喧嘩をしたおじさんと江本さんは、安全管理主任でもある佐々木さんにハウスに呼ばれて注意を受けた後、3時の休憩を待たずに帰されてしまった。
休憩が開けて作業員が集められ、安全心得の再確認を促された後、「喧嘩をしたお二人には頭を冷やすために帰っていただきました」 とだけ説明があった。その時赤さん初め調査員の全員が相当ピリピリしているのが分かった。事故や怪我にならんで喧嘩もまた、現場保全の重大インシデントの一つなのだと冬凪が教えてくれた。 四時過ぎ、浮いた土を片付け道具の泥落としをするよう指示があって終礼となった。「お疲れ様でした。また明日よろしくお願いします」 赤さんの言葉で本日の作業は終了。 ハウスで念入りにシーブリをぶっかけて着替えを済ませ、冬凪とあたしが現場を後にしたのは四時半だった。五時には早いようだけど、これは喧嘩のせいではない。遺跡調査では5時前に上がるのが普通のことなのだ。 六道辻からヤオマン御殿のある元廓へは直通バスがないので、辻女前まで辻バスで行ってそこから歩くことにした。「辻女前まで」〈♪ゴリゴリーン〉 バスにはあたしたちの他に誰も乗っていなかった。車内はガンガンにクーラーが効いていた。冬凪とあたしは降車ドアに近い二人席に一人ずつ座った。送風口からの風で体に溜まった熱が冷まされて行く感覚が心地いい。 窓の外を流れて行く辻沢の町並みを眺めながら、頭の中はVRルームにいた十六夜の姿を思い出していた。「十六夜。よくなってるといいね」 それを願いながら無理なことは分かっていた。体中に管を付けられ血液を吸い取られる浄血状態から解放されない限りよくなりようがないのだ。「そうだね」 そのことは分かっているのだろう、冬凪も窓の外を見たまま気のない返事をしたのだった。 辻女前で降りて、まだ明るい道を歩き出す。一日体を使って働いた後、家に帰るテンションの時には気がつかなかったけれど、歩くだけでクーラーボックスが邪魔なことに気づく。中身は大方飲み尽くしたので軽くはなっているけれど、肩のベルトがすれて痛いし、堅い角が腿に当たって歩きづらい。冬凪も着替えが入った登山用のバッグを担い陽も落ちて暗くなった道を歩きながら、「とりあえずよかったね」冬凪が言ったけど、「そうなのかな?」順調すぎる気がしてかえって不安だった。そんなあたしを安心させるためだろう冬凪は、「十六夜も喜んでるみたいだし」と右手の薬指を見つめながら言ったのだった。なら心配ないかも。表に出てだらだら坂と反対方向に歩き出した時、前から来た車にクラクションを鳴らされた。別に道の真ん中を歩いているわけでないのにとヘッドライトを睨みつけてやると、その高級国産スポーツカーは、そのまま行ってしまうと思ったのに、スルスルと近づいて来てあたしたちの横に停車した。ちょっとビビったけれど、ウイィーとウインドウが開いて、「藤野姉妹。こんなところで何してる」と声をかけてきたのは響先生だった。先生こそと言いかけてやめた。響先生は前園日香里と繋がっていて、きっとヤオマン御殿に来たに違いないと思ったからだ。「バイトの帰りです」「こんなところにバイト先があるんだ」一時しのぎのための嘘だったからからそれ以上突っ込まれたら対応できなかったろう、でも、「気をつけて帰りなね。夜は変なのが出るから」と響先生は言うとイィーウンとウインドウを閉じて行ってしまったのだった。後ろを振り返ってみていると、響先生の車はヤオマン御殿の前を素通りして、だらだら坂を下りて言ってしまった。「何処行くんだろ?」あたしが言うと、冬凪が、「気になるね」と言ってだらだら坂の方へ駆けだした。あたしもそれを追いかけたのだけど、「なんで、あそこで停まるの?」と言って冬凪は立ち止まった。その背中にぶつかりそうになりながらあたしが車を探すと、響先生の高級国産スポーツカーは、あたしたちが来るとき見た、3つめの爆心地の前に停車していたのだった。
