなんてもう分かってる。

葵はもう、二人が幸せになるなら、それでいいと思ったのに。それでもまだ、何が不満なんだろう。

ぼんやりしていると、涼の喉から微かなため息が漏れるのが聞こえた気がした。

車はやがて、高級そうなタトゥーショップの前で止まった。

涼に強く腕を引かれて店内に入ると、葵の目にまず飛び込んできたのは、優衣が椅子に座り、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、鎖骨のタトゥーを必死に消している姿だった。

痛みに体を震わせている優衣を見た瞬間、葵の胸には強烈な不安がこみ上げてくる。

思わず涼の手を振りほどき、そのまま外へ駆け出した。

けれど、ちょうど出口にさしかかったところで、黒服のボディーガードたちに行く手をふさがれてしまう。

そのとき、背後から涼の冷たい声が響いた。

「……連れてこい」

両脇を抑えられて椅子に縛り付けられ、逃げることもできない。

涼はタトゥーアーティストに命じる。

「同じ場所に、同じイニシャルを、彼女にも入れてくれ」

そう言うと、葵の髪をそっと耳にかけて、なぜか優しささえ感じる声で囁く。

「大丈夫、すぐ終わるから」

葵は涼をにらみつけて叫んだ。「涼、私は身を引くから!優衣を加賀家の奥さんにすればいいじゃない。だから、お願い、私を放して!」

どの言葉が彼の怒りを買ったのか、涼は突然、氷のような声で吐き捨てた。

「そんなこと、絶対にさせるものか!」

そう言うと、涼はくるりと背を向けて優衣のもとへ向かい、そっとハンカチを取り出して彼女の額の汗をぬぐってやる。「タトゥーなんて二度と入れるなよ。見てるだけでこっちまで痛くなる」

タトゥーの針が鋭く肌に突き刺さった瞬間、葵は絶望のあまり、そっと目を閉じた。

生理的に涙がこらえきれず、頬を伝って流れ落ちていく。

涼、どうしてこんなことを――

涼と優衣の「愛の証」みたいなアルファベットを、自分の身体に無理やり刻みつけるなんて。

屈辱、怒り、悔しさ……ありとあらゆる感情が、鋭い刃物のように心をズタズタに切り裂いていく。

そして、その瞬間、涼への最後の未練も、かすかな想いも、全部がぷつりと途切れ、心の中は静まり返った。

あの火事の中で私を背負って逃げ出した少年も、「一生一緒にいる」って言ってくれたあの人も、もうとっくに時の流れに消えてしまったんだ。

でも――まさか、涼がさらに酷いことをするなんて、思いもしなかった。
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