Short
レンズの先に、愛と自由があった

レンズの先に、愛と自由があった

By:  イチゴエッグタルトCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
20Chapters
11views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてきた。 生死や細菌と隣り合わせの外科医であれば、自宅を無菌室のように徹底管理したがるのも無理はないことだと、自分を納得させていたのだ。 しかし、理翔のスーツのポケットから、くしゃくしゃに丸まったティッシュを見つけた瞬間、陽葵の顔から血の気が引いた。そのティッシュの端には黄色いシミが滲み、さらには数本の短い縮れ毛がこびりついていた。 耳の奥で、昨日親友の宮崎結葵(みやざき ゆき)がためらいがちに告げた言葉が蘇る。「陽葵、理翔の職場の近くで、彼が女性と一緒に歩いているのを見かけた気がするの。その人、彼の腕にぴったりしがみついていたけど……彼は避けようともしていなかったわ」 その時の陽葵は、理翔は自分の手に触れることさえ滅多にないのに、他人に腕を組ませるはずがないと笑って否定した。 だが今、あの時の言葉が針となって喉を突き刺している。 突き動かされるように、陽葵は理翔の勤める病院へと駆け出した。すべてをはっきりと問い詰めるために。

View More

Chapter 1

第1話

結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてきた。

生死や細菌と隣り合わせの外科医であれば、自宅を無菌室のように徹底管理したがるのも無理はないことだと、自分を納得させていたのだ。

しかし、理翔のスーツのポケットから、くしゃくしゃに丸まったティッシュを見つけた瞬間、陽葵の顔から血の気が引いた。そのティッシュの端には黄色いシミが滲み、さらには数本の短い縮れ毛がこびりついていた。

耳の奥で、昨日親友の宮崎結葵(みやざき ゆき)がためらいがちに告げた言葉が蘇る。「陽葵、理翔の職場の近くで、彼が女性と一緒に歩いているのを見かけた気がするの。その人、彼の腕にぴったりしがみついていたけど……彼は避けようともしていなかったわ」

その時の陽葵は、理翔は自分の手に触れることさえ滅多にないのに、他人に腕を組ませるはずがないと笑って否定した。

だが今、あの時の言葉が針となって喉を突き刺している。

突き動かされるように、陽葵は理翔の勤める病院へと駆け出した。すべてをはっきりと問い詰めるために。

入院棟のエントランスに差し掛かったその時、一台の救急車が猛スピードで突っ込んできた。陽葵は避ける間もなく激しく撥ね飛ばされ、花壇の縁に叩きつけられた。

内臓がことごとく砕け散ったかのような激痛に襲われながらも、皮肉なことに、意識だけはやけに鮮明だった。

視線の先では、理翔が救急車から一人の女性を抱きかかえて降りてくるところだった。上着を羽織ってはいるものの、その下は一物も纏っておらず、女性の股の間からはおぞましいほどの鮮血が滴り落ちている。

理翔の顔に浮かぶ焦燥は、これまでの結婚生活で陽葵が一度も見たことのないものだった。そして、その肌を寄せ合うほどの距離も、彼女が一度として味わえなかったものだ。

病院の中へ消えていく二人の背を追いかけようと、陽葵は無意識に立ち上がろうとした。だが、一歩踏み出した瞬間に視界が暗転し、そのまま力なく地面に崩れ落ちて意識を失った。

再び目を覚ましたとき、耳に飛び込んできたのは看護師たちのひそひそ話だった。

「信じられる?あの瀬戸先生、普段はあんなに禁欲的で冷徹なのに、一晩で十回も致したんですって。相手の女性が出血するまでなんて、よっぽど激しかったのね」

「瀬戸先生、三十年間ずっと浮いた話一つなかったのにね。いきなり一回りも年下の女子大生なんて捕まえちゃって。あれだけ溜め込んでりゃ、歯止めが効かなくなるのも無理ないわよ」

陽葵の全身が凍りついた。

一晩に十回?

