LOGIN三話
|ピエロ《彼女》は涙を拭うと、何も言わず奥の部屋へと消えていった。 扉が閉まる音だけが静かに響き、その後、彼女が出てくることはなかった。 彼は胸の奥に何か引っかかるものを感じながらも、一度ここを離れることに決め、来た道をゆっくりと戻っていった。◻︎◻︎◻︎◻︎
彼女と出会ってから十日ほどが過ぎた。
あの日、何も言わず彼の前から去った理由はいまだに分かっていない。 諦めかけていたが、それでも彼女の創り出すあの人形たちの姿は、彼の心をわずかに揺さぶり続けていた。《もっと、動いているところを見てみたい》
そんな想いが、日に日に大きくなっていく。
ふと、一瞬だけ過去が時が止まったように感じた。 彼女はいま何をしているのだろう。まだ、あの場所にいるのだろうか。 そんな不安とも焦がれともつかない感情が、唐突に胸を締めつける。徐《おもむろ》にポケットへ手を入れたとき、紙のような触り心地の物に指が触れた。
何かを思い出すように取り出し、四つ折りになった紙を広げる。 隅に小さく〈命の宿り木〉と書かれた文字が目に入った。「あっ……|ピエロ《あのひと》の……」
紙にはたった一行のメッセージが記されていた。
その一言を見た瞬間、彼の胸が早鐘を打った。――新しい人形、見に来てよ。
それだけだ。
それだけなのに、その瞬間に彼は決めた。 再び、あの場所へ向かうことを。彼の胸の内では、心配やら嬉しさやらがぐるぐると渦巻き、互いにぶつかり合っていた。
心配が嬉しさに勝ちそうになり、嬉しさがまたそれを押し返し、混ざり合ってはせめぎ合う。 けれど最終的に――嬉しさが勝った。きっと、最初から彼に渡すつもりだったのだろう。
だが渡すタイミングを逃し、気づかれないよう、そっと彼のポケットへ忍ばせたに違いない。「……すぐに行こう」
《まだ終わっちゃいなかった》彼は拳をぎゅっと握りしめ、空を仰ぐ。
胸の奥で膨らんでいた不安はいつの間にか温かい安心に変わっていた。 仕事中だったが、彼は衝動のまま作業場から駆け出した。 後ろから同僚が慌てて追いかけてきたが、若い彼の足には追いつけず、その影はあっという間に遠ざかっていく。◻︎◻︎◻︎◻︎
そして彼は再び|命の宿り木《ここ》へ戻ってきた。
あの日見た、天井を突くような巨大な扉の前で、深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。「ふぅ……」
《また戻ってきた。だけど――これは僕が望んだことだ。もう彼女の前から逃げたりしない》
扉が開くと、まず両端に整然と並んだ人形たちの姿が目に入る。そして、その奥へとまっすぐ伸びる長い通路。
「やっぱり……すごいなぁ……」
前に来た時と同じはずなのに、なぜか違って見える。
胸の奥がざわつき、期待が密かに膨らんでいった。 二度見ても驚きが薄れることはなく、その光景はやはり強烈に目に焼きつく。 自然と視線は左右へ忙しく揺れ、気づけば長い通路もあっという間に歩ききっていた。《おっと、もうすぐだ》
彼女が前回飛び出してきた場所へ近づくと、思わず身構えてしまう。
警戒しつつ、前回の奇襲ポイントを避けるように、カニ歩きでじりじりと進む。「ガオォオ〜ッ!!」
「わぁぁぁあっ!?」背後から突然の咆哮。
彼は完全に裏を取られ、大きく飛び上がる。「な……んでそっちからぁっ!」
「いやいやぁ、君のリアクション見ると疲れなんて吹き飛んじゃうのさぁ。つまりね、僕が君を脅かす運命にあり、君は僕に脅かされる運命にあるわけだよねぇ。うんうん」
彼女は満足げににっこり笑って、天井を見上げながら深く深呼吸した。
「なんだよそれ、そんな運命いやだ!」
と言いつつ、ほんの少しだけ嬉しい。これは完全に照れ隠しだった。
「こっちだよぉ。ついてきてぇ」
「無視された……ほんと変な人だ」 「ふんふふ〜ん」彼女はくるりと振り返っては手招きし、また進む。
スキップしながら、不思議な旋律の鼻歌を軽やかに響かせて。前回は入れなかった、さらにその奥へ。
進んだ先には、埃をまとった豪奢な扉が、まるで朽ちた王宮の扉のような壮麗な扉が姿を現した。「豪華な扉だね……」
