LOGIN大丈夫、書くと言っても、まったくゼロから始めるわけではない。取材はすでに済ませてあり、ライターが書いた一次原稿も上がっている。キヨミの仕事は、それを「読んで気持ちよくなる記事」に整えることだ。
他人の文章を直すのは、簡単だった。「この表現、ちょっと弱いな」「ここはもっと感情を煽った方がいい」「読者が『欲しい!』と思う言葉を足そう」指は自然にキーボードを叩く。赤入れを入れ、推敲を重ね、14時には初稿を完成させ、WordPressにアップロードした。「できました。レビューお願いします」編集長に報告すると、すぐに「サンキュー! 助かったわ〜」と返ってくる。初稿には、「てにをは」や句読点など細かい修正を加えられただけで、15時の予約投稿状態に切り替わった。直されたところを確認するが、別に文法的に誤っていたわけではない。「“T社から新作リップが発売されます”より、“T社から新作リップが発売です”の方が、ワクワク感が伝わっていいんじゃない?」修正理由のコメントのひとつを見ると、そう記載されていた。なるほど、ワクワク感。正直、直された文の方が、文法的な違和感を感じたのだが。まるで「新作リップ」自身が意志を持って、「発売」に至ったような書き方だ。しかし“ワクワク感”と言われたらそれが正義のような気がする。ただ、どちらにしても細かいことのように思える。入社したばかりの頃は、構成から何から丸っきり変えられてしまい、ほとんどキヨミの書いた文章など残らなかったこともあった。今のレビューは、重箱の隅をつついているようだ。別にそれでも今では気にならなくなった。チェックする人間は、何か一つでも直さないと、「仕事をした気にならない」のだろう。修正されることで、また一つ「見せ方」を学ぶことができる。そしてチェックする側の人間にも、「若い子に教えてあげた」という満足感を与えることができる。キヨミは小さく息を吐く。総合的に見て、今の仕事はラクだ。他人の言葉を磨くだけなら痛みは伴わない。自分の心を抉り出す必要もない。けれど、ふと視線を落とすと、自分のデスクトップに、限りなく縮小された別のウィンドウがあった。そこには真っ白なテキストファイルが開いたままだった。タイトル欄には、まだ何も書かれていない。キヨミはマウスを動かし、そのウィンドウを最大化してみた。カーソルが点滅している。……何も浮かばない。取材で「これだけは絶対に書こう」と思ったフレーズはいくつもあったはずなのに、いざ白紙を前にすると、指が震え始める。喉の奥が熱くなり、胸の奥がざわつく。まるで、誰かに「書くな」と命じられているような感覚。アズサの声が、耳の奥で蘇る。“モノカキなんて、卑しいことはしちゃだめ。それは奴隷のやることです。私たちみたいな貴族は、奴隷の書いたモノを読んでればいい”キヨミは慌ててそのウィンドウを最小化し、ブラウザのタブを開いた。仕事用のSlackやメールチェックに逃げる。編集者という仕事は、確かにラクでいい。他人の文章を直すことはいくらでもできる。キヨミは編集者の仕事に誇りを抱いていた。少なくとも、誰かの言葉を「より良くする」ことで、少しは誰かの役に立てている気がしたから。しかし、この仕事を一生続けていくのか――そう考えると、答えの出ない迷宮に囚われたような気持ちになってしまう。自分の言葉で、何かを生み出したい。でも、それができない。なぜなら、キヨミの中には「書くこと」に対する根源的な恐怖が巣食っているからだ。書けば何かが壊れる。書けば、大切な何かを再び失うような気がしてならない。窓の外では、港区のビル群が冷たく光っていた。キヨミは目を細める。しばらく外の景色を堪能した後、再び白いテキストファイルを開いた。カーソルが、じっと彼女を待っている。指をキーボードに置く。けれど、打てる文字は一つもない。代わりに頭痛がゆっくりと這い上がってくる。誰かの記憶。誰かの死。屋上。血。雨。叫び声。息が詰まりそうになる。まるで亡霊にでもとりつかれているみたいに。 思い出せない。思い出してはならない。キヨミは両手でこめかみを押さえ、深く息を吐いた。そして、深く吸い込む。少しだけ心拍数が上がっているが、大丈夫、苦しくない。苦しく……なぜそんな平気でいられるのか。もっと苦しむべきではないのか。