結婚して五年、理翔と肌を重ねたのは、薬を盛られたあの一度きりだ。

五年前、近藤家が不慮の破産に見舞われた際、両親は自ら命を絶つ直前、陽葵が路頭に迷わぬよう、かつて陽葵の祖父が理翔の祖父を救った「恩義」を盾に、理翔との結婚を強引に取り決めた。

理翔とは幼馴染だった。陽葵は恋心を知った時から彼を想っていたが、恩義を振りかざして彼を縛るつもりなど毛頭なかった。

理翔は幼い頃から陽葵のために多くのことをしてくれた。

幼稚園の頃、陽葵がいじめられれば、彼は真っ先に飛び出し、相手の口の中が血だらけになるほど叩きのめした。

十六歳の夏、陽葵が高熱を出したときには、彼は授業を放り出して学校の塀を乗り越えて、彼女を背負って病院へと走った。救急外来の外で、丸三日間も一睡もせずに付き添ってくれたのだ。

大学時代、酷い生理痛で倒れた際もそうだった。彼は夜通し遠方の街から駆けつけ、よく効く薬を届けてくれた。そのまま女子寮の下で、夜が明けるまでじっと待ち続けていた。

それらすべてが、理翔もまた自分を想ってくれているのだという確信に繋がっていた。二人は相思相愛で、ただその想いを言葉にする機会がないまま今日に至っただけなのだと、陽葵は信じて疑わなかった。

だが、期待に胸を膨らませて嫁いだ日に待っていたのは、身を切るような屈辱だった。

新婚の夜、理翔は氷のように冷たい視線で彼女を射抜いた。「恩を盾に親を動かして、俺との結婚をもぎ取ったんだ。これから始まる生活を、精々覚悟しておくことだな」

陽葵は弁解したかった。けれど、何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして、言葉を飲み込むしかなかった。

あの日以来、理翔は病院に一ヶ月も泊まり込み、一度も家に寄り付かなかった。

業を煮やした彼の母が、半ば強制的に彼を帰宅させるまでは。

その晩、理翔の母の瀬戸綾子(せと あやこ)は使用人に命じて二人の飲み物に薬を盛らせ、寝室の扉を外から施錠した。さらには浴室の水まで止められ、逃げ場を失った二人が身体の異変に気づいた時には、すでに手遅れだった。

身体の火照りに耐えかね、陽葵が縋るように理翔へ近づこうとしたその時、彼は嫌悪感を露わにして身を翻した。理翔は自身の内側から突き上げる衝動を抑え込むように、冷酷な声を絞り出す。

「触るな。シャワーも浴びていないお前の体には、何百種類もの細菌がうごめいている。俺に移すんじゃない」

だが結局、身体を内側から焼き尽くすような熱に抗いきれず、二人は一線を越えることを決めた。

歓喜に震える陽葵が彼を抱きしめようとした瞬間、理翔はどこからか救急箱を取り出してきた。マスクと手袋を着用し、消毒液を取り出す。

「やりたいなら、させてやる。だが、その前に徹底的に消毒だ。服を脱いでそこに横になれ」

陽葵の心は激しい屈辱に塗りつぶされたが、抗う術などなかった。彼女は一物も纏わぬ姿へと服を脱ぎ捨て、ベッドに横たわった。

理翔は綿棒を使い、陽葵の体の隅々まで、秘部に至るまで徹底的に消毒を施した。

彼女の消毒を終え、自分自身の消毒も済ませてから、二人はようやく一度きりの、事務的な交わりを持った。

それ以来、彼は家には戻らず、彼女への嫌悪を隠そうともしなくなった。

二人の関係を公表することさえ、彼は頑なに拒み続けた。

それなのに、今の理翔はどうだ。別の女と一晩で十回も睦み合い、あろうことか人目も憚らず、股の間から太ももにかけてを真っ赤に染めるその女を、なりふり構わず抱きかかえて病院へ駆け込んだのだ。

