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第5話

Author: カノン
記者会見場で、涼の腕にしっかり抱き寄せられたまま、葵はまるで操り人形のようだった。

隣には高級ドレスを纏った優衣。完璧なメイクで微笑んでいる。

涼はマイクを受け取ると、余裕のある笑みで話し始めた。「この機会を借りて、ネット上の噂についてきちんと説明させていただきます」

カメラのフラッシュが一斉に光り、眩しさに目を細める。

その視線の中、葵の鎖骨に刻まれた「AR」のタトゥーがはっきりと映り込んでいた。

ネットに出回った写真とまったく同じ図柄。

もう、疑いの余地すら残っていない。

涼の手が腰に沿って滑り、次の瞬間、ぐっと力強く抱き寄せられる。

胃の奥がムカムカするほど嫌悪感がこみ上げてきて、必死に耐えてその腕を振り払わないままグッとこらえた。

「先日、あれは妻と自分の間に起きた誤解で……感情を抑えきれなかっただけです。どうか無実の人を責めないでください」

そう言いながら涼は優衣の方を見やり、さりげなく紹介する。

「こちらが加賀グループの新しいチーフデザイナー、荒木優衣さんです。

新たな仲間が加わり、加賀グループはさらに発展します。これからも期待してください」

拍手の中で、涼は巧みに浮気疑惑を企業アピールの場へすり替えてしまう。すべてが計算通り。

やがて記者から質問が飛ぶ。

「奥さま、そのタトゥーには特別な意味がありますか?ご夫婦のラブラブなエピソードをぜひ!」

葵は奥歯をぎゅっと噛みしめ、口元に浮かびそうになった冷たい笑いを必死でこらえた。

その隣で、涼はいかにも仲の良い夫婦を演じるように葵の肩を引き寄せ、カメラに向かって甘い笑顔を見せる。

「これは、俺たちだけの秘密です。

ラブラブな思い出ですか……」

涼は少し身をかがめ、葵の鎖骨のタトゥーにそっとキスを落とす。顔を上げると、記者たちにいたずらっぽく笑いかけた。「これなんか、どうですか?」

葵の顔は一瞬で真っ青になり、生理的な嫌悪が全身を駆け抜けた。

一体、涼は今誰にキスしてるつもりなの!?

フラッシュの嵐の中で、自分の人生が全部さらけ出されていく気がした。

その日のうちに、【加賀涼が妻のタトゥーにキス】という写真が芸能ニュースを独占した。どの見出しも愛妻家だの、一途な男だの――笑うしかない。

洗面所で一人、扉越しに記者たちの笑い声が聞こえる。

「正妻、忍耐強すぎでしょ。あの写真の女、髪の長さも全然違うのに」

「金持ちの家ってみんなそうだよね。見てみろよ、正妻は顔色悪いし、デザイナーの方は幸せオーラ全開。誰がどう見ても答え出てるじゃん」

葵は手のひらをきつく握りしめた。

でも、もう少しの辛抱だ。もうすぐ全部終わる。

会見のあと、涼は夫婦円満アピールのため、彼女をジュエリーのオークションに連れて行った。

どのジュエリーを見ても、葵が一瞬でも目を止めると、涼は「1億」と手を上げる。

あらかじめ手配されていたマスコミ各社は、すぐさま記事をアップした。【加賀グループの社長、超一流の愛のサプライズ――言葉にしなくても、すべてが愛だった】

帰りの車で、涼は自分の上着をそっとかけ、鎖骨のタトゥーを指先でなぞった。

「葵、このままずっと俺の妻でいてくれ。他の誰にも、その座は譲らせない」

葵は涼の手をそっと避けて、窓を少しだけ開け、冷たい風で強い香水の匂いを吹き飛ばした。

見事な芝居だ。

全部、別の女の「お膳立て」だったくせに。

夜の同窓会、葵は遥と隅っこの席に座った。

変わらず明るい遥の顔を見ていると、少しだけ罪悪感が和らいだ。

「遥、ごめ……」

「ダメ!」遥が素早く口をふさぐ。「謝るの禁止。あの二人にまた会ったら、私、絶対に叩きのめすから!」

葵はやっと笑顔を返し、そっと耳元で離婚の経緯とこれからの計画を打ち明けた。

遥はその話を聞いた途端、手にしていたグラスを思い切り床に叩きつけて割ってしまった。怒りのまなざしで、優衣をかばいながら酒を断っている涼を睨みつけると、勢いよく葵をぎゅっと抱きしめた。

「おめでとう、やっと地獄から解放だね!」

ふたりでしばらくお酒を飲み、そのあと葵はトイレに立った。

ちょうど焼き台の炭を交換するところに出くわした。

アルバイトの店員がトングをうまく使えず、真っ赤な炭を思いきり葵の方に落としてしまう。

「葵!」

涼の叫び声には、これまで聞いたことのないほどの焦りが滲んでいた。

だが彼が立ち上がるより早く、優衣が素早く手を伸ばし、力任せに葵を突き飛ばした。

体ごとシャンパンタワーに倒れ込み、ガラスが粉々に砕け散る音。

熱々の炭が優衣の足に直撃し、瞬く間に水ぶくれができる。

葵の腕も切れて、血がどんどん流れ出す。

それでも何とか立ち上がると、視界の先に直人の顔が見えた。

彼は驚きと怒りが入り混じった顔で駆け寄ろうとする。

「優衣!」

涼の冷たい声が会場に響き、全てを遮った。

彼は葵を見向きもせず、苦しむ優衣だけを抱き上げてそのまま会場を出ていく。

残された同級生たちは、誰もが哀れみや同情、そしてちょっとした好奇心の目を向けてくる。

葵は自分の腕を見下ろし、真っ赤な血が流れるのをただぼんやりと眺めていた。

この痛みを、ずっと忘れないようにしよう。

もう二度と、涼を愛したりしない。

遥が駆け寄ってきて、倒れそうな葵を支えながら叫ぶ。

「どう見ても、優衣はわざとだと!人助けするって言いながらシャンパンタワーに突き飛ばすなんてありえない。

こういうの、何て言うんだっけ?……ああ、『自作自演』ってやつ!

涼の頭、どこに置いてきたの?あんな分かりやすい『あざと女』すら見抜けないなんて!」

葵の心は、逆に静かだった。

航空券ももう手配した。あとはこの一週間が、早く終わってくれればそれでいい。

病院で傷口の処置を終え、家に帰る。

ゲストルームのドアを開けると、そこには涼の使っていたノートパソコンが置かれていた。

その横を通りかかった瞬間、画面が突然明るくなった。

涼のLINEの同期通知が、画面いっぱいに表示されていた。

その内容を目にした瞬間、葵の世界はまた大きく揺れ始めた。
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