Share

第2話

Author: 魚ちゃん
この冷淡で強引な義理の息子を前に、真奈美は一度も優位に立ったことがなかった。

潤に真正面から楯突く勇気はなく、いつも裏でこそこそと画策していた。だから真奈美は今、潤の言葉を聞くとすぐに、先ほどの明里についての自分の発言を彼に聞かれたことで、わざと意地悪をされているのだとすぐに察した。

とはいえ、別に二人の夫婦仲が良いというわけではなく、潤はただ自分の権威を誰かに逆らわれるのを許せないからだろう。

潤はかつて、和夫の圧力で明里と結婚させられた。二人の関係は形式的なものに過ぎず、潤の心には別の女性がいると噂されていた。だから真奈美は、ずっとこの夫婦がこじれるのを笑いものにしたかった。

だが、現に今の真奈美は反論する勇気もなく、気まずそうに笑いながら言った。「明里と冗談を言っていただけよ。明里は科学者だから、私も彼女が社会的に活躍して、二宮家の名を高めてくれるのを楽しみにしているのよ。台所仕事なんてさせるわけないじゃない」

その言葉には、皮肉と棘がたっぷりと含まれていた。

一言、社会的に活躍する科学者と言っても、それを成し遂げられる人はそうそういないのだから。

潤はスーツを脱ぎ、そばに放り投げると言った。「だったら聞きたいね。あなたは社会のためにどれだけ貢献して、この家にどれだけの名誉をもたらしたんだ?」

それを言われ、真奈美の顔から笑みが消えかかった。

そこへちょうど、陽菜が家に入ってきた。彼女は潤の後ろから、優しい声で呼びかけた。「潤さん、どうしたの?」

すると潤の顔から、いら立ちと険しさがすっと消え、陽菜を振り返って、「何でもない」と答えた。

そう言って彼はカフスボタンを外しながら部屋の奥へ歩いていき、明里のそばを通り過ぎる際に、「まだ突っ立っているのか?部屋に戻るぞ」と声をかけた。

そして、先に階段を上がっていった。

一方で、明里が陽菜に視線を向けると、陽菜は挑発的な笑みを返した。

先ほど潤が自分のために言葉を発してくれたのも、彼がこの継母を嫌っているからこそのことだ。

潤が一度機嫌を損ねると、誰も手がつけられない。

しかし、陽菜の「潤さん」という一言で、彼の全身から放たれていた刺々しいオーラは跡形もなく消え去った。

明里は自虐的に、陽菜と視線を交わした後、すぐに目をそらし、踵を返して階段を上がった。

彼らが去った後、真奈美は完璧な笑みを浮かべ、二、三歩前に出て陽菜を迎えた。「陽菜、早く入って。玄関は冷えるわ」

陽菜は素直に言った。「ありがとう、おばさん」

「まだ『おばさん』なんて」真奈美は彼女の髪を優しく撫でながら言った。「もうしばらくしたら、呼び方も変えないとね」

角を曲がると、階下の話し声はもう聞こえなくなった。明里は息を深く吸い込んで、自分と潤の部屋へと戻った。

すると、バスルームからシャワーの音が聞こえた。潤が入浴しているのだろう。

明里は窓際の椅子に腰掛け、眼下に広がる街の灯りを見つめていた。

そこで、スマホが鳴り、彼女は電話に出た。「凪」

凪は「ああ」と頷き、口を開いた。「午後のデータ、計算は終わったか?」

明里は人差し指でこめかみを揉みながら答えた。「終わった」

「他のデータはメールで送っておいた。これで明日は少し楽になるだろ」

「もうやってくれたの?」明里は驚いた。「そっちは忙しくないの?」