結局のところ、彼には潔癖症などなかったのだ。細菌を恐れていたわけでもない。彼の優しさと包容力は、最初から陽葵に向けられるものではなかったというだけだ。

これまでの年月、自分を慰めるために使ってきた「職業柄」という言葉は、ただ彼が自分を愛していないことへの惨めな言い訳に過ぎなかった。

ならば、もういい。この婚姻に、終止符を打つ時が来たのだ。
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
20 Chapters
第1話
結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてきた。生死や細菌と隣り合わせの外科医であれば、自宅を無菌室のように徹底管理したがるのも無理はないことだと、自分を納得させていたのだ。しかし、理翔のスーツのポケットから、くしゃくしゃに丸まったティッシュを見つけた瞬間、陽葵の顔から血の気が引いた。そのティッシュの端には黄色いシミが滲み、さらには数本の短い縮れ毛がこびりついていた。耳の奥で、昨日親友の宮崎結葵(みやざき ゆき)がためらいがちに告げた言葉が蘇る。「陽葵、理翔の職場の近くで、彼が女性と一緒に歩いているのを見かけた気がするの。その人、彼の腕にぴったりしがみついていたけど……彼は避けようともしていなかったわ」その時の陽葵は、理翔は自分の手に触れることさえ滅多にないのに、他人に腕を組ませるはずがないと笑って否定した。だが今、あの時の言葉が針となって喉を突き刺している。突き動かされるように、陽葵は理翔の勤める病院へと駆け出した。すべてをはっきりと問い詰めるために。入院棟のエントランスに差し掛かったその時、一台の救急車が猛スピードで突っ込んできた。陽葵は避ける間もなく激しく撥ね飛ばされ、花壇の縁に叩きつけられた。内臓がことごとく砕け散ったかのような激痛に襲われながらも、皮肉なことに、意識だけはやけに鮮明だった。視線の先では、理翔が救急車から一人の女性を抱きかかえて降りてくるところだった。上着を羽織ってはいるものの、その下は一物も纏っておらず、女性の股の間からはおぞましいほどの鮮血が滴り落ちている。理翔の顔に浮かぶ焦燥は、これまでの結婚生活で陽葵が一度も見たことのないものだった。そして、その肌を寄せ合うほどの距離も、彼女が一度として味わえなかったものだ。病院の中へ消えていく二人の背を追いかけようと、陽葵は無意識に立ち上がろうとした。だが、一歩踏み出した瞬間に視界が暗転し、そのまま力なく地面に崩れ落ちて意識を失った。再び目を覚ましたとき、耳に飛び込んできたのは看護師たちのひそひそ話だった。「信じられる?あの瀬戸先生、普段はあんなに禁欲的で冷徹なのに、一晩で十回も致したんですって。相手の女性が出血するまでなんて、よっぽど激しかったのね」「
Read more
第2話
病院で過ごした一週間、陽葵は一度も理翔の姿を見ることはなかった。だが、その代わりに看護師たちの噂話から、理翔とあの女の子が繰り広げたドラマのような恋物語を耳にすることになった。あの女の子の名は青木柚乃(あおき ゆの)。医大に入ったばかりの一年生だという。数ヶ月前、理翔が大学の特別講義に登壇した際、彼女に一目惚れされた。そこから、彼女のなりふり構わぬ猛烈なアプローチが始まった。最初は見向きもしなかった理翔だったが、柚乃は取り憑かれたように毎日手を変え品を変え、花や食べ物、飲み物といった差し入れを届け続けた。さらには全校生徒の前で大胆な愛の告白までしてのけ、大学から警告を受けても、彼女が引き下がることはなかった。氷のように閉ざされていた理翔の心が動いたのは、彼をひたむきに追い求めるあまり、彼女が交通事故に遭い、重傷を負って入院した時だった。そこで理翔は初めて、太陽のように真っ直ぐで眩しい彼女に、自分もまた心を奪われていることに気づいたのだ。すべてを聞き終えた陽葵は、自嘲気味に微かな笑みを浮かべ、退院手続きのために病室を出た。