Masukプルルルルル……。
リビングに響き渡る、スマホの着信音。
スマホの画面に表示された律の名前を見つめながら、私は心臓が早鐘を打つのを感じていた。
着信音が響くたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。私の指は震え、その画面に触れることができないでいた。
この数日間、私の心は律と沙羅さんの間で揺れていた。
沙羅さんの投稿した、律との親密なツーショット写真が頭から離れない。
あの華やかな世界で輝く二人を見て、私は自分がどれほど場違いな存在なのかを痛感していた。
電話に出るべきか、それとも、このまま無視すべきか。
震える指で画面に触れそうになった瞬間、着信が止まった。
安堵の息を漏らしたのも束の間、すぐにまた鳴り始める。律は、私が電話に出るまで、決して諦めないだろう。
もしかしたら律は、私を心配して電話をかけてきてくれたのかもしれない。
意を決して、私は通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「寧々!良かった……出てくれて」
聞こえてきたのは、安堵に満ちた律の声だった。その声を聞いた瞬間、胸にこみ上げてくるものがあった。
「……っ、律!ごめんね、私……」
声が震えて、うまく言葉にならない。
「どうした?声が震えてるけど、なんかあったのか?」
さすがに律だった。私のわずかな変化にも気づいてくれる。
「え、えっと……」
言葉が出てこない。沙羅さんのことを聞いたら、律はなんて答えるだろう。
もしかしたら、律は本当に彼女と付き合っているのかもしれない。そんな不安が、頭をぐるぐると駆け巡る。
「寧々、落ち着いて。何があったか、話してくれる?」
律の穏やかな声に背中を押されて、私はぽつりぽつりと話し始めた。
「この間、律の撮影現場に行ったとき……沙羅さんに会って
入社から1年が過ぎた春のある土曜日、律が突然「出かけよう」と言い出した。「どこに行くの?」「秘密」律がいつものように微笑む。でも、今日の笑顔には、いつもと違う特別な輝きがあった。連れて行かれたのは、私たちが幼い頃によく遊んだ公園だった。桜が満開に咲き誇り、まるで天然のドームのように美しく頭上を覆っている。花の香りが春風に乗って、懐かしい記憶を呼び覚ます。「覚えてる?この場所」律が振り返る。「もちろん。懐かしいね」ブランコも、滑り台も、砂場も、あの頃と何一つ変わらない。でも、私たちは大きく変わった。「寧々、あの日から俺の人生は変わったんだ。バーで泥酔していた君を見つけた、あの夜から」律が桜の木の下で立ち止まる。花びらが舞い散り、彼の肩に降り積もっている。「寧々がいてくれるから、俺は俺でいられる。寧々がいてくれるから、俺は毎日を大切に生きることができる」律の声が、いつもより震えているように感じた。「律?」その時、律がゆっくりと片膝をついた。世界が静寂に包まれた瞬間だった。桜の花びらが舞い散る音、遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声、すべてが遠のいて、私の心臓の音だけが響いている。「寧々」律の声が、まるで祈りのように静かに響く。小さな箱を取り出すその手が、微かに震えているのがわかった。箱が開かれると、そこには息を呑むほど美しいダイヤモンドの指輪が輝いていた。春の陽射しを受けて、虹色に光を放っている。「俺と結婚してほしい」時が止まったような感覚に陥る。桜の花びらが、まるでスローモーションのように舞い散っている。「これからもずっと、俺の隣にいてほしい」律の瞳に、これまで見たことがないほど真剣な光が宿っている。その目を見つめていると、涙があふれてきた。「俺の人生を、君に捧げたい」律の声が、桜の花びらと一緒に私の心に舞い降りる。「君がいなければ、俺の人生に意味なんてないんだ
