第823話

「野良猫用？あんた、いつから野良猫に餌をあげるようになったの？」

千代は不思議そうに聞いた。

商治は多くを語らなかった。

「母さん、気にしないで、五人分用意してくれればいいよ」

息子がそこまで言うのなら、千代もそれ以上は何も言わなかった。

それに、一人分多く作ったところで、稲葉家にとっては大したことではなかった。

むしろ、華恋は興味津々だった。

「まさか稲葉さんがそんなに優しい人だったなんて」

商治は何か面白いことを思い出したように笑った。

「そうだよ。この野良猫、ちゃんと餌をやらないと、うちの屋根をひっくり返すかもしれないからね」

華恋は驚いて言った。

「そんなに荒々しい猫がいるの？」

商治はうなずき、そのまま部屋を出ていった。

午後になってから、華恋は夕食の準備を始めた。

千代は手伝いが要らないか聞いたあと、台所を出た。

台所を出ると、息子が首を長くして玄関の方を見ているのに気づいた。

彼女は不思議に思いながら商治の後ろに立ち、彼の真似をして同じように外をのぞいた。

「あんた、何を見てるの？」

商治は、「野良猫」と答えた。

彼は小早川に確認していた。時間的に、時也はもう飛行機を降りているはず。なのに、なかなか姿を現さない。

そんな様子に、彼はまた心配になっていた。

華恋のことになると、時也は常識では測れない。

しかし、華恋が料理をすべて作り終えるまで、時也は現れなかった。

商治は食卓に腰を下ろしてはいたが、心ここにあらずだった。

時也がもう到着しているはずなのに現れないなんて、何かあったのか？

もしかして……華恋に刺激を与えたくなくて、本当に来なかった？

「稲葉さん、なんだか落ち着きがないですね」

向かいに座る貴仁が、からかうように微笑んだ。

「もしかして、俺が華恋を奪うんじゃないかって心配してる？」

商治は、皮肉気味に笑う彼をじっと見つめ、黙ったままだった。

貴仁はさらに続けた。

「前にも言ったけど、時也は華恋の前に出る勇気がない。それだけで、彼はもう敗北だよ」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ひとりの使用人が慌てて入ってきて、商治の耳元で何かをささやいた。

商治は眉を上げ、貴仁の方を見てから、口元に薄い笑みを浮かべた。

「時也、来たよ」

貴仁の顔色が一瞬変わったが、すぐに平然と笑み