LOGINアクセスポイントの石橋を見ると伊礼社長の姿があった。小太りながら決して不健康な印象を与えないしまった体躯。少し剥げ上がった頭にトレードマークのもみあげ。いつも青色のサングラスをしていて、その奥の目は眼光鋭くこのVR世界を睥睨している。
たしかに、もとから庭師AIというのが存在したわけではない。十六夜とあたしが暇な時にメタバースの作業用AIに作庭術を学習させているうちに、突然庭師を自称するAIが誕生したのだ。さらにその庭師AIに室町の東山文化の情報を与え続けて完成したのが、今、漆黒の顔の奥からこちらの様子を伺っているだろう、このゼンアミさんなのだった。
「伊礼社長のお力添えがあってこそです」
ヤオマンHDはあたしたち園芸部に多大な援助をしてくれている。園芸部の部室にある二台の個人用VRブース(レディーバードエッグ15。十六夜の要望で特別仕様化)を提供してくれたのもその一つだ。さらにサブスクの、学割でも年間数十万円はするメタバース開発環境を無償で提供してくれてもいる。さらに、庭師AIに読ませる膨大な資料の請求と収集、日本各地の作例実測の許諾と費用(作業費、交通費、宿泊費、食費)の融通、アセット化における版権問題の解消等、すべての便宜を図ってくれているのだった。おまけに伊礼社長自ら、各種業界やマスメディアに園芸部の作品を紹介までしてくれている。
「ゼンアミ、進捗を聞かせてくれ」
伊礼社長が問いかけるとゼンアミさんが、
「大殿、大変申し上げにくいのですが……」
と、かしこまってしまった。伊礼社長に進捗を問われる度に萎縮する姿を何度見たことだろう。
「やはり、石が立たないか?」
「どうも、具合が悪うございます」
と丸くなった背をさらに丸くして恐縮している。
20年前に町役場倒壊事故に巻き込まれた「六道園」は、池を掘り中島を築いてそこに須弥山を模した石組みが構成してあった。その石自体はヤオマンHDが事故の跡地から全て掘り出し、破砕されたものがあれば日本各地から名石を取り寄せVRデータ化した。それらはどれもゼンアミさんも納得の石だったのだが、いざ組み出したら設置はできるものの何か腑に落ちないというのだ。
「お腹空いたでしょ」 紫子さんが伊左衛門に社殿の隅に置いてあった大きめのリュックを持って来させた。そして、「クロエちゃんたちも呼んでおいで」 と言った後、中からランチョンマットを出して床に敷くとその上に山のようにオニギリを盛った。「お腹空いたでしょ。たくさんあるからお食べ」 と勧めてくれる。どれにしようかと手を伸ばすとどれも海苔が巻かれていない塩ニギリだった。冬凪もあたしも海苔が嫌いなのを紫子さんは知ってて用意してくれたのかと思った。ミユキ母さんも海苔が嫌いだ。そう言えばクロエちゃんもだった。ワンチャン(死語構文)……。「伊左衛門も海苔が嫌い?」 ラップを剥がして塩ニギリにかぶりつこうとしている伊左衛門に聞いてみた。「うん。嫌い。海の匂いを思い出すから」 夕霧物語の中に、伊左衛門は海で入水を試みたけど死ねず夕霧太夫に拾われたとある。その時身体中にまとわりついた潮の匂いのせいで海苔がダメになった。つまり鬼子はみんなその記憶を持ってるから海苔が嫌い。そんな属性いらんでしょ。 塩ニギリばっかり、中には青い実をまぶした山椒ニギリもあったけど、さすがに飽きて3つまでが限界だった。冬凪はあたしの隣で、相変わらず両手に塩ニギリ持って食べ続けてるけども。ラップの量から推して10個はいってるな。 そこに夜野まひるが、「遅くなってしまいましたが、食べていただけるとありがたいのですが」 と、先ほど宿泊先のホテルから届いたというアフタヌーンティーセットを広げだした。地味で埃っぽい社殿の床が一度に花が咲いたように明るくなった。美術品のようなサンドイッチの盛り合わせとカモミールティー。おなか鳴っちゃうじゃん。「夏波さん。どうぞお食べください」 あたしのおなか鳴ってないよね。そんなに物欲しそうな顔してたか? するとミユキ母さんが、「まひるさんは人の心が読めるだよ。あんま
