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ヒューマンドール。
それは――命を宿した人形。 そして、主人の命令ならどんなことでも従う、不思議な存在。 だが、ヒューマンドールには心がない。 最初はただの人形。動く気配すらない球体関節人形にすぎなかった。 しかし、ある技術者の手によって、それは人間と見分けがつかないほどの存在へと進化を遂げる。 見た目は周囲の人間とほとんど変わらない。 ただ一つの違い【主君契約】を結ばなければ、決して動かないということ。 【主君契約】とは、ヒューマンドールと人間のあいだで交わされる特別な契約。 契約を果たした者は“主人”となり、ドールを自らの意のままに扱うことができる。 使い道は人それぞれだ。 忠実な従者として仕えさせるもよし。 寂しさを紛らわすため、恋人や伴侶として暮らすもよし。 あるいは、怒りやストレスのはけ口として暴力を振るう者もいる。 繁殖はできないが、欲を満たすための行為も可能だった。 もう一度言おう――ドールには、心がない。 これは、そんな世界に生まれたひとつの命の物語。 ……いいえ。 二つの命の物語。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 《痛い……やめて……なんで僕だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。僕が何をしたっていうの……!》 彼の髪は薄黒く、少し癖があるせいか、ところどころ重力に逆らって跳ねている。 背は高くも低くもなく、体型もごく平均的。いい意味でも、悪い意味でも“普通”だった。 白い肌に覇気のない目。どこか頼りなく映るその姿は、彼をいじめの標的にするには十分だったのだろう。 制服は泥で汚れ、袖口や裾は擦れてほつれている。まるで「抵抗する気力なんて残っていない」と語っているかのように。 暗くて狭い部屋。 湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。 部屋の中央には、今にも崩れそうな木製の机が四台。 それらは向かい合わせにくっつけられ、ひとつの島のように並んでいた。 椅子も同じく古びた木製で、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる。 「おいボンクラ、そこさっさと片せ」「まーだ終わってねぇのか、この役立たずが」 罵声を浴びせ続けるのは彼の同僚四人。 彼らもまた、あちこち破れた服を身にまとい、顔や手は煤で黒く汚れていた。 洗っていない髪は皮脂でべったりと光り、異臭すら漂う。 ――そして、そんな連中から毎日いじめを受け、それをただ、黙って耐えるしかなかった。 なぜやり返さないのか。 なぜ、ただ耐えるのか。 理由は、明確だ。 辞めてしまえば金がなくなる。 食べ物も買えなくなる。 ……そして、いずれは死ぬ。 だから彼は、どれだけ理不尽でも耐えるしかなかった。 そう思えば思うほど、心は削られ、息をすることさえ苦痛になっていく。 「もう……嫌だ……」 そんな生き甲斐のない日々を送るある朝。 通勤の途中、ふと目に留まった一枚のポスターが彼の足を止めた。 「ヒューマンドール……?」 ◻︎◻︎◻︎◻︎ ヒューマンドール製作所〈命の宿り木〉。 『僕の創る生きたドールが、あなたの心に空いた穴を埋めてくれることでしょう。 信じたあなたの“幸せ”を保証いたします。――では。』 ◻︎◻︎◻︎◻︎ ひび割れたコンクリートの壁。 そこに、剥がれかけながらもしつこく張り付いている。 『ヒューマンドール製作所〈命の宿り木〉』 その言葉に、彼は知らず知らずのうちに惹き込まれていく。 「……行く、か」 半信半疑のまま、それでもほんの少しの希望を胸に、彼は〈命の宿り木〉へ向かった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 「ここで……ヒューマンドールが創られてるのか……」 看板もなければ、案内もない。 木造の建物は周囲のコンクリート壁と不釣り合いに古びていて、ひび割れた外壁がやけに目につく。 一見すれば、まるで廃墟だ。 彼はゆっくりと扉に手をかける。 