聞き覚えの無いメロディが、枕元で鳴り響いた。しかし、そのメロディは数秒で途切れる。薄目を開け、ゆっくりと瑞穂がメロディの発信源に視線を向けると、和田マネージャーがスマートフォンを手に取り、アラーム機能を解除していた。「おはよう」昨晩のやり取りがあったからか、和田マネージャーのその笑みは、どこか作り笑顔じみていた。「……おはようございます」瑞穂はアクビをすると、目尻に溜まった涙を拭った。「今、何時ですか?」「8時半」答えた和田マネージャーはベッドから起き上がると、玄関まで向かい、照明のスイッチをオンにした。「高畑さん、何か飲む?コーヒーと紅茶と緑茶があるけど?」人工的に作られた朝の光の下、和田マネージャーがT-falのポットの前に立つ。朝から、胸焼けを起こすコーヒーなど飲みたいと思わず、粉末を入れた緑色の熱いお湯に飲む価値があるのか、と思った瑞穂は、消去法で「紅茶」と答えた。「りょーかい」和田マネージャーは頷くと、洗面所で手を洗い、カップの一つにドリップバッグを装着した。そして、もう一つのカップに、瑞穂の要望であるティーバッグを入れると、T-falを傾け、双方のカップに湯を注いでいく。「はい」バスローブの前をはだけさせたまま、和田マネージャーは紅茶の入ったカップをソーサーに載せ、瑞穂に手渡した。「ありがとうございます」瑞穂は添えられたスティックシュガーを入れると、ティーバッグを取り出し、スプーンで紅茶と砂糖をかき混ぜる。朝に飲むストレートティーは安物ではあったが、それなりの清涼感を与え、冷房で冷えきった瑞穂の身体をほのかに温めてくれた。しかし、昨夜の雨で体調を崩したようで、瑞穂はくしゃみを二回し、鼻をすする。「大丈夫?」ブラックコーヒーを飲みながら、和田マネージャーが瑞穂に視線を向ける。「……大丈夫です」瑞穂は笑うと、はだけたバスローブの隙間でトランクスを膨らませている、和田マネージャーの股間にそれとなく目をやった。──アレが昨日、アタシの中で暴れていたんだな。初体験の時には異生物としか思えなかった、男性のぺニスに中をかき回され、足指までしびれた昨夜のアバンチュールを思い出しながら、瑞穂は紅茶を飲んでいく。·「ここ、何時に出なきゃいけないんでしたっけ?」紅茶を飲み終え、カップとソーサーをガラステーブルに置
リビングにまで聞こえてくる、和田マネージャーのシャワーを浴びる音。その音で緊張が再び高まった瑞穂は、テレビのボリュームを2つ上げる事で高まった緊張を抑えようと試みた。「ダメだ……、何か他に面白いテレビやってないかな」瑞穂は深々と吐息を洩らすと、風呂前の和田マネージャーと同じくリモコンでチャンネルを次々と変え、ザッピングをする。が、瑞穂の興味を惹く番組は無く、諦めた瑞穂はテレビを消すと、ダイブするようにベッドへと突っ伏した。──今から、和田マネージャーとエッチするのか。浴室から聞こえてくるシャワー音を耳にしながら、瑞穂は枕に顔を埋める。和田マネージャーは、どんなセックスをするのか。そして、そのセックスに自分はどう応えるべきなのか。他の男との交接の際、義務のように行っていたオーラルセックスも、和田マネージャーを満足させる為にちゃんと行うべきなのだろうか。思考を巡らせた後、瑞穂はテレビに背を向け、おそらくその向こうに広がっているであろう夜景を夢想しながら、閉めきられた窓に身体を向けた。形だけ、といった感じで付けられた、モスグリーンのカーテン。性行為だけが目的だからか、目の前のオフホワイトの壁は日々の暮らしによって汚される事なく、綺麗に塗装されたままである。枕元には、おそらく和田マネージャーが使ってくれるであろう、避妊具が入れられた陳腐なハート型の容器が置かれている。「ヤバいー」高まったテンションから、瑞穂はクロールのように足をバタバタとさせた。そして、恋愛感情を持った人間とのセックスとは、ここまで気分を高揚させるのかと瑞穂は改めて思う。もちろん、瑞穂は処女ではない。セックス自体は今年に入って経験はしているし、恋愛感情を持った人間とのセックスも、数年前にはなるが同棲していた彼氏と幾度もしていた。しかし、久方ぶりの「恋愛感情を持った人間とのセックス」は、恋に恋をしている中高生時のような甘酸っぱい感情を、瑞穂に対して抱かせていた。「喉カラカラだ、お茶飲もう……」瑞穂は立ち上がると、コンビニで買った緑茶を二口程飲む。その時、身体を洗い終えたのか、先程まで耳に聞こえていたシャワー音が消えた。そろそろ、和田マネージャーが浴室から出てくると思った瑞穂は、緑茶のペットボトルをテーブルの上に置くと、閉めきられた窓に向き合う形でベッドに横になる
