Se connecterストレスを抱え始めた真琴は、目に見えて楓を避け始めた。
それは、自分でもはっきり分かるほど露骨な変化だった。
廊下の向こうに楓の姿が見えると、真琴は反射的に足を止め、踵を返して反対側へ歩いて行った。 偶然を装う余裕すらなく、ただ逃げる。胸の奥が、きゅっと縮む。
楓の背中を見るたびに、申し訳なさと、向き合うのが怖い気持ちが同時に湧き上がった。「秋山さん、渡辺先生の資料を届けて……」
そんな声がかかっても、真琴はすぐに視線を逸らす。
「ゴメン。私患者さんと約束があって…」
本当は、数分あれば終わる用事だと分かっている。
それでも、楓と顔を合わせる可能性を、無意識に避けていた。断ることが増えるたびに、胸の奥がざらつく。
こんな自分でいいわけがない。 そう思えば思うほど、行動は逆を向いてしまう。帰宅すると、真琴はどっと疲れを感じた。
誰に何をされたわけでもない。 けれど、心だけが擦り切れている。一人の部屋。
灯りをつけた途端、静けさが重くのしかかる。(自分で後悔しないと宣言したのに……)
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
そう思えば思うほど、自分自身が一番後悔していると認めているようなものだった。洗面所に立ち、真琴は鏡に映った自分の姿を見る。
そこにいるのは、疲れた表情の女。(私、全然輝いてない……)
広告代理店に居た頃は、パーティーやお披露目会などに出席することも多かった。
ドレスを着て、ちょっと豪華なアクセサリーをつけ、 ワイングラスを片手に、会社社長などを相手に雄弁を語っていた。言葉で空気を操り、企画で人を動かし、
自分が世界の真ん中に立っているような感覚すらあった。それに比べて、今は――。
爪を伸ばすこともできず、マニキュアも禁止。
髪色も明るくできず、鏡に映るのは、どこにでもいる事務職員の姿。「このままトシだけ取っていっちゃうのかな…」
思わず、独り言がこぼれた。
病院勤務が悪いわけではない。
それは、真琴自身が一番よく分かっていた。毎日同じ時間に出勤し、決まった休みがあり、生活は安定している。
「文句を言う方が贅沢だ」
そう、陽斗は言った。
正論だと思う。 間違っていないとも思う。それでも――
真琴は、その言葉を受け入れることができなかった。胸の奥に、説明のつかない違和感が残る。
満たされない何かが、ずっと引っかかっている。でも、勤めて三カ月で根をあげるなんて、
自分の歳でするようなことじゃない。分かっている。
逃げだと、自分でも思う。だから、辞めたいとも言えず、戻りたいとも言えない。
自分に言い聞かせるように、今日もため息をつく。
息苦しい。
それが、今の真琴の、正直な気持ちだった。
「でもさ……仕事の方は卒業してないんだろ?」「……してないね。むしろ留年してる」「は?」「今の仕事、行き詰まってんの」「え、病院の?」「病院もだけど……全部。仕事の内容に気持ちが追いつかないの。 気づいたら“誰の人生だっけ?”ってなる」「真琴らしくねぇなぁ」「そう。私らしくない」 大崎はグラスを持ち上げ、真琴をまっすぐ見る。「広告業界に戻りたいんじゃないのか?」 真琴の指が止まる。 喉がきゅっと締まるような感覚。 その質問が、真意を突いたようで、真琴は泣きそうになったが、ぐっとこらえた。「……それ聞く?」「聞くよ。逃げんな」「逃げてないって」「じゃあ答えろって」 真琴はグラスを握りしめる。「……分かんない」「分かんない、は逃げ」「違う。怖いの」「怖い?」真琴は大崎の顔を見た。怖いという弱音を吐いたことで、真琴の中の涙腺が決壊した。真琴は大粒の涙が、頬を流れるまま、拭うことも忘れ、大崎に胸の内を吐き出していた。「三浦さんにも引き留められたのに、振り切ってでてきちゃったし… しかも、今の若い子たち、みんなキラキラしてて……眩しすぎて直視できないし…」「お前も昔キラキラしてたよ」 そう言って大崎は少し黙る。 