錆びついた金具がギギィと鳴り、乾いた音が湿った空気の中でいやに響いた。 中へ足を踏み入れると、床の奥に小さな物置用の扉が見えた。 その中央に小さく、けれどはっきりと、文字が刻まれている。 ――ここだよ。 と、それだけ。 その短い言葉を見て、彼はほんの少しだけ安堵した。 だが、胸の奥に巣食う不気味な気配が、じわりと恐怖を植え付けていく。 全身がこわばるが、それでも彼は勇気を振り絞り、ゆっくりと扉を開けた。 中には地下へと続く階段。 壁には蝋燭が等間隔に並んでいるものの、光は弱く、辺りはほとんど闇に沈んでいた。 彼は壁に手を添え、蝋燭の灯だけを頼りに、ひと段ずつ降りていく。 足音が湿った空気に吸い込まれ、どこか遠くで反響した。 「……あ、開けてる」 やがて、階段の先に開けた空間が現れた。 降り切るとそこには広場になっていた。 灯りが届くのはほんの数メートル先までで、奥のほうは闇に溶けて見えない。 ――だが、彼の視線を釘付けにしたのは、別のものだった。 「デ……デカすぎるだろ……」 そこにあったのは、巨大な扉。 縦に並べた彼が十人は入りそうなほどの高さだ。 言葉を失ったまま、彼はそっと手を伸ばす。 両手に力を込め、押し開こうとするが―― 「あっ……開か、ないっ!」 押しても、びくともしない。 冷たい金属の感触だけが、彼の掌に重く残った しばらく押しては休み、また押して。 そんなことを何度か繰り返していたときだった。 彼は気づかなかった。 巨大な扉の右下に、もうひとつ小さな扉があることに。 ――カチリ。 金属音を立てて、その小さな扉がゆっくりと開いた。 「……そういうことね」 肩から力が抜け、疲労がどっと押し寄せる。 ため息をひとつ落としながら、彼はその扉の奥を見つめた。 そこには、奥へとまっすぐ伸びる長い通路。 両脇には、人ほどの大きさの人形たちが整然と並んでいた。 首を傾げ、女の子座りをし、手をだらりと下げている。 まるで、糸を切られたマリオネットのように。 「すごい……なんて数だ……」 一体ずつ数えるのを諦めるほど、圧倒的な数の人形。 顎のあたりから、口角へかけ線が走り、関節は精巧に作られている。 《まさに“人形”って感じだな……。でも、もし本当に動くのなら……その動力源は、どこに?》 そんな疑問が彼の頭を占めていた。 考えながらも、足は止まらない。 両脇を無数の人形に挟まれながら、彼は慎重に進む。 「って、この通路……どこまで続いてるんだ――」 「ワッ!」 「うわっ!?に、人形が……動いた!?」 突然、通路の端に並んでいた一体が横から飛び出してきた。 彼は悲鳴を上げ、腰を抜かして尻もちをつく。 「あははっ、いいリアクションだねぇ!待ってたよ? いや、待ちくたびれたくらいかなぁ。君って臆病なんだねぇ、うんうん。ようこそ、《命の宿り木》へ」 その声は、奇妙に明るく、どこか人間らしかった。 彼はごくりと唾を飲み込む。 「ここが……」 ――この出会いが、彼の瞳に、わずかながら“希望”の光を灯すことになる。思い出す――過去。 思い出したくなかった――過去。 胸の底で黒い泥のように沸き立つ――殺意。 どうしようもない――復讐心。 「なんで、この街に来て――」 「あの!何用でこちらに?」 メリダはミヤの体を押さえ、その言葉を慌ててかき消した。 ユグナは一切の感情を感じさせない無の表情で、こちらを見た。 顎髭は荒く伸び、目の下には深いクマ。 だが何より恐ろしいのは、傷跡が……口元を切り裂かれたのか、まるで笑っているように歪んで見えることだった。 「随分と嫌われたものだ……理由を聞いても?」 「いえいえー、黎冥府さんの方とお会いするのは久しいもので、緊張しているだけですよ」 ユグナは反応しない。 ただ、その視線だけが動く。 刃物を当てられたかのような鋭さで、メリダの喉元、手の震え、ミヤの呼吸の浅さを、ひとつひとつ見ていく。 肌が粟立つ。 ユグナは、明らかに戦場の空気をまとっていた。 「この人、大怪我を負っていて」 メリダは今にも震えだしそうな指でミヤを指す。 「まだ治療中なので、今日のところは……お引き取りを」 ユグナは音もなく一瞬で、一歩近づいた。 床板は軋まない。 呼吸の気配すらしない。 生きているのに、まるで死んでいるかのようだった。 