LOGIN彼はハッと我に返った。
そして考える――なぜ、この子は自分をお人形さんと呼んだのだろう、と。 「う、ううん。僕は人間だけど……」 「そうなのね……ごめんなさい」 「ん? いや、いいよ。気にしないで」 人形は、シュンと肩を落として俯いた。 その仕草は、まるで本当に感情があるかのようだ。 命を宿したばかりのはずなのに……彼は思わず首を傾げた。 その人形の名はマリア。 周囲の量産前の木製人形とは違い、ひときわ人間に近い佇まいをしている。 「私はマリア」 「……」 「マリアっていうの」 「えっ、あ……うん、マリアちゃんね!」 マリアの自己紹介はどこかぎこちなく、それでいて愛らしい。 ついさっきまで魂の欠片もなかった存在が、今こうして言葉を話し、人のように動いている。 彼はその奇跡を前に、どう受け止めていいか分からないようだった。 「いやいやぁ……これは素晴らしいよぉ。まさか本当に成功するとは思わなかったけどねぇ。君の前で成功するなんて、これはもう紛れもない奇跡だよ」 ミヤは満面の笑みでそう言い、続けて軽く手を上げる。 「ちなみに僕の名前はミヤだよぉ」 「え今!?びっくりした……。確かに君の名前聞いてなかったけど……ところで、その奇跡っていうのは?」 急に話題が飛び、彼は完全に置いていかれた。 ミヤを見ると、彼女は目を閉じ、顔を天に向け、笑いながら涙をこぼしていた。 「こんなにも突然……夢が叶うなんてねぇ」 彼はぽかんと口を開けて固まる。 奇跡、夢、自分には縁のない、あまりにも大きすぎる言葉。 どう理解すればいいのか分からず、ただ戸惑うしかなかった。 そんな彼の表情を見て、ミヤは静かに息を整えた。 「このマリアはねぇ、二番目に最高傑作なのだよぉ。二番目なのに最高だってねぇ。あははは、あはははは、げほっげほっ」 「……」 ミヤは度を越した興奮で、まるで長く漂っていた雲が一気に晴れていくように表情を輝かせた。 その挙句、笑いすぎてむせてしまう。 それほどまでに、この出来事は彼女にとっての最高というものなのだろう。 だが、彼にとってその姿は恐怖と冷めた感情を同時に呼び起こすものだった。 「おいおい君ぃ、そんなに引くとこじゃないよねぇ」 「いや、普通に怖かったよ。ね、マリアちゃん?」 「……?」 マリアはこてん、と小さく首を傾げ、二人の顔を交互に見つめる。 生まれたての赤子のような存在で、きっと状況をほとんど理解できていないのだ。 「そうだよ、さっき言ってた奇跡って結局どういう意味なの?」 「マリアはねぇ百年に一度の傑作なんだよなぁ、さっきのマリアを見たでしょぉ?あの子は確かに感情があった。まだありんこ程度だけどねぇ」 「百年に一度って……大袈裟すぎだろ」 ミヤはニヤリと笑いながらマリアに体を寄せ、頬をぴたりと重ねてくる。 指先でくるくると髪を撫でても、マリアは表情ひとつ変えない。 「でも、前に言ってたよね? 感情を与えることはできないって」 ミヤは目を閉じ、片手を腰に、もう片方の手の人差し指を立てる。 「チッチッチ」 指を振りながら得意げに笑うと、彼は思わずほっと息を吐いた。 “あの天才ミヤ”が、この表情を見せるのなら、安心していいのかな、とそんな気がしたのだ。 「確かに感情って与えられるものではないけどぉ……すっごい、たまぁ〜にだけどね?マリアみたいな子が産まれるのだよぉ。与えたわけでもないのに、最初から感情を持ってねぇ」 ミヤはその奇跡を噛みしめるように、さまざまな感情を浮かべてうっとりする。 彼は半信半疑だったけれど、同時に信じたくなる気持ちも強くなる。 そんな心の揺れが顔に出たのか、ミヤは再び彼に視線を向け、こてりと首を傾けた。 「そんなすごい瞬間に……僕は立ち会えたのか」 「うんうん、もう二度と目にすることはできないだろうけどねぇ」 ミヤは腕を組み、やたら満足げに何度も頷いた。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ そのあとしばらく、ミヤは淡々と、しかし嬉しそうに人形に命を吹き込む作業を続けた。 十……二十……三十……。 次々と人形の身体が光に満たされ、立ち上がっていく。 作業が一段落した頃、彼は意を決したようにミヤへ声をかけた。 「ミヤ、急なんだけどさ」 「どしたのぉ」 「……実は今朝、仕事ぶっちぎっちゃって」 「ほんっと急だね君」 「ごめん……」 「ん〜じゃあここ手伝ってくれてもいいんだよぉ?