カラオケボックスを出た時に降っていた雨は、未だ止む気配を見せなかった。行く手を阻むガーディアンのように、次々と瑞穂らに対して向かってくる雨つぶて。その雨つぶてを、タクシーはにべもないといった様子でワイパーで取り除いていきながら、寡黙に指示された道を走っていく。「そこを左に曲がってください」和田マネージャーは身を乗り出すと、運転手に指示を出す。その指示に、運転手は乗り込んだ時と同じく「はい」と手短に返答し、タクシーを左折させた。「で、その通りを真っ直ぐ行って……」つぶさに指示を出していく和田マネージャーに、タクシーの運転手は「はい、はい」と返答を繰り返し、タクシーを右へ左へと動かしていった。「うん、取り敢えずココでいいか。降ろしてください」和田マネージャーの指示でタクシーが停まると、後部座席のドアが開いた。和田マネージャーは財布から千円札を一枚取り出すと、「釣りはいいから」と運転手に告げ、瑞穂と共にタクシーを降りた。タクシーを降車するやいなや、秋の長雨が待ってましたとばかりに、瑞穂ら二人を襲った。「取り敢えず、そこのコンビニに入ろうか」顔面に降りそそぐ雨を左手で防ぎながら、和田マネージャーは瑞穂を伴い駆け足でコンビニへと避難する。「いらっしゃいませー」同時に、大学生アルバイトの気だるい声が瑞穂らの耳に聞こえてきた。「取り敢えず、傘を買うか。で、後は何か必要なモノを買っていくと。高畑さん、何か買いたいモノある?」「あの、ドコに向かうつもりなんですか?」肩にかかった雨を拭いながら、瑞穂は尋ねる。当然の疑問であった。瑞穂の立場から言えば、突発的に腕を引っ張られ、タクシーに乗せられたのみで、行き先も何も全く和田マネージャーから聞かされてはいない。「今日は泊まって帰るよ」和田マネージャーは簡潔にこう返すのみで、それ以上は口にしなかった。言外に見せる和田マネージャーの雰囲気と、自身の経験則から目的地を察知した瑞穂は頷くと、緑茶が入った500mlのペットボトルを和田マネージャーが持つバスケットに入れ、レジで精算が終わるのを待った。「お待たせ」レジ袋を携《たずさ》えた和田マネージャーは、買ったばかりのビニール傘を瑞穂に手渡すと、コンビニを後にし、雨に濡れた夜のコンクリートジャングルを徘徊しだした。10数メートル程歩道を歩いた後
「ありがとうございました」カラオケボックス店員が発する、マニュアル対応の言葉を背中で受けながら、瑞穂と和田マネージャーの二人は足早に出入口へと向かった。しかし、好事魔多し。カラオケに入る前は薄月夜であった夜空は、いつの間にやら鉛色の雨雲に覆われ、地表にはバケツをひっくり返したような大雨が降り注いでいた。「うわ、マジかよ。天気予報では、雨、降るとか言ってなかったじゃねえかよ。高畑さん、傘持ってる?」出入口で立ち往生したまま、和田マネージャーが眉を寄せながら瑞穂に目を向ける。「えっ、あっ……」少しばかりの逡巡を見せた後に、瑞穂は「あります」と答えると、「和田マネージャーは?」と反問した。「あっ、俺も持ってるんだ」和田マネージャーはビジネスバッグに手を入れると、瑞穂と同じく折り畳み傘を取り出した。「良かった。高畑さんが傘を持ってなかったらこの小っこい傘で、相合い傘になってたね。別に、相合い傘が嫌って訳じゃないけど、この大雨で折り畳みで相合い傘は、確実にずぶ濡れになるし」もし瑞穂が高校生なら、打算的に「傘は無い」と答えていただろうが、今の年齢でそういう打算的な行動をするのはさすがに気恥ずかしいモノがある。「さぁて、ちょっと駅まで早足でいきますか。この大雨じゃ、折り畳み傘とか殆ど役に立たないだろうし」「ですね」瑞穂は頷くと、和田マネージャーと共にカラオケボックスを後にし、滝のように降りしきる雨の中を早足で歩いていった。「和田マネージャー、終電大丈夫なんですか?」そして、信号待ちでやむなく歩を止めた時、瑞穂は雨音に負けないよう、やや大きめな声を発して和田マネージャーに尋ねる。「うん、大丈夫だよ。一応、スマホで時間を調べてみたら、ギリギリだったし。乗り換えでしくじらなかったら、何とか無事に帰れるよ。というか、高畑さんは大丈夫なの?」「あっ、アタシはこの駅から一本なので。準急はさすがに残ってませんけど、各停は残ってるんで帰る事は出来るんです。もっとも、電車には長くいる事になりますけど」「まぁ、しょうがないね」微笑交じりに和田マネージャーが答えると、信号が青に変わった。瑞穂は前を歩き、チラチラとコチラの様子をうかがう、和田マネージャーを見つめながら、雨の降りしきる横断歩道を渡っていく。·──それなりに帰る時間を引き延