“私は……おそろしく醜悪な存在だ”その言葉を、声に出さずに心の中で繰り返す。それが今の自分に許された、唯一の「創作」だった。キヨミの目が見開かれる。頭の中が真っ白になる。アズサはゆっくり顔を離し、キヨミの瞳をまっすぐ見つめた。その瞳は、暗闇の中で宝石のように輝いていた。「私たち、恋人同士にならない?」映画のストーリー以上にわけのわからない展開に、キヨミは何も答えられない。ただ熱く残る唇の感触を、どう受け止めれば良いのかわからない。アズサは満足げに微笑むと、再びキヨミの肩を引き寄せ、もう一度、深く長いキスをする。アズサの舌が口の中に侵入し、キヨミの舌に絡んでくる。大人のキスだ。経験したことがないわけではない。ただ、その日初めて会話を交わした者同士でやってよい行為なのか。とっさにキヨミはアズサの体を押しのけた。唇が離れ、「おっと」とアズサの口から漏れる。「なぁに? 嫌だった?」アズサはニヤニヤしている。キヨミの心臓は、ドクンドクンと大きく脈打っている。何も答えられない。「黙っちゃって。嫌だった……にしては、判断遅すぎかな」アズサのツッコミは正しい。一緒に映画観て、1度キスをし、2度目でようやく拒絶。まるでずっと思考が麻痺していて、ようやく我に返ったようだ。仮にその通りだとしても、そんなことを言い訳にはできない。「まぁ、何も反応がないのも困るけどね。お人形さんなのかなとか思っちゃった」アズサはそう続けた。お人形さん。褒めてるのか、バカにしているのか。「どうして私なんですか?」キヨミはようやく言葉を返す。アズサは「どうしてって……うーんと、可愛いと思ったから?」と答える。「他にも、いるんですか?」質問を重ねると、一瞬キョトンとしたアズサだったが、「他にも……あ、他にも恋人いるのかってこと? やばっ、今の誘い方、そんなにチャラかった?」チャラい。確かに、ポップに表現するならそうだ。普通、いきなりキスはしてこない。それも、2度も。「まぁ、最近まで付き合ってはいたけど、今はフリーだよ。君は? もしかしてすでに付き合っている人とかいた? ええと……イチノセキヨミちゃん、だよね」名前……まだ、名乗っていなかったハズだが。そうか、破られたノートに書いてあったのを見ていたのだろう。「いえ……いないですけど。ただ、同性の恋人なんて持ったことないですし……しかもそれが、フカミ先輩なんて……」「あれ、フカミって……私の苗字、名乗ったっけ」「だ、誰でも知ってますよ、うちの
【2010年7月】静岡県・三島市アズサは、キヨミの前に唐突に現れたわけではない。むしろ一つ年上のその先輩の存在感は、キヨミが高校に入学したときから常にそこにあった、と言った方が正しいだろうか。2009年、キヨミがこの市立高校に入学した年、アズサは生徒会長を務めていた。弁論大会では県大会を制し、全国大会でも優勝。さらにその年の秋、とある文芸雑誌の新人賞を高校生ながら獲得し、全国的にその名を轟かせた。校内放送で名前が呼ばれるたび、廊下ですれ違うだけで後輩たちが息をひそめるほどの存在。学校内で彼女を知らない者はいない、と言えるほどの有名人だった。そんなアズサが、キヨミに初めて声をかけてきたのは、市立図書館だった。7月の蒸し暑い午後。キヨミはいつものように窓際の席に座り、ノートに走り書きをしていた。図書室は静かで、かすかなエアコンの音だけが響いている。「勉強しているのかと思ったら、なあにそれ、詩でも書いてるのかしら」聞き覚えのある、どこか甘く澄んだ声。キヨミが顔を上げると、そこにアズサが立っていた。長い黒髪を一つにまとめ、白いブラウスに紺のスカートという制服姿が、まるで絵画から切り取られたように整っている。唇の端に、わずかな笑みが浮かんでいた。キヨミは慌ててノートを閉じようとしたが、アズサの細い指が素早くそれを押さえた。「見せてごらんなさい」拒否する間もなく、ノートはアズサの手に移っていた。彼女はゆっくりとページをめくり、ある一節で指を止めた。「なかなか面白い文章を書くのね」アズサの声は、褒めているようでありながら、どこか上から目線だった。「特にこの文章が好き」示されたのは、次の言葉だった。“人は死んでも、あの世なんて場所にはいかない。魂など存在しない。ただ終わるだけだ。物が壊れ、捨てられて無くなるのと何も変わらない。そう思うからこそ、人は美しい。”キヨミの頰が、かあっと熱くなった。自分の書いたものが誰かに読まれること自体が初めてに近く、ましてや「好き」とまで言われるなんて。「ありがとう……ございます」少し照れる様子を見せるキヨミ。しかしその直後、ショッキングな出来事は起こった。目の前で、アズサが無造作に、キヨミがポエムを書いたページをビリビリと引き裂いたのだ。「でも、こんなことしちゃあ駄目」破られ、机の上に散らばる紙片に、キヨ