だが一階に降りた途端、目に飛び込んできたのは、柚乃が理翔の白衣の裾を掴んで無邪気に揺らし、上目遣いで何事かを語りかけている姿だった。彼は病院という場所さえ忘れ、愛おしそうに彼女の唇に口づけを落とした。陽葵の全身が、石のように硬直した。次の瞬間、刺すような視線に気づいたのか、理翔がふと顔を上げた。陽葵の姿を認めた途端、彼の表情は一瞬で険しく歪んだ。彼は一言も発することなく、隣の少女を強く抱き寄せると、そのまま一度も振り返ることなく立ち去った。最初から最後まで、彼が陽葵に言葉をかけることはなかった。陽葵は苦笑をもらし、退院手続きを済ませて病院を後にした。家に戻ると、思いがけず理翔がいた。口を開くよりも早く、彼の冷徹な声が突き刺さる。「また俺に付きまとっているのか?」陽葵は呆気に取られ、首を振った。「そんなこと、していないわ」「病院にまで現れて、よくもまあそんなしらじらしい嘘がつけるな」理翔は勢いよく立ち上がった。その声は、芯まで凍てつくような冷気を孕んでいる。「以前からそうだ。弁当を届けに来たり、講義についてきたり、出張先にまで現れたり……その都度、冷たく突き放して拒絶してき
Read more
第3話
陽葵が事態を飲み込めずにいると、理翔は傍らに控えるボディガードに冷徹な命令を下した。「彼女を柚乃の大学へ連れて行け」言葉が終わるが早いか、ボディーガードが容赦なく陽葵の両脇を抱え、強引に車内へと引きずり込んだ。ドアが重々しく閉まった衝撃で、陽葵はようやく我に返った。込み上げる怒りを抑えきれず、運転席の理翔を睨みつける。「理翔、一体何をするつもりなの?」「何をするだと?」理翔の口端が、冷たく吊り上がった。「俺のお母さんを焚きつけ、大学内に根も葉もない噂を流させたな。柚乃が愛人だと言いふらし、彼女を追い詰めて三階から飛び降りさせた。彼女が足を骨折する重傷を負ったことに、少しの責任もないとでも言うつもりか?」「私はやってないわ!」陽葵の瞳が激しく揺れ、必死に弁解する声が震える。「理翔、私の仕業じゃない。誓ってそんなことしていない!」「お前以外に誰がいる」理翔の眼差しには、猛毒のような憎悪が宿っていた。「陽葵、その報い……百倍にして贖わせてやる」陽葵がどれほど必死に言葉を尽くし、無実を訴えようとも、冷酷な彼を前にしてはその叫びさえ虚しく霧散するだけだった。大学に到着すると、ボディガードによって地面に蹴り出された。ちょうどその時、松葉杖をついた柚乃が医務室の方から姿を現した。理翔の姿を認めるや否や、彼女は目を赤く腫らし、松葉杖も忘れたように彼の懐へと飛び込んだ。声が詰まった。「理翔……私、愛人なんかじゃないよね?違うよね?」理翔は慈しむように視線を下げ、彼女を優しくあやした。「ああ、その通りだ。柚乃は愛人なんかじゃない。俺の、唯一の妻だ」柚乃は泣きじゃくりながら、彼に強く縋り付いた。次の瞬間、理翔は地面に這いつくばる陽葵へと、氷のような冷徹な視線を向けた。「彼女の顔に『愛人』の二文字を書きなぐれ。そのまま縄で縛り上げ、大学の正門に三日間晒し者にしておけ。誰が本当の愛人なのか、学生連中にたっぷり拝ませてやるんだ」陽葵の目元が、屈辱と恐怖で瞬時に赤く染まった。「理翔、あなた正気なの?こんなことをして、もしお義母さんに知られたら……」「陽葵、お前は告げ口以外に能はないのか?」理翔は冷ややかに吐き捨てた。その声は、骨の髄まで凍てつくほどに冷たい。「今回だって、お前が俺のお母さんに余計な真似さえしなければ、俺もこん
Read more
第4話