目だけを大きく見開き、三人を舐めるように見渡す。 視線が通った部分に冷気が残るような錯覚すらある。 しばらくして、ゆっくりと、不自然にゆっくりと、口角だけを持ち上げた。 目頭と目尻を落とし、三日月のような目で笑う。 口元の傷が、不気味さをより一層膨張させる。 「本日は……誠に。誠に、失礼いたしました」 深く腰を折るが、顔はメリダたちから一度も逸らさない。 「ではまた適切な時期に、必ず……伺います」 踵を返すと、 コツ……コツ……コツ…… 規則正しい足音は、病室に何かを宣告するように響き渡った。 その後、しばらく男の足音が耳から離れなかった。 ユグナが去ったあと、部屋に荒れ残ったのは、気味の悪い沈黙だった。 メリダはまだ緊張の名残で指先が冷え、両手で指先を包み隠すように握っている。 マリアは小さく肩を震わせ、ミヤだけが深く息を吸い、乱れた呼吸を整えようとしていた。 ――その時。 廊下
ーー街病院・特別療養室。「お人形ちゃん、少しミヤちゃんと話したいから、隣の部屋で待っててくれる?」「はい……わかりました」 マリアはすっと立ち上がる。 名残惜しそうに一度だけ振り返り、部屋を出ていった。 ゆっくりと扉が閉まると、足音が遠ざかり、やがて音はなくなる。 医師はベッド脇の椅子に腰を下ろし、幼い子の頭を撫でるかのように、ミヤの髪に手を添えた。「まったく……無理しすぎよ。チサばあちゃんもよく言ってたわ、『あの子はね、気づかないうちに心と体を削ってしまう子だ』って。」 メリダは、チサばあちゃんの喋りを真似するように口を動かすと、ミヤはゆっくりと目を開けた。 一粒の涙が頬を伝い、シーツの上へ静かに落ちた。「チサ……懐かしい名前。本当に、よくしてもらったなぁ……」「チサばあちゃんも、あなたのことをよく話してたわ」「そっか……」 ミヤは小さく微笑み、遠い日の記憶に浸る。「……早速今後の話なんだけど、いいかしら?」 医師は唇を引き結び、深く息を吸った。 まるで誰かの最期を告げる前のように、言葉を探しながら悲痛な表情を浮かべる。 そしてミヤは静かに頷いた。 「ミヤ、このままじゃ持たないわよ。あなたの病名は……空殻病《くうかくびょう》随分と昔だけど、ミヤのお人形ちゃんがかかった病と同じものよ、覚えてる?」 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 空殻病――それは、精神・魂・記憶のどこかが器から抜け落ちるように失われていく特殊な病。 重症化すると魂だけが離れるような症状が起きる。 そしてふとした事で記憶が蘇ることもある。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 医師は皮膚に爪が食い込むほど、力強く拳を握った。「……うん。でも、あの子らを守らなきゃいけないんだよ、僕は」 優しく儚い瞳。 ミヤの思いは、意識せずとも表情や瞳に現れる。「あ、ミヤ、そういえば昨日患者さんが気になる事言ってて――」 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 陽の光が差し込む角部屋の病室で、ベッドの端で杖をつき座るお爺さんの姿があった。 外に植った木の枝に、小鳥の夫婦が身を寄せ合っている。お爺さんは、仲睦まじい小鳥の夫婦をボーッと眺めていると、部屋の扉がガッと開き医師が入ってくる。「トウゲンさんおはよう」「ねーーちゃん、ねーちゃんや」 それは、特別室医療室……ではなく一般の患者が入院する病室
扉の先には――。 もう一つの部屋が、ひっそりと息を潜めていた。 広さ的には寝室とほぼ同じのようだ。 薄暗い空間に、微かな木の匂いと、長い時間封じられていたような冷たい空気が漂う。 部屋の端にはベッドと机。配置は、彼らが普段使っている寝室とほとんど同じ。 だが、違和感はひと目で理解できた。 お揃いのものが、二つずつ置かれている。 一つは、大人用のもの。 そして、もう一つはまるで子ども用のように小さく作られた、同じデザインのもの。 靴も。 手袋も。 マフラーも。 服も。 すべて大人用と子供用が対になって並べられている。 机の上の古いランプの横には、同じデザインの小さなランプ。 ベッドの上には、大きな枕と、小さな枕。これも全く同じ。