―――その昔、まだ世界樹がこの世を睥睨していた時代、ここには神社を守る神主一家が住んでいた。神主、その妻、年老いた母親と、幼い子供二人の6人家族だった。ある日、流れ者の野之上藤十郎という男が宿を貸してくれとやってきた。神主一家はその男をもてなしよくしてやった。ところが藤十郎という男はもっぱら盗賊として世渡りしていた男で、これまでも幾度となく押入り強盗を働いてきたのだった。ある夜、神主一家が寝静まるのを待って目ぼしいものを盗んで逃げようとした時、小便に起きてきた子供に見つかってしまう。露見するのを恐れた藤十郎はその子を首を絞めて殺したのだったが、それを今度は神主に見つけられて、進退窮した藤十郎は懐の刀で切り殺す。あとは皆殺ししかない。そう思った藤十郎は老母、妻、もう一人の子と次々に斬殺してしまう。世話になった一家を皆殺しにして神社を去ろうとした時、何処からか赤子の泣き声があ聞こえた。藤十郎が泣き声の主をさがすと、殺した神主の妻の股座に臍の緒を付けたままの赤子が泣いていたのだった。それを見た藤十郎は捨ておけなくなった。藤十郎もまた流されかけた子だったのだ。藤十郎は昔産婆に聞いた支度をすることにした。臍の緒を切るため竹を探しに森に入り、産湯の水をくみに川におり、盗んだ衣類の中から新しいものを裂いておくるみを作った。そうして支度を整えた藤十郎が赤子を取り上げようとすると、赤子が息をしていない。ゆすれど尻をたたけど息を吹き返さない。赤子は生きることが出来なかったのだった。赤子がこと切れてしまったと知った藤十郎は号泣した。救えた命を救えなかったことを悔いて泣き叫んだ。一家6人を殺しておきながらだ。藤十郎は死んだ赤子を抱いて走った。泣きながら夜を駆けた。夜空の月が新月から満月になって再び新月になりまた満月になるまで駆けた。駆けて駆けて駆け続けて世界樹の元まで来ると赤子を世界樹に掲げて言った。
鬼子に母親はいない。この社殿の船に戻って来る。 ミユキ母さんの言葉はあたしの記憶とは違うけれど、あたしはそれを知っていた。エニシはずっとそのことを教えてくれていた。魂がそれをわかっていた。薬指の疼きで、今そのことに気付いたのだった。 エニシはさらに鬼子の最初を、鬼子が鬼子になる時のことも知らせてくれていた。 今は失われてしまった母宮木野の墓所で見た辻沢の残留思念を思い出す。 宮木野と志野婦が屍人の母宮木野を離れて墓所の石室から出て行った後、場面は天井の沼に変わった。そこに現れた母宮木野は若かったけれど、顔は酷くやつれて憔悴しきった姿で葦原の水辺に佇んでいたのだった。その胸には牙が生えた赤ちゃんを抱いて困り果てているように見えた。母宮木野は意を決したように沼に浸かると赤ちゃんを水に沈めてしまう。水面に激しく泡が立ち断末魔の大泡が吹き出すと水に真紅が広がっていった。沼が真っ赤に染まって母宮木野が水から出てきたけれどその胸に赤ちゃんの姿はなかった。その沈められた赤ちゃんが後の夕霧だとヘルメット男は教えてくれた。 その時あたしは、赤ちゃんが流された先のことしか頭になく、どうやって生き延びたかまでは考えなかった。 伊左衛門を膝に乗せて額絵馬を見上げる紫子さんのその儚げな横顔に物語の夕霧太夫が重なった。エニシがあたしの魂に語りかけて来る声に耳を澄ます。 あの赤ちゃんが大きくなって夕霧になったわけではなかったんだ。夕霧は赤ちゃんの魂を我が身に引き受けたんだ。 ―――流され子。 名前すらつけてもらえず、誰にも知られることなくこの世を去る子ら。この世に生を受けたのに生きることが出来なかった子たち。行き場のない魂たち。「鬼子の体は魂を乗せる舟みたいなもの」 鬼子神社から四ツ辻に向かう山道でクロエちゃんが言ったのだった。 あたしたち鬼子は流され子の魂を乗せる舟なのか。彷徨う魂のためのゆりかごなんだ。エニ
ミユキ母さんがあたしをそっと抱き寄せてくれた。「そんなわけないよ。冬凪と夏波の二人の親とも事情があって育てられなかったんだよ」 じゃあ、どこかにいるってこと? それはミユキ母さんがいる前では口にすることはできなかった。紫子さんの膝の上伊左衛門がいたずらっぽい目であたしを見て、「建前ではね」 と言った。「こら! だまんなさい」 と紫子さんに窘められたけれど聞かないで続ける。「鬼子は沈まないんだよ。また浮き上がって生まれ変わる。だから親なんていないんだ」 沈む? 浮き上がる? 親がいない? 鈴風の記憶の中の柊と田鶴さんのことを思い出した。二人は鬼子と鬼子使いとして何百年も転生を繰り返し何度も出会ったと言っていた。ただ、転生するにしても親がなければ生まれて来られないんじゃ?「親がいないってどういうこと?」 ミユキ母さんが冬凪とあたしを交互に見た後、紫子さんに目を移した。紫子さんが小さく頷く。そしてミユキ母さんが再び冬凪とあたしに目を戻して言った。その言葉はミユキ母さんのものとは思えないほど重苦しかった。