翌日、陽葵が宴会場に到着したときには、綾子がすでに主賓席で彼女を待っていた。陽葵の姿を見るなり、綾子はすぐに立ち上がって彼女の手を引き寄せ、隣に座らせた。その表情は申し訳なさで溢れている。「陽葵、本当にごめんなさいね。理翔があんな無体な真似をするなんて……すべては私の教育不足だわ。あの子が来たら、私からきつく言い聞かせてやるから」そう話している最中、会場の入り口がにわかに騒がしくなった。二人が目を向けると、そこには白いワンピースを身にまとった柚乃が立っていた。おどおどと周囲を伺うその姿はいかにも垢抜けない小娘といった風情で、陽葵の凛とした気品には、その足元にも及ばない。綾子の顔色が瞬時に険しくなった。「誰かその女を今すぐつまみ出しなさい!ここは、どこの馬の骨とも知れない卑しい女が足を踏み入れていい場所じゃない!」柚乃が顔を青ざめさせ、立ち往生していると、背後から現れた理翔が彼女の手を力強く握った。「お母さん、紹介するよ。俺の恋人の柚乃だ」妻のための謝罪の宴に、夫が別の女を連れて現れる。それは、どこからどう見ても目を覆いたくなるような修羅場でしかなかった。陽葵は、爪が掌に食い込むほど拳を固く握りしめたが、顔には微塵も動揺を見せなかった。理翔は柚乃を連れて堂々と歩を進めると、わざとらしく陽葵の真向かいの席に腰を下ろした。その挑発的な視線は、あからさまに彼女を辱めることを愉しんでいるかのようだった。その後の宴席は、言うまでもなくいたたまれない沈黙に包まれた。綾子は怒りで全身を震わせ、ものの三分も持たずに席を蹴って立ち去った。それを見た賓客たちも、次々と適当な理由をつけて中座していき、賑やかだったはずの会場はあっという間に静まり返った。広大な宴会場に、ついに陽葵、柚乃、理翔の三人だけが取り残された。理翔は満足げに口角を上げると、愛おしそうに柚乃の髪を撫でた。「興醒めだな。柚乃、ここで待っていろ。車を回してくるから、別の場所へ遊びに行こう」柚乃は甘えるように微笑んだ。「ええ」陽葵は視線を外すと、背を向けて出口へと歩き出した。だが数歩も行かないうちに、柚乃が追いかけてきた。その声は低く、勝ち誇ったような響きを帯びている。「陽葵さん。聞いたわよ?理翔と結婚して五年、一度も子宝に恵まれなかったんですって?」
Read more
第5話
再び目を覚ました時、目に刺さるような白い光に、陽葵は不快そうに目を細めた。「ようやくお目覚めになりました!」看護師が安堵の息を漏らした。「通りがかりの方が運んでくださったんですよ。もう命に別状はありません。ご家族に連絡しましょうか?」陽葵は力なく首を振り、かすれた声で答えた。「いいえ……家族はいませんから」両親はとうの昔に亡くなり、夫とも離婚した。結局のところ、自分はたった独りではないか。看護師は不思議そうに首を傾げた。「でも、カルテには結婚して五年とありますが……旦那様は?」「離婚しました」声は弱々しかったが、そこには決意が籠もっていた。その言葉が終わるが早いか、病室のドアが乱暴に押し開かれた。「離婚だと?」白衣を身にまとった理翔が、冷徹な表情で足を踏み入れてきた。「誰が離婚するって?」看護師は気圧されるように部屋を後にした。陽葵は唇を噛み、視線を逸らす。「……友達の話よ」理翔は鼻で笑った。「てっきり、お前のことかと思ったよ」陽葵の全身が強張った。彼女はゆっくりと彼を見据える。「……もし、本当に私だったら?」理翔は滑稽なジョークでも聞いたかのように、嘲りを含んだ声を上げた。「陽葵、お前にそんな真似ができるはずがないだろう。親を丸め込み、反吐が出るような手段を選ばず俺に結婚を強いたのは、どこのどいつだ」陽葵の目元がわずかに赤く潤んだ。彼女は、どうしても一つの答えを求めたかった。「もし、私が今、本気で離婚したいと言ったら?」理翔が不快そうに眉根を寄せ、何かを言いかけたその時、背後から看護師の声が響いた。「先生!青木さんがお目覚めです。泣きながら先生を探していらっしゃいます!」彼の表情が一変した。すぐさま背を向けて駆け出そうとしたが、出口の間際で足を止め、冷たく言い捨てた。「お前が離婚を切り出すなんて、これっぽっちも期待していない。ただ、余計な真似をして場をかき乱すのはやめろ。柚乃にも、二度と近づくな」言い残すと、彼は大股で去っていった。陽葵はその背中を見つめ、視界を滲ませながら自嘲の笑みを浮かべた。しばらくは理翔の顔を見ずに済むだろう。そう思っていた。だが翌日、彼は再び病室の入り口に現れた。その背後には、いかにも痛ましげに青白い顔をした柚乃を連れている。陽葵はすっと視線を外し、二人など