それから、ふっと笑った。「じゃあさ。俺から聞くけど」「うん」「輝けなかったら終わりなの?」「……終わりじゃないけど」「じゃあ戻れよ。終わりじゃないなら。怖いのはみんな同じだって。俺も怖いし」「大崎も?」「しょっちゅう。だから飲んでんだろ?」「それは逃げじゃないの?」「逃げだよ。でも逃げながらでも戻れる時は戻る。 戻る方がしんどいって分かってても、戻る方が“生きてる感じ”すんだよ」「……ずるいなぁ、その言い方」 真琴は泣き笑いで答える。「ずるくない。本音」 大崎の言った「本音」という言葉が、真琴の胸に刺さる。 しばらく無言で考えていた真琴は言った。「じゃあさ」「ん?」「戻りたいと思ってる自分を、否定しないでおく。 まだ決断はしないけど……そういう自分がいるってことだけ、認めとく」「先延ばし?」「大人の微調整」「やっぱ真琴だわ」「褒めてんの?」「本音」 鍵を返すように、グラスを軽くぶつけ合った。「また飲もうね」「ああ。次はキスなしで」「最初からな
夜の街は、思ったよりも賑やかだった。 平日のはずなのに、ネオンは眩しく、人の声は絶えない。「この辺、変わったよな」 大崎慎也が、グラスを傾けながら言った。「そう?昔は、もっと雑多だった?」「真琴、こういうの覚えてる?」 カウンター越しに差し出されたのは、ショットグラスだった。 テキーラ。 懐かしすぎて、思わず笑ってしまう。「まだ飲ませる気?」「真琴なら平気でしょ」 そう言われて、否定できない自分がいた。 広告代理店にいた頃。 仕事帰りに飲んで、笑って、夜を使い切るように生きていた。 楽しかった。 確かに、あの頃の自分は、輝いていたと思う。「今は、ああいう生活してないんだろ?」 大崎が、探るように聞く。「……してない」 正直に答える。「病院の仕事は、楽しい?」 一瞬、言葉に詰まる。 楽しいか。 やりがいはある。 誰かの役に立っている実感もある。 でも――「落ち着いてはいる」 それが、今の精一杯だった。「真琴らしくない答えだな」 そう言って、大崎は笑った。 グラスが空になり、二軒目に移る流れになる。 自然だった。 拒む理由も、なかった。 二人で歩く夜道。 距離が、少し近い。「真琴さ」 信号待ちで、大崎が足を止める。「俺、正直に言うとさ……また会えて嬉しかった」 街灯の下で、彼の表情が少しだけ真剣になる。「懐かしさだけじゃない」 胸の奥が、静かに波打つ。 こういう言葉に、昔は迷いなく身を委ねていた。 楽しいなら、それでいい。 未来なんて、その時考えればいい。 ――でも、今は違う。 バーの個室。 照明は落ち着いていて、音楽が低く流れている。 肩が触れ合う距離。 大崎の指が、真琴のグラスに触れる。「変わったって言ったけどさ」 囁くような声。「俺は、今の真琴も、嫌いじゃないかな」 そのまま、視線が絡む。 一瞬で、分かる。 これは、越えられる距離だ。 体温。 香水の匂い。 昔と同じ、でも少し違う空気。 真琴は、目を逸らさなかった。 唇が近づく。 ほんの少し、ためらい。 ――ここで、戻れる。 でも、戻らなくてもいい。 そんな二つの声が、同時に聞こえた。 唇が触れる寸前で、真琴はそっと手を上げた。「――ストップ」
それは、懐かしい熱だった その男は、真琴の名前をフルネームで呼んだ。「……秋山真琴?」 声に振り向くと、少し驚いたような、でも楽しそうな顔があった。 スーツ姿。ネクタイは緩め、仕事帰りらしい。「あ……」 一拍遅れて、記憶が追いつく。「久しぶり。覚えてる? 大崎」 覚えている。 忘れるほど薄い関係ではなかった。「大崎、慎也……?」「懐かしいな、その呼び方!まだ覚えてくれてたんだ」 彼はそう言って、笑った。 あの頃と変わらない、軽くて人懐っこい笑顔。 場所は、駅近くの立ち飲みバーだった。 真琴は仕事帰り、なんとなく寄っただけだった。 誰かに会う予定など、なかった。「真琴、今は何してるの?」 呼び捨て。 それだけで、胸の奥が少しだけざわつく。