凪は言った。「まあな。あなたはこの分野のデータに慣れてないし、得意でもないだろ。計算するのも一苦労だろうから、ついでにやっておいた」

データの処理には、時に二時間もかかることがある。

データ処理が不得手な新しいパートナーのことを思い、明里は感謝の気持ちでいっぱいになった。「ありがとう。あなたも何かあったらいつでも声をかけて」

「ああ、じゃあまたな」

すると、バスルームから出てきた潤は、ちょうどその言葉を耳にした。

物音に気づいた明里が、彼の方を見上げた。

男は片手で髪を拭いていた。シャワーの湯気も彼の冷たい顔立ちを和らげることはなく、濡れたまつげでさえ、見る人にどこか鋭い印象を与えていた。

彼は腰にバスタオルを緩く巻いただけの姿で、見事に割れた腹筋が露わになり、目を引いた。

彼女が立ち上がって部屋を出ようとし、潤とすれ違う瞬間、手首を掴まれた。

「何よ」明里の声は冷たかった。「もう食事の時間よ」

陽菜に会ってからいうもの、彼女の感情も心も張り詰めたままだった。

そう言って彼女は彼の手を振り払おうとしたが、潤は明里をぐいと胸に引き寄せ、キスをしようと顔を近づけた。

明里は、彼が陽菜に向けた笑顔や、彼女にプレゼントを渡したことを思い出し、こみ上げてくるような胸やけを感じた。

明里は両手で潤の胸を支え、力いっぱい突き放した。

潤は眉間にしわを寄せ、どこか苛立った様子だった。

数秒後、彼は尋ねた。「どうした?どこか具合でも悪いのか?」

明里は知っていた。二人の間のスキンシップにおいて、潤が絶対的な主導権を握っていることを。

彼が求めれば、自分に拒否権はなかった。

その事実を思うと、明里はさらに胸が痛んだ。

潤は……自分を単なる性欲のはけ口としか見ていないだろうか?

明里は決然と彼の手を振り払った。「これから、私の許可なく、私に触れないで」

勇気を振り絞ってそう言い放つと、彼女は潤の反応を確かめずに階下へと向かった。

階下に降りると、二宮湊(にのみや みなと)の姿が目に入った。

湊は……とても幸運な男である。

若い頃は、彼の父である和夫が家業を支えていた。

そして、和夫が亡くなった後も、いや、まだ健在だった頃から、息子の潤がすでに大胆かつ迅速な手腕で後継者としての地位を固めていた。

湊には偉大な父親と優れた息子がいて、何もしなくても莫大な資産を享受できるのだ。

だからだろうか、五十代の彼は四十代前半にしか見えず、大人の優雅さと慈愛に満ちた眼差しを持っていた。

湊は明里に気づくと、手招きした。「明里、早く降りてきて食事にしよう。潤は一緒じゃないのか?」

この結婚は和夫が決めたもので、湊は昔から親孝行だった。そのため、父親が亡くなった今でも、彼は明里に対して何の不満も抱いていなかった。

明里は答えた。「彼もすぐに降りてくるから」

そこに陽菜が親しげに近づき、彼女の腕に絡みついた。「明里さん、こちらに座って」

明里は首を振り、自分の腕を引き抜いた。「この家でなら、私の方があなたを案内すべきよ」

すると、陽菜は途端に涙ぐみ、わざとらしく戸惑いの表情を浮かべた。「私、別にそんなつもりじゃ……」

傍らでそれを聞いていた真奈美は眉をひそめて口を挟んだ。「陽菜は親切で言ってるのに、あなたのその態度はなによ。この家の女主人にでもなったつもり?私をないがしろにして、礼儀知らずにもほどがあるわ」