高倉さんとあたしのやりとりを聞いていた冬凪が、十六夜の左手に自分の右手を添え目の高さに持ち上げて言った。「エニシ、ちゃんと繋がってる」 あたしには見えないけれど、冬凪の薬指と十六夜の薬指とを結ぶ赤い絆のことを言っているのだ。「十六夜のことが分からなくなる時があったから切れかけてるのかと思って」「エニシって切れることもあるの?」「わからない。前世、現世、来世を越えるって言われているけど」 それって死んでも切れないってことなんじゃ? あたしは自分の手を見てみた。そこにはなんの縛りもないただの薬指がついていた。 あたしは雄蛇ヶ池の坂道でデジャヴュを感じたあと、エニシが結びついた薬指を食い千切る幻覚を見た。きっとあのことはあたしが過去世に何か重大な過ちを犯してエニシを失ったことを象徴しているのじゃないか? だからあたしは、エニシで繋がる人もいない、潮時以外でも発現してしまう、異端の鬼子なんじゃないか? VRギアと酸素マスクを十六夜の顔に戻すとき黒髪を整えてあげた。青メッシュの巻き下ろしは解けてしまっていてストレートになってしまったけれど、艶やかでそれはそれで十六夜にとても似合っていた。髪を整え終えて立ち上がると、冬凪が十六夜の首に腕を回してハグをした。あたしもしたかったけれど、やめにした。 十六夜にまた来るからねと心で言ってVR部屋を出た。控えの間の寝室を通り廊下に出ると、先に立った高倉さんが、「由香里奥様の首を見付けてくださった方のお名前が分かったんですよ」と言った。てっきり高倉さんもあたしたちが20年前に行ってきたことを知っているかと思っていたのだけれど。それを確かめるため一応冬凪を見た。ところが冬凪は首を振っている。高倉さんは知らないらしい。「奥様のお首は亡くなられてすぐに見つかってはいたのですが、どなた様のお陰なのかはわからなかったのです。ですが、私が藤野夏波様にご連絡差し上げようとしていたら、前園の奥様に知らせが入ったのです。なぜ今になってか不思議でなりません」「なんという名前だったんなんですか?」「小宮ミユウと佐野クミいうお名前なんですが、お礼をしようと役場に連絡先を問い合わせたところ、辻
十六夜の部屋の扉の前で中に入れずにいたあたしの背中を押してくれたのは冬凪だった。 「大丈夫。あたしがついてる」 「ありがとう」 冬凪に付いてきて貰って本当によかった。昨日の夜、高倉さんから連絡を貰ったとき最初は一人で来るつもりだった。でもその選択はよくないことだと心の底の声が言っていたから冬凪の部屋をノックしたのだった。冬凪とあたしは一緒でなければダメだから。 部屋の中は、前に連れてこられた時よりもガランとしていた。あたしが寝かされていたお姫様ベッドがなかった。十六夜の勉強机やモニター類もなかった。主のいない寝室は控え室におとしめられていた。 「こちらです」 高倉さんがVR部屋に案内してくれた。扉が開くと薄暗く沢山の医療機器に囲まれたVRブースがあった。あの中に獣姿の十六夜がいる。沢山の管でがんじからめにされ、その一つは非情にも十六夜の玉の緒を絞り尽くす瀉血管なのだ。 「十六夜?」 冬凪がVRブースの脇に跪いて十六夜の姿に見入った。 「夏波が言ってたのと違う」 違う? あたしは冬凪の肩越しにVRブースの中を覗き込んだ。入院服を着ていた。医療用の管が体中に繋がれていた。二の腕の金属の拘束具から瀉血管が伸びていた。あたしには違うところがわからなかった。 