部屋は一つしかないから、寝る時は三人一緒だけどねぇ……へへへ」 ミヤは頬を赤らめながら、どこか楽しげに笑う。 「こんな広いのに!?というか、住み込みでいいの?」 これだけの空間がありながら、寝室として使っている部屋はひとつだけ。 彼は思わず目を丸くした。 「まぁ、この場所は基本的に人形のための空間だからねぇ。それに住み込みで手伝ってくれた方が効率がいいしぃ」 彼は納得したように頷く。 「本当にありがとう。働いて借りは返します。あれ、三人って……もしかしてマリアも?」 「そだよぉ。よかったねぇ、君にとっちゃ楽園だぁ。ハーレムだよぉ」 《この人ほんとポジティブだ……》 こうして、彼とミヤとマリア、三人の共同生活が始まった――。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 翌朝、キッチンにて――。 「マリアちゃん、そこのマグカップ取って〜」 「わかりました」 硬すぎず柔らかすぎず、淡々と答える。 「ありがとう」 彼が微笑みながら礼を言うと、マリアは静かに会釈をする。 そのまま部屋の隅に置かれた水入りのバケツと雑巾を手に取り、黙々とキッチンの清掃を始めた。 奴隷ではない。だが彼やミヤに対して、マリアは何でも言うことを聞く忠実なメイドのようでもあった。 そして、食事作りは彼の担当だ。 三食すべて、彼が作っている。 今朝は、フライパンにベーコンを敷き、その上に卵を落として火を通す。 マグカップには温かいコーンスープ。そして焼き上がったベーコンエッグを皿に盛り、トースターで軽く焼き目をつけた食パンを添える。 簡単だが香りの良い朝食が出来上がった。 彼はマリアと共にミヤのいる作業部屋へ向かった。 コン、コン、コン――。 扉をノックして開けると、ミヤは机に突っ伏して寝ていた。どうやら作業中に力尽きたらしい。涎まで垂らしている。 「んにゃむにゃ……」 「おーい、朝ごはんできたよー」 彼が肩を軽く叩くと、ミヤは猫のような声で返事をした。 「んにゃー?もうそんな時間なのぉ……んーーっ!」 大きく背伸びをしてからこちらを向き、立ち上がった。すると彼はミヤを見た瞬間、吹き出した。 「あはははっ、なんだよその頭」 「えぇ?」 ミヤの髪はあらゆる方向へ爆発したように広がり、絡まり、跳ね上がり、ライオンの立髪のようになっていた。 マリアは荒目の櫛を手に取ると、軽く腕を引いてミヤを椅子に座らせ、寝ぼけたままの彼女の髪を丁寧に梳き始める。 「ありあとねぇ、マリアちゃぁん……」 朝の光の中で、彼・ミヤ・マリアの三人が並ぶ光景は、 まるで普通の家族の一幕のように温かかった。 かつては広く、暗く、寂しさに満ちていたこの空間も、 いつの間にか柔らかく色づき、温もりを宿し始めていた。 「ずっと……こんな日が続いたらいいな……」 つい心の声がこぼれ、彼は少しだけ頬を染めた。 「んー?なんか言ったぁ?」 「ううん、なんでもない! それより髪梳いたらご飯食べるよー!」 そう言って背を向けると、彼は自然と笑みを浮かべながら、用意した朝食の並ぶ食卓へ向かった。彼はハッと我に返った。 そして考える――なぜ、この子は自分をお人形さんと呼んだのだろう、と。「う、ううん。僕は人間だけど……」「そうなのね……ごめんなさい」「ん? いや、いいよ。気にしないで」 人形は、シュンと肩を落として俯いた。 その仕草は、まるで本当に感情があるかのようだ。 命を宿したばかりのはずなのに……彼は思わず首を傾げた。 その人形の名はマリア。 周囲の量産前の木製人形とは違い、ひときわ人間に近い佇まいをしている。「私はマリア」「……」「マリアっていうの」「えっ、あ……うん、マリアちゃんね!」 マリアの自己紹介はどこかぎこちなく、それでいて愛らしい。 ついさっきまで魂の欠片もなかった存在が、今こうして言葉を話し、人のように動いている。 彼はその奇跡を前に、どう受け止めていいか分からないようだった。「いやいやぁ……これは素晴らしいよぉ。まさか本当に成功するとは思わなかったけどねぇ。君の前で成功するなんて、これはもう紛れもない奇跡だよ」 ミヤは満面の笑みでそう言い、続けて軽く手を上げる。「ちなみに僕の名前はミヤだよぉ」「え今!?びっくりした……。