鞠野フスキの口から鬼子とい言葉を聞いて、この人が残した『辻沢ノート』の鬼子のメモ書きを思い出した。それで今あたしが疑問に思っていることを聞いてみた。
「鬼子っていったい何なんですか?」 鞠野フスキは一旦、冬凪に目を向けて肯くのを確認してから、「僕も全てを知ってるわけではないよ。でも調査した範囲で言うとだね」 ともったい付けてから、「潮時のことは知ってるかい?」 それはつい今さっき冬凪に聞いたばかりだった。「はい」「潮時にあの世とこの世が近づくということも?」 それは知らなかったので頭を横に振って応えた。「潮時になると、いつもは全く別の時空に存在する二つの世が月の魔力によって引き寄せられる。するとそこに死にきれぬ者たち、亡者たちが寄り集まってくるんだ。屍人や蛭人間、地縛霊のことだよ」 そうだったんだ。「その亡者たちをあの世に送るため、鬼子は潮時に発現して滅殺して回る。だから三途の川の奪衣婆という人もいる」 ダツエバって初めて聞く言葉だけど、なんだかおどろおどろしげだと思った。冬凪にダツエバって? と聞いたらバッキバキのスマフォで検索かけて画像を見せてくれた。それは薄汚れた衣を着た顔色の悪い山姥みたいな姿だった。これなの? 十六夜やあたしがこんなのだっての? 酷すぎ。「まあ、奪衣婆って言ってるのは僕だけなんだけどね」 は? なんなのこの人。「辻沢のヴァンパイアが殺した屍人を、鬼子があの世に送る役目を担わされてるとすると、眷属のライカンスロープとも言えるね」 ライカンスロープ。人狼か。そっちのほうがなんぼかいいけど、にじみ出る底辺感がなんか嫌い。 冬凪とあたしがスパゲッティを食べている間中、鞠野フスキは真っ赤な顔で鬼子やヴァンパイアについての持論を展開し続けた。興味はあったけど、あたしの脳内でVゲーニンのサンプリングギャグがリフレインしていたため耳に入らなかった。「ナポリタンは焦がしゃぁうめぇ。ナポリタンは焦がしゃぁうめぇ。ナポリタンは焦がしゃぁうめぇ」([SMP]千鳥 大悟)って。 ナポリタンを食べ終わり、カフェラテの上の山椒粉をスプーン「今日の探索はやめにしてホテル帰って休もう」 冬凪があたしの頬の涙をハンドタオルでふきながら心配そうに言った。あたしは、突然放心状態になった場所から少し離れた木陰にしゃがんで心の整理を始めたばかりで何が起こったかすら気が回っていなかった。「大丈夫。ちょっと目眩がしただけだから」「全然ちょっとじゃなさげだったけども」「人柱、早く探し当てないと大変なことになりそうだから」 と言うと、冬凪は少しだけあたしの意見に耳を傾ける風に見えた。それでも冬凪は一度口にしたことは絶対に曲げない子だから、このままホテルに帰る事になるのは目に見えていた。「夏波は昨日こっちに来たばかりで、まだ体が慣れてなかったのかも。ごめんね。気をつけてあげなくて。あたしだって初めて来た時、ふわふわ感がなかなか抜けなかったもの。ま、明日もあるし、今日はゆっくり休も」 あれはふわふわ感とは違ったけれど、体がおかしくなる点で冬凪も同じだったよう。 さてと、帰ろうと立ち上がったらその場でなよって膝から崩れてしまった。「立てん」「あーね」 冬凪にすがってようやく立ち上がれたものの、これでは数歩進むのでさえ何分もかかりそうだった。「背負って帰れない事はないけど」 と冬凪は独りごとを言ったあと、ちょと考えて、「鞠野フスキにバモスくんで迎えに来てもらおう」 バッキバキのスマフォを取り出して電話を掛けた。「20分で来ていただけるんですね。大曲大橋のバス停にですか? 分かりました。よろしくお願いします」 冬凪は耳からスマフォを離すとぶすっとした表情で、「ここまで入ってきてくれればいいのに。鞠野フスキってば、あの砂利道はげんが悪いからバイパスまで出てきてってさ。なんなのかね。あの人時々ヘタレなこと言うんだよね」 冬凪に肩を貸してもらってもと来た砂利道をバス停に向かったけれど着くまでにさっきの倍以上かかった。バス停に着くと冬凪はあたしをベンチに座らせてくれて隣に座った。人心地ついてバイパス道を見ると、この時間帯は空いているせいかどの車もスピードを出して行き来していた。 冬凪がスマフォを取