Read more
第6話
その日、理翔は陽葵の意志を無視し、無理やり彼女を連れ出した。海岸に着くと、理翔は自らクルーザーの舵を握った。広々とした甲板には、彼ら三人の姿しかなかった。乗船した時から、陽葵は終始冷徹な表情を崩さず、一言も発しなかった。そんな彼女に、柚乃が歩み寄る。「陽葵さん、あの日は助けてくれてありがとう。陽葵さんがいなかったら、ひどい怪我をしてたのは私だったかもしれないね」陽葵は冷ややかな一瞥をくれただけで、何も答えなかった。柚乃の顔に、すぐさま被害者を装うような、しおらしい色が浮かぶ。「陽葵さん、まだ怒ってるの?」そこへ理翔がやってきた。柚乃の弱々しい声を聞いた途端、彼は不快そうに眉根を寄せた。「陽葵、せっかく遊びに来たんだ。そんな反吐が出るような不機嫌な面を見せるな」陽葵は依然として口を閉ざしたままだ。理翔の顔色が沈み、柚乃の手を引いた。「柚乃、放っておけ。おいで、クルーザーの操縦を教えてやるよ」二人は肩を並べて操縦室へと向かった。理翔は後ろから柚乃の腰を抱き、手取り足取り舵輪の扱いを教える。触れ合う指先、囁き合う笑い声――そこには隠そうともしない睦まじさがあふれていた。やがてコツを掴んだ柚乃が、自分一人でやりたいと言い張った。彼女が思うままに舵輪を回すせいで、クルーザーは海面をのたうつように暴走し、あちこちへ横滑りを始めた。だが、理翔はそれを止めるどころか、傍らで愛おしそうに彼女を見つめ、甘やかすような笑みさえ浮かべていた。船首が前方の暗礁に激突しそうになった瞬間、陽葵の顔色がさっと変わった。彼女は迷わず操縦室へ駆け込んだ。「柚乃!今すぐやめて!」中の二人が一斉に振り返る。理翔は不快そうに顔を歪めた。「陽葵、今度は何の真似だ?また気が狂ったのか?」陽葵が言い返す暇もなかった。船体は凄まじい轟音とともに暗礁に乗り上げ、ドォンという爆音が響き渡った。クルーザーが激しくのたうち、理翔は反射的に柚乃を抱き寄せると、自分の体を盾にして彼女を死守した。飛んでくる雑物や衝撃を、すべてその背中で受け止める。「柚乃、怪我はないか!」彼は、柚乃が少しでも傷ついていないかと必死に確認する。一方、無防備だった陽葵は猛烈な勢いで甲板へと無残に叩きつけられた。まだ癒えていない体にはあまりに過酷な一撃。全身の骨が砕け散るような
Read more
第7話
次に目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは無機質な白い天井だった。陽葵は、自分がまだ生きていることに驚きを禁じ得なかった。「……しぶとい女だな。あの状況で漁師に救い上げられるとは」聞き慣れた冷ややかな声に顔を向けると、白衣を纏った理翔が、高みから見下ろすように立っていた。陽葵の喉は火で焼かれたように熱く、一言も発することができない。理翔はそれ以上取り合おうともせず、「安静にしていろ」とだけ冷たく吐き捨てて、背を向けて立ち去った。遠ざかっていくその背中を見送っても、陽葵の心にはもはや、さざ波一つ立たなかった。大量の海水を飲み込んだ影響で喉の炎症がひどく、入院生活は一週間続いた。ようやく声が出るようになったその日は、ちょうど離婚の手続きが完了する頃合いでもあった。陽葵が布団をめくり、ベッドを降りて病室の入り口へ向かおうとしたその時だ。理翔が血相を変えて駆け込んできたかと思うと、彼女の手首を骨が軋むほどの力で掴んだ。「お前はRhマイナスだったはずだな。来い、時間がない!」その口調には、反論も拒絶も許さないような、異常なまでの切迫感が籠もっていた。陽葵は苦痛に眉をひそめ、その手を激しく振り払った。「……何の真似よ」理翔の瞳には、陽葵が見たこともないほどの激しい焦燥が滲んでいた。「柚乃が妊娠したんだ。学校で倒れて運ばれてきたが、重度の貧血を起こしている。彼女と……お腹の子を救うには、今すぐ輸血が必要だ。柚乃はお前と同じ希少血液型なんだ。