夜が明け、庭の露が光る。
米を研ぎ、味噌汁を仕込み、洗濯物を干し、廊下を拭く。
かつて父が誇りを持って語った言葉が蘇る。
(そうよね、お父様)
今日のドレスは、私を立たせるものにしよう。 そつなく朝食を出し終え、自身も質素な朝食を早々に終わらせる。食べさせてもらえるだけでもありがたいと思え、という西条たちの言葉。給仕として働かされて何年も経つが、ただ働きで給金などもらえない。美桜は人の3倍ほどこの屋敷で働かされていた。「ちょっと、美桜。あの倉の中のドレス、出したの?」
庭の掃除をしていると、綾音の甲高い声がバルコニーから降ってきた。すぐに続いて、母の声。
「一緒に見に行きましょうか」
掃除を中断させられ、倉へと連行される。
「ああ~、これこれ!」
倉の奥は埃にまみれ、光が薄い。ボロボロになったドレスをわざわざ奥から引っ張り出してこられた。
箱を開けると、そこには黄ばんだレースと、破れたドレス。
「よかったわね~。ドレスがなくちゃ、夜会にも行けないものね~」
綾音がにやにや笑っている。
けれど――。
布の質は良いものだ。それが彼女たちにはわからない。
美桜は息をのんだ。
糸が呼吸しているように思え、布の声が聞こえる気がした。
「ちょっと~、せっかくドレスをあてがってやったんだから、もっと喜びなさいよ!」「はい。素敵なドレスをありがとうございます」
「ホホホ。感謝なさい。そのドレスはあんたにあげるわ。今までの給金として受け取りなさい」「ありがとうございます。おばさまのご慈悲に感謝いたします」
「まあ~」
散々恩着せがましく言われ、ようやく解放された。
仕事を早々に終え、美桜はそれからドレスの補修を試みた。まずは丁寧に洗ってほこりや泥などの汚れを落とし、乾かした後に針を走らせた。
針先は迷わない。
馬車の車輪が白い石畳を静かに叩いた。 煌びやかな街灯の列が遠くまで続き、やがて、その先に光り輝く大広間――浅野邸の門が見えた。 帝都一の名門財閥。 噴水の前には、絹と香水の香りを纏った令嬢たちが集まり、宝石が夜の光を跳ね返している。 音楽が聞こえる。バイオリンの旋律、笑い声、シャンパンの泡のはじける音――まるで別世界。 美桜は、喉の奥で息を飲んだ。(懐かしい…けれど、こんなにも遠い場所になってしまった) 父と最後にこういった財閥の夜会を開いてくれる家門をくぐったのは7年前。美桜が13歳の時だった。現在彼女は20歳。 あの日の父の誇らしい背中が脳裏にちらつく。父に借金を押し付け、逃げた友人というのはどこの誰なのだろうか。もし、東条のことを知っている人間なら、なにか手がかりがあるかもしれない。 今さらその犯人を捜しても、父も母も戻ってこない。しかも7年も前の話。誰も覚えていないだろう。「降りなさいよ、美桜」 綾音の冷たい声が降ってきた。
外灯が美桜の輪郭をやわらかく照らしていた。 淡く光沢のある白いドレスが、夜の帳の中で静かに息づいているように輝く。 手入れを施され、縫い直された糸の一本一本が、彼女の生きた証のように光を反射していた。 裾を握る指先、磨き上げた真珠の輝き、結い上げた夜会巻きの髪―― どれを取っても、完璧。だがその完璧さは贅沢でも虚飾でもない。 誇りと努力が、彼女自身を装飾していた。 冷たい風が吹き抜け、背後の街路樹が小さく揺れる。 ひとひらの花弁が舞い、彼女の肩にそっと落ちた。 美しい映画のワンシーンのような光景に、綾音も母も言葉を失った。「あ、あんた……その格好、なに……?」 綾音の声が震える。 足取りは止まり、喉が詰まって息が浅くなる。 その横で母も口を開けたまま、なにも言えなかった。 煤けた下働きの娘――そのはずだった美桜が、今、まるで帝都一の舞踏会に咲く舞姫のように、静かにそこに立って