そう言うと、彼女は湊に視線を移した。「これじゃ、これから陽菜がいじめられてしまうわ」

陽菜は、タイミングよく二度ほどすすり泣いた。

湊は頭を抱えた。「どうしていじめになるんだ?まあ、みんな座ってくれ。陽菜、泣かないでくれ……ああ、明里、早く彼女に謝ってくれ。潤と隼人を誤解させたくないだろ」

明里は陽菜に目を向けた。

陽菜は体を横に向け、他の人には見えないようにしながら、明里だけに見えるように、してやったりの傲慢な視線を送った。

二宮家に来た初日に明里を叱責させることができ、陽菜は満足気だった。

唯一の心残りは、潤がこの場面を見ていなかったことだ。

しかい明里が謝るなどするはずもなかった。

だけど、真奈美は執拗に言った。「湊さんが謝れと言っているのよ、聞こえなかったの?」

そのとき足音が聞こえ、全員が階段の上を見上げた。

潤が袖をまくりながら降りてきた。

チャコールグレーの部屋着を身につけていても、彼の気品と冷徹さは隠しきれていなかった。

潤の視線は、冷淡さと威厳をたたえながら、まっすぐに明里に注がれていた。

明里は、彼の眼差しに怒りと不満の色が浮かんでいるのを見て取った。

そうだろう、初対面から自分は潤の初恋の人を泣かせてしまったのだから。

ただ、先ほど自分にキスをしようとしたとき、彼は誰を思っていたのだろうか。

そう考えた途端、明里の胸を誰かに鷲掴みにされたように、激しく痛んだ。

同時に、吐きそうなほどの嫌気さえ覚えた。

潤の深く暗い瞳は沈んでいて、明里を擁護する言葉は一言も発しなかった。

湊は元々弱気な性格だから、息子である潤の言うことには何でも従っていたのだ。

最初は仲裁しようと思っていたが、潤の顔色を見て、彼も何も言えなくなってしまった。

真奈美は潤を好ましく思っていなかったが、それ以上に明里が嫌いだった。

同じ女なのに、自分はあれだけ苦労してやっと湊と結婚し、二宮家の一員になれたというのに、未だに潤の顔色を伺わなければならない。理不尽だ。

一方、明里はごく普通の家柄でありながら、やすやすと潤と結婚し、高い地位を手に入れた。

それに、潤と明里の関係が悪ければ悪いほど、真奈美にとっては好都合だった。

明里はというと、他のことに関しては何ひとつ恐れていなかった。

しかし、唯一、潤の疑いの眼差しだけが、彼女の心を徐々に冷えさせていった。

明里の指先が震え、唇の端に自嘲の笑みが浮かんだ。

潤が自分を愛していないことなど、とっくに分かっていた。もう慣れるべきなのだ。

それでも……やはり彼女の心は痛み、悲しみが込み上げてくる……

心はとっくに冷え切っているのに、わずかな痛みがかすかに響いていた。

彼女が湊に目をやると、彼の顔にはどこか気まずそうな笑みが浮かんでいた。

あまりにも気まずさに、湊はタイミングを見計らって口を開いた。「まあまあ、家族なんだから、早く座って食事にしよう」

明里は背筋を伸ばし、その後の食事中、一言も発しなかった。

謝る?自分は何も悪くないのに、どうして謝らなければならないのか?

陽菜は甲斐甲斐しく取り箸を使い、明里を含めた全員に料理を取り分けた。

最後に潤に取り分けようとすると、彼は言った。「そんなことしなくていいから」

陽菜は優しい声で答えた。「潤さん、すぐ食べるから安心して。ちゃんとたくさん食べるわ」

それを聞いて、明里のまぶたが微かに震えた。

隼人はまだ来ないのだろうか?

自分の婚約者が兄といちゃついているのを、何とも思わないのか?

食事が終わる頃、ようやく隼人が遅れてやって来た。

彼は自分の先生とあるプロジェクトを進めており、ここ数日多忙だった。

隼人の顔立ちは母親の真奈美に似ており、身長も潤には及ばない。全体的に軽薄な雰囲気を漂わせ、その眼差しには野心と計算高さが満ち溢れていた。

彼はが小学生の頃から、真奈美に、潤をライバルとみなし、いずれは二宮家の事業をその手に握るようにと、耳にタコができるほど言い聞かせてきた。

だけど隼人も自分の力がまだ及ばないことを自覚しているため、今まで潤に対してはいつも恭しく「お兄さん」と呼んでいた。

彼は陽菜の隣に座ると、彼女の椅子の背もたれに腕をかけ、今回のプロジェクトで得た利益と将来性について得意げに語り始めた。

真奈美はそれを聞いて、満面の笑みを浮かべた。「うちの息子は本当にすごいのよ。まだ大学も卒業していないのに、もう初仕事で大成功を収めるなんて!」

それを聞いて、明里は鼻で笑った。

これで「すごい」だって?