エンピマン。ライフハックの防衛術の授業で何回も耳にした名前。女子高生ばかりを狙うシリアルキラー。殺し、解体、穴埋め、全てをエンピ一本でやってのけるからその名が付けられたという。てか、シャベルで解体ってどういうこと? 「清州女学館の子って」 「多分、バラバラ」 背筋が寒くなった。 女性4人は途中のバス停で全員下りて、代わりにサラリーマン風の男の人が何人か乗ってきて車内の雰囲気が一変した。バスが出発してしばらく、近くに座ったおじさんが冬凪とあたしの事をジロジロ見てるのに気がついた。 「何、あのおじさん。エンピマンじゃないよね」(小声) と冬凪に言うと、 「違うと思うよ。あたしたち夏服着てるし、こっちでは今授業の時間だし」(小声) そうだった。てっきり夏休みの気分だった。異分子はあたしたちの方だった。 〈♪ゴリゴリーン 次は大曲大橋です。雄蛇ヶ池に降りてもスケキヨにならないよう、お気を付け下さい〉 またスケキヨ。このアナウンスって鞠野フスキの発案なの? バス停から橋のたもとまで歩いてバイパスを渡った。欄干が切れたところから池端に下りることができる坂道になっていた。 冬凪の後についてあたしもその砂利道に足を踏み入れる。池が近いというのにここは乾燥しているのか道ばたの雑草が白い埃を被っていた。敷かれた砂利の粒が大きいせいで足を取られて足首を挫きそうになる。でも、ここからの雄蛇ヶ池の眺めは素晴らしかった。エメラルドグリーンの水面にゆったりとした時間が流れていた。周囲を深い広葉樹林に囲まれていて風もなく静かそう。ただ、何かを探そうとすれば結構な広さがあって苦労しそう。 突然、前にここに来たことがあると思った。あたしはここに一度来たことがある。そんな気がしてきたのだった。デジャヴュだ。これまでも何度か経験はあるけれど、それは大概、夢で見たことを思い出したんだろうで済む程度だった。今回のは強烈だった。体が震えだした。右の薬指に激痛が走った。あたしは震える薬指を目に近づけてみた。 赤い糸が、それまで見えなかった赤い糸が薬指の根元にがっちりと結びつけてあって、そこから虚空に伸びて消えていた。いや
N市行きの辻バスが駅前ロータリーに入ってきた。発車まで3分だつたのでヤオマン・カフェを急いで出る。この時間はバイパス経由でN市へ行く人は少ないのかバス停に並んでいるのは中年の女性が4人だけだった。みなさんお仲間らしくずっと喋っている。 「ゴリゴリカード渡しとくね。3000円入ってるから乗る時使って」 冬凪がくれたのは、辻川町長が自分の趣味で作ったプリペイドカードで、宮木野線沿線の8女子高の夏冬制服を着た女子高生がプリントしてあるシリーズ。あたしのは桃李女子高の冬服バージョンだった。それを見てたら「♪桃李もの言わざれど下自ずから蹊を成す」と何故か他校の校歌が口をついて出た。冬凪が不思議そうに見ているのに気づいて、 「あ、あとで払うね」 「それ、役場のエリさんが来庁記念にくれたやつだから」 じゃ、遠慮なく。 「大曲大橋まで」〈♪ゴリゴリーン〉 一番後ろの席はやめて、出口近くの二人席に並んで座った。あたしたちの前にいた女性たちは、前のほうに座って会話の続きをしている。