会社の最寄り駅の改札をくぐり、電車へと乗ると、瑞穂は夜空の下で懸命に存在を鼓舞している街のネオンサインを、ボンヤリといった様子で窓から眺めていた。何も考えたくなかった。一つ何かを思考すると、恐らくそこから「ねずみ算」的に思考が広がっていき、感情の爆発を引き起こしてしまうのは目に見えている。帰宅時、瑞穂は大抵携帯オーディオプレーヤーで音楽を聴いているのだが、流れてくる音楽さえも思考の爆発の一端になり得ると思った瑞穂は、心を護るように腕を組み、ただ夜景を見るのみにとどめた。いつものように、一駅で電車を降りると、瑞穂は改札をくぐり、乗り換えの路線まで早足で歩を進めていく。駅ビル内を突っ切り、エスカレーターを上る。その時、思考が悪魔のささやきとばかりに不意に瑞穂を襲った。──そういえば、このエスカレーターを上りきったトコロにある改札で、自分と和田マネージャーの『あの夜』が始まったんだな。不覚とも言えるその思考は、瑞穂の中で感情の爆発を引き起こした。早送りにされたカビの増殖のように、瞬時に瑞穂の中で広がっていく、負の連鎖。臨界点を突破し、やがて破裂したその衝動は、瑞穂にはもはや抑える事が不可能なシロモノとなっていた。──慟哭。破裂し、粉々に散ったガラス玉の破片は、瑞穂の心をチクチクと執拗に攻撃し、その痛みに耐えかねた瑞穂は両目からとめどなく涙を流した。慌てて壁際へと緊急避難し、瑞穂は襲ってきた慟哭《どうこく》を通行人から隠すと、自身の中で暴威をふるっている感情の爆発が収まるのをただ待つ。家に帰りたくない、と瑞穂は思った。家に帰れば、独りだ。電気のついていない真っ暗な部屋に独りで帰宅し、静寂の中センチな気分を抱えたまま朝を迎える、という行為は自分が「孤独」だという事実を改めて認識するだけだ。でも、帰らなくてはいけない。自分はもう30歳の大人の女であり、公衆の面前で少女のようにただ泣いて、ヒロイックな感傷にひたる年齢ではないのだ。数分程、壁に向かって声を殺して泣き続け、やがて慟哭が収まりを見せ始めると、瑞穂は顔をうつむかせながらトイレへと入った。流れの一環として、瑞穂は便座へと腰掛けると、バッグからスマートフォンを取り出し、LINEのアイコンをクリックする。──『何が原因でそんな気持ちになってるかは分からないけど、本当にツラいと思ったら
「和田マネージャー。さっきの話で、今度結婚する人はお互い学生時代から知っている、って言ってたじゃないですか」「うん」「という事は、『昔からの知り合い』って事ですよね」「うん、そう」「あの、もしかしてなんですけど……」瑞穂は上目遣いで、うかがうように和田マネージャーに対して切り出した。「その人って、もしかして私の知っている人ですか?」「どうだろうね……」和田マネージャーは視線を上にやり、考え込んだ後、首をひねった。「今年の夏の始めにバーベキューをやって、そこに高畑さん達が来てくれたでしょ。そのバーベキューに、その子も呼んだんだ。その時は俺、その子と付き合う気は無かったんだけど、もし高畑さんがバーベキューの参加者を覚えているのなら『知っている』と言えるかもしれない。確か、高畑さんがその子と話しているのを俺、見た記憶があるしね」──やはり。和田マネージャーの言葉を聞き終えた瑞穂は、抱いた疑惑がほぼ確信へと変わった。同時に、憤りの炎が瞬時に全身にまで燃え広がったが、瑞穂は歯噛みする事でその憤りを抑え込む。「高畑さん、大丈夫……?」表情に現れてしまったのか、ただならぬ瑞穂の雰囲気に和田マネージャーは恐る恐るといった感じで尋ねてくる。「大丈夫です」瑞穂はカップの持ち手を力強く握り、込み上げてくる怒りを懸命に押し殺す。そして、ラッシュアワーのように口内に押し寄せてきた言葉を、瑞穂は唾棄するように和田マネージャーに対してぶつけた。「あの、和田マネージャー。もしかしてなんですけど、その結婚する人って、杉浦マイさんですか?」「えっ?」瑞穂がその名前を知り得ている事が予想外だったようで、和田マネージャーは表情を強ばらせると「う、うん。そう」と、小声で返答した。「金曜日の用事をキャンセルして自分と会ってくれた、って和田マネージャーは言ってましたけど、その金曜日の用事が何なのかを、マイさんからは一切聞いてないんですか?」瑞穂は射抜くように和田マネージャーを見据えると、言葉という名のナイフで、目の前の和田マネージャーをなます斬りにしていく。「いや、それは……」瑞穂の剣幕におののいた和田マネージャーは、音を立てて固唾を呑み込んだ後、たどたどしく言葉を続けた。「俺は、友達とご飯を食べに行く約束を断った、としか、彼女から聞いてないんだ。