「医療事務。病院で働いてる」「へぇ。意外」 そう言われるのは慣れている。 広告代理店時代の真琴を知る人間は、だいたい同じ反応をする。「大崎は?」「俺? まだ広告。相変わらずだよ」 懐かしい単語だった。 締切、修羅場、深夜のコンビニ、朝焼け。「一杯、付き合わない?」 断る理由はなかった。 断る必要も、感じなかった。 グラスを合わせた瞬間、 真琴は、昔の自分に戻ったような錯覚を覚えた。 会話は軽く、テンポがいい。 仕事の愚痴、昔の同僚の噂、どうでもいい笑い話。「真琴さ、変わったよな」「そう?」「落ち着いた。でも……それ、好きだった?」 一瞬、答えに詰まる。 好きかどうか。 考えたことは、なかった。「悪くはないよ」「ふーん」 大崎はそれ以上、踏み込まなかった。 その距離感が、心地よかった。 楽しい。 ただ、それだけ。 帰り際、大崎が言った。「また飲もう。今度は、ちゃんと時間あるとき」 名刺代わりに、スマホを差し出される。 真琴は一瞬迷い、連絡先を交換した。 駅のホームで、電車を待ちながら、 胸の奥が、少しだけ熱を持っていることに気づく。 ――楽しい、だけじゃダメなんだっけ。 そんな疑問が浮かんだが、すぐに消えた。 翌日、真琴は所用で訪れていた楓と再会した。 病院のエントランス。 白衣姿の楓は、相変わらず忙しそうで、それでも凛としていた。「真琴」 名前を呼ばれて、足が止まる。「久しぶり。こ
秋山真琴は、自分の人生を「失敗した」と思ったことは一度もない。 少なくとも、これまでは。 仕事はある。 生活は安定している。 誰かに依存せず、自分の足で立っている。 それは、間違いなく自分で選んできた人生だった。 流されてきたわけでも、妥協したわけでもない。 自分の判断で、選び、掴み、手放してきた。 なのに―― 新しい街で迎える朝は、いつも少しだけ静かすぎた。 カーテンを開け、朝の光を部屋に入れる。 整えられたワンルーム。 余計なものは何もない。 この空間は、真琴が「一人で生きる」と決めた結果だ。 衝動で選んだわけではない。 経済的にも、現実的にも、無理のない選択だった。 それを後悔しているわけではない―― 少なくとも、そう思おうとしている。 ただ、満足かと聞かれたら、そうとも言い切れなかった。 ――私は、何を守ろうとしてきたんだろう。 誰かと深く関わらないこと。 期待しすぎないこと。 失う前に、距離を取ること。 それは賢い選択だったはずだ。 実際、真琴はこれまで大きな傷を負わずに生きてきた。 失恋に泣き崩れることも、誰かに縋ることもなかった。 でも同時に―― 心の底から喜ぶことも、 誰かに必要とされる実感も、 どこかで避けてきたのではないか。 踏み込めば、失うかもしれない。 期待すれば、裏切られるかもしれない。 そう思うたびに、一歩引く癖がついていた。「他に好きな子ができた」 その言葉で、陽斗との関係は、あっさり終わってしまった。 泣き叫ぶような別れではなかった。 責め合うことも、縋ることもなかった。 あまりにも静かで、あまりにも現実的な終わり方だった。 お互い、“結婚”という二文字を意識していると思っていた。 少なくとも、真琴はそう信じていた。 年齢も、関係性も、タイミングも、揃っていると。 けれど、それは真琴の独りよがりだったらしい。 陽斗は、真琴が変わっていくのを、ずっと隣で見ていた。 仕事に疲れ、笑わなくなり、 苛立ちを隠さなくなっていく姿を。 支えたいと思った。 寄り添おうともした。 でも、真琴は弱音を吐く代わりに、壁を作った。 「大丈夫」と言いながら、 本当は大丈夫ではないことを、誰よりも分かっていたのに。 陽斗にとって、 “一緒に未来を想像できなく