救えるのは、お前しかいないんだよ!」一瞬の沈黙の後、陽葵は喉の奥から絞り出すような冷笑を漏らした。「……私が、どうしてあの女を助けなきゃいけないの?」「陽葵、二つの命がかかっているんだぞ!」理翔の顔が、怒りと焦りで険しく歪む。「あの二人が死のうが生きようが、私には関係ないわ」陽葵が背を向けて立ち去ろうとした瞬間、理翔がその腕を乱暴に掴み取った。「拒否権などない。来い!」彼はなりふり構わず、抵抗する陽葵を処置室へと引きずっていった。そして、彼女の細い腕を看護師の前に突き出すと、冷酷に言い放った。「必要なだけ抜け。予備も多めにストックしておけ。中にいる患者の血が足りなくなることだけは、絶対に許さん」「……承知いたしました、先生」陽葵の目元が、絶望で真っ赤に染まった。「理翔
Read more
第8話
理翔が病院へ駆けつけ、柚乃の病室に直行すると、中に入るなり一つの影が勢いよく胸に飛び込んできた。ひどく心細そうな、今にも泣き出しそうな声が響く。「理翔……どこに行ってたの?私、もう見捨てられたのかと思ったよ」理翔の目元が無意識に和らぎ、彼女の髪を優しく撫でた。「馬鹿だな。俺が君を見捨てるわけないだろう」言い終えると、彼は彼女の素足が目に入り、慌てて抱き上げてベッドへと運んだ。「もうすぐ母親になるっていうのに、相変わらず落ち着きがないな」言葉では叱りながらも、その手つきはどこまでも丁寧で、自ら腰を落として彼女の足に靴下を履かせてやる。目の前で跪く男を見つめながら、柚乃の瞳には得意げな色が浮かんだ。あの日、自分が倒れた時に理翔が正気を失うほど狼狽えていたという看護師たちの噂が脳裏をよぎった。これほどまでに冷徹で気高い男が、自分の前ではこうして傅いている。誰であっても、これ以上ないほど虚栄心が満たされるに違いない。柚乃の口角にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。彼女はまだ靴下を履いていない方の足を持ち上げると、白く滑らかな足先を彼の腿のあたりに這わせ、そっとこすっていた。その滑らかな触感に、理翔の全身を熱い衝動が突き抜けた。喉仏を激しく上下させ、彼は彼女の足の甲を掴むと、掠れた声で嗜めた。「柚乃、悪ふざけはやめなさい」柚乃は不満げに唇を尖らせると、不意に理翔のネクタイを掴んでぐいと引き寄せた。彼を強引に引き起こすと、至近距離まで、自分の唇を寄せていく。理翔の瞳が情熱に染まり、抗う間もなく彼女の後頭部を抑え込んで貪るように口づけた。二人が深く溺れるように絡み合っている時、突然スマホの着信音が鳴り響いた。理翔はハッと我に返った。ここが病院であることを思い出し、彼女の肩を押し戻す。その息はわずかに乱れていた。「柚乃、ここは病院だ」そう言ってスマホを手に取ろうとしたが、柚乃にその腕を強く引き戻された。「理翔は、したくないの?」理翔の瞳に再び熱が灯る。だが次の瞬間、彼はまだ果たすべき「約束」があることを思い出し、彼女を押し戻した。「柚乃、ダメだ。今夜は用事があって、一度家に戻らなければならない」柚乃の目元が瞬時に赤くなった。「……陽葵さんに会いに行くんでしょ?」理翔は彼女の髪を撫で、宥めるように言った。「柚乃、あの日、陽葵は
Read more
第9話
「先生、血が足りません!青木さんの容態が非常に危険です!」病院に足を踏み入れるなり、看護師に呼び止められた理翔は顔を険しくし、スマホをひったくるように取り出すと陽葵に電話をかけた。だが、数十回鳴らしても、彼女が受ける気配は一切ない。理翔の心底に瞬時に激しい怒りが沸き起こり、指を荒々しく動かしてメッセージを送りつける。以前なら即座に返信をよこした陽葵だが、今やそれらのメッセージはすべて梨の礫だった。【陽葵!死にたいのか?よくも連絡を断ちやがって!見つけ出したら、タダじゃ済まないと思え。柚乃に万が一のことがあれば、必ずその代償を払わせてやる!】理翔は瞳に怒りの炎を宿し、大股で外へ向かおうとした。