「でしょでしょぉ、こういうのがあると、なんか急に高貴な身分になった気分になれるよねぇ。扉ってほーんっと大事」彼女はにっこり笑い、両腕を大きく広げると、そのままくるくる回りながら進んでいく。
「だからやたらと扉が凄いのね」
彼女が扉に手をかける。
重厚な扉がゆっくり開いた、その瞬間――。「な……」
彼は言葉を失ったまま、ぴたりと足を止めた。
部屋一面、見渡す限り木製の人形、人形、人形――。 部屋の広ささえ把握できないほど、びっしりと人形が並び、積まれ、横たわっている。「これからヒューマンドールになっていく、私の人形たちだよぉ、今から、試作中の子に魂を込めてあげるね」
そういうと、彼女は勢いよく仮面を外した。
そして木製の人形の唇へ、そっと口づける。「んっ……」
微かに漏れる吐息。
《こ、これ……見てていいやつなのか……》
気まずさが込み上げ、彼は思わず目をそらし背を向けようとした。
だがその瞬間、彼女がすっと目を開き、こちらを真っ直ぐ見つめてきた。「な、なんだよ……」
チュパッ、と湿った音を立てて、彼女は人形から唇を離す。
「見てて。これからだよ」
その声には、先ほどまでとは違う熱が宿っていた。
間も無く、人形の口元がふわりと光り始めた。 光はゆっくりと喉を通って沈み込み、人間でいう心臓の位置でぴたりと止まる。 次の瞬間、細い光の筋が四方八方へ伸びていく。 太いものから、肉眼では捉えられないほど細いものまで、まるで木の枝が分かれ伸びるように、光の血管が体の隅々へと広がっていった。やがて、人形の節々から木の擦れる小さな音が鳴り始める。
そして三十秒ほど経つと、ぎし、ぎし、と音を立てながら地面に足をつけ、ゆっくりと立ち上がる。俯いていた顔が持ち上がり、重いまぶたが開く。
露わになった瞳には、確かな【命の灯火】が宿っていた。 それはもはや単なる|木偶《でく》ではない。 間違いなく「生きている」と言える存在だ。その瞬間、彼は息を呑む。
そして気づけば、彼はその人形に見惚れていた。 人形とは思えない青く煌めくその瞳が、あまりにも美しすぎたから。なぜか、その人形はまっすぐに彼を見つめている。
《ど、どうしたんだろう……ちょっと見すぎたかな……?》
動揺し、彼は視線を泳がせる。
そのとき、人形がはっきりと口を開いた。「あなた、お人形さん?」
「――えっ?」その一言で、彼の思考は完全に停止した。
彼はハッと我に返った。 そして考える――なぜ、この子は自分をお人形さんと呼んだのだろう、と。「う、ううん。僕は人間だけど……」「そうなのね……ごめんなさい」「ん? いや、いいよ。気にしないで」 人形は、シュンと肩を落として俯いた。 その仕草は、まるで本当に感情があるかのようだ。 命を宿したばかりのはずなのに……彼は思わず首を傾げた。 その人形の名はマリア。 周囲の量産前の木製人形とは違い、ひときわ人間に近い佇まいをしている。「私はマリア」「……」「マリアっていうの」「えっ、あ……うん、マリアちゃんね!」 マリアの自己紹介はどこかぎこちなく、それでいて愛らしい。 ついさっきまで魂の欠片もなかった存在が、今こうして言葉を話し、人のように動いている。 彼はその奇跡を前に、どう受け止めていいか分からないようだった。「いやいやぁ……これは素晴らしいよぉ。まさか本当に成功するとは思わなかったけどねぇ。君の前で成功するなんて、これはもう紛れもない奇跡だよ」 ミヤは満面の笑みでそう言い、続けて軽く手を上げる。「ちなみに僕の名前はミヤだよぉ」「え今!?びっくりした……。確かに君の名前聞いてなかったけど……ところで、その奇跡っていうのは?」 急に話題が飛び、彼は完全に置いていかれた。 ミヤを見ると、彼女は目を閉じ、顔を天に向け、笑いながら涙をこぼしていた。「こんなにも突然……夢が叶うなんてねぇ」 彼はぽかんと口を開けて固まる。 奇跡、夢、自分には縁のない、あまりにも大きすぎる言葉。 どう理解すればいいのか分からず、ただ戸惑うしかなかった。 そんな彼の表情を見て、ミヤは静かに息を整えた。 