長かった冬が終わり、桜が咲く頃、私は無事に大学を卒業した。念願だった大手出版社「文英社」の文芸編集部への内定通知を受け取った日のことを、今でも鮮明に覚えている。律が私を抱き上げて、リビングを一周したあの喜びを。入社式の朝、新品のネイビーのスーツに袖を通しながら、鏡の中の自分を見つめた。「頑張って、一条寧々」自分に言い聞かせる。今日から、私は編集者だ。「寧々、準備できた?」律の声が玄関から響く。「うん、今行く」リビングに向かうと、律がスーツ姿の私を見て目を見開いた。「すごく似合ってる。本物の編集者みたいだ」「まだ新人だよ」「でも、寧々はきっと素晴らしい編集者になる。間違いない」律の言葉に背中を押されて、私は新しい人生への第一歩を踏み出した。文英社のオフィスビルの前で、律と別れる。「頑張って」律が私の頬に、そっとキスをしてくれる。もう人目を気にする必要はない。この自由さが、まだ不思議に感じられた。「ありがとう。行ってきます」***文芸編集部での初日は、想像を超える充実感に包まれていた。ベテランの田中主任は厳しくも温かい人で、「新人のうちは失敗を恐れるな。たくさん失敗して、たくさん学べ」と激励してくれた。優しい先輩の山田さんは、「寧々ちゃん、分からないことがあったら何でも聞いてね」と気にかけてくれる。同期入社の佐藤さんとは、すぐに意気投合し、「お互い切磋琢磨しましょうね」と握手を交わした。しかし、現実は甘くなかった。時が流れ、初雪がちらつく頃には、私は新人作家の田村さんの原稿と格闘する日々を送っていた。深夜まで赤ペンを握り、より良い作品にするための提案を練る。コーヒーカップは何杯も空になり、デスクには付箋紙が山積みになっていく。「一条さん、この修正提案、素晴らしいですね」田村さんが感激してくれた時は、疲れも吹き飛んだ。一方で、ベテラン作家の渡
小島さんの微笑みは、これまで見たことがないほど優しかった。まるで息子の門出を見送る母親のように。***それから1週間、俺たちは戦略的に公表の準備を進めた。小島さんは経験豊富なプロフェッショナルの本領を発揮し、あらゆるリスクを想定して対策を練っていた。「律、寧々さんの個人情報は一切公開しない。彼女の安全を最優先に考える」「はい」「そして、あなたの真摯な気持ちを前面に出す。スキャンダルではなく、愛の告白として受け取ってもらえるように演出するの」俺は小島さんの指示に従い、SNSに投稿する文章を何度も練り直した。一文字一文字に、寧々への想いを込めて。『皆様、いつも応援していただき、ありがとうございます。今日は、大切なご報告があります。僕には、かけがえのない大切な人がいます。彼女は僕の心の支えであり、僕が僕らしくいられる唯一の存在です。これまで公にしなかったのは、彼女を守りたいという想いからでした。しかし、最近の出来事を通して、もう隠すべきではないと決意いたしました。真実を隠し続けることは、彼女への愛情に反することだと気づいたのです。彼女を守るため、そして僕自身の誠実さを示すため、公表する決意をしました。どうか、温かく見守っていただければ幸いです。彼女がいてくれるから、僕は僕らしくいられるのです。これからも、変わらぬご支援のほど、よろしくお願いいたします。』投稿ボタンを押す瞬間、指先が震えた。でも、迷いはなかった。これが俺の選択だ。寧々のための、俺たちのための。投稿直後から、コメントが怒涛のように流れ始めた。『律くんが幸せなら私たちも嬉しいです!』 『律くんの隣にいる人なら、きっと素敵な方なんでしょうね』 『応援してます!お幸せに!』 『誠実な愛の告白に感動しました』批判的なコメントも予想通りあったが、応援のメッセージが圧倒的だった。「律、見なさい」小島さんがタブレットを俺に向ける。そこには、俺
【律side】7月の蒸し暑い午後、俺はビルの最上階にある所属事務所に向かった。エレベーターの中で、自分の手が微かに震えているのに気づく。これから話すことが、俺の人生を大きく変えることになるかもしれない。扉をノックして中に入ると、マネージャーの小島さんが書類に目を通していた。彼女は俺の足音を聞いただけで、いつもと違う緊張感を察したようだった。「律、どうしたの?まるで、決闘でも挑むような顔をして」「小島さん、決めました」俺は椅子に座ることもせず、立ったまま宣言した。この距離感が、俺の決意の表れだった。「俺、寧々との関係を公にします」ペンを持つ小島さんの手がぴたりと止まった。書類から顔を上げ、俺を見つめる瞳に、驚愕の色が浮かんでいる。「律……一体何があったの?」「沙羅のことで、目が覚めたんです」俺の声に、これまでにない強い意志が込められている。自分でもそれがわかった。「寧々を秘密にしていたせいで、彼女をあんな危険な目に遭わせてしまった。俺が守るべき人を、守れなかった」「でも律、あなたのキャリアを考えて……」「俺の人生に、寧々は欠かせないんです」俺は小島さんの言葉を断ち切った。胸の奥で燃え上がる想いが、言葉になって溢れ出す。「彼女がいなければ、俺は俺でいられない。彼女は、俺の心の支えなんです」小島さんの表情が、困惑から真剣さへと変わっていく。長年俺を見てきた彼女だからこそ、俺の本気度を理解したのだろう。「俺が俺らしくいられる、唯一の存在です。彼女を守るため、そして俺自身の誠実さを示すため、公表する決意をしました」俺は、小島さんの目を真っ直ぐ見つめた。この視線に、俺のすべてを込めて。「どうか、温かく見守っていただければ幸いです」オフィスに重い沈黙が降りた。窓の外から聞こえる街の喧騒だけが、この緊張した空間に響いている。小島さんは俺をじっと見つめ続け、その瞳の奥で何かが揺れ動いているのがわかった。「……律」
