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レンズの先に、愛と自由があった
レンズの先に、愛と自由があった
Author: イチゴエッグタルト

第1話

Author: イチゴエッグタルト
結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてきた。

生死や細菌と隣り合わせの外科医であれば、自宅を無菌室のように徹底管理したがるのも無理はないことだと、自分を納得させていたのだ。

しかし、理翔のスーツのポケットから、くしゃくしゃに丸まったティッシュを見つけた瞬間、陽葵の顔から血の気が引いた。そのティッシュの端には黄色いシミが滲み、さらには数本の短い縮れ毛がこびりついていた。

耳の奥で、昨日親友の宮崎結葵(みやざき ゆき)がためらいがちに告げた言葉が蘇る。「陽葵、理翔の職場の近くで、彼が女性と一緒に歩いているのを見かけた気がするの。その人、彼の腕にぴったりしがみついていたけど……彼は避けようともしていなかったわ」

その時の陽葵は、理翔は自分の手に触れることさえ滅多にないのに、他人に腕を組ませるはずがないと笑って否定した。

だが今、あの時の言葉が針となって喉を突き刺している。

突き動かされるように、陽葵は理翔の勤める病院へと駆け出した。すべてをはっきりと問い詰めるために。

入院棟のエントランスに差し掛かったその時、一台の救急車が猛スピードで突っ込んできた。陽葵は避ける間もなく激しく撥ね飛ばされ、花壇の縁に叩きつけられた。

内臓がことごとく砕け散ったかのような激痛に襲われながらも、皮肉なことに、意識だけはやけに鮮明だった。

視線の先では、理翔が救急車から一人の女性を抱きかかえて降りてくるところだった。上着を羽織ってはいるものの、その下は一物も纏っておらず、女性の股の間からはおぞましいほどの鮮血が滴り落ちている。

理翔の顔に浮かぶ焦燥は、これまでの結婚生活で陽葵が一度も見たことのないものだった。そして、その肌を寄せ合うほどの距離も、彼女が一度として味わえなかったものだ。

病院の中へ消えていく二人の背を追いかけようと、陽葵は無意識に立ち上がろうとした。だが、一歩踏み出した瞬間に視界が暗転し、そのまま力なく地面に崩れ落ちて意識を失った。

再び目を覚ましたとき、耳に飛び込んできたのは看護師たちのひそひそ話だった。

「信じられる?あの瀬戸先生、普段はあんなに禁欲的で冷徹なのに、一晩で十回も致したんですって。相手の女性が出血するまでなんて、よっぽど激しかったのね」

「瀬戸先生、三十年間ずっと浮いた話一つなかったのにね。いきなり一回りも年下の女子大生なんて捕まえちゃって。あれだけ溜め込んでりゃ、歯止めが効かなくなるのも無理ないわよ」

陽葵の全身が凍りついた。

一晩に十回?

結婚して五年、理翔と肌を重ねたのは、薬を盛られたあの一度きりだ。

五年前、近藤家が不慮の破産に見舞われた際、両親は自ら命を絶つ直前、陽葵が路頭に迷わぬよう、かつて陽葵の祖父が理翔の祖父を救った「恩義」を盾に、理翔との結婚を強引に取り決めた。

理翔とは幼馴染だった。陽葵は恋心を知った時から彼を想っていたが、恩義を振りかざして彼を縛るつもりなど毛頭なかった。

理翔は幼い頃から陽葵のために多くのことをしてくれた。

幼稚園の頃、陽葵がいじめられれば、彼は真っ先に飛び出し、相手の口の中が血だらけになるほど叩きのめした。

十六歳の夏、陽葵が高熱を出したときには、彼は授業を放り出して学校の塀を乗り越えて、彼女を背負って病院へと走った。救急外来の外で、丸三日間も一睡もせずに付き添ってくれたのだ。

大学時代、酷い生理痛で倒れた際もそうだった。彼は夜通し遠方の街から駆けつけ、よく効く薬を届けてくれた。そのまま女子寮の下で、夜が明けるまでじっと待ち続けていた。

それらすべてが、理翔もまた自分を想ってくれているのだという確信に繋がっていた。二人は相思相愛で、ただその想いを言葉にする機会がないまま今日に至っただけなのだと、陽葵は信じて疑わなかった。

だが、期待に胸を膨らませて嫁いだ日に待っていたのは、身を切るような屈辱だった。

新婚の夜、理翔は氷のように冷たい視線で彼女を射抜いた。「恩を盾に親を動かして、俺との結婚をもぎ取ったんだ。これから始まる生活を、精々覚悟しておくことだな」

陽葵は弁解したかった。けれど、何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして、言葉を飲み込むしかなかった。

あの日以来、理翔は病院に一ヶ月も泊まり込み、一度も家に寄り付かなかった。

業を煮やした彼の母が、半ば強制的に彼を帰宅させるまでは。

その晩、理翔の母の瀬戸綾子(せと あやこ)は使用人に命じて二人の飲み物に薬を盛らせ、寝室の扉を外から施錠した。さらには浴室の水まで止められ、逃げ場を失った二人が身体の異変に気づいた時には、すでに手遅れだった。

身体の火照りに耐えかね、陽葵が縋るように理翔へ近づこうとしたその時、彼は嫌悪感を露わにして身を翻した。理翔は自身の内側から突き上げる衝動を抑え込むように、冷酷な声を絞り出す。

「触るな。シャワーも浴びていないお前の体には、何百種類もの細菌がうごめいている。俺に移すんじゃない」

だが結局、身体を内側から焼き尽くすような熱に抗いきれず、二人は一線を越えることを決めた。

歓喜に震える陽葵が彼を抱きしめようとした瞬間、理翔はどこからか救急箱を取り出してきた。マスクと手袋を着用し、消毒液を取り出す。

「やりたいなら、させてやる。だが、その前に徹底的に消毒だ。服を脱いでそこに横になれ」

陽葵の心は激しい屈辱に塗りつぶされたが、抗う術などなかった。彼女は一物も纏わぬ姿へと服を脱ぎ捨て、ベッドに横たわった。

理翔は綿棒を使い、陽葵の体の隅々まで、秘部に至るまで徹底的に消毒を施した。

彼女の消毒を終え、自分自身の消毒も済ませてから、二人はようやく一度きりの、事務的な交わりを持った。

それ以来、彼は家には戻らず、彼女への嫌悪を隠そうともしなくなった。

二人の関係を公表することさえ、彼は頑なに拒み続けた。

それなのに、今の理翔はどうだ。別の女と一晩で十回も睦み合い、あろうことか人目も憚らず、股の間から太ももにかけてを真っ赤に染めるその女を、なりふり構わず抱きかかえて病院へ駆け込んだのだ。

結局のところ、彼には潔癖症などなかったのだ。細菌を恐れていたわけでもない。彼の優しさと包容力は、最初から陽葵に向けられるものではなかったというだけだ。

これまでの年月、自分を慰めるために使ってきた「職業柄」という言葉は、ただ彼が自分を愛していないことへの惨めな言い訳に過ぎなかった。

ならば、もういい。この婚姻に、終止符を打つ時が来たのだ。
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