日が傾き、屋敷の廊下を朱が染めていく。 美桜は手元の針を止めず、ひたすらに縫い続けた。時間の感覚などとうに失われていた。ただ、無心に手を動かした。 綾音とその母の笑い声が、何度も耳の奥で反響していた。 ボロを着て笑われる自分を想像して笑っている声。 彼女たちは知らない。 この指が、かつてどんな高級品を縫っていたのかを。 この糸が、どれほどの名家の夫人を飾ってきたのかを。 東条の娘として、父の背中を見て育った。絹を選ぶ眼、糸の感触、縫い目の美しさ。 どんな高価な宝石よりも、布を愛した父。 ――その父の誇りを、見せる時。 針の音が強く鳴る。 布の上を走る糸は、まるで彼女の決意を描くかのようだった。 ようやくドレスの補修が終わったのは、日が沈み、提灯の灯が並ぶ頃。 美朗は夜会で母が簡単にセットをしていた様子を思い出し、鏡の前でやってみた。 手先が器用な彼女は、すぐに『夜会巻き」を完成させてしまった。 鏡の前に立って、己の姿を映し出した。 美しく輝く白の色布が肌を透かすように光り、縫い直した部分の刺繍が花のように浮かび上がっていた。 袖口には新しいレース。母が残した糸で丁寧に縫い付けた桜の模様が、光を浴びて咲き誇る。 補修のドレスはなめらかな手触りはもちろんのこと、その質の良い上品な光沢のある白、装飾品は美しく磨いた真珠。最高のドレスへと生まれ変わっていた。 美しい美桜によく似合うドレスで、痩せた彼女のみすぼらしさよりも、内面から輝く美しさを助長していた。 (急がないと置いて行かれちゃう) 業者の傍にいたら、外聞を気にする彼女たちはあからさまに自分へ嫌がらせはできない。そうすれば追い出されることもないだろう。美桜は彼女たちが来る前に、急いで外へ向かった。 一方、綾音とその母は、自室で着飾り、鏡の前に立っていた。「まぁ綾音、お人形さんみたいに綺麗よ」 派手に膨らんだドレスは、真っ赤で情熱的な赤色だが、見ようによっては少々下品にも見えた。 「ふふ、ありがとう。美桜があのボロ布姿で並んだら、余計に私が映えるわ」「ほんと」「使えるものは使わなきゃね~」「使用人でも夜会に行ける機会を作ってあげたのだから、感謝してもらわないとね」 そんな風に愉快に話していると、玄関の外で、馬車の車輪が軋む音がし
夜が明け、庭の露が光る。 冷たい空気を裂くように鶏の声が響き、美桜はいつものように竈に火を入れた。 米を研ぎ、味噌汁を仕込み、洗濯物を干し、廊下を拭く。 けれど、今日はどこか胸の奥がざわめいていた。 夜会――それは久しく背を向けてきた社交の舞台。懐かしい。父が健在だったころは、よく家族で向かったものだ。そこで話術巧みな父が、新しい夜会の服の注文を取り付けたり、商談を成功させていたのを思い出す。 かつて父が誇りを持って語った言葉が蘇る。 「東条の糸は人の心を織る。布は人を飾るためにあるのではなく、人を立たせるためにある」(そうよね、お父様) 今日のドレスは、私を立たせるものにしよう。 そつなく朝食を出し終え、自身も質素な朝食を早々に終わらせる。食べさせてもらえるだけでもありがたいと思え、という西条たちの言葉。給仕として働かされて何年も経つが、ただ働きで給金などもらえない。美桜は人の3倍ほどこの屋敷で働かされていた。「ちょっと、美桜。あの倉の中のドレス、出したの?」 庭の掃除をしていると、綾音の甲高い声がバルコニーから降ってきた。すぐに続いて、母の声。
綾音は近づきレースの端を引き気味に触れた。「明日の夜会、あなたも来なさい。新しいドレスは要らないわ。その下働きの布でも着て来ればいいわ。私の引き立て役をしてちょうだいね」 夜会に着ていくドレスなどがないことをわかっていながら、綾音が意地悪を言う。 風が止む。白布が斜めに垂れて、地面の影が濃くなった。 夜会。社交の中心――かつて父に手を引かれて歩いた大広間、楽の音、笑声、独特な匂い。 あの眩しさの中に、今の自分の姿で立つのだという。美桜は覚悟と羞恥の重さを同じ秤で測るように、「わかりました」と頷いた。 夕刻。召使としての時間は忙しい。 台所の竃に火を入れる。焔が薪を喰い、ぱちぱちと弾ける。