マンションで一人、私は膝を抱えてソファに座っていた。沙羅さんの嫌がらせは止まず、拓哉も再び現れて、もう心身ともに限界だった。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。こんな夜中に誰だろう。まさか、また拓哉や沙羅さんが何かしに来たのだろうか。恐る恐るモニターを確認すると、そこに映っていたのは……。「えっ、律!?」私は慌ててドアを開けた。そこには、確かに律が立っていた。「寧々」律の声を聞いた瞬間、これまで抱えていた全ての緊張が一気に解けた。安堵と喜び、そして恐怖から解放された涙が溢れてくる。「律……!」声にならない叫びが、喉から漏れた。彼の胸に飛び込むと、嗅ぎ慣れた、だけどどこか懐かしい律の匂いがした。固く凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。「無事だったか?一人で怖かったろ、ごめんな……」律の声にも、安堵が滲んでいた。「もう二度と、寧々を一人にはしない。俺が、ずっと君のそばにいるから。もう大丈夫だ」「律……!会いたかった……怖かったよ……っ!」私は律の名前を呼びながら、さらに強く抱きしめ返す。律の温もりと匂いに包まれて、ようやく安心できた。律がここにいる。それだけで、世界が明るくなったような気がした。「よく頑張ったな、寧々」律が、私の髪を優しく撫でてくれる。「俺がいない間、一人でこんなに大変な思いをさせてしまって、本当にすまなかった」「ううん。怖かったけど、律がいてくれたから頑張れたの。私も……少しは、強くなれたかな?」私は、涙を拭きながら言った。「律に守ってもらうだけじゃなくて、私も律を守れるような人になりたかったから」「寧々……」律は、私の顔を優しく両手で包んだ。「寧々はもう十分強いよ。でも、もう一人で抱え込まないでくれ。遠くにいても、俺たちはいつも一緒だ」「うん……」律の言葉に、心の底から安心した。もう、一人で戦わなくていい。
【律side】成田空港に到着すると、小島さんが迎えに来ていた。彼女の表情は、電話のとき以上に深刻だった。「寧々は!?」俺は真っ先に、寧々の安否を尋ねた。「寧々はどうなんだ!?無事なのか!?」「まだ確認中だけど、かなり危険な状況だったと聞いているわ」小島さんの言葉に、俺の心臓が激しく鳴った。「寧々さん、命の危険に晒されていた可能性もあるから……」「……っ!」命の危険って、そんな……。俺は、拳を強く握りしめる。歯を食いしばり、こみ上げてくる感情を必死に抑え込んだ。「律……」小島さんは、一瞬言葉を失った。彼女の声が、わずかに震える。「律、あなたはそこまでして、彼女を選ぶのね……あなたの覚悟、しかと見届けさせてもらうわ。私にできる限りのサポートはする」俺は、小島さんの目をまっすぐ見つめて言った。「彼女を守るためなら、俺は何でもします。この命に代えても、彼女を守り抜く」それは、俺の心からの言葉だった。もう、自分の気持ちをごまかすことはできない。***空港から直行で、事務所に向かった。天野沙羅が待っているという連絡があった。事務所の会議室のドアを開けると、沙羅が椅子に座っていた。いつものような美しい装いだったが、その表情には何か追い詰められたような色があった。「律くん……」沙羅の顔を目にした途端、俺の怒りが頂点に達した。寧々が受けた苦しみ、恐怖、そして孤独。それらすべてが、沙羅の顔に重なって見えた。「沙羅、君がやったことは、もはや犯罪だ」俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。握りしめた拳が、小刻みに震えているのがわかる。俺は単刀直入に切り出した。「俺の人生は、俺が決める。君に口出しされる筋合いはない」沙羅の顔が、さっと青ざめる。「寧々のことは、俺が守る。もう二度と、彼女に近づくな。彼女をこれ以上困らせないでくれ」俺の声に、怒りが込められている