確かに君の名前聞いてなかったけど……ところで、その奇跡っていうのは?」 急に話題が飛び、彼は完全に置いていかれた。 ミヤを見ると、彼女は目を閉じ、顔を天に向け、笑いながら涙をこぼしていた。「こんなにも突然……夢が叶うなんてねぇ」 彼はぽかんと口を開けて固まる。 奇跡、夢、自分には縁のない、あまりにも大きすぎる言葉。 どう理解すればいいのか分からず、ただ戸惑うしかなかった。 そんな彼の表情を見て、ミヤは静かに息を整えた。 「このマリアはねぇ、二番目に最高傑作なのだよぉ。二番目なのに最高だってねぇ。あははは、あはははは、げほっげほっ」「……」 ミヤは度を越した興奮で、まるで長く漂っていた雲が一気に晴れていくように表情を輝かせた。 その挙句、笑いすぎてむせてしまう。 それほどまでに、この出来事は彼女にとっての最高というものなのだろう。 だが、彼にとってその姿は恐怖と冷めた感情を同時に呼び起こすものだった。「おいおい君ぃ、そんなに引くとこじゃないよねぇ」「いや、普通に怖かったよ。ね、マリアちゃん?」「……?」 マリアはこてん、と小さく首を傾げ、二人
三話 |ピエロ《彼女》は涙を拭うと、何も言わず奥の部屋へと消えていった。 扉が閉まる音だけが静かに響き、その後、彼女が出てくることはなかった。 彼は胸の奥に何か引っかかるものを感じながらも、一度ここを離れることに決め、来た道をゆっくりと戻っていった。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 彼女と出会ってから十日ほどが過ぎた。 あの日、何も言わず彼の前から去った理由はいまだに分かっていない。 諦めかけていたが、それでも彼女の創り出すあの人形たちの姿は、彼の心をわずかに揺さぶり続けていた。《もっと、動いているところを見てみたい》 そんな想いが、日に日に大きくなっていく。 ふと、一瞬だけ過去が時が止まったように感じた。 彼女はいま何をしているのだろう。まだ、あの場所にいるのだろうか。 そんな不安とも焦がれともつかない感情が、唐突に胸を締めつける。 徐《おもむろ》にポケットへ手を入れたとき、紙のような触り心地の物に指が触れた。 何かを思い出すように取り出し、四つ折りになった紙を広げる。 隅に小さく〈命の宿り木〉と書かれた文字が目に入った。「あっ……|ピエロ《あのひと》の……」 紙にはたった一行のメッセージが記されていた。 その一言を見た瞬間、彼の胸が早鐘を打った。 ――新しい人形、見に来てよ。 それだけだ。 それだけなのに、その瞬間に彼は決めた。 再び、あの場所へ向かうことを。 彼の胸の内では、心配やら嬉しさやらがぐるぐると渦巻き、互いにぶつかり合っていた。 心配が嬉しさに勝ちそうになり、嬉しさがまたそれを押し返し、混ざり合ってはせめぎ合う。 けれど最終的に――嬉しさが勝った。 きっと、最初から彼に渡すつもりだったのだろう。 だが渡すタイミングを逃し、気づかれないよう、そっと彼のポケットへ忍ばせたに違いない。「……すぐに行こう」《まだ終わっちゃいなかった》 彼は拳をぎゅっと握りしめ、空を仰ぐ。 胸の奥で膨らんでいた不安はいつの間にか温かい安心に変わっていた。 仕事中だったが、彼は衝動のまま作業場から駆け出した。 後ろから同僚が慌てて追いかけてきたが、若い彼の足には追いつけず、その影はあっという間に遠ざかっていく。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ そして彼は再び|命の宿り木《ここ》へ戻ってきた。 あの日見た、天井を突くような巨大な扉の
二話 黒いタンクトップの上から、色あせたオーバーオールを着ている。 薄紫の髪は少し汚れており、毛先が肩にかかるほどの長さだ。 わずかに波打つその髪の奥、顔には奇妙な仮面、不気味なほど静かな“ピエロの面”があった。 背丈は低く、頭のてっぺんが彼の肩に届くかどうかというほど。 その仮面は、まるで二つの感情を押しつぶしたかのような造形をしていた。 左半分は泣いているようで、目の下には黒い涙の模様が流れている。 右半分は、狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。 鼻や眉の凹凸は妙にリアルで、まるで人間の皮膚を模したかのように生々しい。 