バスが発車する時間まであたしたちより後に乗って来る人はいなくて女性たちの声だけが車内に響いていた。 バスはロータリーを出ると右折して、一旦宮木野神社に向かう。宮木野神社前のバス停から市街地を抜け前方に田んぼが広がる交差点で左折すると、そこからがバイパス通りだ。交通量が増えてバスのスピードも上がった。開け放たれた窓から稲くさい風が入ってきた。それでも前の座席の女性たちの話声はかき消されることなく聞くともなく聞こえてくる。 「また出たって」 こちら側に座る小柄な女性が話題を変えた。 「何が出たっての?」 応えたのは隣でずっと笑顔の女性だった。続けて大柄で赤い髪の女性が、 「あれでしょ。シャベル男」 一番遠くの席の派手な見た目の女性が、 「あたしも聞いた。先月いなくなった清州女学館の子が西山に埋められてて、見つかるようにわざわざ赤い取っ手のシャベルが刺してあったんだって」 ずっと笑顔の女性が、 「いやーね。いつになったら捕まるのかしら」 小柄な女性が、 「ここの警察
次の朝、ホテルは9時前にチェックアウトした。駅前ロータリーで辻バスの時刻表を見ると、雄蛇ヶ池へ行くバイパス線が来るまで30分近くあったので、朝食をしようとロータリー脇のヤオマン・カフェに入った。コンテナハウスの店内はサラリーマン風の男の人が出口近くに二人いるだけだったので席を取る前に注文しても余裕だった。冬凪は生ハムサンドとカフェラテ、シナモンで! あたしはスクランブルエッグ&トーストとカフェラテ、シナモンで! この店は20年後にもあって、カフェラテにデフォで山椒粉をぶっかるのは知っているので、しっかりと念押ししておく。シナモンで! 冬凪とあたしが一番奥のカウンター席に荷物を置きに行っている間に注文した物が出来たようでバーカウンターに取りに行って、出てきたカップの中をしっかり確認して席に戻る。 「確かバイパスって雄蛇ヶ池の上を通ってなかった?」 バイバスは辻沢駅の西に位置する宮木野神社近くから南下して、大曲大橋で東に向きを変えN市に抜ける道だ。その大曲大橋が雄蛇ヶ池に架かっているのだった。 「バイパスからどうやって池まで下りるの?」 「橋が終わる所に砂利道があってそこから池端まで下りられたかと」 知らなかった。冬凪はそんなところまで調査してるんだろうか? 「詳しいね。あたしなんか辻沢に通ってるけど、あっちに行ったことないから」 「夏波はミユキ母さんに禁止されてたからね」 そうなのだった。小学生の時、お友達とチャリで行く予定を話したら、 「雄蛇ヶ池だけはダメ」 と秒で反対された。理由を聞くと、 「泳げないでしょ」 と言われてその時は納得したけれど、プールは行ってよかったのはどうしてなのかと今になって思う。 「ん? 夏波『は』禁止されてた? じゃあ、冬凪は行ってよかったの?」 「いいって言うか禁止されてなかった。夏波には内緒で何度か友だちと遊びに行ったりした」 冬凪は申し訳なさそうに白状した。冬凪とあたしとを同じに育ててくれたミユキ母さんのことを疑いはしないし、冬凪を羨ましがったり怒ったりはしないけど、とりあえず、その生ハム一枚ちょうだい。 「はい。どうぞ」