大丈夫、書くと言っても、まったくゼロから始めるわけではない。取材はすでに済ませてあり、ライターが書いた一次原稿も上がっている。キヨミの仕事は、それを「読んで気持ちよくなる記事」に整えることだ。他人の文章を直すのは、簡単だった。「この表現、ちょっと弱いな」「ここはもっと感情を煽った方がいい」「読者が『欲しい!』と思う言葉を足そう」指は自然にキーボードを叩く。赤入れを入れ、推敲を重ね、14時には初稿を完成させ、WordPressにアップロードした。「できました。レビューお願いします」編集長に報告すると、すぐに「サンキュー! 助かったわ〜」と返ってくる。初稿には、「てにをは」や句読点など細かい修正を加えられただけで、15時の予約投稿状態に切り替わった。直されたところを確認するが、別に文法的に誤っていたわけではない。「“T社から新作リップが発売されます”より、“T社から新作リップが発売で
【2019年1月】東京都・港区キヨミが自分自身を、おそろしく醜悪な存在であると認め始めたのはいつからだろう。まだ純な乙女であるべき中学時代、とある留学生の男子と情事を重ねてからか。その恋は彼の帰国と共に終わりを迎え、深い喪失を味わった。あるいはそれより前、無垢な童女でいた小学生のころ、友達だと思っていた女の子に、アパートの屋上から突き落とされたときからか。藪に落ちたおかげで、奇跡的に大怪我は免れた。原因そのものは、幼少期にありがちな些細な気持ちのズレだった。物事の始まりを思い返してみてもキリがないことは、キヨミ自身もわかっている。ある宗教でも“人間は生まれながらに罪な存在である”と言っているが、別に宗教的な見解や哲学な問題にこの疑問を発展させるつもりはない。もっと個人的な話だ。キヨミが生まれ、物心ついてから、2019年1月にいたる短い期間において。キヨミという存在を大きく決定づけた出来事は何だったのか。キヨミはときどき考え直す。通勤中・入浴中・就寝前などタイミングもバラバラで、考え直すたび導き出される答えもさまざまだが、中でも思い出す頻度が高いのは2010年の6月。しかしその日に何が起きたのか、記憶はおぼろげだ。きっと何か大変なことが起きたに違いないのに、思い出そうとするたび、ひどい頭痛に見舞われる。頭痛にも耐えられる範囲で辛うじて思い出せるのは、通学中の電車の中の光景。鬱陶しい梅雨の季節、キヨミは雨に濡れた窓の外を見ている。電車はホームに停まっていて、入口の扉は開いている。けれどキヨミが待っている人物は現れず、扉は閉まってしまう。あの駅で、キヨミは誰を待っていたのか。そしてその人物は、なぜ現れなかったのか。深く記憶を掘り起こそうとするほどに、ガンガンと、まるで金槌で内側から打ち付けられているような酷い頭痛で意識を失いそうになる。2010年の6月に17歳だったキヨミは、この2019年の1月、25歳になってしまった。9年も経てば、重要でない過去の出来事などほとんど忘れ去られる。けれど、思い出そうとするたび頭痛を引き起こすこの記憶は、「9年の月日を経て忘れてしまった」のではない。自らの人格形成をする上であまりに重要な出来事の一つだったのに、「9年もの長きにわたって封印されている」。そう表現する方が正しい。単なる物忘れではなく、記憶喪失か。それと