「このマリアはねぇ、二番目に最高傑作なのだよぉ。二番目なのに最高だってねぇ。あははは、あはははは、げほっげほっ」「……」 ミヤは度を越した興奮で、まるで長く漂っていた雲が一気に晴れていくように表情を輝かせた。 その挙句、笑いすぎてむせてしまう。 それほどまでに、この出来事は彼女にとっての最高というものなのだろう。 だが、彼にとってその姿は恐怖と冷めた感情を同時に呼び起こすものだった。「おいおい君ぃ、そんなに引くとこじゃないよねぇ」「いや、普通に怖かったよ。ね、マリアちゃん?」「……?」 マリアはこてん、と小さく首を傾げ、二人
三話 |ピエロ《彼女》は涙を拭うと、何も言わず奥の部屋へと消えていった。 扉が閉まる音だけが静かに響き、その後、彼女が出てくることはなかった。 彼は胸の奥に何か引っかかるものを感じながらも、一度ここを離れることに決め、来た道をゆっくりと戻っていった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼女と出会ってから十日ほどが過ぎた。 あの日、何も言わず彼の前から去った理由はいまだに分かっていない。 諦めかけていたが、それでも彼女の創り出すあの人形たちの姿は、彼の心をわずかに揺さぶり続けていた。《もっと、動いているところを見てみたい》 そんな想いが、日に日に大きくなっていく。 ふと、一瞬だけ過去が時が止まったように感じた。 彼女はいま何をしているのだろう。まだ、あの場所にいるのだろうか。 そんな不安とも焦がれともつかない感情が、唐突に胸を締めつける。 徐《おもむろ》にポケットへ手を入れたとき、紙のような触り心地の物に指が触れた。 何かを思い出すように取り出し、四つ折りになった紙を広げる。 隅に小さく〈命の宿り木〉と書かれた文字が目に入った。「あっ……|ピエロ《あのひと》の……」 紙にはたった一行のメッセージが記されていた。 その一言を見た瞬間、彼の胸が早鐘を打った。 ――新しい人形、見に来てよ。 それだけだ。 それだけなのに、その瞬間に彼は決めた。 再び、あの場所へ向かうことを。 彼の胸の内では、心配やら嬉しさやらがぐるぐると渦巻き、互いにぶつかり合っていた。 心配が嬉しさに勝ちそうになり、嬉しさがまたそれを押し返し、混ざり合ってはせめぎ合う。 けれど最終的に――嬉しさが勝った。 きっと、最初から彼に渡すつもりだったのだろう。 だが渡すタイミングを逃し、気づかれないよう、そっと彼のポケットへ忍ばせたに違いない。「……すぐに行こう」《まだ終わっちゃいなかった》 彼は拳をぎゅっと握りしめ、空を仰ぐ。 胸の奥で膨らんでいた不安はいつの間にか温かい安心に変わっていた。 仕事中だったが、彼は衝動のまま作業場から駆け出した。 後ろから同僚が慌てて追いかけてきたが、若い彼の足には追いつけず、その影はあっという間に遠ざかっていく。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ そして彼は再び|命の宿り木《ここ》へ戻ってきた。 あの日見た、天井を突くような巨大な扉の
二話 黒いタンクトップの上から、色あせたオーバーオールを着ている。 薄紫の髪は少し汚れており、毛先が肩にかかるほどの長さだ。 わずかに波打つその髪の奥、顔には奇妙な仮面、不気味なほど静かな“ピエロの面”があった。 背丈は低く、頭のてっぺんが彼の肩に届くかどうかというほど。 その仮面は、まるで二つの感情を押しつぶしたかのような造形をしていた。 左半分は泣いているようで、目の下には黒い涙の模様が流れている。 右半分は、狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。 鼻や眉の凹凸は妙にリアルで、まるで人間の皮膚を模したかのように生々しい。 見た者の心に、じわりと恐怖が染み込んでくる、そんなデザインだった。「信じてきてくれたんだねぇ、ありがとう。君、ヒューマンドールが欲しいんだよねぇ?」 声の主は子供、なのだろうか。 ぱっと見はそう見える。