浮き輪ファイトを笑顔で見ているカエラと呼ばれた子に目を向けるとボクに気がついて頭を下げた。そして二人を片手で指さしながら、もう片方の手を目の前で左右に振った。これはアイリとミノリの準備がまだ出来ていないことを表すボクとの符合だ。 カエラとミノリとアイリ。彼女たちは、辻沢を恐怖に陥れた女子高生ばかりを襲うシリアルキラー、エンピマンの犠牲者だ。彼女たちにとって辻バスが一番の思い出の場所だったため、霊となった今もここに居残っている。その中で最後にエンピマンと闘ったカエラだけが自分たちが死んでしまったことを理解していて、鬼子のボクが見える。「カエラ。誰に挨拶してんの? 怖い怖い。このバス、ウチら以外誰も乗ってないから」 ミノリと呼ばれた子がバスの中を見回しながら言った。 バスのアナウンスが入る。〈♪ゴリゴリーン。まもなく志野婦神社前です。クチナシ香る境内ではイケメンの誘惑にお気を付けください〉 バスが停まりボクが降車した後すぐ、あの子が続いて降りてきた。そして一定の距離を取るため急いでバスの後方へ移動して行った。ボクは通りを渡って志野婦神社の鳥居を見上げた。風に乗ってクチナシの香りがしている。境内への階段に目を移すと、その頂上に社殿の屋根だけが見えていた。そこに大きな乳白色の光の輪が輝いている。一瞬、月かと思ったが今は背後にあるはずだった。それで光の中心をよく見てみた。そこに人の姿があった。金色の瞳に銀色の牙。クチナシの精のような美しいたたずまい。志野婦だった。志野婦が笑みを浮かべながらボクのほうを見下ろしていた。ボクは階段を上りそちらに近づいていった。もっと側でその顔を見たくなったのだ。一歩一歩石段を踏んで上っていく自分の足がもどかしかった。ひと飛びであの胸元へ。ガッ!踏み込もうとした所を、後ろから腕を取られて我に返った。振り向くとあの子がボクの手首を掴んで首を振っていた。こんなに近接して大丈夫なのか。鬼子使いが近づきすぎると鬼子を刺激して危険なのだ。鬼子使いが鬼子に殺されることもあると夕霧太夫から聞いた。それを一番知っているはずのこの子がリスクを犯してボクを引き留めてくれた。(大丈夫)肯いてみせたつもりだったが、あの子
終バスが去った青墓北堺のバス停は街灯もなく真っ暗だった。ここは青墓の杜最寄りのバス停で背後に森勢が迫り鬱屈とした杜の空気が辺りに滲み出してきている。正気の人間ならこんな時間にここにいることなどしないだろう。しかし、ボクは用事があるので時間が来るまでここで待っているのだった。しばらくそうしていると、行き先表示のないバスがやってきて停まった。車内灯は消えていて中の様子は分からない。ドアが開きステップを上ると運転席には誰もおらず乗客も一人もいなかった。〈♪ゴリゴリーン。辻バスにようこそ〉 そのままバスに乗り込んで、後部の出口に一番近い席に座る。〈♪ゴリゴリーン。辻バスにようこそ〉 あの子が乗ってきて先頭の座席によじ登って座った。あの子はいつもあそこに座る。フロントガラスからの眺めが好きなのかも知れない。 ドアが閉まってバスが発車する。これから向かうのは辻沢の街中だ。このバスは夜が明けるまで辻沢を経巡っている。車の往来がなくなったバス通りをひたすら走っていると、「アイリ、本当にこれで海行けんの?」 誰もいないはずの後方から女子の声がした。「は? ミノリはウチの完璧な計画疑うのか?」 違う声だ。「いいや。ただどんどん周り街になってるから」「この街抜けたら海が見えてくっから」「そっかな、ど真ん中行ってる気するけど」 振り向くと最後部の座席に大きな浮き輪を持った三人の若い女子が並んで座っていた。「この間、首なし女が歩いてんの見た」 話題が変わったようだ。「ホラー映画の話か?」「いんや。真夜中、元廓フキン散歩してたらいたんよ」「は?」「生首を小脇に抱えてて、ヤオマン宮殿に入っていった」「マジか? あそこは警備が厳しくてネズミ一匹入れんところだぞ」 関心は首なしより警備のほうか。「だしょ。それがさ、門が自然に開いて、スーって入っていったの」「はあ? それはツリだわ」「いや、マジでマジで」「ツリツリ。そんなでっけー釣り針、ウチ引っかかんねーから」「ツリじゃねー