米を研ぎ、味噌を解き、出汁を合わせる。湯気が顔に触れ、いい香りが漂う。 ふと湯気の向こうに父の横顔が浮かんだ。夜会のことを持ち出されたから、心の隅から当時の記憶が呼び覚まされたのだろう。 立派な書斎で羽根ペンを走らせる真剣な横顔。 よく帝都へも連れ出してくれた。商談をまとめた日の帰り道、「美桜、世の中は風のように変わるが、人の器は風に攫われぬ。心があるからな」と笑った。 心は残る。ならば、どんなにみすぼらしくても私はまだ私でいられる――揺らめく炎を見つめながら、美桜は思った。いまはくすんだ灰色で虐げられていても、頑張っていれば綺麗な花が咲かせられると、その時を信じて。 夕食の準備が整うと、次は食卓の時間だ。綾音とその母は、上座に並んで座る。美桜は台所と座敷の間を何度も往復し、皿を置いては下げ、湯を替え、茶を足す。 綾音の母は、柔らかな声で言った。「明日は綾音の顔合わせも兼ねているの。粗相のないように支度を整えなさい」「はい」「そうだわ美桜。確か古いドレスが倉にまだあったはず! ねえ綾音、あの子が着れば、きっと似合うわよね。美桜も年頃なんだから、そのドレスを着ていらっしゃいよ」 煤汚れた古いドレスを、夜会に着てついて来いというおば。美桜に恥をかかせたいだけなのだろう。 辱めにはもう慣れた。美桜は「かしこまりました」と告げ、急須に入れた茶をもう一度注いだ。 夜、部屋に戻る。といっても、物置の一角を屏風で区切った寝所である。薄い布団と、木箱がひとつ。木箱の中に両親が残してくれた形見が少しだけ入っている。針と糸と、髪飾りと、白いボタン。そ
(もうすぐ春になる…) 東条美桜(とうじょうみおう)は、煤けた竈の縁に膝をつき、灰を集めた後、静かに息をつく。 春の始まりの風はまだ冷たく、荒い木枠の窓から忍び込んでは、台所の灰をさらい上げていく。指先は洗い晒しの麻に擦れて赤く、節々は小さく固くなっている。けれど手つきは不思議に優雅で、灰さえも細雪のように整って見えた。 ここは従妹・西条綾音(さいじょうあやね)の屋敷である。表向きは「身寄りのない親族を引き取ってやった」と人前で言い、内実は、召し使いの数がひとり増えたに等しい扱いだった。 朝餉の前に廊下を拭き、銅の取っ手を磨き、庭の飛び石の苔を落として、布巾をすすいで干す。することは尽きない。美桜は文句を言わない。言葉にすれば、さらに面倒が降るだけだと知っている。 父が友人の事業の連帯保証人になったことから、多額の借金を追い、東条一家は崩壊した。事後処理を行ってくれた従妹のおじの西条家に助けられ、拾われた。名だたる財閥だった東条家は霧散し、今やその名も世間から忘れられつつある。「まだ終わらないの? お客様がいらっしゃるのよ」 背から降る声は冷水のようだ。振り向けば、薄桃の絽の羽織を肩に引っかけた綾音が、扇を細くたたみながら立っている。紅を引いた口元に、うっすらと侮りの笑み。「はい。すぐに」「はいすぐに、じゃなくて。本当に分かっているのかしら。あの廊下、私の影が歪むの。磨きが甘い証拠よ」 美桜は黙って立ち上がる。廊下板の木目は、磨き続けて飴色に艶が出ている。綾音の靴音は、艶の上で無遠慮に跳ねた。 そのとき、ふと指に触れた感触に気づく。腰の紐に縫い留めてある、白い小さな真珠のボタン。亡き母が「幸運のしるし」と糸で結びつけてくれた、東条家の家紋入りの一粒。指腹でそっと確かめる。そこだけが、かつての世界と今を繋ぐ結び目だった。「その腰のもの、何? 下働きに似つかわしくないわね」 綾音の目はよく見ている。美桜は短く首を振った。「古い飾りでございます。仕事の邪魔にはいたしません」「邪魔よ。何事も、身の程に合わせるのが美徳だと、教わらなかった?」 扇の先が空を刺す。美桜は視線を落とした。怒りは喉元にまで上るが、吐き出す場所はない。 父がよく言った。「誇りを捨てるな。桜は桜のままに咲きなさい」。誇りと反抗は似ていて違う。反抗は、今の自分を