火曜日以降の和田マネージャーの態度は、月曜と変わらぬままだった。あのアバンチュール以降、瑞穂に対して続けられていた「素っ気ない態度」はすっかりと鳴りを潜め、和田マネージャーのその対応は、かつてのフランクな対応を彷彿とさせるモノであった。──先週はまだ話せない、とか言ってたし、やっぱりこの間の土日辺りに、何か和田マネージャーの心境を一変させるような出来事があったんだな。結論付けた瑞穂はそれを聞き出したくて仕方なかったが、その衝動をどうにか抑え込み、指定された木曜日まで唇を閉ざす。やがて、木曜日を迎えた。6時前に退社した瑞穂は、駅までの帰り道をしばらく歩くと、自然な体《てい》を装いながら脇道へと逸れ、そこでひっそりと営業している純喫茶へと入った。『お疲れさまです。今、「コロンビア」って喫茶店でコーヒーを飲んでいます。駅に向かって真っ直ぐ歩いた後、百均を左に曲がってしばらく歩けば出てきます。分からなければ、また連絡下さい』和田マネージャーにLINEを送ると、瑞穂はスマートフォンをテーブルの上に置き、バッグから取り出した文庫本を読みながら、和田マネージャーからの次のアクションを待つ。果たしてLINEに書かれた簡単な説明だけで、件《くだん》の喫茶店へとたどり着く事が出来たのか。瑞穂が文庫本を20ページ程読み進めた辺りで、入口のカウベルが店内に鳴り響き、和田マネージャーは来店してきた。「ゴメンね、手間かけさせちゃって」和田マネージャーは眉尻を下げながら瑞穂に歩み寄ると、着ていたレザージャケットを脱ぐ。「話ってなんですか?」瑞穂は文庫本とスマートフォンをバッグへと戻すと、これまでの積もった思いから、抑揚を欠いた声で冷淡さを演出しながら和田マネージャーに対して問い掛ける。「まぁ、高畑さんには色々と報告しなきゃいけない事があるからね……」和田マネージャーは直接的な回答を避けると、レザージャケットを椅子の背もたれにかけ、瑞穂の真向かいに座った。「さて、何から切り出すべきかな」冷水を持ってきた老紳士に、アメリカンのホットを注文すると、和田マネージャーは陰鬱な表情でため息を吐く。まるで、ガン宣告を告げる医者のようだ。その表情から、自身にとって「good news」ではないな、と思った瑞穂は覚悟を決めた。「まず、高畑さんには一つの報告をさせても
休日である土日を挟み、週が明けた月曜日の事だ。出社した瑞穂は、朝礼が終わるとほぼ同時に、「高畑さん」と和田マネージャーから声をかけられた。「はい」「悪いけど、宛名書いてもらえないかな?高畑さん、字が上手かったでしょ。俺が書くと性格が滲み出て、字が曲がっちゃうからお願いしたいんだ」「いいですよ」瑞穂は頷くと、デスクに座る。「ありがと」和田マネージャーは軽やかな足取りで喜びを表現すると、自らのデスクから封筒とA4用紙を一枚持ってきた。「ココに書かれてる社名を、宛名として書いて欲しいんだ。今日中に終われば、OKだから、もういつでもいいからさ」「分かりました」瑞穂は頷くと、社名が書かれたA4用紙にチラリと目を通す。「あの、和田マネージャー。これ、『前株』『後株』が書いてないんですけど……」椅子を回転させ、瑞穂は身体ごと振り返ると、自分のデスクに戻ろうとしている和田マネージャーをすぐさま掴まえ、言った。「あっ、ホントだ。なんだこりゃ、ゴメン」和田マネージャーは引き返してくると、瑞穂からA4用紙を受け取り、左手を縦にやりながら謝罪の言葉を述べた。「また、後で持ってくる。ゴメンね」そして、自分のデスクへ戻ると、和田マネージャーはマウスを操作しながら、液晶画面を凝視していた。和田マネージャーのその背中を横目で見ながら、瑞穂はふと思った。──さっきの和田マネージャー、何か前の和田マネージャーに戻った、って感じだったな。あの夜のアバンチュール以降、和田マネージャーは瑞穂に素っ気ない態度を取っていたが、さっきの和田マネージャーからは、そういう素振りは見られなかった。自分に頼み事をしたいが為に、「素っ気ない態度」という設定をかなぐり捨て、下手《したて》に出ただけなのか。それとも、単に自分の思い過ごしであるのか。真相は分からない。その答えは、全て和田マネージャーの胸の中にある。そういえば、もう一週間が経ち、和田マネージャーが全てを話す、というリミットを迎えた。もし、和田マネージャーが約束を覚えていればの話だが、どうして今まで素っ気ない態度を取っていたのか、という理由を、今週瑞穂はようやく聞く事が出来る。·『高畑さん。来週一日だけ、予定を俺の為に空けてくれたら嬉しい。会社帰りに、話したいからさ。この話は、休憩時間とかちょっと