真琴が限界に近づいていることを、最初に感じ取ったのは陽斗だった。 些細な言葉に過敏に反応し、黙り込んだかと思えば、急に強い口調になる。 以前なら笑って流していたことにも、刺が立つ。「……最近、どうしたの?」 夕食のあと、沈黙に耐えきれなくなった陽斗が切り出した。 真琴は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らす。「別に。何でもない」 嘘だ、と自分でも分かる答えだった。 けれど、本当のことを言う勇気もなかった。「何でもないわけないでしょ。明らかに無理してる」 その言葉に、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。「……私さ」 真琴は、そこで一度言葉を切った。 初めて、“誰かに本音を言おう”としている自分に気づく。「病院の仕事、ちょっと……後悔してる」 絞り出すような声だった。「向いてないとか、嫌いとかじゃないけど……。 毎日が、息苦しくて。 このままでいいのか、分かんなくなってきて……」 ようやく口にした本音。 それは弱音であり、助けを求める言葉だった。 だが――「……だから言ったじゃん」 陽斗の声が、思ったより低く、硬かった。「文句言うのは贅沢だって。自分で選んだんでしょ?」 その一言が、真琴の胸を深く刺した。「分かってるよ! 分かってるけど……感情は、そう簡単じゃないでしょ!」「じゃあどうすればいいの?」「そんなの、私だって分かんない!!」 言葉がぶつかり合い、空気が荒れる。「楓さんのためって言ってたのも、本当は違ったんじゃないの?」「なに、それ……」「逃げたかっただけじゃないの?」 その瞬間、真琴の中で何かが切れた。「ひどい……! 私がどんな思いで辞めたと思ってるの!?」「じゃあ、今の不満は誰のせい?」「……っ」 答えられなかった。 沈黙が、喧嘩を決定的なものにする。「今日は、もう話せない」 陽斗はそう言って席を立ち、部屋を出ていった。 翌日。 真琴は、目の奥が重いまま病院へ向かった。 いつも以上に周囲が気になり、集中できない。 そんな中、廊下で楓と鉢合わせた。 一瞬、逃げようとしたが間に合わなかった。「……真琴。最近、元気なさそうだけど、大丈夫?」 その声は、心配そのものだった。 なのに―― 真琴の口から出たのは、冷たい言葉だった。「……忙しいので」 楓の表情が、一瞬だけ固
ストレスを抱え始めた真琴は、目に見えて楓を避け始めた。 それは、自分でもはっきり分かるほど露骨な変化だった。 廊下の向こうに楓の姿が見えると、真琴は反射的に足を止め、踵を返して反対側へ歩いて行った。 偶然を装う余裕すらなく、ただ逃げる。 胸の奥が、きゅっと縮む。 楓の背中を見るたびに、申し訳なさと、向き合うのが怖い気持ちが同時に湧き上がった。「秋山さん、渡辺先生の資料を届けて……」 そんな声がかかっても、真琴はすぐに視線を逸らす。「ゴメン。私患者さんと約束があって…」 本当は、数分あれば終わる用事だと分かっている。 それでも、楓と顔を合わせる可能性を、無意識に避けていた。 断ることが増えるたびに、胸の奥がざらつく。 こんな自分でいいわけがない。 そう思えば思うほど、行動は逆を向いてしまう。 帰宅すると、真琴はどっと疲れを感じた。 誰に何をされたわけでもない。 けれど、心だけが擦り切れている。 一人の部屋。 灯りをつけた途端、静けさが重くのしかかる。(自分で後悔しないと宣言したのに……) その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 そう思えば思うほど、自分自身が一番後悔していると認めているようなものだった。 洗面所に立ち、真琴は鏡に映った自分の姿を見る。 そこにいるのは、疲れた表情の女。(私、全然輝いてない……) 広告代理店に居た頃は、パーティーやお披露目会などに出席することも多かった。 ドレスを着て、ちょっと豪華なアクセサリーをつけ、 ワイングラスを片手に、会社社長などを相手に雄弁を語っていた。 言葉で空気を操り、企画で人を動かし、 自分が世界の真ん中に立っているような感覚すらあった。 それに比べて、今は――。