「cherry」を歌い上げた瑞穂は、その後立て続けに2曲、奇をてらっていない自身の持ち歌を歌った。──それなりに場も盛り上げたから、そろそろ男心をくすぐるような曲も歌っていいよね。思った瑞穂は、aikoの「カブトムシ」を歌い、和田マネージャーの反応をうかがってみたのだが、和田マネージャーのその反応はどこか鈍かった。「高畑さん、うまいねぇ」型通りの感想、お愛想といった拍手。確かに、何かしらレスポンスはくれるのだが、和田マネージャーの反応は心からのモノではなく、この上なく無難な対応といった感じであった。和田マネージャーのその対応は、瑞穂に寂寥《せきりょう》を抱かせた。窓から差し込まれる夕暮れの日差しのように、孤独を思わせる切ない寂寥《せきりょう》であった。「和田マネージャー、そろそろ歌ってくださいよ。さっきから、アタシばっかり歌ってるじゃないですか」業を煮やした瑞穂は、手に持っていたマイクと電子目次本を、2丁拳銃の銃口みたく和田マネージャーへと突き出した。「えっ、えっ、やっぱり俺、歌わなきゃダメかな」「歌ってくださいよ。アタシばっかり歌って、LINEの『いいね』みたいに、おざなりな対応で返されたら、何か悲しくなってくるんです。ってか、歓迎会とか忘年会とかで、部長とかに合わせる形でチェッカーズとか浜省とか歌ってますけど、アレって本当に和田マネージャーが歌いたい歌じゃないでしょ。和田マネージャーが、本当に歌いたい歌をアタシは聴いてみたいんです」「まいったな……」ごまかすように、和田マネージャーはレモンサワーを一口飲むと、電子目次本でゆっくりと曲を検索し始めた。「じゃあ、歌うけど、下手だとか言わないでね」免罪符の言葉を述べながら、和田マネージャーは電子目次本をプロジェクターに向け、曲を送信する。「言いませんよ、言う訳ないじゃないですか」瑞穂は笑うと、和田マネージャーは「ありがと」と手短に返し、マイクを手に取った。同時に、プロジェクターに映し出されていた新人アーティストのPVが消え、部屋内が静まりかえる。そして、和田マネージャーが電子目次本を通して送信した曲目が、唐突に映し出された。『魔法のコトバ・スピッツ』「……久しぶりだから、覚えているかな」液晶画面を凝視しながら和田マネージャーが深呼吸をすると、スピーカーから流れだした
10時を少し過ぎた辺りで、二人は店を出た。が、名残惜しさが瑞穂の後ろ髪を引っ張り、駅へと向かう瑞穂のその足取りはひどく重いモノであった。「どうしたの、高畑さん。ひょっとして、気分が悪いの?」次第に遅れをとる瑞穂の様子が気になったのか、和田マネージャーは歩みを止めると、振り返り、後ろを歩く瑞穂に視線を向ける。瑞穂は「はい」と、手短に言葉を返す。確かに、気分は悪かった。しかし、それはアルコールによるモノではなく、和田マネージャーとの至福の時が終わるが故に引き起こされたモノであった。「だから、言ったじゃん。飲み過ぎなんじゃないか、って。まっ、俺としては中々珍しいモノを見せてもらったけどね」「珍しい?」「店でも言ったじゃん。酔っぱらってる高畑さんは、結構レアだって。俺の中の高畑さんって、飲み会とかでもハメを外さず、自分のペースをしっかりと保って酒を飲む人、だもん。だから、今日の酔っぱらった高畑さんは、俺的には何か新鮮に見えたよ」「アレ、和田マネージャー。もしかして、アタシに対してギャップ萌えとか感じちゃったりしてます?」和田マネージャーの思わぬ発言に気を良くした瑞穂は、口角を曲げながら尋ねる。「ないよー、それはない」和田マネージャーは、手を振りながら瑞穂の弁を否定する。「高畑さんは、部下だからね。上司として、そういう感情は抱く訳にはいかないよ。あっ、これは高畑さんに魅力が無いとか、そういう話じゃないよ。単純に、上司としての心構えだからね」──また、上司と部下かよ。堅物めいた言葉を述べ続ける和田マネージャーに対し、瑞穂はため息をつく事で応えた。「どうしたの、高畑さん。もしかして、吐きそうなの?」しかし、和田マネージャーは瑞穂のため息の意味を取り違えたようで、再び歩みを止める。「……ヤバいです」和田マネージャーが作り出したその流れに瑞穂は乗ると、フラフラと電信柱に歩を進めた。が、嘔吐する訳ではなく、ただ茫乎《ぼうこ》といった様子で夜空を見上げると、心までも冷やす秋の夜風にしばらく当たっていた。「……大丈夫?」和田マネージャーは怪訝な面持ちで、瑞穂に歩み寄る。「うーん、ちょっと気分が悪いですね」瑞穂は、ふぅ、と息をつくと、視線を夜空から後ろのビルへと移した。「あの、和田マネージャー。お願いがあるんですけ