自分と隼人は同い年だが、こちらはすでに修士課程を終えて、社会人として働いている。

それなのに、隼人はまだ学士課程すら終えていない。

そのプロジェクトとやらも、二宮家が資金を提供したもので、誰がやっても利益が出るに決まっていた。

「初仕事で大成功」と言うなら、潤こそが本物の成功を収めてきていたのだ……

明里がふと顔を上げると、偶然にも潤の漆黒な瞳と視線がぶつかった。

今日のこの食事会は、元々、隼人が陽菜を家に連れて帰り、婚約について話し合うためのものだった。

湊がちょうど、両家の顔合わせについて話し始めたその時、カタン、と音がした。

潤が箸を置いた音だった。

明里が目を向けると、彼の表情は険しく、その瞳は墨のように黒く、まるで嵐の前の静けさのようだった。

初恋の人が実の弟と婚約しようとしている。潤は……もう我慢の限界なのだろう。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~   第970話

    息をするのすら忘れるほどだった。今の時代、出産はかつてほど命がけの危険なものではないと頭ではわかっている。それでも、新しい命をこの世界に迎えるまでの間には、何が起こるかわからない。思いがけない事態が起きることだってあるのだ。もしそれが、愛する明里の身に降りかかったら――そう想像するだけで、潤には耐え難い恐怖だった。もう、産ませない。二度と、こんな恐ろしい思いはしたくない。分娩室の扉の外で待つというのは、これほどまでに心が削られるものなのか。落ち着かない。不安だ。怖い。気が気でない。そして、永遠にも似た時間の後、ついに「母子ともに健康です」という知らせが届いた瞬間、潤の体からすっと力が抜け、壁にずるずるともたれかかってしまった。安堵の涙が、熱く頬を伝い落ちた。宥希が明里のお腹の中で育ち、生まれてくる瞬間。そこに父親として立ち会えなかったことは、潤にとってずっと消えない心残りだった。だが今度は、最初から最後まで、この目でしっかりと見届けた。小さな命が明里のお腹の中でゆっくりと育ち、この世界に産声を上げるまでのすべてを。その胸を満たす感覚は、どんな言葉でも言い表せないものだった。誇らしさ、深い安堵、狂おしいほどの愛おしさ、そして極限の心配――その全部が一度にこみ上げてきた。潤は目を閉じ、ようやく深く、ほっと息をついた。産後の明里は、ひどく体力を消耗していた。潤は、別室で休む赤ん坊に目を向けるよりも先に明里のそばへ寄り、汗で乱れた彼女の髪をそっと耳にかけ、その額に静かに口づけた。「お疲れ様」囁く声の端には、まだ涙の震えが残っていた。「本当によく頑張ったな。俺たちに、可愛い娘が生まれたよ」息子と娘。これ以上望むべくもない、完璧で円満な家族だった。生後百日を祝うお食い初めの宴は、潤の肝煎りで盛大に開かれた。生まれたばかりで小猿のように赤かった頃と比べると、赤ちゃんはすっかり愛らしい顔立ちになっていた。まるでおとぎ話のお人形のように可愛い。生まれた直後、宥希は決して口には出さなかったが、心の中ではこっそりと思っていたのだ――妹は、なんでこんなにくしゃくしゃな変な顔をしてるんだろう。まるで子猿みたいだ、と。でも数日もすれば、みるみるうちにふっくらと可愛くなっていった。黒葡萄のようにきらきらとした

  • プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~   第969話

    窓辺に飾られた水引細工は、どれも二人の手作りだった。精巧とは言えないが、どこか愛嬌があって見ていて飽きない。朱美はいろいろと材料を買い揃えてきては、裕之と一緒に手作りの飾りを作り、部屋のあちこちに飾った。それがまた、家の中の雰囲気をしっとりと彩り、温かみを添えていた。お正月には、高級なレストランを予約することはしなかった。専属の料理人たちにも休みを取らせた。家族みんなで台所に立ち、手作りのおせち料理を囲んだのだ。明里はもともと台所仕事が苦手で、身重の体ではなおさらだ。朱美の料理の腕前も、お世辞にも良いとは言えなかった。だから自然と、広い台所を仕切ったのは二人の男たちだった。義理の父と、娘の夫――血の繋がった正式な親子ではないかもしれないが、心の中ではとっくに、かけがえのない本当の家族だった。二人は息の合った見事なコンビネーションで台所を切り盛りした。大切な女性たちが料理をしないのなら自分がするしかないと、普段から手慣れているため、二人の連携は淀みなくスムーズだった。小さな宥希も、背伸びをして台所仕事を手伝った。潤がいつも言い聞かせていたのだ――「男たるもの、何でも一人でできなければいけない。責任感を持て。どんな困難にも立ち向かう強い気持ちを忘れるな」と。だから宥希は、一生懸命に学ぼうとしていた。頼もしい、立派な男になるために。新年の挨拶回りは、裕之と潤が相談した末、思い切ってすべて断ることにした。妻たちに意見を聞いてみたところ、まったく異議はなかった。大晦日から松の内が明けるまでの間、家族以外の誰とも食事をせず、来客を家に招くこともなかった。ただ穏やかで、温かくて、晴れやかなお正月だった。年明け最初の出社日になって、潤がようやく会社に顔を出し、社員たちに新年の祝儀を配り、いくつかの急ぎの用件を片づけてから、早々に帰宅した。明里のお腹はすっかり大きくなっていた。片時も彼女から目を離したくなかったのだ。新年を迎え、裕之はいよいよ重責から完全に解放された。年明けの仕事もほとんどなく、望めば出勤しなくても構わない。彼はもう、朱美と過ごす水入らずの時間を存分に楽しみ始めていた。二人が夫婦となってから、共にのんびり過ごす時間は本当に少なかった。人生は決して長くない。限られた人生の時間を、二人はず

  • プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~   第968話

    女性経験が豊富な啓太でさえ、さすがにこれには少し言葉に詰まった。なぜ優香は、こうも容赦なく核心を突いてくるのか。しかも、彼女の言うことはどれも的を射ているのだ。これには彼も、恥ずかしさのあまり返す言葉がなかった。優香は勝ち誇ったように笑う。「やっぱりね!あなたって本当に恥知らずね!」「そうだよ、俺は恥知らずな男だ」悪びれずにそう認められてしまうと、優香もそれ以上は何も言えなくなってしまった。この話は、ひとまずそこでお開きとなった。その後、優香がどんな際どい話を振っても、啓太は断固としてその挑発には乗らなかった。二人は一行とともに週末をこの温泉で過ごし、誰もが楽しい時間を送った。優香は啓太をからかっていないときは、おかかを連れてあちこちを楽しげに歩き回っていた。啓太はゆったりとした足取りで、彼女の後ろについていく。この施設にはまだ整備が行き届いていない場所もあり、怪我でもしてはいけないと気を張っていたのだ。帰り道、明里は潤に向かって言った。「増田さんがあんなに辛抱強く誰かに合わせているところ、初めて見たわ」「惚れ込んでいる本命の相手と、その場限りの遊び相手じゃ、態度が違って当然だろ」「このままいったら、優香ちゃん、本当に彼のことを好きになっちゃうかもね」細かいことを抜きにすれば、啓太の条件は本当に申し分ない。もし彼が本気で心を入れ替えているのだとしたら、その大人の魅力に抗える女性はそうそういないだろう。「優香が啓太を好きになったとして、何が問題なんだ?河野家の絶対的な力に、うちとの強固なつながりもある。啓太だって、その重みは痛いほどわかってるさ。もしあいつが浮気でもしたら、その全部を敵に回すことになるんだからな。あいつも大人だ、自分が何を一番大切にすべきかくらい、ちゃんとわかってる」「でも、浮気するかもしれないような男を、わざわざ好きになる必要はないじゃない」「他の誰かと付き合ったからって、その相手が一生浮気しないっていう保証がどこにある?」明里はもう一言言い返そうとして、やめた。潤の言う通りだったからだ。「それに」潤は静かに続けた。「恋愛のことは、優香自身が決めればいい。優香が嫌だと言うなら、俺たちにはどうにもできないしな」そう言われて、明里はようやく肩の力が抜けた。

  • プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~   第967話

    「わかってるわよ!」優香はムキになって言い返した。「この間あなたが言ったじゃない。好きなだけ触っていい、好きにしていいって。今さら撤回するの?」「撤回はしてない……」啓太は頭を抱えた。「触るのはいいんだけど……」「絶対嫌なんでしょ!」「最後まで聞いてくれ」啓太はなだめるように言った。「触ること自体はいい。ただ、俺の気持ちも少しは考えてくれないか。俺は石ころじゃないし、君は女で、しかも俺が心から好きな人だ。そんな君に触られたら……俺は、つらいんだ」「わかった」優香はさらりと言ってのけた。「要するに、そういうことでしょ」啓太はますます息が詰まりそうになった。「優香、この話題はもうやめようか」優香が気乗りしないのはともかく、たとえ彼女がその気だったとしても、啓太には何かするつもりは微塵もなかった。まだその時じゃない。優香が心から自分を好きになってくれる前に手を出したりしたら、それこそ隆に殺されかねない。それに、啓太自身がそんな不誠実な真似をしたくなかった。だからこそ、優香のこうした無防備な行動は、彼にとって本当につらい拷問だった。「嫌!」優香はきっぱりと言い放った。「あなたって、私のことまだ何も知らない子どもだと思ってるんじゃないの?何もわかってないとでも思ってる?」「子ども相手だったら、俺は好きにならない」啓太は苦笑した。「それじゃただのケダモノになってしまう」派手な女遊びはしてきたが、啓太には明確な一線があった。成人したばかりの子や、若すぎるホステスなど、一度も手を出したことがない。これまで関係を持ってきた相手は、すべて酸いも甘いも噛み分けた大人の女性ばかりだった。優香もそのあたりは多少調べて知っていた。彼のことが気になっていたのだから。「じゃあ今はどういうつもりなの?」「君のことを大切にしたいんだ」啓太は真摯な瞳で言った。「男というのは、挑発に弱い生き物だ。あんまりこういう話をしていると、理性が飛んで君に失礼なことをしてしまいそうで怖いんだよ」二人はお湯の中に立ったまま向き合っていた。ほんのりとした湯気が間を漂い、温泉の熱が体をじんわりとほぐしていく。優香は彼と喧嘩をしに来たわけじゃない。楽しみに来たのだ。こんな意地の張り合いで時間を無駄にしたくなかった。「じゃあこれからは、ずっ

  • プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~   第966話

    啓太は少し躊躇した。近くに行きたい気持ちは、もちろんある。でも、怖かった。自分の体が正直すぎて、理性を失って優香に失礼なことをしてしまいそうで。おまけに優香はどこまでが一線か分かっていないようで、時折とんでもないことを無邪気に口にする。そのたびに、啓太の心拍数は跳ね上がっていた。「来てよ!」動かない彼に、優香が不満げに口をとがらせた。「好きって言いながら、そんなに離れてるの?」「好きだからこそ……君を大事にしたいんだ」「大事にするなら最初から一緒に入らなければよかったじゃない。同じお湯に浸かってるくせに、今さら何を気にしてるの」確かに彼女の言う通りだ。啓太は数秒迷ってから、ゆっくりと立ち上がり、お湯を掻き分けて優香の方へと歩いていった。立ち上がると、胸元こそバスタオルで隠れているが、引き締まった腹筋はくっきりとあらわになった。水着は腰まわりをさほど覆い隠してくれるものではない。優香は「恥じらい」という感覚をあまりよく分かっていなかった。普段から動画や雑誌で、男性モデルの腹筋を目にすることだってある。この間触って感触の良さを知ってからは、なおさら遠慮なくじっと見つめてしまう。啓太は彼女から少しだけ離れた場所を選んで腰を下ろした。こんなふうに熱を帯びた視線で見つめられるだけで、もう限界に近かった。以前の自分は、欲にひたすら忠実な人間だった。女に触れなくなってから、いったいどれだけ経つだろう。聖人君子でも高僧でもない。男としての欲がないわけがなかった。むしろ、これまで抑え込んで積み上げてきたものが全部、目の前の優香一人に向かって爆発してしまいそうだった。「まだ遠い」腰を下ろした途端にお目当ての腹筋が見えなくなって、優香はまた不満そうだ。「私が取って食うわけでもないのに、何を怖がってるのよ」啓太は心の中でぼやいた。食べられるのはこっちじゃない、俺が君を食べてしまいそうで怖いんだ――とは、さすがに口が裂けても言えない。優香が突然、手のひらでお湯をすくい上げ、啓太の方へと思い切りはねかけた。完全に無防備だった啓太は、顔にまともにしぶきを浴びた。彼はぽかんとする。続けて、またバシャッとお湯がかかってきた。おかかが隣で興奮して、湯船の縁を行ったり来たりしている。

  • プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~   第965話

    優香は浴槽の縁に肘をついて、おかかをあやしていた。啓太は反対側にいる。彼女からかなり距離を取っていた。「こんぶ、大丈夫かな」と啓太が口を開いた。「心配なら、誰かに家まで送らせるけど」思えばこれまで何度か連れ出したことがあったが、こんぶはいつも落ち着いていた。どうも今日は様子がおかしい。ホテルに入ったとき、どこかで妙な鳥の鳴き声がしていたような気がする。あのときから、こんぶが少し神経質になっていた。きっと怖かったのだろう。「わかった」優香も心配だった。変に刺激されてストレスになったら困る。「誰に頼むの?ちゃんとした人じゃないとダメよ」「任せて」啓太はスマホを手に取った。手短に電話をかけ、てきぱきと指示を出した。「俺のアシスタントだ。君も会ったことあるだろ。仕事はできるやつだ」そう言われて、優香の脳裏に一人の顔が浮かんだ。眼鏡をかけた、物腰の柔らかい男性だ。「今までずっと、あなたの秘書やアシスタントって全員女性なんだと思ってた」「なんでそう思った?」「だって、あなたみたいに女遊びが派手な人だったら、周りに女性秘書がいないのは逆に不自然じゃない?」啓太はため息をついた。「秘書もアシスタントも、昔からずっと男だよ」「あ、なるほど!」優香はぽんと手を打った。「身近な相手には手を出さない主義なんでしょ」啓太は苦笑した。「好きに思ってくれていい。俺にとっては、仕事は仕事、プライベートはプライベートだ」職場に私情を持ち込むつもりなど、最初からなかった。「まあ、一応信じてあげる」優香はおかかの顎をくすぐりながら言った。「なんで一応なんだ」啓太は苦い顔をした。「俺は嘘はついていない」「そうは言うけど、あなたが本当にここ数日ずっと泊まってたなんて、やっぱり信じられないもの」証人まで用意したのに、まだ疑われるとは思っていなかった。明里でさえ、もう疑っていないというのに。しかたなく啓太は白状した。「……正直に言う。潤から連絡をもらって、君たちが来ると知ったから、先回りして来たんだ」「やっぱり!潤さんと二人で私たちを騙したのね!」優香はぷうっと頬を膨らませた。「優香、怒るなら俺だけを怒ってくれ。潤には関係ない。あいつも俺の背中を押そうとしてやってくれたんだ。だから明里さんには言わないでほしい」優

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status