「なんだよ、これ……」 つい、声が漏れる。 部屋の隅には蜘蛛の巣が張りつき、誰にも触れられずに長い時間放置されていたことを物語っていた。 床には薄く積もった埃が、足跡をつけるたびにふわりと舞い上がる。 ベッドのシーツもくすんでいる。きっと何年も人が横になっていないのだろう。 まるでこの空間だけ、時間が止まったまま取り残されているかのようだ。 誰かが帰ってくるのを待っているように――。 そんな不思議な気配が、壁にも家具にも薄く染み付いている。 壁にかかった小さな額縁には、ミニチュアの服を着た小さな人形が飾られていた。 それは、ミヤが作る人形たちよりもずっと古い造りで、どこか寂しげにこちらを見つめているように見えた。 ふと視線を上げると、その人形の背後の壁に、薄い傷のような線がいくつも刻まれていることに気づいた。 爪で引っかいたような、あるいは小さな手で何度も触れられたような跡。 理由のわからない生々しさが、背筋を冷たく撫でていく。 彼の胸の奥がぞわっとする。 ミヤは、ここで何をしていたのか。 そして、誰のための部屋なのか。 疑問が静かに、彼の心を追い詰めていく。 何度も、何度も胸の奥から「やめろ」と声が響く。 こんな事をしてはいけないと分かっている。 踏み込んではいけない領域……触れてはならないミヤという女性の内側に手を伸ばしていると、誰より自分が理解している。 それでも、彼は足を止められなかった――。 ゆっくりと部屋の中を歩き回り、罪を重ねるように視線を這
医師が、部屋から出てくる。「命に別状はないよ。だが、あまり無理をさせないほうがいい。……|ミヤ《彼女》は、ちと命を削りすぎだ」 その声音は落ち着いているのに、表情はどこか深刻だった。 二人は馬鹿ではない。そのわずかな陰りを察し、不穏な空気に胸が締め付けられる。「……っ、ミヤを助けていただいて……ありがとうございます……」「ありがとうございます……」 不安や恐怖、緊張で張りつめていた糸がぷつりと切れたように、堪えていた涙が一気にあふれた。 涙が枯れてしまうのではないかと思うほど、彼は声を忘れて泣き続けた。「彼女はしばらくここで入院させるから、着替えとか、必要なものを用意してきてほしいの」 命を取り留めるという大きな仕事を成し遂げたというのに、医師は淡々としていた。 たが、その冷静さが逆に彼らを安心させた。「は、はい……、わか……ヒッ……りました」 泣き止んだはずなのに、胸の奥に残ったしゃっくりだけが小刻みに彼を揺らし続けていた。 彼はすぐに立ち上がり、薄暗い病院の廊下を出口へ向かって歩き出す。 数歩進んだところで、思わず振り返った。「ありがとうございます!」 その声には、強い決意が感じられた。 マリアはミヤの付き添いで、病室に残ることとなった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼は家にたどり着くと、真っ先にミヤの部屋へ向かい、服や日用品を大きめの旅行鞄に丁寧に詰めていった。「着替え用の服に、パジャマ……し、下着もちゃんと入れないとな……」 誰もいない部屋で、彼は一人頬を赤くし、羞恥をごまかすように顔を腕に埋めた。《あとは、歯磨きセットと……あれ、いつも手に持ってた手帳が無い》 彼は部屋中を探し回った。 あの手帳は、きっとミヤの大切なものだ。 何よりも、いつも肌身離さず持っていたのだから。 何度も何度も心の中で繰り返しながら。 キッチン、寝室、作業部屋、探しに探し続け――。「……あとはここか」 扉を開けた先には、木材や糸など、ミヤが仕事で使う材料を詰め込んだ保管棚がいくつも並んでいた。 薄く木の匂いが漂い、彼女が手先で作り出してきた温もりがそこに残っている。 この材料庫の広さは、リビングをもう半分程広くしたくらいだ。棚の段数も多く、いくつかは天井近くまで積み上がっている。 ここを全部探すとなると、相当な時間