一歩踏み出したところで着信音が鳴り響く。陽葵だと思い込み、確認もせずに電話に出た。「陽葵、今どこにいようが今すぐ戻ってこい!さもないと容赦しないぞ、さっさと……」「理翔、私よ!」綾子が、鋭い声でその言葉を遮った。理翔は虚を突かれたように黙り込んだ。反応する間もなく、綾子の声が畳みかけるように響く。「今すぐ本宅に戻りなさい。あなたと陽葵のことについて、話があるわ。遅れたら、一生後悔することになるわよ」その言葉に、理翔の足がぴたりと止まった。ふと、あの日家を出る時に陽葵が特大のスーツケースを引いていたのを思い出す。本宅へ泣きつきにでも行ったというのか。彼女は本当に本宅にいたのか。しかも、まだそこに居座っているというのか?理翔の唇に冷笑が浮かび、怒りの炎はいっそう激しさを増した。本宅に居座って戻ってこないばかりか、お母さんの耳に俺の悪口をこれでもかと吹き込んだに違いない。そのせいで、今度はお母さん自ら呼び出しをかけてきたというわけだ。理翔は顔を険しくし、冷淡な声で応じた。「ちょうどいい。俺も彼女に用があるんだ。そのまま待たせておいて。すぐに行くから」電話を切ると、彼は踵を返して外へ向かった。本宅に到着し、中へ入ると、ソファで茶を飲む綾子の姿だけがあった。理翔は歩み寄りながら冷笑を浮かべて口を開いた。「陽葵はどこにいる?彼女をここへ呼んで。今日こそ、お母さんにどんな作り話を吹き込んだのか、すべてはっきりさせたいんだ」理翔のその傲岸不遜な態度に、綾子は瞬時に顔色を曇らせた。「理翔、いい加減にしなさい
Read more
第10話
理翔の言いかけた言葉は、一瞬で喉の奥に押し戻された。綾子は冷ややかに笑った。「理翔、今日からあなたは自由よ。もう陽葵と一つ屋根の下で暮らさなくていいし、これからは誰にも遠慮せず、あの女と好きなだけ睦み合っていればいいわ」理翔は我に返ると、床に落ちた離婚届受理証明書を急いで拾い上げた。中を確認し、そこに並ぶ陽葵と自分の名前を見た瞬間、彼は瞳孔を震わせ、信じられないという表情を浮かべた。「……そんな、まさか。彼女が、俺と別れるなんてありえない」ありえない。あんなに執着し、恩義を盾にしてまで手に入れた婚姻を、彼女が自ら手放すはずがない。絶対にありえない!そもそも、俺は離婚届にサインした覚えなんてないんだ。そこまで考えた理翔は、どうせまた陽葵の仕掛けた芝居だろうと断じ、手にした離婚届受理証明書を机に叩きつけると、綾子に向き直った。「俺は離婚届にサインなんてしていない。こんなもの、どこから持ってきたんだ?どうせ陽葵の差し金だろ。彼女は計算高い。目的のためならどんな小細工だってする。今度は偽物の離婚届受理証明書まで用意して、これほど本物そっくりに仕立て上げるとはな。本当に反吐が出るよ」綾子は、これまで以上に深い失望の色を瞳に宿し、理翔を冷ややかに見据えた。「理翔、ここにははっきりと公印が押されているのよ。それでもまだ、偽物だなんて言い張るつもり?一ヶ月前、あなたが愛人を抱きかかえて病院へ駆け込んだ時、陽葵もそこにいたの。その後、彼女は自ら私のところへ来て、離婚したいと言い出したのよ。それから、あなたの言う『恩義を盾にした』なんて、ただの言い掛かりよ。彼女の両親が亡くなる間際、独りになる娘に寄り添う者がいるようにと、私たちに後を託したの。あなたと結婚させたのは、私と彼女の両親が勝手に決めたことで、陽葵には何の関係もないわ。この話は何度もあんたにしたはずよ。あなたが耳を貸さなかっただけ。それにあなたを付け回すなんて、よくも言えたものね。あれはあなたが病院で食事も摂れないほど忙しいと聞いて、彼女が手料理を作って届けていただけよ。大学での講義の時だって、あの大雨の中、あなたが濡れるのを、疲れて運転ができなくなるのを心配して、車で迎えに行ったの。出張先で倒れた時もそう。彼女はアシスタントから聞き出すなり、夜通し飛行機
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status