「どこらへん?」 「顔だよ。鬼子の顔をしてない」 顔色は獣のそれではなかった。酸素マスクの中に銀色の牙は見えなかった。高倉さんに許可をもらってVRギアと酸素マスクを外すと、やつれてはいるけれど愛らしいあの十六夜の顔が現れたのだった。 「昨日あたりからこうして十六夜様のお顔に戻られることがあって。流動食を吐き戻したり点滴を外してしまったりと栄養補給自体を拒絶されていたのにそれもなくなって」 「生死の境を行ったり来たりもなく?」 先ほどから心電図の音が一定のリズムを刻んでいた。前の時はまるで凸凹の道を走るような曲線を描いていた。 「はい。全ての数値がよくなってるとお医者様が仰っていました」 「瀉血の量を減らしたとか?」 「もともと十六夜様の造血量に依って行っているそうで」 十六夜の血液量が一定の分量を越え
空は一面あかね雲だった。その隙間から群青色が覗いていた。そろそろ夜がやってきそうになっていた。冬凪とあたしたが裏門横の石垣にもたれている間、まるで石垣の谷間のようなこの道を、通る車も人もなかった。この先に行っても行き止まりなんじゃと思って薄暗くなった道の先を見ていると、女性一人がこちらに近づいてくるのが見えた。その女性は黒髪を腰の辺りまで垂らし白いワンピース姿をしていて、足取りもおぼつかなさそうにフラフラとよろけながら歩いてくる。女性が裏門のすぐ近くまできた時、その顔を見た冬凪とあたしは言葉が一緒に口をついて出た。「調、「由香里」さん」「調由香里」と言ったのはあたしで、「由香里さん」と言ったのは冬凪だった。 調由香里は、雄蛇ヶ池の水門で取り上げた時の顔をしていた。目をつむったままアルカイックスマイルを貼り付けていた。首のぐるりには手荒く縫い付けられた跡が見えた。あの時あたしたちが見付けて辻川ひまわりが持ち帰った首と、盗まれて行方が分からなかったはずの胴体とが人工的に接続されてそこにあった。いや、そこにいた。だって動いてるんだもの。 冬凪もあたしも動く調由香里にそれ以上声を掛けることもできず、見つめるしか方法がなかった。調由香里は、あたしたちの目の前を過ぎ、真っ黒い門の前まで来るとそこに額を付けるぐらいに近づいて止まった。すると重厚だけど耳障りな音が響き、ゆっくりと門が中に開いた。門の中には和装の高倉さんが立っていて、「由香里奥様、お帰りなさい。藤野夏波様と冬凪様もどうぞお入りください」 と中へ招き入れてくれたのだった。 調由香里を先頭に、冬凪とあたしは高倉さんと並んでヤオマン御殿の勝手口にしては巨大すぎる裏口から中に入った。それが裏口だと分かったのは、入ってすぐの部屋がうちのリビングとキッチンを会わせた広さの倍ぐらいしかなかったから。前に通された時の玄関の中は、テニスコートくらいの広さがあるロビーになっていた。バケツとかデッキブラシとか分別用のゴミ箱とか置いてあればもっと分かりやすいのに。 その裏口の部屋を出ると、調由香里はそのまま止まらず廊下を奥に向かって歩いていってしまった。あたしたちもそれに続こうとしたら高倉さんが、「こちらへどうぞ」
「ここ、なんか」 とあたしが言いかけると冬凪が、「うん。爆心地みたいだよね。小規模だけど」 そこは手入れされていない垣根があって意識して覗き込まないと中が分からなかった。けれど今あたしたちが立っている生け垣が崩れた一角から見ると、敷地全体が空から大きなお玉で掬ったようにえぐれていて、そこにコンクリートの分厚い土台がむき出しになっていた。「あたしもそう思って調べてみたら、ここって辻女バスケ部員連続失踪事件の被害者の家だったんだよね」 一人娘だったその子が失踪した後、母親は自殺、父親も行方不明となって建物だけが残り、母親の亡霊が出るって噂が立って幽霊屋敷って言われていたのだけれど、丁度20年前のある日、爆発して吹っ飛びこの状態になったのだそう。