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二話

Author: わか
last update Last Updated: 2025-11-14 02:25:29

二話

黒いタンクトップの上から、色あせたオーバーオールを着ている。

薄紫の髪は少し汚れており、毛先が肩にかかるほどの長さだ。

わずかに波打つその髪の奥、顔には奇妙な仮面、不気味なほど静かな“ピエロの面”があった。

背丈は低く、頭のてっぺんが彼の肩に届くかどうかというほど。

その仮面は、まるで二つの感情を押しつぶしたかのような造形をしていた。

左半分は泣いているようで、目の下には黒い涙の模様が流れている。

右半分は、狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。

鼻や眉の凹凸は妙にリアルで、まるで人間の皮膚を模したかのように生々しい。

見た者の心に、じわりと恐怖が染み込んでくる、そんなデザインだった。

「信じてきてくれたんだねぇ、ありがとう。君、ヒューマンドールが欲しいんだよねぇ?」

声の主は子供、なのだろうか。

ぱっと見はそう見える。だが、その雰囲気は年齢という言葉では説明できなかった。

とりあえず、彼はその存在を『ピエロ』と呼ぶことにした。

ピエロはゆっくりと歩みを進め、彼の目の前まで近づく。

《小さいのに、何故か大きく見える……錯覚なのかな。いや、正直、怖い》

ピエロは下から覗き込むようにして、彼の顔を見上げた。

ランプの淡い光が仮面に影を落とし、その面がまるで生き物のように見える。

「あ、あの……生きた人形って、本当にいるんですか?」

「いるよぉ。ほら、あそこ」

ピエロが細い指で右端を指し示す。

そこにはメイド服を着た女の子が立っていた。

「あの子が……どうかしたんですか?」

《何を言ってるんだ……ただのメイドにしか見えない》

メイドの少女は、両手でほうきを握り、床を静かに掃いている。

塵を集める仕草は機械的で、どこか人間味が欠けていた。

「あの子はねぇ、僕が創った人形なんだぁ。もう十年はここで働いてるよぉ。可愛いでしょ?キャロルっていうんだぁ。君もキャロルって呼んであげてねぇ」

仮面の下で、ピエロはニヤリと笑う。

まるで、自分の子供を紹介する親のように。

「う、うん。キャロルちゃん、ね。……ところで、そのキャロルちゃんって、本当に“人形”なの?」

彼は疑念を押し隠しながら、ピエロの瞳、いや、仮面の奥にある“何か”を見つめて問いかけた。

「そうだよぉ、そうともさ。あのキャロルちゃんこそが、僕の創り出した.生きた人形ヒューマンドールさぁ。まぁ、他にもいるけどねぇ」

疑われたのが気に入らなかったのか、ピエロの声が一瞬で低くなる。

その変化に、彼はわずかに身を竦ませた。恐怖、というより本能的な警戒だった。

「あの……少し、触ってみてもいいですか?」

《いやらしい気持ちなんて一切ない。ただ確かめたいだけだ。本当に人形なのかを》

「どうぞどうぞ〜。あんなとこや、そんなとこ、い〜っぱい触ってみてねぇ、僕が許可する」

彼はそっとメイドの頬に触れた。

髪の毛、肩、腕、掌、脹脛……触れるたびに、彼の中で何かが揺らぐ。

肌は人工とは思えぬほど柔らかく、毛穴や産毛、皺の一つひとつまでもが人間のそれと見分けがつかない。

そして彼女の瞳、その奥に、微かに光る“命”のようなものを見た。

《瞳の奥……いや、もっと深いところに灯がある。なんなんだ、これは。僕の知っている人形じゃない……》

ふと、彼の中に疑問が生まれる。

どうして、こんな“人間”を創ることができる?