「あたしたちは」 ミユキ母さんはそこでちょっと言葉を切った。そして何かを決心したように口を開くと、「鬼子はね、この社殿の船に戻ってくるの」 潮時の翌朝、社殿から赤ちゃんの鳴き声が聞こえてくることがある。その声は必ず社殿の船底からだけど、船底に降りる階段は板と釘で封じてあるから誰かが忍び込んで置いていったのではない。そこで生まれたのだ。つまりこの船が鬼子の母体なのだそう。そんな想像の斜め上行くこと言われても、それがミユキ母さんの言葉である以上、冬凪もあたしも信じるしかないのだ。でも、あたしにはひっかかることがあった。それはあたしの一番古い記憶だ。その記憶の中のあたしは赤ちゃんで、船底のようなところで女性の胸に抱かれていたのだった。
次に冬凪があたしの手を取って階の上に立った。冬凪はいつもの、指をVの字にして顎に当てるポーズで丁寧に段取りについて説明してゆく。 まず、いい感じの場所に十六夜が誕プレでくれた石舟を置く。「どこに?」「すり鉢の真ん中らへんだって」 社殿の脇にある石舟は舳先に真新しい荒縄が3本括り付けられていた。だからもう準備出来てるのかと思ったらまだ仮置きなんだそう。「結構重そうだけど、大丈夫そ?(死語構文)」 重機とかは撤収したみたいだ。「豆蔵くんと定吉くんの2人だけで林道をここまで運んだんだって」 二人ってばどんだけバカぢからなの? 次に、冬凪と鈴風とあたしが位置に着く。 どこ? と境内に目線をやると、「すり鉢の斜面にそれっぽいとこあるから」 と小声で教えてくれた。「で、月が南中したら」 そこまで冬凪、その後を群衆の中からクロエちゃんが、「アクティベート完了! 地獄の蓋が開くよ」 ご参集の皆様が拍手喝采、ではなく大草生えた(死語構文)。笑ってないのはミユキ母さんと夜野まひるだけだった。 今夜、「地獄の蓋が開く」のは0時30分。それまでは自由行動。 クロエちゃんと鈴風は境内を追いかけっこしながら夜野まひるの取り合いしてる。豆蔵くんと定吉くんはブクロ親方監視の元、石段や石畳の参道使って筋トレ。赤さんたちはちょっと見廻りと言って森の中へ。冬凪とあたしは、ミユキ母さんと社殿の中で紫子さんと伊左衛門の話を聞いていた。 社殿の鴨居には7枚の額絵馬が飾られている。板目の下地に大和絵風のタッチで描かれているのは、夕霧太夫が阿波の鳴門屋で炎に巻かれてから青墓の池に沈むまでの物語、夕霧物語だ。20年前の鬼子神社の大爆発でオリジナルは失われたけれど、辻沢町役場に保管してあった3Dアーカイブから復元したものがここにある。 この額絵馬はその昔、頭にツノが生え
社殿の前で再会した時ミユキ母さんは言葉を交わす前に、冬凪とあたしの周りの空間を薬指で糸を繰るような仕草をした。これは、小学校から帰った時とか、お友達と遊びに出かけた後とか、小さい時にされていたことだった。ミユキ母さんはこれをすると全部「分かる」から、糸を繰られた時、あたしは、今日は小さい子に手を貸したか、泣いてる子の側にいたか、一人でいる子に声をかけたか、爆速で思い巡らしたものだった。なぜか中学生になった頃からされなくなったけれど、この夏に起こったことは全部ミユキ母さんに「分かって」もらいたかったから、何も考えずに繰られるままにしたのだった。 繰り終わると、ミユキ母さんは冬凪とあたしをハグしてくれて、「大変だったね」 と言った。その言葉は意味を超えて心に染み込んできた。ミユキ母さんのあたしたちを想う気持ちが伝わって来る。魂が震え思わず涙が溢れた。「しんどかった」「つらかった」 冬凪もあたしも、いま初めて素直な気持ちを言葉に出来たんじゃないだろうか。 その後、冬凪とあたしはミユキ母さんと一緒に鬼子神社を見てまった。 鬼子神社は西山の山奥、スギの巨木に囲まれたすり鉢状の窪地の中にある。縁から北へ下る苔むした石畳が参道で、その一番下に三本足の鳥居があって神域を俗世と隔てている。 その石畳の一番上から参道を見下ろしていると、苔が滑るのなど関係なくガシガシ上ってくる人がいた。「帰ってきた」辻川ひまわり町長だった。黒服のSPたちも遥か後方をコケながらついてきていた。「クロエちゃんが呼んだの?」 ミユキ母さんが肯いた。大学生のころから親しかったらしい。石畳を上りきった辻川町長は、相変わらず涼しげな顔をしていて、「夏波。いよいよあの世逝きだな」 そうだけども、言い方よ。 真夏のお日様が真上に来てすり鉢の底が明るくなった。強い日差しを避けて社殿に戻ることにした。 辻川町長と社殿に戻ったころブクロ親方