8時半という、遅めの時間が奏功したのか、瑞穂と多香子の二人はトンカツ屋にすんなりと入る事が出来た。着席し、歩み寄ってきた店員に注文を告げると、二人は積もる話が尽きないのか、再び話し始める。「そういや、瑞穂。あのバーベキュー以降、何かいい感じになった人とかいる?」「うーん」瑞穂は小首をかしげたまま、明言を避けた。確かに、あのバーベキューをキッカケに和田マネージャーとの距離は縮まっていき、結果的には性交も行う事が出来た。が、その後の和田マネージャーの対応を思えば「いい感じになった」とはとても言えず、瑞穂は苦笑を浮かばせたまま、多香子の質問をやり過ごそうとした。「つーか、あのバーベキュー。カッコいい人、何人かいたよね。そういう意味では誘ってくれた事に感謝だけど、結局瑞穂はあのバーベキューで誰が目当てだったの?」「えーと……」瑞穂は湯呑みを手に取り、ほうじ茶を一口飲む。「ってか、アタシより姉さんは?姉さん、あのバーベキューの後、参加してた男の人と二軒目行ってたでしょ。それ考えたら、アタシより姉さんの方が面白そうな話がありそうなんだけどなぁ」和田マネージャーとの話をしたくないと思った瑞穂は、手に取ったボールを多香子へと投げ返す。「あっ、アタシはほぼアレっきりだよ。あのバーベキューの後、別の日に二人だけで会ったんだけど、それっきり。向こうはヤレれば誰でもいいのか知んないけど、会った後もしつこくLINE送ってくるんだよね。『また、メシでも食いに行こうよ』とか、能天気に。こっちとしては、一回二人っきりで会ったらある程度分かっちゃったから、LINE返信せず、そのまま既読スルーしてやった。しつこいんだよな。ロクに前戯もしねえクセに、すぐに入れようとしてきやがってよ」「あー、分かる。そういうタイプって、何でかこっちには『口でして』とか、訳分かんない事言ってくるよね。自分はそういうの、一切してくんないのに」「で、そういう奴に限って『イッちゃったの? イッちゃったの?』って、しつこく訊いてくると……」「あはは、いるいる。こんなのでイク訳ねーだろ、って」「いや、っていうか、そんな話はどーでもいいんだよ」多香子は吹き出すと、笑みを保ったまま再び瑞穂に対して切り出した。「だからさ、瑞穂はどうなの?あのバーベキュー以降、何かいい感じ
その着信があったのは、仕事を終えた木曜日の夜であった。ドラッグストアでレジの行列に並んでいた瑞穂は、精算を終えるとすぐさまバッグからスマートフォンを取り出し、着信主が誰なのか確認をした。電話を掛けてきたのは、多香子であった。高校時代、バイト先で色々と世話になった2つ年上の先輩であり、初夏のバーベキューでも何かと場を盛り上げてくれた、瑞穂の女友達だ。「もしもーし」瑞穂が電話をかけ直すやいなや、多香子はいつもの陽気な素振りを声色に表しながら電話に出た。「もしもし、何?」瑞穂はスマートフォンを耳にあて、レジ袋を折り曲げた左腕に引っ掛ける。「いや、百貨店に寄ったついでに、ちょっとあの水出しコーヒーの『blue』って喫茶店でコーヒー飲んでるんだよね。瑞穂、もう家に帰ってるとこ?そうじゃなかったら、ちょっと会えないかな、と思ったんだけど」「今、近くのドラッグストアを出たばっかりだから、会えない事はないよ。けど、歩いていくから、20分くらいかかると思う」「じゅーぶん」電話の向こうから、多香子の微笑が洩れ聞こえてきた。「じゃ、アタシはココでちびちびコーヒーを飲んで待っておくよ。あっ、別に急がなくてもいいよ。急用って訳じゃないし、ホントにただ会いたくなった、ってだけだから」「分かった。じゃ、また後でね」瑞穂は電話を切ると、スマートフォンをバッグに入れ、早足で多香子の待つ「blue」へと向かう。商店街を通り抜け、駅前の大通りで信号が青に変わるのを待っている間、瑞穂は不意に和田マネージャーの事を思い出した。──確か、あの夜もここで和田マネージャーと信号待ちをしたな。物凄い大雨で、折り畳みの傘が殆ど機能しなかったけど。甘美な思い出に、瑞穂は笑みをこぼしそうになる。が、その表情はすぐに曇りを見せた。その夜の交接が原因で、今現在のにべもない和田マネージャーの対応を引き起こしたかもしれないのだ。「来週話す」という言葉のみで、頑としてその理由を明らかにしない和田マネージャーの対応をも引き連れて思い出した瑞穂は胸を痛めると、ピヨピヨと歩行を促す誘導音を耳にしながら横断歩道を渡っていった。ため息を一つ吐きながら瑞穂は駅ビルへと入ると、ビル内に設営されているショッピングフロアを突っ切り、エスカレーターを降りる。地下街を数分かけて歩き、人通りがまば