そして、なぜそんなものを創ろうと思ったのか――。

「な、なぁ……どう言えばいいのか分からないけど、こんな複雑で理解できないものを、どうやって創ってるんだ?」

ピエロは答えず、仮面の上に右手を当てた。

次に、左手を後頭部へ回す。

カチャン――小さな金属音が響く。

そしてゆっくりと仮面を引き上げると、その下から現れたのは、

血のように赤い瞳。

整った目鼻立ちに、白く透き通る肌。

まるで幼い少女のような、儚く美しい顔だった。

「僕はねぇ、魔法使いなんだぁ……まぁ、信じてもらえないのは分かってるけどねぇ」

仮面を外すと、その声の調子が変わった。

さっきまで低く艶のある声だったのが、今はまるで子供のように明るく、無邪気な響きを持っている。

「は、はぁ……魔法使いって、あの、箒に乗って空飛ぶ、あの魔法使いのこと?」

「うむ。……でも空は飛ばないけどねぇ」

「うむって……」

ピエロは目を閉じ、こくりと頷いた。

その仕草は、妙に人間らしく、そして――どこか壊れた玩具のようでもあった。

「僕のこの魔法はねぇ、物体、といっても人型に限られるけど【命】を宿すことができるんだよぉ。たとえば藁を人の形にまとめた簡単な人形でも、魂を吹き込める。つまり、即席の人形だって作れるってわけさぁ……ふふふ」

ピエロは楽しそうに笑う。その声は鈴の音のように軽く、けれど底の見えない冷たさがあった。

「(ねぇ、知ってるかなぁ? 本当はね、僕、女の子なんだっ。)」

「し、知ってたよ……割と最初から気づいてた。それより、なんか耳がムズムズする」

《それより……急にそんな可愛い言い方されると……心臓に悪いって……》

「そっかぁ。じゃあ、もっとドキドキしてもよかったんじゃなぁい?」

ピエロは前屈みになり、両膝を内に寄せてその上に手をつく。

小さな胸を両腕でぎゅっと寄せながら、いたずらっぽく笑った。

「な、なにしてるの!?」

「あははっ、ごめんごめん。からかうつもりはなかったんだよぉ……。ただね、僕、ずいぶん女の子を捨ててたから。たまには思い出してみたくなったのさぁ」

そう言うと、ピエロの表情がふっと曇る。

そして、わずかに寂しげな笑みを浮かべながら続けた。

「それとぉ、今のが僕のもうひとつの力。気づいたかなぁ?さっきの言葉、君の耳じゃなくて魂に直接話しかけたんだよぉ。一方通行だけどねぇ」

ピエロはそう言いながら、人差し指を立てて彼の前で円を描くようにくるくると回した。

「さっき耳がムズムズしたのは、そのせいか……」

彼は耳を軽く押さえ、摩る。

「おぉ、それそれぇ、それのことだよぉ。僕と君以外には聞こえてないんだぁ」

「でも……さっきみたいに急に語りかけてくるのは、ちょっとやめてほしいかも。せめて、何か合図をしてくれたら……」

彼は恥ずかしそうに目を逸らしながら、ピエロにそう言った。

ピエロは小さく笑い、人間めいた温度を、ほんの少しだけ取り戻していた。

「あはは、どうしよっかなぁ……まぁ、考えとくねぇ。

それでなんだけどさぁ、さっき言った【命を宿す力】ってやつ、確かに命を吹き込むことはできるんだけどねぇ……感情までは与えられないんだぁ。どーしても、そこが難しくてさぁ」

ピエロは身振り手振りを交えながら、軽快に説明を続けた。

しかし、その内容は専門的すぎて、彼の頭では理解が追いつかない。

彼はただ、ぽかんと口を開けて聞いているだけだった。

《なるほど……つまり、これらは“ただの操り人形”ってことか!》

あれだけの説明を受けたにもかかわらず、彼の理解はその程度で止まっていた。

「でもさ……それって、辛くないのか?」

「ん、なんで?だって、彼女たちには感情なんてないんだよぉ?気にすることなんて――」

「君が、だよ!」

彼は思わず、食い気味に声を荒げた。

「寂しくないの?こんなところに閉じこもって……ずっと人形を作り続けて……。僕だったら――耐えられない」

虐げられてもなお耐える強さを持つ彼だったが、孤独だけは耐えられない。

だからこそ、その言葉には切実さが滲んでいた。

ピエロは俯き、しばらく何も言わなかった。

仮面の下、その隙間から、ぽとりと涙がこぼれ落ちるのが見えた。

ピエロは、まだ覚えていた。

かつて人間として誰かを愛した、あの温もりを。

かつて恋人と過ごした、あの穏やかで眩しい日々を――。

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