「前園家と調家があった爆心地も坂を上がったすぐそこ。それをこの『爆心地』と結びつけると、関係なさそうな二つの出来事、要人連続死亡事案と女バス連続失踪事件とが繋がりそうなんだよね」 と冬凪は『』のところで両手のピースサインをクニクニっと曲げて言ったのだった。冬凪的にまだ確信が持てないけど一応、という意味らしい。そういえば辻川ひまわりが掠われたのも、六道辻で遺跡調査中の、千福オーナーが殺された爆心地の近くだった。偶然にしてはよく出来ている。「じゃあ、女バス関係者が爆殺に関与してるってこと?」「かもね」「よし、分かった! 犯人は川田校長だ!」 冬凪はじとっとした目であたしを見つめ、「夏波は等々力警部なの?」 誰それ? リング端末で調べたら古い映画の登場人物とあった。その中の動画をチェエックすると、ホロ画面に厳つい顔をした髭のおじさんが映し出された。そのおじさんはあたしが言ったセリフそのまんまを口にしていたけどあまり賢いキャラには見えなかった。だからか、冬凪が悲しそうな顔をしているのは。 ヤオマン御殿の正面玄関に行く手前で脇道に入り高い石垣に沿って裏門まで来た。黒い鋼鉄製の門で中が見えないという所は表玄関と同じだった。ここでピンポン、もといゴリゴリンすれば高倉さんが応対してくれるはず。〈♪ゴリゴリーン〉 少し待ったが、返事がない。〈
喧嘩をしたおじさんと江本さんは、安全管理主任でもある佐々木さんにハウスに呼ばれて注意を受けた後、3時の休憩を待たずに帰されてしまった。 休憩が開けて作業員が集められ、安全心得の再確認を促された後、「喧嘩をしたお二人には頭を冷やすために帰っていただきました」 とだけ説明があった。その時赤さん初め調査員の全員が相当ピリピリしているのが分かった。事故や怪我にならんで喧嘩もまた、現場保全の重大インシデントの一つなのだと冬凪が教えてくれた。 四時過ぎ、浮いた土を片付け道具の泥落としをするよう指示があって終礼となった。「お疲れ様でした。また明日よろしくお願いします」 赤さんの言葉で本日の作業は終了。 ハウスで念入りにシーブリをぶっかけて着替えを済ませ、冬凪とあたしが現場を後にしたのは四時半だった。五時には早いようだけど、これは喧嘩のせいではない。遺跡調査では5時前に上がるのが普通のことなのだ。 六道辻からヤオマン御殿のある元廓へは直通バスがないので、辻女前まで辻バスで行ってそこから歩くことにした。「辻女前まで」〈♪ゴリゴリーン〉 バスにはあたしたちの他に誰も乗っていなかった。車内はガンガンにクーラーが効いていた。冬凪とあたしは降車ドアに近い二人席に一人ずつ座った。送風口からの風で体に溜まった熱が冷まされて行く感覚が心地いい。 窓の外を流れて行く辻沢の町並みを眺めながら、頭の中はVRルームにいた十六夜の姿を思い出していた。「十六夜。よくなってるといいね」 それを願いながら無理なことは分かっていた。体中に管を付けられ血液を吸い取られる浄血状態から解放されない限りよくなりようがないのだ。「そうだね」 そのことは分かっているのだろう、冬凪も窓の外を見たまま気のない返事をしたのだった。 辻女前で降りて、まだ明るい道を歩き出す。一日体を使って働いた後、家に帰るテンションの時には気がつかなかったけれど、歩くだけでクーラーボックスが邪魔なことに気づく。中身は大方飲み尽くしたので軽くはなっているけれど、肩のベルトがすれて痛いし、堅い角が腿に当たって歩きづらい。冬凪も着替えが入った登山用のバッグを担い