だが、その雰囲気は年齢という言葉では説明できなかった。 とりあえず、彼はその存在を『ピエロ』と呼ぶことにした。 ピエロはゆっくりと歩みを進め、彼の目の前まで近づく。 《小さいのに、何故か大きく見える……錯覚なのかな。いや、正直、怖い》 ピエロは下から覗き込むようにして、彼の顔を見上げた。 ランプの淡い光が仮面に影を落とし、その面がまるで生き物のように見える。「あ、あの……生きた人形って、本当にいるんですか?」「いるよぉ。ほら、あそこ」 ピエロが細い指で右端を指し示す。 そこにはメイド服を着た女の子が立っていた。「あの子が……どうかしたんですか?」《何を言ってるんだ……ただのメイドにしか見えない》 メイドの少女は、両手でほうきを握り、床を静かに掃いている。 塵を集める仕草は機械的で、どこか人間味が欠けていた。「あの子はねぇ、僕が創った人形なんだぁ。もう十年はここで働いてるよぉ。可愛いでしょ?キャロルっていうんだぁ。君もキャロルって呼んであげてねぇ」 仮面の下で、ピエロはニヤリと笑う。 まるで、自分の子供を紹介する親のように。「う、うん。キャロルちゃん、ね。……ところで、そのキャロルちゃんって、本当に“人形”なの?」 彼は疑念を押し隠しながら、ピエロの瞳、いや、仮面の奥にある“何か”を見つめて問いかけた。「そうだよぉ、そうともさ。あのキャロルちゃんこそが、僕の創り出した.生きた人形ヒューマ
ヒューマンドール。 それは――命を宿した人形。 そして、主人の命令ならどんなことでも従う、不思議な存在。 だが、ヒューマンドールには心がない。 最初はただの人形。動く気配すらない球体関節人形にすぎなかった。 しかし、ある技術者の手によって、それは人間と見分けがつかないほどの存在へと進化を遂げる。 見た目は周囲の人間とほとんど変わらない。 ただ一つの違い【主君契約】を結ばなければ、決して動かないということ。 【主君契約】とは、ヒューマンドールと人間のあいだで交わされる特別な契約。 契約を果たした者は“主人”となり、ドールを自らの意のままに扱うことができる。 使い道は人それぞれだ。 忠実な従者として仕えさせるもよし。 寂しさを紛らわすため、恋人や伴侶として暮らすもよし。 あるいは、怒りやストレスのはけ口として暴力を振るう者もいる。 繁殖はできないが、欲を満たすための行為も可能だった。 もう一度言おう――ドールには、心がない。 これは、そんな世界に生まれたひとつの命の物語。 ……いいえ。 二つの命の物語。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 《痛い……やめて……なんで僕だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。僕が何をしたっていうの……!》 彼の髪は薄黒く、少し癖があるせいか、ところどころ重力に逆らって跳ねている。 背は高くも低くもなく、体型もごく平均的。いい意味でも、悪い意味でも“普通”だった。 白い肌に覇気のない目。どこか頼りなく映るその姿は、彼をいじめの標的にするには十分だったのだろう。 制服は泥で汚れ、袖口や裾は擦れてほつれている。まるで「抵抗する気力なんて残っていない」と語っているかのように。 暗くて狭い部屋。 湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。 部屋の中央には、今にも崩れそうな木製の机が四台。 それらは向かい合わせにくっつけられ、ひとつの島のように並んでいた。 椅子も同じく古びた木製で、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる。「おいボンクラ、そこさっさと片せ」「まーだ終わってねぇのか、この役立たずが」 罵声を浴びせ続けるのは彼の同僚四人。 彼らもまた、あちこち破れた服を身にまとい、顔や手は煤で黒く汚れていた。 洗っていない髪は皮脂でべったりと光り、異臭すら漂う。 ――そして、そんな連中から毎日いじめを受け、