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第3羽:亡霊とWebライティング(上)

last update تاريخ النشر: 2026-04-09 19:12:51

【2019年1月】東京都・港区

キヨミが自分自身を、おそろしく醜悪な存在であると認め始めたのはいつからだろう。

まだ純な乙女であるべき中学時代、とある留学生の男子と情事を重ねてからか。その恋は彼の帰国と共に終わりを迎え、深い喪失を味わった。

あるいはそれより前、無垢な童女でいた小学生のころ、友達だと思っていた女の子に、アパートの屋上から突き落とされたときからか。藪に落ちたおかげで、奇跡的に大怪我は免れた。原因そのものは、幼少期にありがちな些細な気持ちのズレだった。

物事の始まりを思い返してみてもキリがないことは、キヨミ自身もわかっている。ある宗教でも“人間は生まれながらに罪な存在である”と言っているが、別に宗教的な見解や哲学な問題にこの疑問を発展させるつもりはない。もっと個人的な話だ。

キヨミが生まれ、物心ついてから、2019年1月にいたる短い期間において。キヨミという存在を大きく決定づけた出来事は何だったのか。

キヨミはときどき考え直す。通勤中・入浴中・就寝前などタイミングもバラバラで、考え直すたび導き出される答えもさまざまだが、中でも思い出す頻度が高いのは2010年の6月。しかしその日に何が起きたのか、記憶はおぼろげだ。

きっと何か大変なことが起きたに違いないのに、思い出そうとするたび、ひどい頭痛に見舞われる。

頭痛にも耐えられる範囲で辛うじて思い出せるのは、通学中の電車の中の光景。鬱陶しい梅雨の季節、キヨミは雨に濡れた窓の外を見ている。電車はホームに停まっていて、入口の扉は開いている。けれどキヨミが待っている人物は現れず、扉は閉まってしまう。

あの駅で、キヨミは誰を待っていたのか。そしてその人物は、なぜ現れなかったのか。深く記憶を掘り起こそうとするほどに、ガンガンと、まるで金槌で内側から打ち付けられているような酷い頭痛で意識を失いそうになる。

2010年の6月に17歳だったキヨミは、この2019年の1月、25歳になってしまった。9年も経てば、重要でない過去の出来事などほとんど忘れ去られる。

けれど、思い出そうとするたび頭痛を引き起こすこの記憶は、「9年の月日を経て忘れてしまった」のではない。自らの人格形成をする上であまりに重要な出来事の一つだったのに、「9年もの長きにわたって封印されている」。そう表現する方が正しい。

単なる物忘れではなく、記憶喪失か。それとも呪いでもかけられたのかもしれない。

呪い。実にオカルト的な表現だが、その言葉が一番適切な気がする。

「ぜんぶ私が忘れさせてあげる。私だけを見て」

失われた記憶をたどろうとするとき、必ず頭の中に聞こえる声がある。アズサの声だ。呪いをかけたのは彼女だろうか? 何のために? 恋人に呪いをかけたのだとすれば、よほどのことであるに違いない。元・恋人の記憶か。まさか。それなら中学時代の留学生との恋も忘れさせてくれなければ困る。

何を忘れたのか。誰を忘れさせられたのか。だめだ、それ以上考えれば脳が煮えたぎりそうになる。つながりすぎた蛸足配線がショートしてバチンと火花が飛び散るように、キヨミのシナプスとシナプスも焼け切れそうになる。

決して、忘れてはいけない記憶だったはずだ。一生大事にしていくと誓った記憶だったとすら思える。それを、ほんの一時期の快楽に身を委ねて失ってしまうなんて。アズサとの思い出は、それと比べてしまえばちょっとした型落ちのAVアダルトビデオのようなものだ。

あの恋は、キヨミの心に何もポジティブなものは残さなかった。記憶と感情を奪い去り、キヨミの人格というものを不安定にさせる、ドラッグなような恋愛だった。

一生かけて背負っていくべきほどの罪だ。その罪の重さを感じながら、キヨミは自身を“おそろしく醜悪な存在”と考えるに至っている。

「イチノセさん、この商品のPR記事、書ける? 今日の15時公開したいんだけど。外注ライターのカネコさんかマヤマさんに依頼出しといてもいいから。多分、2人とも手、空いてると思うから」

デスクの向こうから編集長の声が飛んでくる。キヨミはモニターから目を離し、ゆっくりと首を振った。

「私が書きます。15時までに仕上げますので」

「ほんとに? 無理してない?」

「大丈夫です。慣れてますから」

編集長は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は追及せずに自分の席に戻っていった。

キヨミは再び画面に向き直る。今日のテーマは、あるコスメブランドの新作リップ。白いテキストエディタが、彼女をじっと見つめ返している。

道中ヘルベチカ

※2026/6/13 16:03(JST)更新

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