見た者の心に、じわりと恐怖が染み込んでくる、そんなデザインだった。「信じてきてくれたんだねぇ、ありがとう。君、ヒューマンドールが欲しいんだよねぇ?」 声の主は子供、なのだろうか。 ぱっと見はそう見える。だが、その雰囲気は年齢という言葉では説明できなかった。 とりあえず、彼はその存在を『ピエロ』と呼ぶことにした。 ピエロはゆっくりと歩みを進め、彼の目の前まで近づく。 《小さいのに、何故か大きく見える……錯覚なのかな。いや、正直、怖い》 ピエロは下から覗き込むようにして、彼の顔を見上げた。 ランプの淡い光が仮面に影を落とし、その面がまるで生き物のように見える。「あ、あの……生きた人形って、本当にいるんですか?」「いるよぉ。ほら、あそこ」 ピエロが細い指で右端を指し示す。 そこにはメイド服を着た女の子が立っていた。「あの子が……どうかしたんですか?」《何を言ってるんだ……ただのメイドにしか見えない》 メイドの少女は、両手でほうきを握り、床を静かに掃いている。 塵を集める仕草は機械的で、どこか人間味が欠けていた。「あの子はねぇ、僕が創った人形なんだぁ。もう十年はここで働いてるよぉ。可愛いでしょ?キャロルっていうんだぁ。君もキャロルって呼んであげてねぇ」 仮面の下で、ピエロはニヤリと笑う。 まるで、自分の子供を紹介する親のように。「う、うん。キャロルちゃん、ね。……ところで、そのキャロルちゃんって、本当に“人形”なの?」 彼は疑念を押し隠しながら、ピエロの瞳、いや、仮面の奥にある“何か”を見つめて問いかけた。「そうだよぉ、そうともさ。あのキャロルちゃんこそが、僕の創り出した.生きた人形ヒューマ
ヒューマンドール。 それは――命を宿した人形。 そして、主人の命令ならどんなことでも従う、不思議な存在。 だが、ヒューマンドールには心がない。 最初はただの人形。動く気配すらない球体関節人形にすぎなかった。 しかし、ある技術者の手によって、それは人間と見分けがつかないほどの存在へと進化を遂げる。 見た目は周囲の人間とほとんど変わらない。 ただ一つの違い【主君契約】を結ばなければ、決して動かないということ。 【主君契約】とは、ヒューマンドールと人間のあいだで交わされる特別な契約。 契約を果たした者は“主人”となり、ドールを自らの意のままに扱うことができる。 使い道は人それぞれだ。 忠実な従者として仕えさせるもよし。 寂しさを紛らわすため、恋人や伴侶として暮らすもよし。 あるいは、怒りやストレスのはけ口として暴力を振るう者もいる。 繁殖はできないが、欲を満たすための行為も可能だった。 もう一度言おう――ドールには、心がない。 これは、そんな世界に生まれたひとつの命の物語。 ……いいえ。 二つの命の物語。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 《痛い……やめて……なんで僕だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。僕が何をしたっていうの……!》 彼の髪は薄黒く、少し癖があるせいか、ところどころ重力に逆らって跳ねている。 背は高くも低くもなく、体型もごく平均的。いい意味でも、悪い意味でも“普通”だった。 白い肌に覇気のない目。どこか頼りなく映るその姿は、彼をいじめの標的にするには十分だったのだろう。 制服は泥で汚れ、袖口や裾は擦れてほつれている。まるで「抵抗する気力なんて残っていない」と語っているかのように。 暗くて狭い部屋。 湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。 部屋の中央には、今にも崩れそうな木製の机が四台。 それらは向かい合わせにくっつけられ、ひとつの島のように並んでいた。 椅子も同じく古びた木製で、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる。「おいボンクラ、そこさっさと片せ」「まーだ終わってねぇのか、この役立たずが」 罵声を浴びせ続けるのは彼の同僚四人。 彼らもまた、あちこち破れた服を身にまとい、顔や手は煤で黒く汚れていた。 洗っていない髪は皮脂でべったりと光り、異臭すら漂う。 ――そして、そんな連中から毎日いじめを受け、







