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第4羽:亡霊とWebライティング(下)

last update publish date: 2026-04-10 18:00:16

大丈夫、書くと言っても、まったくゼロから始めるわけではない。取材はすでに済ませてあり、ライターが書いた一次原稿も上がっている。キヨミの仕事は、それを「読んで気持ちよくなる記事」に整えることだ。

他人の文章を直すのは、簡単だった。

「この表現、ちょっと弱いな」「ここはもっと感情を煽った方がいい」「読者が『欲しい!』と思う言葉を足そう」

指は自然にキーボードを叩く。赤入れを入れ、推敲を重ね、14時には初稿を完成させ、WordPressにアップロードした。

「できました。レビューお願いします」

編集長に報告すると、すぐに「サンキュー! 助かったわ〜」と返ってくる。

初稿には、「てにをは」や句読点など細かい修正を加えられただけで、15時の予約投稿状態に切り替わった。直されたところを確認するが、別に文法的に誤っていたわけではない。

「“T社から新作リップが発売されます”より、“T社から新作リップが発売です”の方が、ワクワク感が伝わっていいんじゃない?」

修正理由のコメントのひとつを見ると、そう記載されていた。

なるほど、ワクワク感。正直、直された文の方が、文法的な違和感を感じたのだが。まるで「新作リップ」自身が意志を持って、「発売」に至ったような書き方だ。しかし“ワクワク感”と言われたらそれが正義のような気がする。

ただ、どちらにしても細かいことのように思える。入社したばかりの頃は、構成から何から丸っきり変えられてしまい、ほとんどキヨミの書いた文章など残らなかったこともあった。今のレビューは、重箱の隅をつついているようだ。

別にそれでも今では気にならなくなった。チェックする人間は、何か一つでも直さないと、「仕事をした気にならない」のだろう。修正されることで、また一つ「見せ方」を学ぶことができる。そしてチェックする側の人間にも、「若い子に教えてあげた」という満足感を与えることができる。

キヨミは小さく息を吐く。総合的に見て、今の仕事はラクだ。他人の言葉を磨くだけなら痛みは伴わない。自分の心を抉り出す必要もない。

けれど、ふと視線を落とすと、自分のデスクトップに、限りなく縮小された別のウィンドウがあった。

そこには真っ白なテキストファイルが開いたままだった。タイトル欄には、まだ何も書かれていない。

キヨミはマウスを動かし、そのウィンドウを最大化してみた。カーソルが点滅している。……何も浮かばない。

取材で「これだけは絶対に書こう」と思ったフレーズはいくつもあったはずなのに、いざ白紙を前にすると、指が震え始める。喉の奥が熱くなり、胸の奥がざわつく。まるで、誰かに「書くな」と命じられているような感覚。

アズサの声が、耳の奥で蘇る。

“モノカキなんて、卑しいことはしちゃだめ。それは奴隷のやることです。私たちみたいな貴族は、奴隷の書いたモノを読んでればいい”

キヨミは慌ててそのウィンドウを最小化し、ブラウザのタブを開いた。仕事用のSlackやメールチェックに逃げる。

編集者という仕事は、確かにラクでいい。他人の文章を直すことはいくらでもできる。キヨミは編集者の仕事に誇りを抱いていた。少なくとも、誰かの言葉を「より良くする」ことで、少しは誰かの役に立てている気がしたから。

しかし、この仕事を一生続けていくのか――そう考えると、答えの出ない迷宮に囚われたような気持ちになってしまう。

自分の言葉で、何かを生み出したい。

でも、それができない。

なぜなら、キヨミの中には「書くこと」に対する根源的な恐怖が巣食っているからだ。書けば何かが壊れる。書けば、大切な何かを再び失うような気がしてならない。

窓の外では、港区のビル群が冷たく光っていた。キヨミは目を細める。

しばらく外の景色を堪能した後、再び白いテキストファイルを開いた。カーソルが、じっと彼女を待っている。指をキーボードに置く。けれど、打てる文字は一つもない。

代わりに頭痛がゆっくりと這い上がってくる。誰かの記憶。誰かの死。屋上。血。雨。叫び声。息が詰まりそうになる。まるで亡霊にでもとりつかれているみたいに。

思い出せない。

思い出してはならない。

キヨミは両手でこめかみを押さえ、深く息を吐いた。そして、深く吸い込む。少しだけ心拍数が上がっているが、大丈夫、苦しくない。

苦しく……なぜそんな平気でいられるのか。もっと苦しむべきではないのか。

“私は……おそろしく醜悪な存在だ”

その言葉を、声に出さずに心の中で繰り返す。

それが今の自分に許された、唯一の「創作」だった。

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