「やばいやばい、こんな時間になっちゃった」 ――16:25。 夕暮れ時、腕時計を見た彼は、マリアと二人で走り|命の宿り木《家》へ帰った。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 一枚目の扉を開けた瞬間、やけに家の中が静かだった。「いつもなら『おかえりぃ』って来るのにね」「はい……なんだか寂しいです」 二人は顔を見合わせる。 奥へ進むにつれ、空気はひんやりと重くなっていく。 彼はその違和感に気づきながらも、マリアを不安にさせないよう、冗談っぽく呟く。「仕事に疲れて、奥にでも篭ったのかな?」 人形で埋まった一部屋目を通り抜け、二枚目……リビングにつながる扉に手をかける。 取っ手が、妙に冷たかった。「ミヤ……、てぇ……、」 扉を開くと、食卓の上にミヤが頭を伏せ、動かずにいた。その姿を見て、強張った肩がふと緩む。《……寝てたんだ》 寝室から薄いブランケットを持ってきて、そっと肩にかける。 ミヤの肩に触れた時、体温が少しだけ冷えているように感じたが、気のせいだと自分に言い聞かせた。 ただ冷えているだけだと。 そうして彼はエプロンをつけ、マリアと視線を合わせる。 「また寝ちゃったんだね。マリアちゃん、今日は何食べたいー?」「シチューというお料理を食べてみたいです。この前ミヤが言っていました。白くトロッとしたものに、ホクホクのお野菜が浸かっていると……」 グッと親指を立てると、手馴れた動作でシチューを作り始める。 具材が煮え始め、コトコトと鍋が心地よい音を立てる。 その音だけが、やけに大きく響いた。 まるで、他の何かが音を吸っているように。「そろそろかな〜」 ――カンカン、カン。 ルーを鍋へ入れようとした時、ふと視線がミヤに引かれた。「ミヤー、そろそろご飯できるよー!」 十分届くほど、大きくはっきり呼んだ。 呼んだのに――、 返事がない。 ミヤの肩は、呼吸に合わせた揺れすら見せなかった。 さっきまでは、寝ていると思えたのに、今見るとその静けさは、まるで|止まっている《・・・・・・》ように見えた。「ミヤ……? マリアちゃん、ミヤ起こしてきてくれる?」 彼は鍋の前に立ったまま、マリアをそっと促した。 自分の手が、ルー持つ指先が、震えていることに気づかれないように。 マリアがミヤに近づく。 リビングの床が、一歩ごとに小さく
通貨名また通貨価値は以下の通り。 1メル 1ドルン=100メル 1グラド=30ドルン 1ザルク=30グラド 一般な成人労働者の給料月額1グラド(3000メルン)前後。 ◻︎◻︎◻︎◻︎「このペンダント、マリアちゃんにすごく似合ってると思う。目の色と似てる――」 マリアはほんのり頬を赤らめた。 店員のおばさんは、ペンダントを小さな紙袋に入れ、彼へ手渡しながら微笑む。「あらお兄さん、プレゼントかい?」 ペンダントを差し出すと同時に、店員のおばさんは気さくに話しかけてきた。「え……っと、はい。彼女に……」 普段ほとんど人と話さない彼は、視線を落としながら答える。目が不安げに左右へ揺れていた。「まぁ、彼女さんに。ふふふ……すごく似合ってるわよ!お買い上げありがとうね。1グラド8ドルンになるよ」《貰ったお給料は2グラドと5ドルンだから……1グラド8ドルンか、ちょっと高いけど、マリアちゃんの喜ぶ顔の方が見たいし即決かな》 覚悟を決めたように、彼は優しく、どこか照れたような笑みを浮かべる。 挙動不審ではあったが、無事にペンダントを受け取った。 店を後にし、二人は噴水広場へと向かう。「マリアちゃん、こっちに来て」 噴水の縁に腰を下ろした彼は、人ひとり分空けて座るマリアを手招きした。 マリアは素直に頷き、静かに彼の隣へと歩み寄る。「マリアちゃん、首、ちょっとだけ見せて」「……?」 マリアは言われるまま、胸の前で手を揃え、少し前に身を傾けて首を出した。 彼は袋から買ったばかりのペンダントを取り出し、チェーンをそっと広げる。そして、マリアの後ろへ手を回し、迷いのない動作で留め具を閉じた。「ありがとうございます……」 彼女の頬は薄赤い染が浮かんだまま、ますます色づいていく。 マリアは胸元に揺れるペンダントをそっと左手に持ち上げ、右手の人差し指で宝石の縁を撫でた。触れた瞬間、小さく息をのむ。「きれい……」 こぼれ落ちるようなマリアのつぶやく姿は、儚きほどにただただ綺麗だった。 だが彼の耳には、はっきりと届いていた。「……うん。綺麗だね」 慣れない感情に胸をくすぐられ、彼は言葉を拾い損ねるように間を空けてしまう。 マリアは陽の光にペンダントをかざしたり、噴水の水に映る青色と見比べたり、ただそれだけで嬉しさを全身で語っていた