“この仕事はね、本能的に「感じる」ことのできる人間にしか続けられない。ただエッチが好きなだけじゃダメ。相手によって感覚が鈍るような、ただの女には無理。「ビッチ」になるの。身も心も「ビッチ」になりなさい。長く続けたいならね”初日の講習で、そう言われたことを思い出す。ああ、やはり自分には、この仕事が向いていたのかもしれないという気持ちになる。「気持ちいい?」「ああ、はい、気持ちいい、です」「うそ。初めてなのに、わかる?」まだ少し戸惑うような表情の客を見ながら、キヨミはイジワルを言う。それも、講習で習ったテクニックの一つだ。「わか、わかると、思います」「ほんとうに? 変な感覚でしょ。自分と他人の体がつながっているなんて。そういうの、気持ち悪くないの?」「いや、そんな、気持ち悪く、なんかないですよ」「本当にそう思う?」くちゃくちゃと小刻みに腰を動かしながら、さらにイジワルな質問を重ねる。「気持ち悪くなんか、ぅ、あっ、ないですよ。う、うれしいです、こんな、アカリさんみたいな、きれいな人とつながれて、あっ」アカリ。それがキヨミの源氏名である。まだ耳馴染みのない、新しい名前。一瞬、誰の名前だろうかと戸惑いさえする。「嬉しい。ありがとう」「あっ、ああっ、好きです、アカリさん、あっ」「うれしい、テラダさん。んっ」唇を重ねる。上の方でも、深くつながる。「好きです」と言われ、「私もです」なんて言葉は使わない。相手を惚れさせるには手っ取り早い言葉だが、同時に自分が「惚れやすい女」だと安く見せる言葉でもある。ただの疑似恋愛でも、駆け引きは普通の恋愛同様に必要だ。否、普通の恋愛以上だろう。体を許す分、心まで許してしまってはいけない。肌が無防備な分、心には鎧を着なければならない。それから、腰を上下に動かす。動かし方には2パターンある。パン、パン、パン、パン。激しく上下にピストンし、男根を上から下まで幅広く擦るパターン。「はぁっ、はぁっ、あっ、あっ」もう一つ。ズブッ、ズブッ、ズブッ、ズブッ。やや斜めに浅く動かし、男根の先端を膣の奥にぐいぐいと導くよう短めに擦るパターン。「ひっ、ひっ、ふっ、ふっ」最初は前者で行い、徐々に後者に変えていく。早漏の相手ならこれを1分、遅い男でも5分かけると大概射精する、そう教わった。しかし、この日の客はなかなかそれに至らな
【2019年3月下旬】東京都・新宿区その日の最初にキヨミを指名した客は、自らの名をテラダマコトと名乗った。身長は高く、全身がやたら白い。もうすっかり桜も満開の時期なのに、雪を思い出させるような色だ。ひょっとしたらこの日も、店へ足を運ぶまで一歩も外出しなかったのではと思うほどに。ただ、そのように日の光を避けて生きるヴァンパイアのような人種は、ここ歌舞伎町ではそう少なくはないと聞く。「ごめんなさい、こんなガリガリのみすぼらしい裸で」湯船から上がってバスタオルを腰に巻いた客は、キヨミに視線を向けられているのを恥じてか、両腕を胸の前で組んで体を隠すような仕草を取っている。キヨミは「大丈夫ですよ」となだめながら、ベッドの淵に客を腰かけさせた。筋肉がほとんど無いようにすら思える胴体は、かつらむきした大根の皮を連想させた。胸のあたりからペキリと折れそうなほど、体が薄い。「痩せてる人、好きですよ」社交辞令で述べただけのキヨミのセリフで、少し客は安心したのか、腕をほどく。現れた客の乳首はレーズンのように黒く、白い肌の上でよく目立った。「私の体も見てください」そう言いながら、キヨミは客の手を取り、自分の体に巻いたタオルに触れさせる。客は恐る恐るといった様子でタオルに触れた手を引いた。ファサッ、と床に落ちるタオル。露わになったキヨミの肌を前にして、客は眩い光でも見たように目を細める。「そのまま、私に委ねてくださいね」裸になったキヨミは、そう囁きかけながら客の胸に顔を近づけ、その乳首を舌でなぞる。「あっ」と声を漏らす客に、「ごめんなさい、ここ、苦手でした?」などと、言葉だけの謝罪を口にした。大概の男はいいえと否定するもので、その客も同様、「気持ちいいです、うっ、続けて、くださ、はぁっ」と懇願した。しばらく乳首を舐め、薄い胸板をなぞりながら首に向かっていく。やや髭の剃り残しのあるザラザラした顎を舌で撫でてから、唇に軽くキスをする。キヨミはそこで、やや上目遣いに客を見た。興奮のあまりか、客は目を閉じてしまっている。童貞らしいなと思いながら、キヨミは客の両手を取り、そのまま覆いかぶさるようにして客の上体をベッドに倒した。仰向けの体勢になる客。その薄い唇を自らの唇で覆い、舌を深く潜り込ませる。緊張に縮こまっている客の舌を引きずり出し、互いの唾液をかき混ぜた。呆れる